2017年08月04日

全体主義の下、いかに「私」はあり得るか 『残像』


先日、岩波ホールで 映画『残像』を観ました。

Powidoki_Japanese-poster.jpg


 <あらすじ>
第二次大戦後、ソ連の影響下で社会主義国家となったポーランド。
前衛的な画家・ストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)は
ウッチ造形大学の教授として若い学生たちの指導にあたっていた。
しかし、芸術を政治に利用とする政府の方針に反発したために、
画家としての名声、人間としての尊厳までもが踏みにじられていく。



『残像』(2016年)は『灰とダイヤモンド』(1958年)などで高名な巨匠、
アンジェイ・ワイダ監督(2016年没)の遺作となった作品です。
社会主義の政権下で「社会主義リアリズム」に追従しなかったために
迫害されていく実在の画家・ストゥシェミンスキの晩年を描いています。
とはいえ、本作では次代を担う若者たちの葛藤や行動も映されており、
シリアスな展開が続く中にも、活力や希望が滲んでいるのも確かです。

主人公・ストゥシェミンスキは学生に慕われる造形大学の教授であり、
その講義は情熱的でありつつも理論的で、決して抽象的ではありません。
例えば、「どのように自らの芸術を確立すべきか」と問い掛けられると
ストゥシェミンスキは「自分で探すしかない」と返答するとともに、
芸術と自身を調和させる重要性について示唆的な助言を送っています。
最晩年には自らの『視覚理論』をまとめることに精力を傾けていました。

情熱と理論を融和させるストゥシェミンスキの芸術家としての在り方は、
人生というレベルにおいては理想と現実の対立劇となって現れます。
ストゥシェミンスキは「社会主義リアリズム」に静かに抵抗しつつも、
自らの生活と生存のためにスターリンの肖像画を描き始めるのです。
信条と責任のあいだで葛藤する全体主義体制下の個人を描いてきた
ワイダ監督作品の集大成と呼ぶにふさわしい、物語の構図であります。

もちろん、ワイダ監督は『ワレサ 連帯の男』(2013年)でそうしたように、
自らの映画の主人公を聖なる英雄として表現するのではなく
私生活での“かっこよくない”人間像も併せて冷徹に提示していました。
まるでそれは、完全無欠で隙がないと前提されている「国家」に対して
優柔不断でだらしがなくて綻びだらけの「個人」をぶつけることで、
全体主義が非人間的な仕組みであることを強調しているかのようです。



生前のワイダ監督は、全体主義の国家が個人を抑圧していくようすを、
作品を通して、そして自身の発言としても粘り強く発信してきました。
本作『残像』でも、文化大臣から「あなたはどちらの側につくんだ?」と
問われたストゥシェミンスキの友人が「私はあなたの側につく」と答えて、
大臣が「『あなた』? 我々の側につくということか?」と返す場面など、
全体主義体制ならではの象徴的なセリフや展開が用意されていました。

全体主義体制の下では「I」や「you」のような単数形の存在は許されず、
「we」や「they」のような複数形のみが用いられることになります。
ボーヴォワールが「真理は一つだが誤謬は複数ある」と言い放ったように、
全体主義はたった一つの「正解」以外の存在を許容できません。
芸術活動が本来的に「別解」しか持たない営みであることを考えれば、
全体主義の世の中で芸術家であり続けることの困難さがよく分かります。

「社会主義は間違っておらず、ソ連型社会主義が間違っていただけだ」
という主張は今なお存在しますが、社会主義が全体主義である以上、
そのような“技術論”は的外れの妄説だと指摘せざるを得ません。
「独裁は他の体制でもあったのだから、社会主義が悪いわけではない」
という主張にしても、社会主義だけが悪ではないことの説明ではあっても、
社会主義という全体主義が根本的に抱える問題を何も隠せていません。

私たち──否、“私”は、社会主義や共産主義を含むあらゆる全体主義を、
個人の尊厳を破壊するイデオロギーとして否定しなければなりません。
必要なのは、全体主義に対抗する体制としてのリベラル・デモクラシーの
“完成なき構築作業”であって、全体主義の“運用論”ではないはずです。
──今日の世界を見渡せばもはや手垢のついた結論ですらありませんが、
それこそが、私がワイダ監督の遺作から受け取ったメッセージなのです。



posted at 23:59 | Comment(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2017年07月04日

クールながらも奇妙で穏やか “天どんワールド”な『船徳』


今日は、鈴本演芸場 7月上席 夜の部 へ行ってきました。
主任は、三遊亭天どん師匠。

suzumoto-2017-07-kamiseki.jpg



 <本日の番組>

開口一番:(前座) 柳亭市朗 『転失気』
落語:(交互) 三遊亭わん丈 『権助魚』
奇術:ダーク広和
落語:柳亭燕路 『出来心』
落語:鈴々舎馬るこ 『牛ほめ』
漫才:ホンキートンク
落語:(交互) 三遊亭白鳥 『スーパー寿限無』
落語:桃月庵白酒 『風呂敷』

 〜仲入り〜

音楽:のだゆき
落語:入船亭扇遊 『狸賽』
太神楽曲芸:鏡味仙三郎社中
落語:(主任) 三遊亭天どん 『船徳』



★市朗 『転失気』
開口一番は市馬門下の市朗さん。
“花屋”や“おじさん”の件を省略した『転失気』。
珍念の独り言が丹念に語られる。サゲは「クサい話」。

★わん丈 『権助魚』
「極上の客」、金髪だった高校時代のマクラを経て、
古典の世界に馴染んだクスグリが愉しい『権助魚』。
「……私が今川焼に興味があるように見えたかい?」。

★ダーク広和
ボール→ロープ→Tシャツ変わり→フラフープ。
「YouTube」「Facebook」などの単語が普通に飛び出す。
この先生の幅広さ、奥深さが気になってしょうがない。

★燕路 『出来心』
振り込め詐欺のマクラから、師匠譲りの『出来心』へ。
「お前と俺とで駐車場を作ろうってんじゃないんだよ」。
噺のあらすじが頭に入ってきやすい語り口ではある。

★馬るこ 『牛ほめ』
マクラなしで『牛ほめ』に入り、笑いを加速していく。
「……いや、焼き鳥屋でも壁は砂肝じゃない!」。
パワフルな与太郎像がとにかく痛快、爆笑必至の高座。

★ホンキートンク
自己紹介ネタや「有名になりたくない」などを挟んで、
落語家の羽織のようにスーツを脱ぎ出し『時パスタ』。
最後は吉幾三の『Dream』(手拍子付き)でフィナーレ。

★白鳥 『スーパー寿限無』
みんなで「寿限無」の名前を合唱させてから、
“人間国宝”の天どん師匠が登場の『スーパー寿限無』。
「噛まずに言えたら天どん師匠のこの芝居は成功する!」。

★白酒 『風呂敷』
「台風の時は意外と客が入り、妙な連帯感が生まれる」。
「女サンガイにイエなし」をめぐる「性差別ですか!?」
→「強調の『し』」の展開が最高にくだらなくて可笑しい。

★のだゆき
ぞう→ピアニカ組曲→『パリの空の下』→『七夕さま』
→『ジングルベル〜交響曲第9番』→『ぶんぶんぶん』。
「〜ですよ」などの語尾がどことなく天どん師匠っぽい。

★扇遊 『狸賽』
「落語は生がいい。のんびり聴いて」という挨拶の後、
狐と狸の小噺を経て、江戸っ子の息遣い満載の『狸賽』。
「このサイコロ、“二の目”が俺を睨み付けてる」。

★仙三郎社中
傘廻し→五階茶碗→土瓶→花笠。
いつもいつでもスゴ技を実にあっさりと決めていくが、
それらはあくまでも稽古の賜物なのだと伝わってくる。

★天どん 『船徳』
「台風が来てるから(入場客の数は)いい言い訳になった」
「自分で終わりだから笑わないと気持ちよく帰れない」
「昨日の客が来ていないならネタ出ししなければよかった」
などと弱音を吐きつつも、夏ならではの噺『船徳』へ入る。
「徳三郎です(キリッ」と名前を連呼するナルシストの若旦那、
災難に遭っても最終的には友情を深め合う2人組の客など、
天どん版『船徳』はキャラクターの味付けが確立されていて、
この師匠のユニークな個性と持ち味をスパークさせている。
「『あいつら』と呼んでる時点で対等じゃない気がしますけど」
「ちょっとでも嫌だな、と思ったらやめるんですよ?」など、
“クールながらも奇妙で穏やか”なフレーズも盛りだくさん。
天どん師匠の落語は「クール」と形容されることも多いが
(かくいう私もたった今「クール」という語を使ったばかりだが)、
実際には“割と素直でピュア”な優しさが根本にあると思う。
「石垣に50本ぐらいこうもり傘が刺さってたよ」という描写や
「やーめた。謝って、ください」などといった展開も独創的で、
“天どんワールド”満ち溢れる充実の高座に満足させられた。



──というわけで、関東地方に台風3号が接近する中、
夜の鈴本演芸場で天どん師匠の主任興行を楽しませていただきました。
わん丈さんの個性的でありながら古典の世界にハマったクスグリには、
「これが古典と新作のハイブリッドってやつか!」と惚れ惚れした次第。
古典の世界を壊さない形で挿まれる新たなクスグリって、いいですよね。

そしてやっぱり、なんといっても本日の主役、天どん師匠──。
天どん師匠にしか造成できないであろう独特なキャラクターたちが、
いつのまにか“トラブルのさざ波”に乗っかり、惨事を拡大していく様子は、
聴いていて心地がよく、もっとこの世界に浸かっていたいと思ったほど。
噛めば噛むほど味が出てくる落語のおかげで、気持ちが楽になりました。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 落語・笑い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2017年06月26日

“バージョンアップ”された一級の娯楽映画 『美女と野獣』


先日、TOHOシネマズ日劇で
映画『美女と野獣』(字幕版)を観ました。

beauty-and-beast-2017-poster.jpg



ディズニーアニメの名作『美女と野獣』(1991年)を実写化した本作は、
ミュージカル映画を愛し、熟知するビル・コンドン監督の手によって
1991年のオリジナルアニメに勝るとも劣らない傑作に仕上がっています。
アニメ版が「Windows 95」だとしたら、本作は「Windows 10」。
リメイクというよりも“バージョンアップ作品”として捉えられるべきでしょう。

例えば、前半のハイライト『ひとりぼっちの晩餐会(Be Our Guest)』──
アニメ版ではどこからともなくルミエールにライトが当てられましたが、
本作ではそのライトが登場人物による作為的なものと設定されたことで
不自然さがなくなり、抵抗なく世界観に浸ることができるようになりました。
使用人たちが完全にモノに化してしまうシーンや、その後の場面でも、
実写映画であることを逆手にとった効果的な演出が採用されています。

肝心要のミュージカルシーンについてもほとんど文句のつけようがなく、
さすがはビル・コンドン監督、実写ならではの楽しさに満ちていました。
冒頭のナンバー『朝の風景(Belle)』はまさにプロフェッショナルの業で、
アニメでは表現できないリアルな人間の息遣いが伝わってきます。
これだからミュージカル映画は素晴らしいと思わされる演出の連続で、
ミュージカル映画どころか「映画っていいな」とまで実感させられたほど。



実写版というだけあって、キャストの活躍に触れぬわけにはいきません。
アニメ版の愛好者としては歌声に迫力不足を感じたのも事実ですが
(個人的には アンジェラ・ランズベリー の不在がとりわけイタかった!)、
ユアン・マクレガーもエマ・トンプソンも決して歌唱は下手ではなく、
“バージョンアップ版”にふさわしいキャラクター像を提示していました。
イアン・マッケランの存在感と安定感に至っては、「さすが」の一言です。

声優ではなく実力派俳優でなければ表現できないであろうシーンもあり、
本作のキャスティングはおおむね成功していたと結論付けられるでしょう。
──あえて辛口なことを申せば、ル・フウ役のジョシュ・ギャッドは
はっきり言って芝居が下手で、残念ながら役者不足の感は否めません。
ベルの父親役を演じたケヴィン・クラインも悪くはありませんでしたが、
どうしてもロビン・ウィリアムズの“下位置換”に見える瞬間がありました。

本作の最も特筆すべき出演者は、やはりオードラ・マクドナルドでしょう!
現在のブロードウェイでトップに君臨するこの正統派ミュージカル女優は、
脇役でありながら、その美しい歌声で本作の最初と最後を飾っています。
監督がマクドナルドに敬意を払っていることが分かりますが、実際、
彼女の歌声を聴くためだけでもお金を払って映画館へ行く価値はあります。
“正統派”には馴染みがない私でも、彼女の歌声には鳥肌が立ちました。



総合的にいうと、本作はテンポがよく、シナリオの構成も練られていて、
構図もしっかりと押さえられ、アニメ版を補完するような描写もあるので、
さしずめ三ツ星シェフによる“まとも”なフルコース料理といった趣きです。
アラン・メンケン作曲のミュージカルナンバーは未だに色褪せておらず、
それどころかゴージャスなアレンジが施されているのだからたまりません。
アニメ版をより深化させた本作は一級の娯楽作品に仕上がっています。

もちろんパソコンとは違って、映画や文学、音楽などの芸術作品の場合、
“バージョンアップ”されていればよいかというと、それは別問題です。
かつて「Windows 95」でパソコンに初めて接した時の感動や興奮を
「Windows 10」で体感することは難しい──というよりも不可能でしょう。
しかし、ディズニーの『美女と野獣』のアニメ版と実写版の間にあるのは
「1991年に作ってみた」と「2017年に作ってみた」の違いにすぎません。

ディズニーの『美女と野獣』のアニメ版と実写版は“同一人物”であり、
実写版の制作にあたって、その核となる精神は何も歪められていません。
“旧型”の至らなかった点をあくまでも補完・修正・調整するに留め、
「2Dか、実写+CGか」という表現の手段を変更しているだけなのです。
──そして、本作のように「実写+CG」という手段を採るのならば、
技術面からいって、20世紀ではなく21世紀に作ったほうがよいでしょう。

コンドン監督は当初、本作のオファーを受けるべきか悩んだそうですが、
そのような人物だからこそ、作品の核心から問い直すリブートではなく
“バージョンアップ”という方向性を見出せたのではないでしょうか。
本作の成功は、監督選びを誤らなかったディズニーの成果であるとともに、
ディズニーの『美女と野獣』という作品の力強さに起因するものなのです。


▲ TVコマーシャル 「メドレー」篇 (1分15秒)



 <追記>
本作『美女と野獣』(2017年)は、ディズニー映画としては初めて
同性愛者(あるいは両性愛者)のキャラクターが公式に描かれた作品です。
そのため一部の国では上映が延期され、年齢制限がかけられました。
といっても本作での同性愛の描写は実に“さりげない”ものにすぎず、
物語に同性愛者が登場するだけで騒ぐ人々の滑稽さを痛感した次第です。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
(C) Copyright 2009 - 2017 MITSUYOSHI WATANABE