2017年02月09日

ぼくの好きな先生 ―ツヴェタン・トドロフが死んだ


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Tzvetan Todorov (1939 - 2017)


 もしも自分の人生に最も影響を与えた哲学者は誰かと問われれば、私の場合はツヴェタン・トドロフの名前を挙げるしかない。トドロフは1939年3月1日、社会主義時代のブルガリアに生まれた。全体主義体制の横暴と欺瞞に嫌気がさし、フランスへ渡ってパリ大学で文学博士号を取得する。記号学の研究や幻想文学の評論で世界的に知られる存在になったが、私にとってのトドロフとは歴史と思想史を読み解く哲学者のことであった。

 私が初めて接したトドロフの著作は『悪の記憶・善の誘惑 20世紀から何を学ぶか』(法政大学出版局)である。世紀末を記念して出版されたこの本の中で、トドロフは「私たちは博学でなくても人間であることができる」というジャン=ジャック・ルソーの言葉を引用している。私はこの引用に感動を覚えた。ルソーのこの言葉を引用するトドロフは深い意味でヒューマニズムを理解しているように思えた。

 以来、私はトドロフの著作群に親しむようになる。「落書き帳」という別名でも知られる私の自習用ノートは、トドロフの著作からの引用と、記述の要約と、それらに対する私の感想で埋まっていった。そして驚くべきことに、今でも私は月に何回かはトドロフの著作をじっくりと読み直している。つまり何が言いたいのかというと、私にとってトドロフは唯一無二の「お気に入り」の思想家であり、我が親愛なる家庭教師であるということだ。

 そのトドロフが亡くなった。トドロフの死によって一つの時代が終わったなどと言うつもりはないが、2016年にナンシー・レーガンが亡くなったように、2017年にツヴェタン・トドロフが亡くなったことは私に印象的な効果をもたらす(この両名の訃報を並べるのはいささか奇妙だが)。私は今、崖っぷちに立たされたような心持ちでいる。これまでトドロフの著作を読むとき、私はトドロフが現役の思想家であるという事実に甘えていたのかもしれない。
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2016年09月03日

みつよしが選ぶ! 21世紀の偉大な映画ベストテン(予告編付き)


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 先日、イギリスの放送局BBCが「21世紀の偉大な映画ベスト100(The 21st Century's 100 greatest films)」を発表しました()。

 さすがに現在の私には100本を選ぶ気力も体力も知識もありませんが、昨年(2015年)10月にこのブログで公開した「これぞ傑作! 私の映画オールタイムベスト」が大好評だったことだし(?)、10本だけ選んでみました。

 題して、「みつよしが選ぶ! 21世紀の偉大な映画ベストテン」。
 10作品に順位はありません。原題のアルファベット順でご紹介します。
 なお、「これぞ傑作! 私の映画オールタイムベスト」で取り上げた『クリビアにおまかせ!』(2002年)と『監督・ばんざい!』(2007年)は除外しました。



<< The 21st Century's 10 greatest films >>


 ● 『21ジャンプストリート』 (2012年/米)
   監督:フィル・ロード&クリストファー・ミラー
   脚本:マイケル・バコール


 一時期流行った「ブロマンス映画」の延長線上にあると見せかけておきながら、そんな枠組みを笑いの力で軽く超越している。ちなみに、続編の『22ジャンプストリート』(2014年)も本作に勝るとも劣らない傑作。続編であることを逆手にとったギャグがメタになりすぎていなくて心地よい。



 ● 『ブルージャスミン』 (2013年/米)
   監督・脚本:ウディ・アレン


 自分は『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)で映画人生を締めくくるような人間じゃないんだぞ、とでも言うかのようにウディ・アレンが解き放った『ブルージャスミン』。悲劇と喜劇は紙一重どころかイコールであり、人生は征服しようとすべきものではなく寄り添うべきものなのだ。



 ● 『シカゴ』 (2002年/米)
   監督:ロブ・マーシャル
   脚本:ビル・コンドン / 作詞・作曲:ジョン・カンダー&フレッド・エッブ


 『雨に唄えば』(1952年)がミュージカル映画の歴史を変えた作品だとすれば、『シカゴ』は21世紀のミュージカル映画の在り方を示した作品だろう。カメラワークではなく編集で魅せる面白さ、「映画」としての完成度の高さ。天国のボブ・フォッシーもこの出来にはきっと満足なはず。



 ● 『ライラにお手あげ』 (2007年/米)
   監督:ピーター・ファレリー、ボビー・ファレリー
   脚本:スコット・アームストロング、レスリー・ディクソン
       ピーター・ファレリー、ボビー・ファレリー、ケヴィン・バーネット


 ファレリー兄弟はいつも私の期待を裏切らないが、『ライラにお手あげ』は格別の出来栄え。ニール・サイモン脚本の『ふたり自身』(1972年)を換骨奪胎し、自業自得の道を突き進む男をコミカルに描いている。人間を愛する兄弟だからこそ作ることのできたブラックコメディである。



 ● 『銀河ヒッチハイク・ガイド』 (2005年/英・米)
   監督:ガース・ジェニングス
   脚本:ダグラス・アダムス、キャリー・カークパトリック


 名作SF小説をついに映画化してしまった『銀河ヒッチハイク・ガイド』。イギリス人のシュールでシニカルなユーモアが炸裂している。そして、ラストシーンで流れる『さようなら、いままで魚をありがとう』のオーケストラの美しさよ――。ありきたりで奇跡的な毎日を生きていこう。



 ● 『J・エドガー』 (2011年/米)
   監督:クリント・イーストウッド
   脚本:ダスティン・ランス・ブラック


 私はこの作品をラヴストーリーとして観た。同性愛がとにもかくにも特別なものとして描かれがちな世界にあって、巨匠イーストウッドは一切の偏見を切り捨てる。同性同士だからといって鍵カッコ付きの「夫婦」や「カップル」には落とし込まない。イーストウッドの演出は実にたくましい。



 ● 『ライフ・アクアティック』 (2004年/米)
   監督:ウェス・アンダーソン
   脚本:ウェス・アンダーソン、ノア・バームバック


 ウェス・アンダーソン作品を観ると、まるで古きよき海外小説を読んだ後のようなカタルシスを得る。孤独で不器用で本当は優しい者たちが織り成す人間ドラマ。中でも『ライフ・アクアティック』はアートとコメディの要素を絶妙にかけ合わせ、生きることの真実に迫った名作だ。



 ● 『モンスターVSエイリアン』 (2009年/米)
   監督:ロブ・レターマン、コンラッド・ヴァーノン
   脚本:マヤ・フォーブス&ウォーリー・ウォロダースキー、
       ロブ・レターマン、ジョナサン・エイベル&グレン・バーガー


 このフルCGアニメ作品を楽しめるか否かが私にとっての「映画センス」の基準。女性の精神的自立や差別の理不尽を背景としながらも、説教くささを微塵も感じさせないところがありがたい。日本の怪獣映画へのオマージュも込められている。あくまでも娯楽性にこだわるドリームワークス魂に敬礼!



 ● 『ナポレオン・ダイナマイト』 (2004年/米)
   監督:ジャレッド・ヘス
   脚本:ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス


 かつてこれほどまでにダサくてイタい主人公がいただろうか。これまでに何度観たか分からないが、いつ観ても安心をくれる映画だ。一言で言うならば、この映画に出会えてよかった。ちなみに、この作品のリリース当初の邦題は『バス男』でございました(2013年に改題)。



 ● 『なんちゃって家族』 (2013年/米)
   監督:ローソン・マーシャル・サーバー
   脚本:ボブ・フィッシャー、スティーヴ・フェイバー、
       ショーン・アンダース、ジョン・モリス


 21世紀のアメコメ映画はつまらない、という私の偏見を見事に拭い去ってくれた作品。脚本が佳いのか、ジェイソン・サダイキスが佳いのか、ジェニファー・アニストンが佳いのか。たぶん、それぞれの佳さがちょうどいい具合に絡み合っているのだろう。素直になれない人間は愛らしい。



 ● 『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』 (2013年/英)
   監督:エドガー・ライト
   脚本:エドガー・ライト、サイモン・ペッグ


 映画史的には『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)、巷間では『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』(2007年)が秀作なのだろうが、個人的には本作を推したい。友情や人間性についての映画であり、自由や善悪二元論についての映画である。さすがはチャーチルの国、英国かな。


(2016年9月記)
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2015年10月16日

古典落語を改革した“天才”、8代目橘家圓蔵


(1992年収録)


 20歳ぐらいの時、京王井の頭線に乗りながら「天才とは誰か」を考えてみたことがあります。その時はとりあえず、日本人2名とアメリカ人2名の名前が思い浮かびました。その計4人のうちの1人が、他ならぬ8代目橘家圓蔵師匠です(念のため書いておくと圓蔵師匠は「日本人」のほうです)。もちろん、今でもその思いは変わりません。圓蔵師匠こそは「天才」と呼ぶにふさわしい落語家でした。

 「天才」を定義するのは難しいのですが、「秀才」が「天才」ではないことははっきりしています。圓蔵師匠の高座はスピーディーでありながらクスグリの密度が高く、努力を重ねることで披露できるようになるような高座ではありません。圓蔵師匠の落語――とりわけ8代目「圓蔵」襲名前後の録音――を聴いていると、脳の使われていない部分が覚醒してくるような気がします。この世に神が存在するとして、その話芸は神から贈られた天性のものだとしか説明できないのです。


 晩年の圓蔵師匠は『無精床』(髭を剃ってほしい客が奇妙な床屋に入ってしまうという噺で、前名の5代目「月の家円鏡」時代から圓蔵師匠の得意ネタだった)を演じることが多く、私が最後に生で聴いたネタも『無精床』でした。あれは2012年11月28日、江戸川区総合文化センターで開かれた『圓蔵一門寄席』でのこと。その頃の圓蔵師匠はもうすでに寄席の高座には上がらなくなっており、毎年恒例のこの会でも「落語」は演じずに「ご挨拶」だけを務める予定になっていました。

 ところが、本番で「事件」が起きました。詳しくはここでは繰り返しませんが(同日付のエントリはこちら)、驚いたことにその日、落語をやる予定ではなかった圓蔵師匠が『無精床』の口演を自ら強行したのです。結局、圓蔵師匠は噺の途中で言葉が詰まり、お弟子さんたちが上手い具合に「じゃあ師匠、ここらで大喜利のコーナーに移りましょう」と引き取ったのですが、この「事件」を通して、私は圓蔵師匠の「落語家」としてのプライドを痛感させられました。


 生前、圓蔵師匠は『火焔太鼓』『寝床』『反対俥』『堀の内』『湯屋番』などの古典落語を爽快なまでにぶっ壊しました。圓蔵師匠の凄いところは、「破壊者」である以上に「創造者」であったところです。古典落語の世界をあえて更地にした上で、シュールでナンセンスで独創的なクスグリを、TGV(超高速列車)を思わせる歯切れのよい語り口で次々と繰り出していく――。こんなことを成し遂げた落語家は、後にも先にも圓蔵師匠しかいません。

 ナンセンスなクスグリ満載の「圓蔵落語」は、立川談志師匠が追求していた「イリュージョン落語」とも相通ずるところがあります。クセのある「イリュージョン落語」は一部の談志ファン(私を含む)にしか通用しませんでしたが、「圓蔵落語」のほうは、新宿や上野、浅草や池袋などの寄席の客を最後まで湧かせ続けました。あれほど談志師匠が苦戦した「イリュージョン」を、圓蔵師匠は日々の寄席で大衆に向けて実践し、しかも「成功」させていたのです。

 圓蔵師匠は、初代林家三平師匠のように漫談(スタンダップコメディ)的な笑いを繰り広げるのではなく、桂米丸師匠や春風亭柳昇師匠のように新作落語で攻めるのでもなく、あくまでも「古典落語」という枠組みの中に留まりながら、大衆が楽しめる高座を展開しました。談志師匠を「落語界の革命児」だとするならば、圓蔵師匠は古典落語に「聖域なき構造改革」を施した改革者だと言えるでしょう。


<おすすめ音源>

 8代目「圓蔵」襲名前後の高座を収録したカセットテープ『傑作ライヴ』全3巻(1984年、ビクター)には、『道具屋』や『堀の内』など「圓蔵落語」を代表するメタでナンセンスな傑作が収められています。しかし、これらのテープはさすがに現在では市販されていません(CD盤での再販熱望!)。

 奇しくも来月(2015年11月)発売されるNHK落語名人選100 (74)(ユニバーサルミュージック)には『鰻の幇間』『猫と金魚』、同(75)には『寝床』が収録予定です。中でもこの『猫と金魚』は9分1秒の小品でありながら「圓蔵落語」のエッセンスが詰まった好演で、落語初心者の人にもおすすめの一席となっています。
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