2018年09月10日

“ブロードウェイの喜劇王” ニール・サイモンの“おかしな作品”たち


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 芝居を書くたびに、だんだんはっきりしてきたのは、私の作品に劇評家が求めているのはシリアスなコメディだということだ。シリアスなコメディとは矛盾した表現だが、私は文句なく納得した。《ザ・ニューハウス》新聞のウィリアム・レイディ氏が、これこそ私の意図したものだろうと察してくれた。「この芝居には笑いプラス・アルファがある。これこそサイモン氏が長い間捜し求めていたものだ」
── 『書いては書き直し ニール・サイモン自伝』 (酒井洋子訳、早川書房) p.372


 2018年8月26日、「ブロードウェイの喜劇王」とも呼ばれた劇作家のニール・サイモンが肺炎の合併症のため亡くなった。

 メル・ブルックスを崇拝してきた私にとって、ニール・サイモンの作品は『メル・ブルックス 珍説世界史PARTT』(1981年)や『スペースボール』(1987年)ほど慣れ親しんできたものではない。しかし、ジェイムズ・サーバー短編集の愛読者でもある私がサイモンの作品を嫌いなはずはない。
 そもそもの話、ブルックスとサイモンは、1950年代にシド・シーザー主演のコメディ=バラエティ番組『ユア・ショウ・オブ・ショウズ』(NBC)のコント作家として“同じ釜の飯”を食った間柄なのだ。サイモンの信奉者を自称するつもりはないとはいえ、私にも彼や彼の作品に対する若干の思い入れはある。そこで本稿では、私が特に好きなサイモン作品を記録しておきたい。




 ◆ “サイモン作品” 我が十選

 とにかく多作の人だった。テレビのコメディ=バラエティ番組の作家などを経て、1961年にブロードウェイの劇作家としてデビューしたニール・サイモンは、32本の戯曲、26本の映画脚本(うち自身の戯曲の映画化が14作、原作不在のオリジナル映画が12作)、8本のテレビ映画脚本(いずれも自身の戯曲の映像化)を執筆した。私の特に好きなサイモン作品は以下の通りである(発表年順)。


 ● 『おかしな夫婦』 (1970年) [オリジナル映画]

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 あらすじはこうだ。オハイオ州のサラリーマン夫婦がニューヨーク行きの飛行機に乗る。明朝9時に夫の栄転を賭けた面接が行われるためである。しかし、夫婦の乗った飛行機は悪天候のためなかなか着陸できない。やむなくボストンの空港に降り立つも、航空会社に預けたはずの荷物が届いていない。
 どうにか最終列車に乗って(ここでもいくつかのドタバタがある)ニューヨークに到着するも、ストライキのためバスは動いていない。ホテルの予約は遅延のためキャンセルされている。「空き宿を案内する」と話す親切な男についていくと拳銃を突き付けられ、財布を丸ごと盗まれてしまう。こんなのは序の口で……。
 まるで喜劇映画の教科書のような作品である。「物事が思い通りに運ばない」「選択が裏目に出る」という喜劇の鉄則を最後まで貫き、しかも何一つギャグが重複していないのだから惚れ惚れする。ある意味では、この作品こそは完璧な喜劇映画だと称えまいか。ジャック・レモンの演技が冴えわたり、クインシー・ジョーンズの音楽もキマりまくる、笑いあり笑いありの“単なる”コメディ映画だ。



 ● 『二番街の囚人』 (1971年)

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 「私は相変わらず喜劇を書きたかったが、それに暗いトーンを加えたくなったのである。幸せが一瞬のうちに苦悩に変わるようなこと。真夜中の二時、絶望的な惨事を知らせる電話で安らかな眠りが一瞬のうちに破れるようなこと。(中略) 自分にだけは起きないと思っているようなことが書きたかった」。
 これはサイモンが40歳の誕生日直前を回想して綴った文章だが、まさに本作も「暗いトーン」を孕んだスリリングな悲喜劇と言えよう。ニューヨークの高層アパートに住む中年夫婦。外は暑いが、室内は冷房のせいで寒すぎる。まもなく夫が会社をリストラされる。自宅には泥棒が入る。夫婦喧嘩は階上の住人との怒鳴り合いに発展し、夫は頭上から水を被せられる。夫はやがて精神を病む。
 あらすじだけを読むと気分が重くなるが、サイモンは本作をあくまでもダークコメディとして成立させている。不条理な悲劇の中身を追求することで、そこに喜劇性を見出すのだ。やや荒削りの感は否めないものの、全体的に勢いがあって笑える台詞も多い。幕切れは観客に静かなカタルシスをもたらすだろう。



 ● 『ふたり自身』 (1972年) [オリジナル映画]

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 「映画は私の職人芸」と語っていたサイモンだが、決して脚本を安売りしていたわけではない。脚本を書き下ろしたオリジナル映画作品の多くは、舞台で彼と協働した経験を持つ演出家が監督を務めている。自分の脚本がどのように調理されるのかについて一定の安心感を抱いていたからこそ、「本をわたせば後はしばしば監督任せにして、最低限の関わりしか持た」ずに済んだのだろう。
 『二番街の囚人』と並ぶ“問題作”である本作も、サイモンの名パートナーであるマイク・ニコルズと長年お笑いコンビを組んできたエレイン・メイが監督を務め、初期サイモン作品で音楽を手がけたサイ・コールマンがテーマ曲を作曲した。
 ブルース・ジェイ・フリードマンの小説が原作だが、新婚旅行先で真の“運命の人”に出会ってしまうという筋書きは実にサイモン作品らしい。前半では新郎(チャールズ・グローディン)が新婦(ジーニー・バーリン)を疎ましがる様子がコミカルに描かれ、後半では新郎の暴走がシニカルに示され、ラストシーンでついにブラックユーモアは絶頂を迎える。人生の痛烈な現実を切り取った名作である。



 ● 『名医先生』 (1973年)

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 この戯曲を初めて読んだ時は興奮した。あまりにも面白かったからだ。もともと私は『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』(1972年)や『メル・ブルックス 珍説世界史PARTT』(1981年)のようなオムニバスコント作品を偏愛する傾向にあるのだが、本作を構成する9つのスケッチもいずれも風刺が利いていて目を見張った。
 アントン・チェーホフの短編小説群が原作なのだから面白くて当然だが、舞台化に際してサイモン流の味付けもしっかりと施されている。とはいえ最終的には両者の「シリアスなコメディ」的作風の類似を痛感させられ、結局のところ、本作はサイモンがチェーホフの正統な後継者であることを雄弁に物語ってもいる。
 初演時には合計24人の登場人物を5名の役者が演じ分けた。これは北野武の『監督・ばんざい!』(2007年)でも採用されたオムニバスコント作品ならではの妙手である。世界線が異なる各スケッチに同一の役者が登場することでメタフィクション性が高まり、作品全体に「笑いプラス・アルファ」の趣きが生じるのだ。



 ● 『名探偵登場』 (1976年) [オリジナル映画]

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 遊び心いっぱいのシチュエーションコメディである。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(1939年)よろしく“名探偵”たちが豪邸に招集されるが、彼らはサム・スペードやミス・マープル、エルキュール・ポアロらのパロディなのだ。それでいて本作は品位を失わず、ウェルメイドな喜劇として光り輝いている。
 本作が“B級映画”にならなかった最大の理由は(私は“B級コメディ”のこともこよなく愛しているのだが)、ブロードウェイでサイモンと組んできたロバート・ムーアが監督を務めたからだろう。ムーアはシチュエーションコメディも“B級コメディ”も撮れる監督であり、作品ごとに異なる脚本の狙いをきちんと心得ていた。
 本作の愉しさはキャスト陣の好演を抜きにしても語れない。得意の扮装で中国人探偵になり切るピーター・セラーズ、『プロデューサーズ』(1968年)に続き怪演を見せるエステル・ウィンウッド、そして唯一無二の名優アレック・ギネスといった玄人好みの面々がワールドワイドな登場人物を活き活きと演じている。その光景はさながら“小粋な喜劇俳優”の国際博覧会のようでもある。



 ● 『名探偵再登場』 (1978年) [オリジナル映画]

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 スタッフとキャストの大部分が共通しているが(なおかつ邦題も紛らわしいが)、『名探偵登場』と内容的なつながりはない。本作はメル・ブルックス作品や後年のZAZ(ザッカー兄弟&ジム・エイブラハムズ)作品を彷彿とさせる“ギャグ映画”である。出演者の顔ぶれも、マデリーン・カーンやドム・デルイーズといった“ブルックス組”の面々に加え、サイモンがかつてテレビ番組の作家として仕えていたシド・シーザーやフィル・シルヴァーズなど、“B級コメディ”色が濃厚だ。
 サイモン作品らしい状況喜劇的な笑いも含まれてはいるが、もはや本作は“仕掛けのギャグ”連発のサイモン版『裸の銃を持つ男』(1988年)と呼んでしまったほうがいい(時系列的にはその逆なのだが)。この映画を初めて観た時、私は「サイモンはこんな脚本も書けるのか」と驚いた記憶がある。
 ただし、正体不明の女(カーン)が私立探偵のルー・ペキンポー(ピーター・フォーク)から名前を聞かれてある人物の名前を口走るという“大オチ”は、ブルックスともZAZトリオとも違う、実にサイモンらしい小洒落たギャグだった。



 ● 『昔みたい』 (1980年) [オリジナル映画]

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 脅されて銀行強盗の片棒を担がされる作家(チェヴィー・チェイス)、その作家とかつて交際していた公選弁護人(ゴールディ・ホーン)、その夫である地方検事(チャールズ・グローディン)の偶発的“三角関係”がこの映画のコンテントだ。
 冒頭からテンポよく物語が進行し、チェイスお得意のスラップスティックあり、登場人物がベッドの下に隠れるといった古典的シチュエーションコメディありで、観る者を十分に楽しませてくれる。個性的な脇役の応用法もプレストン・スタージェス作品並みにソツがなく、主人公夫妻が犬をたくさん飼っているというギャグ的な設定までもがちょっとした伏線になっているのには恐れ入った。
 ターナー・クラシック・ムービーズの解説によると、サイモンはケーリー・グラント主演の『希望の降る街』(1942年)から本作の構想を得たらしい。1940年代のスクリューボールコメディの空気感を現代(といっても40年近く前だが)に復活させた本作は、メインキャラクターを演じた3名のコメディ役者のおかげもあって、清潔かつハートフルなコメディ映画として今なお大衆に愛されている。



 ● 『スティーブ・マーティンのロンリー・ガイ』 (1983年) [オリジナル映画]

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 『ふたり自身』に続きフリードマンの原作をサイモンが“移植”した作品だが、脚本としてクレジットされているのは、テレビのバラエティ番組やシットコムの台本を書いてきたエド・ワインバーガー&スタン・ダニエルズのコンビである。
 サイモンが本作で果たした役割はさしずめ“翻案”程度に留まるのだろうが(他の映画作品と違って本作には「Neil Simon's」という冠が付いておらず、自伝でも本作は一切言及されていない)、「捨てられる」ことへの恐怖がテーマだったり、酒井洋子が言うところの「痛み」や「共感」に満ちていたり、ギャグが決して下品ではなかったりと、本作からはたしかにサイモンの“香り”がする。
 サイモンを敬愛する誠実な脚本家コンビが“サイモン風”の作品を仕上げたというのが正確なところだろうが、サイモンの貢献の度合いにかかわらず、本作が一個の作品として傑作であることに変わりはない。スティーヴ・マーティンとチャールズ・グローディンの好演はもとより、心理学者:ジョイス・ブラザーズ博士(本人役)の存在を見事に活用したドラマ映画としても特筆に値する。



 ● 『ビロクシー・ブルース』 (1985年)

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 私が最も好きなサイモンの作品かもしれない。第二次大戦下、ミシシッピー州ビロクシーの新兵訓練所での青年たちの物語である。といっても、本作は単純な“軍隊コメディ”でも“戦争ドラマ”でもない。あえてジャンル分けするなら“喜劇”となるだろうが、そう割り切るにはいささかビターである。まさに本作は、喜劇も悲劇も超越したサイモン流の“青春シリアス・コメディ”となっている。
 露骨な下ネタも少なくないが、序盤から性的な会話が散りばめられているおかげで、観客は第二幕での“フェラチオ”をめぐるシリアスな展開を自然に受け入れることができる。サイモンは実にしたたかな劇作家だと称えよう。
 とともに、やはり気になるのはヘネシーという登場人物の位置付けである。この常識的な青年は、結局は主役5人組のうちの“第6の男”でしかない。ネタバレになるので詳しくは書かないが、作者は劇的なドラマで観客を動揺させることを意図的に避け、観客が登場人物に感情移入しすぎないように仕向けているのだ。それゆえに様々な効果が生み出されるのだが、解説するには紙幅が足りない。



 ● 『ロスト・イン・ヨンカーズ』 (1991年)

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 第二次大戦中のお話。母親を亡くした15歳と13歳の兄弟は、父親が出稼ぎに出るあいだ、ニューヨーク州ヨンカーズにある父方の実家へ預けられる。そこでは母(すなわち兄弟の祖母)とその末娘(すなわち兄弟の叔母)が今なお洋菓子店を営んでいる。祖母は厳しいどころか恐ろしく、叔母は知能が年相応ではない。
 こんな薄暗い設定から始まるにもかかわらず、本作はサイモン作品の中でもとびきり感動的な作品だ。もちろん、本作は衝撃的な展開で観客を泣かせにいくような作品ではない。むしろその逆で、この作品は(というよりもサイモンの作品は総じて)深いけれども重くはない。テーマを大上段に構えることなく、登場人物たちの会話を豊かに積み重ね、観客の心を少しずつほぐしていくのだ。
 サイモンはこの作品で念願だったピューリッツァー賞を受賞した。この作品には名場面がいくつもあるが、ベラ叔母さんが少年たちにアイスクリームを振る舞おうとしたり、子どものころに自宅のアイスクリームを盗み食いしていたことをルイ叔父さんが懐かしんだりするような場面こそが、私には印象に残っている。



 ● 『23階の笑い』 (1993年)

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 1950年代、劇作家デビューを果たす前のサイモンは、コメディ番組『ユア・ショウ・オブ・ショウズ』(NBC)のコント作家として働いていた。この番組では若き日のメル・ブルックス、カール・ライナー、マイケル・スチュワート、ラリー・ゲルバート、ウディ・アレンらも、テレビ局内の一室で賑々しくコントの台本を書いていた。錚々たる面々が“同じ釜の飯”を食って修業時代を送っていたのである。
 アメリカンコメディ版“トキワ荘”の実態を当事者が(虚実ないまぜにして)暴いた本作は、私のような“コメディ狂”にとってはそれだけで歴史的価値があるが、もちろん本作は一本の演劇作品としても素晴らしい。冒頭からウイットに富むコミカルな掛け合いが続く一方で、すべての物事には始まりがあれば終わりもあるという人生の(おそらくは唯一の)真実を浮き彫りにしている。
 劇中ではマッカーシズム(赤狩り)の存在が底流しているものの、それはモチーフとして表れるに留まり、決して物語は“社会派”には成り上がらない。この戯曲はサイモン作品と政治的・社会的問題の関係を象徴する一本でもあろう。




 ◆ “戦友”たちからの悼む声

 現代の演劇界を代表する「ブロードウェイの喜劇王」の訃報を受けて、青春時代の“戦友”だった(そして今や極めて数少ない“生存者”である)カール・ライナーとメル・ブルックスは、Twitterに哀悼のコメントを投稿した。


 両者ともサイモンが多作だったことを真っ先に評価しているのが興味深い。実際、喜劇作家であることを基本としながら、これほど幅広いジャンルの作品を手がけたブロードウェイの劇作家は他に類を見ない。かつて立川談志は“天才”の条件として「質と量」を定義したが(そして談志はレオナルド・ダ・ヴィンチと手塚治虫の名前を挙げるのだった)、その基準に従えば、多種多様な秀作を発表し続けたサイモンも「真の天才」(カール・ライナー)と呼ぶにふさわしい。

 私は誰からも頼まれていないのに「好きなサイモン作品」を10作選んでみたわけだが、やはりその劇作領域の広さには感心させられた。もっとも、上記10作は私の好みで選んだものにすぎないので、「なぜおかしな二人(1965年)が入っていないのか」「笑劇が好きならば噂−ファルス(1988年)を選ぶべきだろう」などといったクレームや抗議の電話はご容赦願いたい。人間の嗜好はかなり繊細なもので、“好き”と“嫌いではない”には本質的な違いがあるのだ。

 さて、ここでは挙げなかったものの、私がとても大好きなサイモンの“作品”がもう二つある。それは書いては書き直し ニール・サイモン自伝(早川書房)と『第二幕 ニール・サイモン自伝2』(同社)だ。おなじみの酒井洋子による翻訳の美しさも手伝って、面白くて読み応えのある自伝となっている。かつてコント台本を提供したジェリー・ルイスとの逸話に始まって、『昔みたい』の脚本を書いた記憶が欠落していることなど、本人にしか書けない率直な記述が目白押しである。

 余談ながら、私が最も気になっているサイモンの作品はGod's Favorite(1974年)という戯曲だ。未邦訳の作品だが、私は『第二幕』を読んでその存在を知った。以来、この作品こそが私の演出すべきサイモン作品ではないかと勝手に思い込んでいる。高級住宅地に暮らす一家が信仰心を試されるというブラックコメディが日本でヒットしそうな気配はないが(ブロードウェイ初演も約3か月で打ち切られている)、いつか手がけてみたい作品ではある。

(文中敬称略)
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2018年07月14日

“枯れた芸なんぞなりたくない” 私が聴いた「桂歌丸」


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 2018年7月11日、私は妙蓮寺で営まれた桂歌丸師匠の告別式に参列し、献花台に別れの花を手向けた。訃報に接してからしばらくは歌丸師匠の死を実感できずにいたが、不思議なもので、お寺の境内に入ると「ああ、歌丸師匠は本当に亡くなってしまったんだな」という思いが沸々とこみ上げてきた。ここ数年は入退院を繰り返していた師匠だから、またしばらくすれば高座へ復帰するのではないかと疑いつつも、私は徐々に歌丸師匠の死と向き合おうとしている。

 ここで私が歌丸師匠の生い立ちを紹介する必要はないだろう。生前中からテレビや新聞などで度々紹介されていたし、『歌丸 極上人生』(山本進編集協力、祥伝社黄金文庫)という決定版の半生記もある。だから、私はここでは「私が聴いた歌丸」の雑感を書き連ねることに終始したい。桂歌丸という“闘う名人”への思い入れのほんの一片を書き残そうと思うのだ。もっとも、そんなものを一体誰が読むのかという難題についてはあらかじめ棚上げしておくことにする。



 ◆ 滑稽噺の歌丸

 私が初めて歌丸師匠の落語を生で聴いたのは、2010年1月のことである。幼少時代からの友人を誘い、落語芸術協会(芸協)が興行する新宿末廣亭の正月初席へ向かったのだ。2004年から芸協会長を務めていた歌丸師匠は、新宿末廣亭初席第二部の主任(トリ)を2017年まで任されていた(2018年は体調不良のため全休を余儀なくされた)。2010年1月5日──私たちが聴きに行った日の歌丸師匠の演目は『鍋草履』。ある芝居小屋の客席を舞台にした滑稽噺である。

 のちに私は『鍋草履』が歌丸師匠の中堅時代からの十八番であること、最初の師匠・5代目古今亭今輔から「歌舞伎を観て芸を学びなさい」と言われて前座時代から歌舞伎座に通った歌丸師匠の経験が活かされた噺であることなどを知ることになるのだが、その日の私にとってはそもそも歌丸師匠を生で聴いたことが最大の“感想”であり、日記には「マクラが最高にブラック」だったことと、噺の最中に鳴った携帯電話の着信音を笑いに変えたことへの感動が記されている。

 その年以来、私は毎年正月になると、件の友人とともに新宿末廣亭へ歌丸師匠を聴きに行った。奇遇にも私たちが聴きに行く日の歌丸師匠の演目は、いつも『鍋草履』だった。私たちは「また今年も『鍋草履』かもね」と談笑しながら新宿三丁目へ向かい、「また今年も『鍋草履』だったね」と談笑しながら新宿三丁目を去り、例年のように『鍋草履』を聴けたことに安心感を覚えたものである。期待を裏切らないマンネリズムは精神の安定に必要なものなのだ。

 『鍋草履』は、春風亭の先生(先々代柳橋)にいただいたもの。「やりたいんです」って頼んだら、「NHKにオレの録音があるぞ」って。
 八四年六月、紀伊國屋寄席に初出演したときにやりましたね。歌舞伎見物のエピソードって感じで、噺自体が短いから、寄席で時間のないときには最適です。たまに気が向くと、芝居のまくらをたっぷりふったりして、遊ばせてもらう。珍しくて、伸縮自在。あたし好みのネタですよ。
── 桂歌丸 『恩返し 不死鳥ひとり語り』 (長井好弘編、中央公論新社) p.159

 正月初席に加えて、歌丸師匠は新宿末廣亭では5月上席昼の部でも主任を勤めていた。私がその興行で聴いた噺の一つ『火焔太鼓』は「5代目古今亭志ん生師匠の型通りに演じている」とのことだったが、志ん生版と歌丸版とではだいぶ印象が違う。志ん生版が天衣無縫の一席だったのに対し、歌丸版では高座への真剣な姿勢こそが噺の愉しさを引き出していたのだ。志ん生が“ボケ”の話芸だったとすれば、歌丸師匠は“ツッコミ”の話芸だったと言っていい。

 フラが尊重される落語界で、“ツッコミ”系を貫いて成功した噺家は少ない。「作品派」の巨匠とされる8代目桂文楽や6代目三遊亭圓生にしても、天然ボケとでも呼ぶべき一面が愛嬌となってファンを固めていた。歌丸師匠の最初の師匠・5代目今輔は純然たる“ツッコミ”系だったが、その“ツッコミ”系特有の闘争精神は新作落語では功をなすとしても、古典落語では江戸の情緒を損なう足枷になりかねない。誤解を恐れず申せば、歌丸師匠の高座に一瞬たりとも隙はなかった。

 いまになって振り返れば、高座の上での歌丸師匠は『笑点』(日本テレビ)でのイメージとは若干異なり、一種の“凄み”を利かせていたように思う。その話芸は決して客を置き去りにするものではないが、決して客に媚びるものでもない。歌丸師匠は生前、「お客さまを『笑わせる』のではなくお客さまに『笑っていただく』のが噺家の務め」とよく話していたが、一回一回の高座を客との真剣勝負だと認識していたからこそ、逆説的にそう主張していたのではないだろうか。



 ◆ 「圓朝噺」の歌丸

 新宿末廣亭のみならず、歌丸師匠は国立演芸場の8月中席と4月中席でも長きに亘って主任を勤めた。これらの興行では近代落語の祖・初代三遊亭圓朝の作品が口演されることが多く(逆にほかの定席で歌丸師匠が「圓朝噺」を口演することは皆無に等しかった)、私が国立演芸場で初めて聴いた歌丸師匠の演目も圓朝作の三題噺とされる『鰍沢』だった。私はこの『鰍沢』にえらく感動し、2013年4月20日の日記には「美しさの上に怖さが乗っかっていた」などと記している。

 晩年の歌丸師匠は「圓朝噺」の名手として名を馳せたが、私がまず言及したいのは、歌丸師匠が圓朝作品の名編集者だったということである。歌丸師匠は長大な『三遊亭圓朝全集』を紐解いて、複雑に入り組んだ人間関係を整理し、凄絶な叙事詩として物語をまとめ上げた。圓朝が二葉亭四迷の『浮雲』に直接的な影響を与えた言文一致小説の先駆者だったことを考えれば、圓朝作品を立派に改編したその業績は日本文学史上の偉業と評すべきだろう。

 本筋と直接関係のない部分を大胆にカットし、表現に関しては現代の客に通じる言葉に置き換える。ただし、「あんぽつ」などの変えてはならない古典的な表現は保ち、絶妙な塩梅で“解説”を挿入する──。圓朝作品への深い理解と天才的な編集センスがなければ、このような改編作業は成就しようがない。歌丸師匠はしかも、『真景累ヶ淵』や『牡丹灯籠』を一旦改編し終えた後も現状に満足せず、編集者の性とでも言うべきか、最晩年まで物語の再々構築に挑み続けた。

 平成八年のときは、『豊志賀』のところはみなさんおやりになってるし、あまり筋に関係がないからいいだろうとやらなかったんですが、しばらく経って『豊志賀』だけをやってみましたら、どうも発端抜きでお喋りをしているようで何だか中途半端なんですね。それに『宗悦殺し』をやってないと人物がうまく繋がらないことに気付きまして、じゃあ思い切って最初の『宗悦殺し』からやり直そうと、タイトルも「語り直して三遊亭圓朝作 怪談真景累ヶ淵」としまして、平成二十三年からでしたか再スタートさせました。
── 桂歌丸 『歌丸 極上人生』 (山本進編集協力、祥伝社黄金文庫) p.151

 編集者としての功績とともに言及しなければならないのは、自らの手による“編集版”を見事に演じた演者としての技芸についてである。私は国立演芸場で歌丸版「圓朝噺」をいくつも聴いたが、それらはいずれも「鬼気迫る」とでも形容すべき高座であり、語り口は端正でありながらも、その中身は静かな迫力に満ちていた。あの華奢な身体からは想像もつかない“勢い”と気迫のある話芸──とりわけ冷酷な悪女の描写に、私は畏怖の念を抱いたほどである。

 歌丸師匠が「圓朝噺」のよき演じ手だったのは、当人の出生地とも無縁ではないだろう。横浜出身であるがゆえに江戸弁ではなく「美しい日本語」を使うことにこだわった歌丸師匠は、“立て板に水”で噺を展開する必要性に縛られず、“物語”をじっくり聴かせる語り部=ストーリーテラーとして本領を発揮することができた。迫真の話芸は独自の芸術だったとはいえ、歌丸師匠は“物語中の物語”である圓朝作品を演じるために最適な話法をそもそも採用していたと考えられる。

 むろん、同じストーリーテリングといっても、落語と朗読は「目の前の客をどう意識するか」という点で性質が異なる。演芸家の歌丸師匠は「圓朝噺」をシリアスなドラマに終始させず、悪党が登場する場面で「あいつ、(6代目三遊亭)円楽みたいな顔をしているぞ」といったクスグリを挿んだり、濡れ場では「本当はみっちり喋りたいところだが」と地で語ったりして、長講を聴く客の集中を途切れさせないように工夫していた。まさしく「緊張と緩和」の技術を駆使した貫録の話芸だった。



 ◆ “珍品”の歌丸

 持ちネタに珍品が多かったという側面にも触れないわけにはいかない。私が生で聴いた中でも『おすわどん』や『城木屋』は普段の寄席ではまず聴くことのない噺である。私が最も多く聴いた歌丸師匠の演目である『鍋草履』にしたって、歌丸一門の総領弟子・桂歌春師匠が演じているのを聴いたことがある程度だ。歌丸師匠はこれらの珍品を「古い落語本」から掘り起こすことが多かった。今日の落語家の中に、文献を漁ってネタ探しをしている勉強家はどれほどいるだろうか。

 『おすわどん』は、落語の古い本を読んで見つけた噺。サゲに惚れこみました。 (中略) さらりと終わる、このサゲがいい。ただ、元の噺は前半が陰惨すぎる、どうも暗い感じがするというので、手を入れました。 (中略)
 あちこち直して高座にかけたら、いつだったか、名古屋の放送局での録音の時に圓楽さん(引用者注:5代目三遊亭圓楽)が聞いて「オレにくれよ」と言ってきました。「いいですよ、代わりに何か圓楽さんのネタをください」と言って『城木屋』と取り替えっこしたんです。
── 桂歌丸 『歌丸ばなし』 (ポプラ社) p.71-72

 歌丸師匠は生前、埋もれた噺を掘り起こす理由について問われると、「誰もやっていない噺をやれば他の演者と比べられることもないし、間違えてもお客さんに気付かれる心配がない」と説明していたが、根っからの編集者気質を備えていたことに加え、5代目今輔門下で新作落語のアプローチに馴染んでいたからこそ、復活させる噺の選定と改変ができたのだろう。珍品の掘り起こしと改変作業の経験が、のちの「圓朝噺」の改編にも役立ったであろうことは想像に難くない。

 「誰もやらない」という噺には、それなりの「やらない」理由ってのがあるんです。もう噺自体が時代遅れになっちゃって、今の観客には分かりにくい部分が多い。そのまま演じたら、面白くも何ともないんです。
 だから、かなりの手直しが必要になる。噺をいったんバラバラにして、一から組み立て直し、必要なら新しいサゲも考える。 (中略)
 古い噺の復活には、新作を一本作るぐらいの手間がかかるんですよ。
── 桂歌丸 『恩返し 不死鳥ひとり語り』 (長井好弘編、中央公論新社) p.157-158

 『後生鰻』もまた、最近の寄席では滅多にかけられることのない珍品の部類に入るだろう。古くは5代目志ん生の口演が有名だが、歌丸版はサゲが独自にアレンジされている。結果として「それなりの『やらない』理由」が解消され、現代の客にも通じる滑稽噺へと生まれ変わっているのだから、お見事としか言いようがない。歌丸版『後生鰻』は落語史に残る名改作であり、歌丸師匠の編集者としての才覚と技術の高さを端的に象徴する一席と言えよう。

 古い噺を大胆にアレンジする一方で、歌丸師匠は従来の型通りに噺を演じることもあった。『火焔太鼓』については「志ん生師匠のクスグリを変える気にはならない」と話していたし、『厩火事』についても8代目文楽の型通りに演じていた。滑稽噺にしても「圓朝噺」にしても、歌丸師匠は現代の客を“古典落語によって”愉しませるために改作していたのであって、決して改作自体が目的ではなかったのだ。いわば歌丸師匠は「改革保守」派であって、革新主義者ではなかった。

 とりわけ『紺屋高尾』はその「改革保守」ぶりがよく表れている一席だ。基本的には6代目圓生―5代目圓楽の型に忠実でありながら、独自の美しい文句を織り込んだり、合間に「今の言葉で言うと」などと注釈を挿んだり、江戸落語には珍しくハメモノを入れたりして、歌丸師匠ならではの廓噺に仕上げている。私はこの噺を我が大田区民プラザでの独演会で聴くことができた。あの艶っぽくて、清らかで、奥深くて、軽やかな名演を聴くことのできた私は、つくづく幸せ者だと思う。

 

 ◆ 闘う名人、歌丸

 今年(2018年)4月の国立演芸場中席が、私にとって歌丸師匠の落語を生で聴く最後の機会となり、歌丸師匠にとっても生前最後の高座となった。この時にネタ出しされていた演目は1980年初演の『小間物屋政談』で、私は4月15日の日記に「テンポはどうしても遅くなるが、その口跡は極めて明瞭」「病に惑わされてたまるか──名人歌丸、圧巻の話芸だった」などと記録している。私自身、これが歌丸師匠の最後の寄席になるとは考えていなかった。

 私は歌丸師匠の高座にちょうど20回、立ち会うことができた。「20回しか」立ち会えなかったとも、「20回も」立ち会えたとも言える。最晩年の8年間、歌丸師匠の体調的には過酷を極める時期にほかならなかったはずだが、客席から拝見する限り、私はただの一度たりとも歌丸師匠の高座から「辛さ」や「苦しさ」「弱さ」を感じたことはない。むしろ、その淡麗ながらも気迫のこもった話芸にいつも感嘆させられ、こちらがエネルギーをいただくことばかりだった。

 「よく『枯れた芸』って言うじゃないですか。アタシはどんどん新芽を伸ばし、葉を付け、花を咲かせ、実を持たせる。そういう勢いのあるものの方がいい。枯れた芸なんぞなりたくないですよ。枯れたもの見たってそんなの面白くもなんともない」。生前の取材でそう話していた通り、歌丸師匠は最後の高座に至るまで、“勢い”のある迫真の話芸で客を愉しませ続けた。滑稽噺も人情噺も「圓朝噺」も得意とする名人でありながら、今後ますますの成長可能性を常に感じさせられた。

 口演速記本の存在は名人上手であることの客観的証拠に値するが、歌丸師匠の場合は、昨年(2017年)11月に初の口演速記本『歌丸ばなし』(ポプラ社)、今年6月にその第2弾『芸は人なり、人生は笑いあり 歌丸ばなし2』(同社)が刊行されたばかりだった。さらに昨年8月の国立演芸場で「語り直して」と題して歌丸版『牡丹灯籠』の第一話が口演されていたことからも察せられるように、歌丸師匠自身もまだまだ高座を勤めていく決意であったに違いない。

 歌丸師匠はまさしく芸も人気もピークの状態で亡くなった。その絶頂期での死は私淑していた6代目圓生の最期を思わせなくもないが(歌丸師匠の生前最後となった高座での演目も、「圓生師匠の型を踏襲している」と話していた『小間物屋政談』だった)、営業先で突然死した圓生とは違って、晩年の歌丸師匠は壮絶な闘病生活を送りながら客の前で落語を演じ続けていた。酸素チューブを着けて高座に上がった落語家は後にも先にも歌丸師匠だけである。

 しかし、歌丸師匠は「病気なのに頑張っている姿」で客を感動させることは一度もなく、あくまでも古典落語の口演で客を感動させ続けた。その場の誰もが歌丸師匠の悲惨な体調を知りながら、その場の誰もがそんなことを忘れて歌丸師匠の話芸に惹きつけられた。こんな芸人はほかにはいない。いるはずがない。桂歌丸という“闘う名人”の高座に立ち会えたことは、我が人生の至上の財産である。──歌丸師匠、本当にお疲れ様でした。どうかゆっくりお休みください。


<私の「桂歌丸」鑑賞録>

 2010年1月5日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2010年4月10日 『おすわどん』 (大田区民ホール・アプリコ)
 2011年1月5日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2013年4月20日 『鰍沢』 (国立演芸場)
 2013年5月6日 『火焔太鼓』 (新宿末廣亭)
 2013年5月10日 『紺屋高尾』 (新宿末廣亭)
 2013年7月30日 『後生鰻』 (新宿末廣亭)
 2013年8月20日 『真景累ヶ淵 -お熊の懺悔-』 (国立演芸場)
 2013年9月25日 『後生鰻』 (文京シビックホール)
 2014年1月4日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2014年8月16日 『牡丹燈籠 -栗橋宿-』 (国立演芸場)
 2014年10月9日 『鍋草履』 『紺屋高尾』 (大田区民プラザ)
 2015年1月3日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2015年4月18日 『塩原多助 -青の別れ-』 (国立演芸場)
 2015年5月5日 『城木屋』 (新宿末廣亭)
 2015年8月15日 『怪談乳房榎』 (国立演芸場)
 2016年4月16日 『塩原多助 -出世噺-』 (国立演芸場)
 2016年8月13日 『江島屋怪談』 (国立演芸場)
 2017年8月13日 『牡丹燈籠 -お露新三郎 出逢い-』 (国立演芸場)
 2018年4月15日 『小間物屋政談』 (国立演芸場)

(文中一部敬称略)
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2018年02月17日

『サタデー・ナイト・ライブ』の“ミスター黒歴史” チャールズ・ロケット


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 現在も続くアメリカの人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』には、「黒歴史」とされているシーズンがある。そのシーズンでメインキャストを担わされていたのは、コメディアンでもなければ俳優でもない「普通の男」だった。



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“暗黒時代”に現れ、そして消えた男
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 立ち上げプロデューサーのローン・マイケルズが番組から離れていた1980年代前半のシーズン(第6〜第10シーズン)は、一般的に、NBCのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』にとっての「暗黒時代」とみなされている。とりわけ、それまでのスタッフや主演者の総入れ替えを余儀なくされた第6シーズン(1980年11月〜1981年4月)は視聴率も評判も最悪で、のちに大スターとなるエディ・マーフィが途中から番組に加入したことが唯一の慰めとされている。

 出演者を一新して臨まざるを得なかった第6シーズンで中心的役割を担わされたのが、実力派コメディアンでもなければ名の売れた俳優でもなく、ローカル局でキャスターを務めた経験があるだけの31歳の青年、チャールズ・ロケットだった。彼は多数のスケッチ(コント)でメインキャラクターを演じさせられたほか、『SNL』の看板コーナー『ウィークエンド・アップデート』のキャスター役にも起用され、視聴率が低迷する中でそのコメディ番組の先頭に立たされ続けた。

 1981年2月21日に放送されたスケッチで、ロケットは射殺されるキャラクターを演じる。そのキャラクターに扮したままエンディングトークに参加したロケットは、「射殺」された感想をその回のホストから問われ、「撃たれたのはこれが人生で初めてだよ。誰がこんなファックなことをしやがったのか知りたいね」と答えた。放送禁止用語がオンエアされたことが局内で問題となり、番組の早期リニューアルが決まった上、ロケットはシリーズ最終回を待たずして降板させられた。

 もっとも、前年の『SNL』で「ファック」という単語がオンエアされた際には騒ぎは起こっていなかったし、当時の『SNL』がテコ入れされるのは時間の問題だったから、ロケットの発言が番組リニューアルの「大義」として都合よく用いられた面は否定できない。いずれにせよ彼は、酷使された挙げ句、数か月ほどで番組をクビになり、その後はいくつかのテレビドラマや映画に俳優として参加したものの、これといった注目を浴びることもないまま、2005年10月に自ら命を絶った。



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「誰がチャールズ・ロケットを撃ったのか」
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 マンフレッド・ヨンと名乗る自称コメディ作家の男性は、「Medium」に投稿したコラムでロケットを回顧している。そのコラムは追悼文と呼ぶにはいささか内容がシビアだが、根本的にはロケットとコメディへの愛情に裏打ちされたものには違いないので、私のずさんな抄訳によってご紹介したい。この文章を必要とするどこかの誰かが目にすることを願いつつ。


── マンフレッド・ヨン / 2017年8月9日


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 私は第2のチャーリー・ロケットにはなりたくない。分かるだろ?
── フィル・ハートマン

 『サタデー・ナイト・ライブ』は多くの人気者を生み出すとともに、出演者たちに苦難をもたらしてきた。
 
 ある者は期待に応えることができず、ある者は露出を減らし、ある者は「舞台裏ではいやなやつ」と思われるようになった。どういうわけか、チャールズ・ロケットはこの3点すべてを背負うことになってしまった。

 もしも憐れむべきチャーリーの名前が知られているとすれば、そして真に理解されているわけではないとすれば、それは『サタデー・ナイト・ライブ』の番組内で「ファック」と発言してクビになった出演者としてのことだろう。彼はその単語を発した最初の人物でもなければ、唯一の人物でもない。しかし、ジェニー・スレイトやノーム・マクドナルドの場合とは異なり(訳者注:両者も『サタデー・ナイト・ライブ』のスケッチ内で「ファック」と発言したことがある)、彼のその発言は悪しき行為とみなされている。

 しかし、私は、彼のレガシーの部分を擁護しておきたい。



 チャールズ・ロケットは番組の暗黒時代におけるマシな存在だった

 1980年。『サタデー・ナイト・ライブ』の世界はぶち壊され、壊滅状態はその後も5シーズンに渡って続くことになる(訳者注:当時『サタデー・ナイト・ライブ』はプロデューサーの降板により体制を一新したが、結果として視聴率は下落した)。チェヴィー・チェイスが番組を降板した時は、ビル・マーレイがその穴を埋めることになった。その時、ビル・マーレイはチェヴィー・チェイスの穴を埋めることができた。それでは、すべての関係者が番組を降板したらどうなるだろうか。すべての者──すべての出演者(ビル・マーレイを含む)、ほとんどの脚本家、そしてローン・マイケルズが番組を降板したら、一体どのようにしてその穴を埋めればよいだろうか。その時に「チャールズ・ロケットを持ってこよう」となるだろうか。

 『サタデー・ナイト・ライブ』の名前と放送時間帯だけが残り、新レギュラーのギルバート・ゴットフリードは番組を「眺めのよいレストラン」と呼んだ。1980年度は番組史上最悪のシーズンとなったが、ロケットの存在は悪いことではなかった。




 チャールズ・ロケットはいつでもマシな存在だった

 その他の「最悪な」出演者候補であるデヴィッド・スペード、ロブ・シュナイダー、フィネッセ・ミッチェルと比較すれば、チャールズ・ロケットはマシな存在だといえる。小奇麗でキザな男が出てくるコメディに私が甘いことを差し引いても、私は彼を「優秀な」出演者と共演させたいと思うほどだ。


 ロケットは番組にものすごく貢献した人物ではなかった。彼はそのわずかな才能をもって、ちぐはぐながらも何とかして番組を続行させたのである。ロケットは幅広い演技の技術を持っていたわけでも、ユーモラスな動きができたわけでも、モノマネができたわけでもなかった。その上、彼は特に面白い人間だと思われてもいなかった。

 要点はお分かりだろうか。彼はウィットに富んでいたわけでも、アドリブができたわけでもなく、あなたの親友を大笑いさせるような存在でもなかった。もっとも、コメディの世界においても、ダイヤモンドの原石はそうそう埋まっているものではない。彼はただの男性だった。彼は「ザ・グラウンドリングス」の出身でも「セカンド・シティ」の出身でもなく、演劇ワークショップの出身者ですらない。イキのいいスタンダップコメディアンでもなければ、アンソニー・マイケル・ホールやロバート・ダウニー・Jr.のような若いスター俳優でもない。彼は短編映画とバンド活動に手を出したことがあるだけの「お天気お兄さん」だった(訳者注:ロケットはかつてローカル局でキャスターを担当していた)。彼は普通の男性であり、沈みかけた船に何とかしがみつき、手に入れた仕事をこなしただけである。

 何をやらせても面白みに欠ける人物は、いかにしてコメディ番組で自らの居場所を見出すべきだろうか。彼は1980年代初頭のニューヨークの街頭(寒くて、暗くて、薄汚い場所)に出向き、そこでのあれやこれやを、内容がどうであれ、『ロケット・リポート』と題してまとめた。



 『ロケット・リポート』


 何かに挑戦してみたところで、たいていはうまくいかないものだ。
── チャールズ・ロケット

 『ロケット・リポート』での彼は、フェリー乗り場で人々と会話を交わしたり、クリスマスを控えた買い物客のそばを歩いたりしている。路上で撮影しているといっても、わずか一つの通りが舞台となっているだけだ。


 彼らは人々から何か面白い反応を得ることができただろうか。──できなかった。彼らは何らかの課題を自らに課して撮影に臨んでいたのだろうか。──そういうわけではなかった。

 しかし、私は『ロケット・リポート』を完全なる失敗作とみなすつもりはない。彼はどうにかこうにか、死んだ馬をゴール手前のところまで持っていったのだから。


 彼がテレビで「ファック」と発言するまで、チャールズ・ロケットは虫の好かないやつだと思われることが多かった。そのような役柄を演じていたからである。ほとんどすべての視聴者がそのように思い込んでいたと言っても過言ではない。しかし、少なくとも『ロケット・リポート』を見る限り、実際の彼はそのような嫌味な男ではない。街中で街頭インタビューをしているリポーターのほとんどはカメラさえ回っていなければ殴りたくなるような連中ばかりだが、ロケットの場合はどこかチャーミングなところがある。通りすがりの人たちとかくれんぼに興じるその姿は、ジミー・ファロン(訳者注:現在のアメリカで好感度の高いコメディアン)とそうかけ離れてはいない。

 たとえハンサムな役柄を演じていても、彼は視聴者からハンサムなやつだと思われることもなければ、ハンサムなやつになれると思われてもいなかった。しかし、少なくともカメラの前において、彼は一生懸命に働き、確かなるチームプレイヤー兼セールスマンであり続けたのだ!


 驚くべきことに、彼は裸の姿で壁に貼り付けられ、滑稽な異常者役のデニー・ディロンから鞭で叩かれるというスケッチをやってのけた。この男、なかなか体を張っているではないか。

 そして時々、時々ではあるが、彼は金鉱を掘り当てた。


 このスケッチ(『Rocket Report: President Reagan』)は、のちのアーマンド・イヌアッチ作品を思わせるものではないだろうか。

 つつましげに申せば、このスケッチは、エディ・マーフィの出演した名作スケッチと遜色ない、現代の『サタデー・ナイト・ライブ』視聴者をも満足させられるスケッチである。まあ、たしかにそれは言い過ぎの感があるが、そう言えなくもないほどのものではあろう。




 チャールズ・ロケットは椅子にふんぞり返るクズ野郎ではなかった

 1980年度のシーズンが犯した過ちの一つは、過去5年間の栄光に固執してしまったことだ。


 1980年度の新レギュラーをお披露目するため、番組はオープニングスケッチでエリオット・グールドとともに新レギュラーを登場させ、「プライムタイムへの準備が整っていない出演者たち」と紹介した。もしも興味があればその時の映像を見てもらいたい。もちろん、あなたがこの話に興味を持っていないことは承知しているが。


 チャールズ・ロケットは、チェヴィー・チェイスとビル・マーレイを混じり合わせた存在として紹介された。当然ながらそれは誇大な表現であり、番組は過去5年間の栄光に固執するあまり、視聴者が離れることを恐れてそう紹介したのである。

 とはいうものの、ロケットはたしかに両者をミックスさせた感じの存在ではあった。彼は両者の姿を自らの内に隠し持っていた(のちに前者は転落し、後者は称賛を浴びることになるわけだが)。彼はスポットライトを追いかける一方で、視聴者からどう思われるかを恐れなかった。実際、彼が演じたいけ好かないビジネスマン風のキャラクターは、のちにフィル・ハートマンに受け継がれることになる。


 ハートマンが史上最高のコメディアンと評され、チェイスとマーレイが紛れもないダイナマイト級のスターとなったのに対し、残念ながら、ロケットの取り組んだ仕事は平均的かつ標準的な水準とみなされるに留まった。



 それからのチャールズ・ロケット

 チャールズ・ロケットは働くことをやめなかった。彼は『ジム・キャリーはMr.ダマー』(1994年)や『タイタンA.E.』(2000年)のような傑作に出演している。しかし、彼のほとんどの仕事は駄作への出演であった。


 チャールズ・ロケットは2005年、56歳で亡くなった。私はそれを残念だと言うつもりも、「知られていなかったが彼はコメディの天才だった」と偽りを述べるつもりもない。彼はそのような逸材ではなかった。彼はコメディの現場に何とかしがみついた普通の男だったのである。しかし、ロケットは一生懸命に働いたのであって、「彼はコメディ番組での仕事を馬鹿にしていた」という見方に私は怒りを覚えるし、私がコメディ界の王様になるときにそのことを本人に告げられないことを残念に思う。

 そういうわけで、チャールズ・ロケットとは、仕事に全力を尽くし、「取るに足らない人物」の域から抜け出た男であった。

 とてつもない苦痛を受け入れるよう努めなさい。
── チャーリー・マーフィ





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わが愛すべき“ミスター黒歴史”
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 『SNL』第6シーズンは、本物の『SNL』と本物の『SNL』の間に挟まれた番外編のようなものであった。しかし、その「番外編」は「本物」と「本物」のいわば橋渡し役を担ったのであって、もしもロケットが存在していなかったら、橋にはより深刻なひびが入っていたに違いない。『誰がチャールズ・ロケットを撃ったのか』の執筆者はロケットを過大評価しないよう注意を払っているが、私はもっと単純に、彼は『SNL』の生命を維持させた功績者であると評価したい。

 ところで、私がなぜロケットのことを知ったのかというと、YouTubeの『SNL』公式チャンネルで古今の動画をちまちまと視聴していたころ、モナ・リザが登場するスケッチに遭遇したからである。そのスケッチではゲストのカレン・ブラックがモナ・リザ役を演じ、ロケットが少しキザな警備員役を演じている。美術館の絵画が実は生きているという古典的な設定は今日では逆に新鮮で、ロケットの演技には喜劇の奥に潜む哀愁を感じさせられた。


 第6シーズンの動画を漁るうちに、当然ながら私は『ロケット・リポート』の数篇にぶち当たり、ロケットの魅力に気付くようになっていった。例えば、公園のベンチで寝ている男性を観察するというリポートは、後年のコナン・オブライエンの芸風に通じるところがある。普遍的な前衛性を発露しながらもどこか牧歌的で、人間という存在への繊細な意識が滲み出ているのだ。言い換えるならば、ロケットもオブライエンも人間をモノとして扱うことができない。

 例となるスケッチをもう一つ挙げよう。年越しカウントダウンならぬ『1月11日カウントダウン』というバカバカしい企画はロケットによく似合っている。そこでの彼は報道キャスターほど冷静には振る舞っていないが、お祭り会場を盛り上げようとする芸人ほどおちゃらけてはいない。人間への繊細な意識が、他者との優しい距離感となって表れ、純然たる俳優のそれとも、純然たるコメディアンのそれとも、純然たるアナウンサーのそれとも異なる雰囲気を醸しだしている。


 『ロケット・リポート』のようなコメント系の企画ではない、演技が求められるシチューエションスケッチにおいても話は同様である。第6シーズンでは風刺的なスケッチが多かったが、ロケットの隠しきれないヒューマニズムはここでも絶妙な隠し味を放っていた。風刺的なスケッチはややもするとスノッブな印象だけを残して終わってしまうきらいがあるが、ロケットの芝居の奥底には優しさがあるため、彼がいるとどんな冷たいタッチのスケッチにも人間味が生じるのだ。


 それとともに、第6シーズンはどこか古臭いスケッチが目立つ時期でもあった。『鼻のレスリング』や『ただいま脚本執筆中』で提示されているギャグは、当時でも「一昔前の笑い」であったろう。『空飛ぶモンティ・パイソン』以前のテレビ番組で放送されていたような、アイディアに感心させられる類の笑いである。先進的なオリジナルスタッフが番組を離れていた時期なのだから仕方ないが、むしろその微温的な笑いはロケットのパーソナリティにハマっていた。

 (これは素朴な疑問なのだが、ロケットはどこで演技を習得したのだろうか。彼はそれまで演劇と無縁だったわけではないが、これが役者としてのメジャーデビュー作だとは思えないほど、『SNL』での彼は堂々としている。『ロケット・リポート』でのコメント芸はキャスター時代の修練の賜物と捉えるとして、シチュエーションスケッチで的を外さず役をこなしているところをみると、やはり彼にはコメディ俳優の資質があったと判断せざるを得ない。)


 ロケットの「ファック」発言をきっかけとして終了したことを思えば、第6シーズンはロケットの奮闘によって継続し、ロケットの失態によって終了した、「ロケットの」「ロケットによる」シーズンだったと総括できなくもない。ただし、彼は「ロケットのための」シーズンにしようとは企まず、番組内ではあくまでもチームワークを意識していた。その「普通の男」は、一定のタレント性は持ち合わせていても、自分が目立てばよいというエゴイズムは持ち合わせていなかったのだろう。

 この三十数年間、ロケットは『SNL』のいわば「ミスター黒歴史」としてその存在を黙殺されてきた。ローリング・ストーン誌が2015年2月に選出した「『SNL』出演者ランキング」でも、彼は145人中131位という不格好な位置に落ち着いている。しかし、誰が何と言おうと、あるいは黙殺しようと、私にとって『SNL』第6シーズンはこれはこれで楽しいコメディ番組であり、チャールズ・ロケットは愛すべきコメディプレイヤーである。おそらくはこれからも、ずっと。


<余談>
『SNL』に“帰ってきた”チャールズ・ロケット

 『誰がチャールズ・ロケットを撃ったのか』でも言及されていた通り、『SNL』降板後のロケットは複数のコメディ映画に出演している。中でも特筆すべきは、1990年代前半の『SNL』で放送されたスケッチシリーズを映画化した『いとしのパット君』(1994年)への出演だろう。ロケットが『SNL』ブランドの作品に「復帰」を果たした点でも興味深く、『SNL』レギュラー時代よりもぶっ飛んだ怪演を披露している点でも見逃せない。

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