2017年02月04日

さりげない温かみが顔を出す “重労働”小遊三の『味噌蔵』


今日は、国立演芸場 2月上席 へ行ってきました。
主任は、三遊亭小遊三師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 春風亭べん橋 『たらちね』
落語:(交互) 三遊亭遊かり 『ん廻し』
奇術:山上兄弟
落語:(代演) 三遊亭遊雀 『堪忍袋』
漫才:ナイツ
落語:柳亭楽輔 『火焔太鼓』

 〜仲入り〜

講談:神田陽子 『名人小団次』
落語:春風亭柳橋 『お見立て』
ギタレレ漫談:ぴろき
落語:(主任) 三遊亭小遊三 『味噌蔵』



★べん橋 『たらちね』
開口一番は柳橋門下のべん橋さん。
前座でありながらすでに芸風が確立されている。
人物のリアクションに間を置くのはわざとなのだろう。

★遊かり 『ん廻し』
本来は遊里さんのはずだが、遊かりさんが登場。
「今年も落語ファーストで行く」と笑いを獲り、
「プーチン」などの単語も登場する『ん廻し』へ。
言い立てでつっかえるも、自らツッコんでやり流す。

★山上兄弟
『千本桜』をBGMに流しながら赤と青の袴で登場。
扇の手品を披露してから、後輩・HIROMIへ引き継ぐ。
最後は扇状の箱の中の暁之進が消えるマジックをキメた。
17日放送の『コサキン亭』(BSフジ)に出演とのこと。

★遊雀 『堪忍袋』
遊史郎師匠の代演。
「お気の毒ね」の小噺を経て、十八番の『堪忍袋』。
「聞こえるか聞こえないぐらいの、でも聞こえる声」。
爆笑に次ぐ爆笑で、「私が悪かった」あたりでサゲる。

★ナイツ
芸人の交通事故、おでんツンツン男などを取り上げ、
「俺じゃなかったっけ?」とボケ倒していくネタ。
漫才協会とJャニーズ事務所の関係が暴かれ……
「ここにいる全員消せます」「殺される、殺される!」。

★楽輔 『火焔太鼓』
「エボラ出血熱」「熱中症」のネタで客席を湧かし、
古今亭そのままのフレーズが小気味よい『火焔太鼓』。
楽輔版『火焔太鼓』の“古道具屋”はドライで、
女房のことも冷たく突き放している風なのが印象的だ。

★陽子 『名人小団次』
仲入り後は、自称「ひとりAKB」陽子先生の講談。
「演芸場ではいつでも掛け声をして構わないが……」
というマクラからの『名人小団次』出世の一席。
わかりやすくても迫力満点、観客を惹きつけていく。

★柳橋 『お見立て』
「明日の講談・講釈が楽しみ」と微笑んでから、
おなじみの「近頃の大学生」ネタを経て『お見立て』。
それぞれの登場人物が“行動”だけで結び付き、
“気持ち”がちっとも絡み合わない様子を表現する。

★ぴろき
「スマホが冷蔵庫の下に」「映画館のせんべい」
「新幹線で座席が回転」「新幹線でおにぎり」などの
ネタを披露し、最後は妻娘ネタで爆笑をかっさらう。
土曜日の昼下がり、満席の会場でウケにウケていた。

★小遊三 『味噌蔵』
「声が二十日ほど出ない」とガラガラ声で打ち明ける。
本日はこの出番の前に『笑点』と『もう笑点』の
収録があったそうで、「歌丸師匠は生きていました。
 呼吸器・車椅子なのに、こういうところに出ると平気」。
大喜利は休めるし咳もできるからまだ楽だったそうだが、
高座は喋り続けないといけないので「重労働」だという。
ケチな人は声も出したくないということで、『味噌蔵』。
「もらった女房を帰すようなことはできません」。
小遊三版の“ケチ兵衛”はケチだが人の道を心得ており、
息子が産まれたと知るとやや嬉しそうな表情を見せるなど、
どこか血の通ったハートウォーミングなところがある。
何しろ、妻の実家で出されるおかずを持ち帰ろうとするのは
番頭や奉公人に食べさせるためだったりするのだ。
「ドガチャガ」「人事不省」などの名フレーズも散りばめ、
さりげない温かみが顔をのぞかせる『味噌蔵』を好演した。



──というわけで、本日は小遊三師匠が主任の国立演芸場で、
演芸の楽しさ、古典落語の面白さを存分に堪能させていただきました。
今さらだけれど、同じ噺でも、演者によって「姿」や「香り」が変わる。
それらの変化は、所作やフレーズ、フラや声色の違いというよりも、
演者が「噺の中の人物をどう捉えているか」の違いに起因するものです。

噺の中の登場人物をどう捉え、どう「キャラ付け」していくかによって、
まったく同じ台詞が口演されるとしても、噺の全体像は異なってきます。
噺を形作るのは、結局のところ、「骨格」ではなく「血肉」なのでしょう。
そして「どのような血肉が望ましいか」という問いに正解がないところが、
目の前の客を相手にする話芸の面白さでもあり、厳しさでもあるのです。


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2017年01月28日

適切なキャスティングで“王道”を往く 『マダム・フローレンス!』


先日、川崎チネチッタで
映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』を観ました。

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 <あらすじ>
第二次世界大戦中のニューヨーク。
社交界の女王であるマダム・フローレンス(メリル・ストリープ)は、
ソプラノ歌手になるという淡い夢を捨てきれずにいる。
夫のシンクレア(ヒュー・グラント)はフローレンスの夢を叶えるため、
支持者ばかりを集めた小さなリサイタルを開くなどしていた。
やがてフローレンスは名門カーネギーホールで歌うことを決め……。



フローレンス・フォスター・ジェンキンスという実在したセレブ女性が
名門ホールでリサイタルを開くまでの道のりを描いた本作は、
ハリウッド2大スターの“競演”を愉しむドラマとして評価できるでしょう。
世間知らずの「天然」でありながらも実は繊細な一面をもつ妻と、
お調子者的ではあるのだが純愛と誠実さを内に宿している夫──。
ストリープとグラントは独特な夫婦の関係を軽々と表現していました。

さらに、フローレンスの伴奏者役として本作の“第3の主役”を務めた
サイモン・ヘルバーグ(『ビッグバン★セオリー』)も見逃せません。
ウザくならない程度にクドい演技が役柄にハマっていました。
激しいドラマ展開があるわけでもない「実話をもとにした作品」では、
やはり俳優の演技力と「ハマり具合」が問われることになります。
本作の最大の魅力は適切なキャスティングにあると総括できそうです。

惜しむらくは、マダム・フローレンスを演じたメリル・ストリープの歌声。
劇中ではストリープ本人が歌声を披露しているのですが
高音が耳につくぐらいで、音程そのものを外しているわけではない。
皮肉なことに、ストリープは本物の“音痴”には成りきれてないのです。
どうせエンディングでフローレンス本人の歌声を流すぐらいなら、
劇中でもフローレンス本人の歌声を利用すべきだったかもしれません。

とはいえ、本作のメインテーマは「ストリープによるモノマネ」ではなく、
あくまでもマダム・フローレンス夫妻を中心とした「人間ドラマ」です。
メリル・ストリープがやりそうな役をメリル・ストリープがやり、
ヒュー・グラントがやりそうな役をヒュー・グラントがやった本作は、
脚本面でも演出面でもまさに王道を貫いたからこそ、見応えがあります。
あるシーンで私が思わず涙を浮かべてしまったのはここだけの秘密。



▲ フローレンス・フォスター・ジェンキンス本人の歌声。
彼女のアルバムはデヴィッド・ボウイが“生涯愛した名盤”として有名らしい。
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2017年01月10日

人間は“純ロマンチスト”ではあり得ない、が 『正義と微笑』


 太宰治の小説『正義と微笑』(1942年)を初めて読んだ時、なぜ前半部で物語を終わらせてくれなかったのかと作者を憎んだ。

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SDP Bunko 版


 『正義と微笑(びしょう)』の主人公の名前は芹川進。東京で母や兄と暮らす有閑階級の少年である。この小説は彼の16歳の年の4月から17歳の年の12月にかけての日記という形式を採っている(※1)。そのため、読者は進の日記をこっそり盗み読みする感覚でページをめくらされることになる。そういう意味では、この小説は作品の構造からして変態的だといえなくもない(※2)

 物語の後半で、進は「プロフェッショナルに生き」ることを決意した青年へと成熟する。理想は現実の生活に即していなければならず(生活を離れた理想を求めるのであれば「十字架へ行く路」を歩むしかない)、日常生活の中でも「理想に邁進する事が出来るはずだ」──。いわば《ロマンを抱えるリアリスト》として生きることを宣言し、進は新天地へ飛び込む。そしてそれからの7か月間が示される。

▼△▼△▼

 ロマンチストとは理想を“追う”者であり、リアリストとは現実に“追われる”者である。現実を生きている以上、すべての人間はリアリストとしての面をもっている。純リアリストはあり得ても、純ロマンチストはあり得ない。現代のロマンチストとは、リアリストとしての自分をまだ自覚していない者か、自覚した上で《ロマンを抱えるリアリスト》として生きることを決意した者のいずれかである。

 この小説で重要なのは、主人公の家庭が有閑階級であることだろう。有閑階級に属する者は自分がリアリストとしての面を有していることに気付きにくい。現実の生活に“追われる”機会が少ないからだ。進の兄さんがリアリストとしての自分を自覚し、「お金でも、とれるんでなかったら、小説なんて、ばからしい」というリアリスト的な発言をしたのは、文学賞という現実に“追われ”ていた時のことである。

 兄さんの発言を聞いた当時の進は「なんだか、堕落しているんじゃないかしら」「理想の喪失」という感想を抱くが、しばらくすると「僕は、兄さんと、もうはっきり違った世界に住んでいる事を自覚した。僕は日焼けした生活人だ。ロマンチシズムは、もうないのだ」と日記に記す。現実の生活に“追われる”中で、今度は自分こそが堕落してしまったのではないかと怯えるのだ。

 とはいえ、「ロマンチシズムは、もうないのだ」と記した時の進は、本当に純リアリストになってしまっていたわけではないと信じたい。純リアリストになりかけていた自分に気付いて軌道修正を図ったと信じたい。あの一文を書けるうちはロマンチシズムを失っていないと信じたい。別の角度からいえば、この一文に切なさや哀しみを覚える読者はまだ現実に呑み込まれてはいない。

▼△▼△▼

 進は意図してリアリズムを習得したわけではなかった。当初は憧れにすぎなかった世界を現実の舞台とすることで(※3)、いつの間にかリアリストの色を濃くしていたのである。最後の日記にはロマンチックとはいえない文言が躍る。「まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう」。進は《ロマンを抱えるリアリスト》のままなのか。それとも純リアリストに転じてしまったのか。

 感情が散発的に表現される日記体小説ということもあって、その答えは最後まで明らかにならない。だから私はこの小説を初めて読んだ時、なぜ前半部で物語を終わらせてくれなかったのかと作者を憎んだのだった。なぜ作者は進を「成長」させてしまったのか! あるいはせめて進が《ロマンを抱えるリアリスト》として生きると宣言したあの日に、この物語を終わらせてくれていたならば!

 今でも私はこの小説の締め括りに不を感じるが、それこそが作者の狙いなのだろう。人間は純ロマンチストではあり得ない。どんなロマンチストも、リアリストとしての自分と直面することを避けられない。今日のロマンチストは明日のリアリストであり、明日のリアリストは明後日のロマンチストである。誰もこの先の自分を知らない。かつて決意があったという事実を宿しつつ、日は改まっていく。

 小説の最後に記される讃美歌の詞は、《ロマンを抱えるリアリスト》たらんと欲する者にとっての指針となる。「わがゆくみちに/はなさきかおり/のどかなれとは/ねがいまつらじ」──。苦渋の選択である。険しそうな道である。しかし、一筋の光は差している。『正義と微笑』は巷間囁かれるような「明るく希望にみち」た青年の物語ではない。ほろ苦さを味わいながらも前を向く青年の物語である。


注釈
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