2017年05月30日

人間であるがゆえの「弱さ」を 『シャセリオー展』


先日、国立西洋美術館で開催された
『シャセリオー展 19世紀フランス・ロマン主義の異才』へ行ってきました。

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テオドール・シャセリオーの絵画が本格的に紹介されるのは、
日本では今回が初めてなのだそうです。
政治家にして公法学者のアレクシ・ド・トクヴィルの肖像』(1844年)を
生で鑑賞できるということで、上野の公園口へ駆けつけました。


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▲ 『自画像』(1835年)より

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▲ 企画展示室 入口



『シャセリオー展』の感想。
――いや〜、すっかりシャセリオーにハマってしまった!
あの絵もこの絵も素晴らしい。何もかもが素晴らしい。
近頃の私は図録(2700円)を眺めながらニヤつく日々を送っています。

個人的に気に入った作品を挙げるとキリがないのですが、
例えば『アポロンとダフネ』(1845年)は熟視せざるを得ません。
私がギリシア神話ファンであることを差し引いても、
この作品から漂う儚さ、美しさ、怖ろしさには魅了させられます。

一方、連作『オセロ』(1844年)はワクワクするような楽しさです。
ドラクロワの連作『ハムレット』(1834年)と比べるのも面白そう。
オリエント世界を描いた作品群は優しさに満ちていて、
「人間」を撮り続けたロバート・キャパの写真を思い起こしました。

当然のように展示されていたモローの『若者と死』(1865年)――
この絵を昔から好いてきたにもかかわらず、不勉強な私は
これがシャセリオーへのオマージュであることを初めて知りました。
私がシャセリオーにハマるのは必然だったのかもしれません。

加えて、私がハマったのはシャセリオーの作品のみにあらず。
容姿への劣等感(現代的視点だとイケメン風なのに!)、
パリ・コミューンで壊された会計検査院の壁画、37歳での夭折など、
シャセリオー自身のエキゾチックな逸話と人物像も魅力的です。


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▲ 『カバリュス嬢の肖像』(1848年)より



恥ずかしながら私は美術については門外漢なので
これが情緒的な感想でしかないことをご了承願いたいのですが、
シャセリオーの絵画からは絶妙な「弱さ」を感じました。
(といっても、作品そのものが未熟だという話ではありません。)

それは通常は「繊細さ」と表現されるものなのだろうけれど、
ここではあえて「弱さ」というネガティヴな言葉を使っておきたい。

われわれは他人と完全に分かり合うことはできない、
われわれは不条理なできごとから逃れることはできない、
われわれは毀誉褒貶を避けて通ることはできない、
われわれは眠れぬ夜を過ごさずに成長することはできない――。

人間はそのような「弱さ」を抱えながら毎日を生きています。
シャセリオーの絵画は色遣いも美しく華麗さを帯びていますが、
メッセージ性を押し出さない裏テーマ的な次元で
人間が人間であるがゆえの「弱さ」が描かれていると感じました。

しかし私がシャセリオーの絵画に心を惹かれるのは、
人間の「弱さ」が悲劇として描かれているからではありません。
むしろその「弱さ」をこの世界の要素として包み込み、
《いま・ここ》を静かに生きる人間の姿が描かれているからです。

人間は「弱い」。環境に苛まれ、他者との関係に苦しまされる。
それでもわれわれは生きることを選択し、《いま・ここ》に立つ。
一見するとそれは消極的な選択のようにも思えますが、
その選択は明日への希望を意味するのだと、私は信じています。



――「お前はいったいどの絵を見てそんな感想を持ったんだ?」
「シャセリオーは風景画も描いてるぞ!」とツッコまれそうですが、
『シャセリオー展』をヒントに抱いた雑感ということでご理解ください。

それでは最後にトクヴィルの言葉を引用してお茶を濁します。
これこそまさしく『シャセリオー展』とは関係のない文章ですが、
アメリカのデモクラシー』の中でも特に私を感動させた一節です。

 現世の不完全な喜びは決して人の心を満足させまい。生きとし生けるものの中で独り人間だけが、生存への生まれながらの嫌悪を示し、同時に限りなく生存に執着する。生きることを軽蔑し、しかも無を恐れるのだ。こういった矛盾する本能が、不断に人の魂を来世の瞑想に向かわせる。その道案内となるのは宗教である。宗教は、だから希望の、ある特殊な形式にすぎず、希望そのものと同じように、人の心に自然なものである。人間が宗教的信仰から離れるのは、一種の知性の短絡を通してであり、人間の固有の本性にある種の精神的暴力を加えた上でのことである。ある打ち克ちがたい傾向によって、人は信仰に引き戻される。不信仰は偶然であり、信仰だけが人間の恒久的な状態である。
(松本礼二訳)

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2017年05月01日

小柳枝が“寄席”に帰ってきた! 約一年ぶりの高座で『やかん』


今日は、池袋演芸場 5月上席 昼の部 へ行ってきました。
主任は、桂文治師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 三遊亭あんぱん 『牛ほめ』
落語:(交互) 桂鷹治 『あくび指南』
バイオリン漫談:(代演) マグナム小林
落語:瀧川鯉朝 『置き泥』
落語:三遊亭遊吉 『人形買い』
漫才:Wモアモア
落語:(代演) 春風亭柳之助 『転失気』
落語:(交互) 春風亭小柳枝 『やかん』

 〜仲入り〜

ギタレレ漫談:ぴろき
上方落語:(交互) 桂文三 『ちりとてちん』
落語:三遊亭笑遊 『看板のピン』
コント:コントD51
落語:(主任) 桂文治 『擬宝珠』



★あんぱん 『牛ほめ』
開口一番は笑遊門下のあんぱんさん。
芸名に触れ、“馬鹿兄弟”の小噺などを経て『牛ほめ』。
大きな声と鯉八さんを思わせる語り調子がトレードマークだ。

★鷹治 『あくび指南』
「よい天気なのに地下二階へようこそ」と挨拶してから、
“寄席のあくび”などのクスグリを挿んだ『あくび指南』。
人物の演じ分けも立派で、聴いていて安心する高座だった。

★マグナム小林
『明日があるさ』で登場し、「新幹線」などのネタを披露する。
続いて『証城寺の狸囃子』や『暴れん坊将軍』を弾き踊り、
最後は客席参加型の『ラデツキー行進曲』で場を盛り上げる。

★鯉朝 『置き泥』
真打披露興行前売券の告知を“余録”付きで行ってから、
「落語をやらないと割をもらえないから」と『置き泥』へ。
「泥棒○○流のヤツらがこっちの協会にやって来てるんだ!」。

★遊吉 『人形買い』
定番の「雨が降ったら雨が降ったで……」の挨拶を済ませ、
流暢な江戸弁が耳心地のよい『人形買い』へ入った。
途中で切り上げたが、古典落語を聴いたという充実感がある。

★Wモアモア
「雷雨になるので早く帰ったほうがいい」と笑わせ、
「あさり」や「傾聴ボランティア」の“雑談”から「妹の結婚式」。
このベテランコンビの時事的な“雑談”をもっと聴いてみたい。

★柳之助 『転失気』
「出番が交代したがお力落としのないよう……」とことわり、
世の中には強情な人間もいるものだということで『転失気』。
“和尚”は真実を知らされた後も「寺のほうでは……」と言い張る。

★小柳枝 『やかん』
緞帳が下がり、板付き、釈台+椅子ありで小柳枝師匠が登場。
『梅が咲いたか』が弾かれ、「待ってました」の掛け声が飛ぶ。
「まさか自分が脳溢血で倒れることになるとは思わなかった。
 約一年ぶりだが落語をやってみる」と十八番の『やかん』へ。
噺に入ると一段と声量を増し、芸歴52年の風格を感じさせる。
言い立てのくだりでは往時を彷彿とさせる語り口が戻っていた。

★ぴろき
「女性問題を抱えている」というツカミで一気に客を引き寄せ、
おなじみの「娘の友人関係」ネタなどで爆笑をもたらす。
「混浴」→「ヌード劇場」→「有料チャンネル」の3連コンボも。

★文三 『ちりとてちん』
「上方枠」の文三師匠、東京の定席への出演は初めてだという。
先代・文枝師匠から寄席のしきたりを聞かされていたのだとか。
本日、池袋に来る前の学校寄席で一緒だった可龍師匠との
「最高級ポリ」ネタで客のハートを掴み、『ちりとてちん』に入る。
お世辞を言う男のキャラクターが“江戸型”よりも抜群に面白い。
“ちりとてちん”が「長崎名物」と設定されたいきさつにも感心した。

★笑遊 『看板のピン』
すれ違いざまのあんぱんさんを軽く押して「あれは俺の弟子」。
笑遊師匠がやると『看板のピン』も笑いがスプラッシュする。
“膝でバタン”がウケるとそれを3回繰り返す、愛すべき芸人魂。

★コントD51
『課外授業ようこそ先輩』(未遂)のコント。
けんじ師匠が杖でファイルを叩くと、客席からどよめきが。
「半農半芸」の兄弟らしく、田植えの所作で客を唸らせていた。

★文治 『擬宝珠』
「小柳枝師匠が口馴れた『やかん』で復帰するはずだったのに、
 柳之助が『転失気』をやったので“知ったかぶりネタ”がついた」。
病気復帰つながりということで、「トリインフルエンザ」「骨折」
「カキ厳禁」などといった自身の病気・事故ネタをマクラに振る。
「『崇徳院』ではない」「幾代太夫でもなければ高尾太夫でもない」
「そろそろ季節だから『千両みかん』?」などのやりとりを経て、
金物を舐めるのが好きな親子の狂気(?)を描く『擬宝珠』を好演。
「カイダン噺はやらない」文治師匠ならではの満々たる高座だった。



──というわけで、本日はゴールデンウィーク前半の池袋演芸場で、
落語ファンが待ちに待った小柳枝師匠の復帰高座に立ち会いました。
もちろん、病気で倒れる前の姿が完全に戻っているわけではないけれど、
それでも私は小柳枝師匠が寄席に帰ってきたことが何よりも嬉しい。
そう思うのは、私には小柳枝師匠への「思い入れ」があるからでしょう。

考えてみれば、寄席──それも定席──というのは不思議なところで、
客の中には「伝統芸能としての古典落語を聴きたい」という客もいれば、
「あの芸人を聴きたい」という客や「友人に連れて来られた」という客、
「落語に興味はないけど割引券をもらったから来た」という客もいる。
どの客も客であり、「正しい客」もなければ「間違った客」もありません。

今日初めて小柳枝師匠を見た客は、以前の小柳枝師匠を知らないから、
もしかすると小柳枝師匠のことを「声の小さなジイさん」とだけ認識し、
特別な魅力を感じることもなく“切り捨て”ているかもしれない。
しかし私は彼らと同じ高座を見ていても、落語に挑む師匠の姿に感激し、
寄席で再び小柳枝師匠に“会えた”ことを無上の幸せと感じていました。

「私は小柳枝ファンであるからそう感じました」というだけの話ですが、
このような「思い入れ」を創る過程のことを人生というのかもしれません
(相変わらず言うことが大袈裟でお恥ずかしい限りですが……)。
私は「落語家・春風亭小柳枝」に思い入れを抱くような人間でよかったし、
これからも寄席でたくさんの「思い入れ」を創っていきたいと思います。
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2017年04月16日

歌丸“仲蔵”は休演でも… 満足感あふれる! 鶴光の『鼓ヶ滝』


今日は、国立演芸場 4月中席 へ行ってきました。
代バネは、笑福亭鶴光師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 春風亭昇りん 『たらちね』
落語:(交互) 笑福亭和光 『桃太郎』
落語:三遊亭遊雀 『熊の皮』
落語:瀧川鯉昇 『粗忽の釘』
漫才:Wモアモア
落語:(代演) 桂歌春 『崇徳院』

 〜仲入り〜

落語:(代演) 桂文治 『親子酒』
俗曲:桧山うめ吉
落語:(代バネ) 笑福亭鶴光 『鼓ヶ滝』



★昇りん 『たらちね』
開口一番は昇太門下の昇りんさん。
国際結婚も当たり前になりつつあるとして『たらちね』。
師匠譲りの口調で、実直そうな人柄が伝わってくる。
今や珍しいことに「ヨって件のごとし」のサゲまで行った。

★和光 『桃太郎』
これといった特別なマクラもなく『桃太郎』へ入る。
「オバケのQ太郎か、ゲゲゲの鬼太郎か、ポケモンGOか」。
和光版『桃太郎』は大きな所作もトレードマーク。
終盤では「お父ちゃん横になって」という細かい演出も。

★遊雀 『熊の皮』
十八番の「佐渡おけさ」や「とんびドキュメンタリー」、
「お気の毒ね」や「ピカソ」の小噺で会場を沸かせる。
本編の『熊の皮』ではさらなる爆笑を巻き起こし、
「尻に敷いている」のサゲで盛り上がりは最高潮に達した。

★鯉昇 『粗忽の釘』
「それほどもらってない」や楽屋を来訪した客のネタ、
「千円の魂」などのネタで爆笑の流れを引き継ぐ。
鯉昇版『粗忽の釘』の主人公は粗忽者というより“狂人”。
「生きてますか」「顔が曇って…」などフレーズも独特だ。

★Wモアモア
福島&熊本出身の「震災コンビ」、前半は政治ネタで攻める。
新宿御苑の『桜を見る会』で首相が詠んだ句をチクリ、
「風雪に耐えているのは国民のほうじゃねえか」に拍手。
結婚式ネタは「妹」から「娘」にマイナーチェンジしていた。

★歌春 『崇徳院』
歌丸師匠が今朝入院したと告知し、「私どもには想定内」。
「怪しい者ではないのでプログラムをしまってください」。
一門総領弟子としての責任感のようなものを感じた。
「指の色気」のマクラを経て、江戸弁がきれいな『崇徳院』。

★文治 『親子酒』
「学校寄席では『崇徳院』のような難しい噺は通じない」。
某デパートへの怒りをぶちまけるマクラでは拍手喝采
(それにしても「口封じ」を図る社員は本当に厭わしい)。
もちろん、本編の『親子酒』でも観客を文句なしに愉しませる。
「酒を呑んで酔わないのは、寄席に来て寝ているのと同じ」。
これほど素晴らしく食いつきの任を果たせる噺家はいない。

★うめ吉
名前と異なり「お姉さんということになっております」。
『梅は咲いたか』や新内節『蘭蝶』120秒Ver.などを経て、
葉桜(ただし若葉と桜は分離)を手に持ちながら踊る。
立ち姿のまま緞帳が下がっていく演出がクールだった。

★鶴光 『鼓ヶ滝』
本来は仲入り前の出番だった鶴光師匠が代バネを務める。
梅橋師匠の「高島屋のオウム」、春輔師匠の「カブトムシ」、
島倉千代子の「精神科」のネタなどを経て『鼓ヶ滝』へ。
この手の地噺は関西弁で聴くと味わい深くなるし、
ギャグを重ねる鶴光流で本来の価値が出てくるように思う。
「頭のアキレス腱が切れた」というフレーズも心地よい。
地噺と鶴光師匠の魅力満載、満足感あふれる一席だった。



──というわけで、歌丸師匠の高座が聴けなかったのは残念ですが、
本日の寄席では中堅・ベテラン勢の話芸を愉しませていただきました。
改めて感じたのは、落語は「生(Live)」の芸能であるということ。
“お目当て”が突然休演になったという微妙な状況が客席に漂う中、
この「生」の空間をどのように調理し、どのように楽しくしていくのか。

大袈裟で安っぽいことを言うならば、生きる(live)ということ自体が、
自分のいま居る空間(居ることになっている空間)を
「どのように楽しくしていくのか」という取り組みなのかもしれません。
たしかに本日の客にとっては歌丸師匠の休演は残念だったでしょうが、
誤解を恐れずに言えば、みんなの想定とは異なる条件の下、
“歌丸師匠がいないからこそ”生じた楽しい空間がそこにはありました。


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