2017年06月26日

“バージョンアップ”された一級の娯楽映画 『美女と野獣』


先日、TOHOシネマズ日劇で
映画『美女と野獣』(字幕版)を観ました。

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ディズニーアニメの名作『美女と野獣』(1991年)を実写化した本作は、
ミュージカル映画を愛し、熟知するビル・コンドン監督の手によって
1991年のオリジナルアニメに勝るとも劣らない傑作に仕上がっています。
アニメ版が「Windows 95」だとしたら、本作は「Windows 10」。
リメイクというよりも“バージョンアップ作品”として捉えられるべきでしょう。

例えば、前半のハイライト『ひとりぼっちの晩餐会(Be Our Guest)』──
アニメ版ではどこからともなくルミエールにライトが当てられましたが、
本作ではそのライトが登場人物による作為的なものと設定されたことで
不自然さがなくなり、抵抗なく世界観に浸ることができるようになりました。
使用人たちが完全にモノに化してしまうシーンや、その後の場面でも、
実写映画であることを逆手にとった効果的な演出が採用されています。

肝心要のミュージカルシーンについてもほとんど文句のつけようがなく、
さすがはビル・コンドン監督、実写ならではの楽しさに満ちていました。
冒頭のナンバー『朝の風景(Belle)』はまさにプロフェッショナルの業で、
アニメでは表現できないリアルな人間の息遣いが伝わってきます。
これだからミュージカル映画は素晴らしいと思わされる演出の連続で、
ミュージカル映画どころか「映画っていいな」とまで実感させられたほど。



実写版というだけあって、キャストの活躍に触れぬわけにはいきません。
アニメ版の愛好者としては歌声に迫力不足を感じたのも事実ですが
(個人的には アンジェラ・ランズベリー の不在がとりわけイタかった!)、
ユアン・マクレガーもエマ・トンプソンも決して歌唱は下手ではなく、
“バージョンアップ版”にふさわしいキャラクター像を提示していました。
イアン・マッケランの存在感と安定感に至っては、「さすが」の一言です。

声優ではなく実力派俳優でなければ表現できないであろうシーンもあり、
本作のキャスティングはおおむね成功していたと結論付けられるでしょう。
──あえて辛口なことを申せば、ル・フウ役のジョシュ・ギャッドは
はっきり言って芝居が下手で、残念ながら役者不足の感は否めません。
ベルの父親役を演じたケヴィン・クラインも悪くはありませんでしたが、
どうしてもロビン・ウィリアムズの“下位置換”に見える瞬間がありました。

本作の最も特筆すべき出演者は、やはりオードラ・マクドナルドでしょう!
現在のブロードウェイでトップに君臨するこの正統派ミュージカル女優は、
脇役でありながら、その美しい歌声で本作の最初と最後を飾っています。
監督がマクドナルドに敬意を払っていることが分かりますが、実際、
彼女の歌声を聴くためだけでもお金を払って映画館へ行く価値はあります。
“正統派”には馴染みがない私でも、彼女の歌声には鳥肌が立ちました。



総合的にいうと、本作はテンポがよく、シナリオの構成も練られていて、
構図もしっかりと押さえられ、アニメ版を補完するような描写もあるので、
さしずめ三ツ星シェフによる“まとも”なフルコース料理といった趣きです。
アラン・メンケン作曲のミュージカルナンバーは未だに色褪せておらず、
それどころかゴージャスなアレンジが施されているのだからたまりません。
アニメ版をより深化させた本作は一級の娯楽作品に仕上がっています。

もちろんパソコンとは違って、映画や文学、音楽などの芸術作品の場合、
“バージョンアップ”されていればよいかというと、それは別問題です。
かつて「Windows 95」でパソコンに初めて接した時の感動や興奮を
「Windows 10」で体感することは難しい──というよりも不可能でしょう。
しかし、ディズニーの『美女と野獣』のアニメ版と実写版の間にあるのは
「1991年に作ってみた」と「2017年に作ってみた」の違いにすぎません。

ディズニーの『美女と野獣』のアニメ版と実写版は“同一人物”であり、
実写版の制作にあたって、その核となる精神は何も歪められていません。
“旧型”の至らなかった点をあくまでも補完・修正・調整するに留め、
「2Dか、実写+CGか」という表現の手段を変更しているだけなのです。
──そして、本作のように「実写+CG」という手段を採るのならば、
技術面からいって、20世紀ではなく21世紀に作ったほうがよいでしょう。

コンドン監督は当初、本作のオファーを受けるべきか悩んだそうですが、
そのような人物だからこそ、作品の核心から問い直すリブートではなく
“バージョンアップ”という方向性を見出せたのではないでしょうか。
本作の成功は、監督選びを誤らなかったディズニーの成果であるとともに、
ディズニーの『美女と野獣』という作品の力強さに起因するものなのです。


▲ TVコマーシャル 「メドレー」篇 (1分15秒)



 <追記>
本作『美女と野獣』(2017年)は、ディズニー映画としては初めて
同性愛者(あるいは両性愛者)のキャラクターが公式に描かれた作品です。
そのため一部の国では上映が延期され、年齢制限がかけられました。
といっても本作での同性愛の描写は実に“さりげない”ものにすぎず、
物語に同性愛者が登場するだけで騒ぐ人々の滑稽さを痛感した次第です。
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2017年05月30日

人間であるがゆえの「弱さ」を 『シャセリオー展』


先日、国立西洋美術館で開催された
『シャセリオー展 19世紀フランス・ロマン主義の異才』へ行ってきました。

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テオドール・シャセリオーの絵画が本格的に紹介されるのは、
日本では今回が初めてなのだそうです。
政治家にして公法学者のアレクシ・ド・トクヴィルの肖像』(1844年)を
生で鑑賞できるということで、上野の公園口へ駆けつけました。


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▲ 『自画像』(1835年)より

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▲ 企画展示室 入口



『シャセリオー展』の感想。
――いや〜、すっかりシャセリオーにハマってしまった!
あの絵もこの絵も素晴らしい。何もかもが素晴らしい。
近頃の私は図録(2700円)を眺めながらニヤつく日々を送っています。

個人的に気に入った作品を挙げるとキリがないのですが、
例えば『アポロンとダフネ』(1845年)は熟視せざるを得ません。
私がギリシア神話ファンであることを差し引いても、
この作品から漂う儚さ、美しさ、怖ろしさには魅了させられます。

一方、連作『オセロ』(1844年)はワクワクするような楽しさです。
ドラクロワの連作『ハムレット』(1834年)と比べるのも面白そう。
オリエント世界を描いた作品群は優しさに満ちていて、
「人間」を撮り続けたロバート・キャパの写真を思い起こしました。

当然のように展示されていたモローの『若者と死』(1865年)――
この絵を昔から好いてきたにもかかわらず、不勉強な私は
これがシャセリオーへのオマージュであることを初めて知りました。
私がシャセリオーにハマるのは必然だったのかもしれません。

加えて、私がハマったのはシャセリオーの作品のみにあらず。
容姿への劣等感(現代的視点だとイケメン風なのに!)、
パリ・コミューンで壊された会計検査院の壁画、37歳での夭折など、
シャセリオー自身のエキゾチックな逸話と人物像も魅力的です。


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▲ 『カバリュス嬢の肖像』(1848年)より



恥ずかしながら私は美術については門外漢なので
これが情緒的な感想でしかないことをご了承願いたいのですが、
シャセリオーの絵画からは絶妙な「弱さ」を感じました。
(といっても、作品そのものが未熟だという話ではありません。)

それは通常は「繊細さ」と表現されるものなのだろうけれど、
ここではあえて「弱さ」というネガティヴな言葉を使っておきたい。

われわれは他人と完全に分かり合うことはできない、
われわれは不条理なできごとから逃れることはできない、
われわれは毀誉褒貶を避けて通ることはできない、
われわれは眠れぬ夜を過ごさずに成長することはできない――。

人間はそのような「弱さ」を抱えながら毎日を生きています。
シャセリオーの絵画は色遣いも美しく華麗さを帯びていますが、
メッセージ性を押し出さない裏テーマ的な次元で
人間が人間であるがゆえの「弱さ」が描かれていると感じました。

しかし私がシャセリオーの絵画に心を惹かれるのは、
人間の「弱さ」が悲劇として描かれているからではありません。
むしろその「弱さ」をこの世界の要素として包み込み、
《いま・ここ》を静かに生きる人間の姿が描かれているからです。

人間は「弱い」。環境に苛まれ、他者との関係に苦しまされる。
それでもわれわれは生きることを選択し、《いま・ここ》に立つ。
一見するとそれは消極的な選択のようにも思えますが、
その選択は明日への希望を意味するのだと、私は信じています。



――「お前はいったいどの絵を見てそんな感想を持ったんだ?」
「シャセリオーは風景画も描いてるぞ!」とツッコまれそうですが、
『シャセリオー展』をヒントに抱いた雑感ということでご理解ください。

それでは最後にトクヴィルの言葉を引用してお茶を濁します。
これこそまさしく『シャセリオー展』とは関係のない文章ですが、
アメリカのデモクラシー』の中でも特に私を感動させた一節です。

 現世の不完全な喜びは決して人の心を満足させまい。生きとし生けるものの中で独り人間だけが、生存への生まれながらの嫌悪を示し、同時に限りなく生存に執着する。生きることを軽蔑し、しかも無を恐れるのだ。こういった矛盾する本能が、不断に人の魂を来世の瞑想に向かわせる。その道案内となるのは宗教である。宗教は、だから希望の、ある特殊な形式にすぎず、希望そのものと同じように、人の心に自然なものである。人間が宗教的信仰から離れるのは、一種の知性の短絡を通してであり、人間の固有の本性にある種の精神的暴力を加えた上でのことである。ある打ち克ちがたい傾向によって、人は信仰に引き戻される。不信仰は偶然であり、信仰だけが人間の恒久的な状態である。
(松本礼二訳)

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2017年05月01日

小柳枝が“寄席”に帰ってきた! 約一年ぶりの高座で『やかん』


今日は、池袋演芸場 5月上席 昼の部 へ行ってきました。
主任は、桂文治師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 三遊亭あんぱん 『牛ほめ』
落語:(交互) 桂鷹治 『あくび指南』
バイオリン漫談:(代演) マグナム小林
落語:瀧川鯉朝 『置き泥』
落語:三遊亭遊吉 『人形買い』
漫才:Wモアモア
落語:(代演) 春風亭柳之助 『転失気』
落語:(交互) 春風亭小柳枝 『やかん』

 〜仲入り〜

ギタレレ漫談:ぴろき
上方落語:(交互) 桂文三 『ちりとてちん』
落語:三遊亭笑遊 『看板のピン』
コント:コントD51
落語:(主任) 桂文治 『擬宝珠』



★あんぱん 『牛ほめ』
開口一番は笑遊門下のあんぱんさん。
芸名に触れ、“馬鹿兄弟”の小噺などを経て『牛ほめ』。
大きな声と鯉八さんを思わせる語り調子がトレードマークだ。

★鷹治 『あくび指南』
「よい天気なのに地下二階へようこそ」と挨拶してから、
“寄席のあくび”などのクスグリを挿んだ『あくび指南』。
人物の演じ分けも立派で、聴いていて安心する高座だった。

★マグナム小林
『明日があるさ』で登場し、「新幹線」などのネタを披露する。
続いて『証城寺の狸囃子』や『暴れん坊将軍』を弾き踊り、
最後は客席参加型の『ラデツキー行進曲』で場を盛り上げる。

★鯉朝 『置き泥』
真打披露興行前売券の告知を“余録”付きで行ってから、
「落語をやらないと割をもらえないから」と『置き泥』へ。
「泥棒○○流のヤツらがこっちの協会にやって来てるんだ!」。

★遊吉 『人形買い』
定番の「雨が降ったら雨が降ったで……」の挨拶を済ませ、
流暢な江戸弁が耳心地のよい『人形買い』へ入った。
途中で切り上げたが、古典落語を聴いたという充実感がある。

★Wモアモア
「雷雨になるので早く帰ったほうがいい」と笑わせ、
「あさり」や「傾聴ボランティア」の“雑談”から「妹の結婚式」。
このベテランコンビの時事的な“雑談”をもっと聴いてみたい。

★柳之助 『転失気』
「出番が交代したがお力落としのないよう……」とことわり、
世の中には強情な人間もいるものだということで『転失気』。
“和尚”は真実を知らされた後も「寺のほうでは……」と言い張る。

★小柳枝 『やかん』
緞帳が下がり、板付き、釈台+椅子ありで小柳枝師匠が登場。
『梅が咲いたか』が弾かれ、「待ってました」の掛け声が飛ぶ。
「まさか自分が脳溢血で倒れることになるとは思わなかった。
 約一年ぶりだが落語をやってみる」と十八番の『やかん』へ。
噺に入ると一段と声量を増し、芸歴52年の風格を感じさせる。
言い立てのくだりでは往時を彷彿とさせる語り口が戻っていた。

★ぴろき
「女性問題を抱えている」というツカミで一気に客を引き寄せ、
おなじみの「娘の友人関係」ネタなどで爆笑をもたらす。
「混浴」→「ヌード劇場」→「有料チャンネル」の3連コンボも。

★文三 『ちりとてちん』
「上方枠」の文三師匠、東京の定席への出演は初めてだという。
先代・文枝師匠から寄席のしきたりを聞かされていたのだとか。
本日、池袋に来る前の学校寄席で一緒だった可龍師匠との
「最高級ポリ」ネタで客のハートを掴み、『ちりとてちん』に入る。
お世辞を言う男のキャラクターが“江戸型”よりも抜群に面白い。
“ちりとてちん”が「長崎名物」と設定されたいきさつにも感心した。

★笑遊 『看板のピン』
すれ違いざまのあんぱんさんを軽く押して「あれは俺の弟子」。
笑遊師匠がやると『看板のピン』も笑いがスプラッシュする。
“膝でバタン”がウケるとそれを3回繰り返す、愛すべき芸人魂。

★コントD51
『課外授業ようこそ先輩』(未遂)のコント。
けんじ師匠が杖でファイルを叩くと、客席からどよめきが。
「半農半芸」の兄弟らしく、田植えの所作で客を唸らせていた。

★文治 『擬宝珠』
「小柳枝師匠が口馴れた『やかん』で復帰するはずだったのに、
 柳之助が『転失気』をやったので“知ったかぶりネタ”がついた」。
病気復帰つながりということで、「トリインフルエンザ」「骨折」
「カキ厳禁」などといった自身の病気・事故ネタをマクラに振る。
「『崇徳院』ではない」「幾代太夫でもなければ高尾太夫でもない」
「そろそろ季節だから『千両みかん』?」などのやりとりを経て、
金物を舐めるのが好きな親子の狂気(?)を描く『擬宝珠』を好演。
「カイダン噺はやらない」文治師匠ならではの満々たる高座だった。



──というわけで、本日はゴールデンウィーク前半の池袋演芸場で、
落語ファンが待ちに待った小柳枝師匠の復帰高座に立ち会いました。
もちろん、病気で倒れる前の姿が完全に戻っているわけではないけれど、
それでも私は小柳枝師匠が寄席に帰ってきたことが何よりも嬉しい。
そう思うのは、私には小柳枝師匠への「思い入れ」があるからでしょう。

考えてみれば、寄席──それも定席──というのは不思議なところで、
客の中には「伝統芸能としての古典落語を聴きたい」という客もいれば、
「あの芸人を聴きたい」という客や「友人に連れて来られた」という客、
「落語に興味はないけど割引券をもらったから来た」という客もいる。
どの客も客であり、「正しい客」もなければ「間違った客」もありません。

今日初めて小柳枝師匠を見た客は、以前の小柳枝師匠を知らないから、
もしかすると小柳枝師匠のことを「声の小さなジイさん」とだけ認識し、
特別な魅力を感じることもなく“切り捨て”ているかもしれない。
しかし私は彼らと同じ高座を見ていても、落語に挑む師匠の姿に感激し、
寄席で再び小柳枝師匠に“会えた”ことを無上の幸せと感じていました。

「私は小柳枝ファンであるからそう感じました」というだけの話ですが、
このような「思い入れ」を創る過程のことを人生というのかもしれません
(相変わらず言うことが大袈裟でお恥ずかしい限りですが……)。
私は「落語家・春風亭小柳枝」に思い入れを抱くような人間でよかったし、
これからも寄席でたくさんの「思い入れ」を創っていきたいと思います。
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