2018年07月14日

“枯れた芸なんぞなりたくない” 私が聴いた「桂歌丸」


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 2018年7月11日、私は妙蓮寺で営まれた桂歌丸師匠の告別式に参列し、献花台に別れの花を手向けた。訃報に接してからしばらくは歌丸師匠の死を実感できずにいたが、不思議なもので、お寺の境内に入ると「ああ、歌丸師匠は本当に亡くなってしまったんだな」という思いが沸々とこみ上げてきた。ここ数年は入退院を繰り返していた師匠だから、またしばらくすれば高座へ復帰するのではないかと疑いつつも、私は徐々に歌丸師匠の死と向き合おうとしている。

 ここで私が歌丸師匠の生い立ちを紹介する必要はないだろう。生前中からテレビや新聞などで度々紹介されていたし、『歌丸 極上人生』(山本進編集協力、祥伝社黄金文庫)という決定版の半生記もある。だから、私はここでは「私が聴いた歌丸」の雑感を書き連ねることに終始したい。桂歌丸という“闘う名人”への思い入れのほんの一片を書き残そうと思うのだ。もっとも、そんなものを一体誰が読むのかという難題についてはあらかじめ棚上げしておくことにする。



 ◆ 滑稽噺の歌丸

 私が初めて歌丸師匠の落語を生で聴いたのは、2010年1月のことである。幼少時代からの友人を誘い、落語芸術協会(芸協)が興行する新宿末廣亭の正月初席へ向かったのだ。2004年から芸協会長を務めていた歌丸師匠は、新宿末廣亭初席第二部の主任(トリ)を2017年まで任されていた(2018年は体調不良のため全休を余儀なくされた)。2010年1月5日──私たちが聴きに行った日の歌丸師匠の演目は『鍋草履』。ある芝居小屋の客席を舞台にした滑稽噺である。

 のちに私は『鍋草履』が歌丸師匠の中堅時代からの十八番であること、最初の師匠・5代目古今亭今輔から「歌舞伎を観て芸を学びなさい」と言われて前座時代から歌舞伎座に通った歌丸師匠の経験が活かされた噺であることなどを知ることになるのだが、その日の私にとってはそもそも歌丸師匠を生で聴いたことが最大の“感想”であり、日記には「マクラが最高にブラック」だったことと、噺の最中に鳴った携帯電話の着信音を笑いに変えたことへの感動が記されている。

 その年以来、私は毎年正月になると、件の友人とともに新宿末廣亭へ歌丸師匠を聴きに行った。奇遇にも私たちが聴きに行く日の歌丸師匠の演目は、いつも『鍋草履』だった。私たちは「また今年も『鍋草履』かもね」と談笑しながら新宿三丁目へ向かい、「また今年も『鍋草履』だったね」と談笑しながら新宿三丁目を去り、例年のように『鍋草履』を聴けたことに安心感を覚えたものである。期待を裏切らないマンネリズムは精神の安定に必要なものなのだ。

 『鍋草履』は、春風亭の先生(先々代柳橋)にいただいたもの。「やりたいんです」って頼んだら、「NHKにオレの録音があるぞ」って。
 八四年六月、紀伊國屋寄席に初出演したときにやりましたね。歌舞伎見物のエピソードって感じで、噺自体が短いから、寄席で時間のないときには最適です。たまに気が向くと、芝居のまくらをたっぷりふったりして、遊ばせてもらう。珍しくて、伸縮自在。あたし好みのネタですよ。
── 桂歌丸 『恩返し 不死鳥ひとり語り』 (長井好弘編、中央公論新社) p.159

 正月初席に加えて、歌丸師匠は新宿末廣亭では5月上席昼の部でも主任を勤めていた。私がその興行で聴いた噺の一つ『火焔太鼓』は「5代目古今亭志ん生師匠の型通りに演じている」とのことだったが、志ん生版と歌丸版とではだいぶ印象が違う。志ん生版が天衣無縫の一席だったのに対し、歌丸版では高座への真剣な姿勢こそが噺の愉しさを引き出していたのだ。志ん生が“ボケ”の話芸だったとすれば、歌丸師匠は“ツッコミ”の話芸だったと言っていい。

 フラが尊重される落語界で、“ツッコミ”系を貫いて成功した噺家は少ない。「作品派」の巨匠とされる8代目桂文楽や6代目三遊亭圓生にしても、天然ボケとでも呼ぶべき一面が愛嬌となってファンを固めていた。歌丸師匠の最初の師匠・5代目今輔は純然たる“ツッコミ”系だったが、その“ツッコミ”系特有の闘争精神は新作落語では功をなすとしても、古典落語では江戸の情緒を損なう足枷になりかねない。誤解を恐れず申せば、歌丸師匠の高座に一瞬たりとも隙はなかった。

 いまになって振り返れば、高座の上での歌丸師匠は『笑点』(日本テレビ)でのイメージとは若干異なり、一種の“凄み”を利かせていたように思う。その話芸は決して客を置き去りにするものではないが、決して客に媚びるものでもない。歌丸師匠は生前、「お客さまを『笑わせる』のではなくお客さまに『笑っていただく』のが噺家の務め」とよく話していたが、一回一回の高座を客との真剣勝負だと認識していたからこそ、逆説的にそう主張していたのではないだろうか。



 ◆ 「圓朝噺」の歌丸

 新宿末廣亭のみならず、歌丸師匠は国立演芸場の8月中席と4月中席でも長きに亘って主任を勤めた。これらの興行では近代落語の祖・初代三遊亭圓朝の作品が口演されることが多く(逆にほかの定席で歌丸師匠が「圓朝噺」を口演することは皆無に等しかった)、私が国立演芸場で初めて聴いた歌丸師匠の演目も圓朝作の三題噺とされる『鰍沢』だった。私はこの『鰍沢』にえらく感動し、2013年4月20日の日記には「美しさの上に怖さが乗っかっていた」などと記している。

 晩年の歌丸師匠は「圓朝噺」の名手として名を馳せたが、私がまず言及したいのは、歌丸師匠が圓朝作品の名編集者だったということである。歌丸師匠は長大な『三遊亭圓朝全集』を紐解いて、複雑に入り組んだ人間関係を整理し、凄絶な叙事詩として物語をまとめ上げた。圓朝が二葉亭四迷の『浮雲』に直接的な影響を与えた言文一致小説の先駆者だったことを考えれば、圓朝作品を立派に改編したその業績は日本文学史上の偉業と評すべきだろう。

 本筋と直接関係のない部分を大胆にカットし、表現に関しては現代の客に通じる言葉に置き換える。ただし、「あんぽつ」などの変えてはならない古典的な表現は保ち、絶妙な塩梅で“解説”を挿入する──。圓朝作品への深い理解と天才的な編集センスがなければ、このような改編作業は成就しようがない。歌丸師匠はしかも、『真景累ヶ淵』や『牡丹灯籠』を一旦改編し終えた後も現状に満足せず、編集者の性とでも言うべきか、最晩年まで物語の再々構築に挑み続けた。

 平成八年のときは、『豊志賀』のところはみなさんおやりになってるし、あまり筋に関係がないからいいだろうとやらなかったんですが、しばらく経って『豊志賀』だけをやってみましたら、どうも発端抜きでお喋りをしているようで何だか中途半端なんですね。それに『宗悦殺し』をやってないと人物がうまく繋がらないことに気付きまして、じゃあ思い切って最初の『宗悦殺し』からやり直そうと、タイトルも「語り直して三遊亭圓朝作 怪談真景累ヶ淵」としまして、平成二十三年からでしたか再スタートさせました。
── 桂歌丸 『歌丸 極上人生』 (山本進編集協力、祥伝社黄金文庫) p.151

 編集者としての功績とともに言及しなければならないのは、自らの手による“編集版”を見事に演じた演者としての技芸についてである。私は国立演芸場で歌丸版「圓朝噺」をいくつも聴いたが、それらはいずれも「鬼気迫る」とでも形容すべき高座であり、語り口は端正でありながらも、その中身は静かな迫力に満ちていた。あの華奢な身体からは想像もつかない“勢い”と気迫のある話芸──とりわけ冷酷な悪女の描写に、私は畏怖の念を抱いたほどである。

 歌丸師匠が「圓朝噺」のよき演じ手だったのは、当人の出生地とも無縁ではないだろう。横浜出身であるがゆえに江戸弁ではなく「美しい日本語」を使うことにこだわった歌丸師匠は、“立て板に水”で噺を展開する必要性に縛られず、“物語”をじっくり聴かせる語り部=ストーリーテラーとして本領を発揮することができた。迫真の話芸は独自の芸術だったとはいえ、歌丸師匠は“物語中の物語”である圓朝作品を演じるために最適な話法をそもそも採用していたと考えられる。

 むろん、同じストーリーテリングといっても、落語と朗読は「目の前の客をどう意識するか」という点で性質が異なる。演芸家の歌丸師匠は「圓朝噺」をシリアスなドラマに終始させず、悪党が登場する場面で「あいつ、(6代目三遊亭)円楽みたいな顔をしているぞ」といったクスグリを挿んだり、濡れ場では「本当はみっちり喋りたいところだが」と地で語ったりして、長講を聴く客の集中を途切れさせないように工夫していた。まさしく「緊張と緩和」の技術を駆使した貫録の話芸だった。



 ◆ “珍品”の歌丸

 持ちネタに珍品が多かったという側面にも触れないわけにはいかない。私が生で聴いた中でも『おすわどん』や『城木屋』は普段の寄席ではまず聴くことのない噺である。私が最も多く聴いた歌丸師匠の演目である『鍋草履』にしたって、歌丸一門の総領弟子・桂歌春師匠が演じているのを聴いたことがある程度だ。歌丸師匠はこれらの珍品を「古い落語本」から掘り起こすことが多かった。今日の落語家の中に、文献を漁ってネタ探しをしている勉強家はどれほどいるだろうか。

 『おすわどん』は、落語の古い本を読んで見つけた噺。サゲに惚れこみました。 (中略) さらりと終わる、このサゲがいい。ただ、元の噺は前半が陰惨すぎる、どうも暗い感じがするというので、手を入れました。 (中略)
 あちこち直して高座にかけたら、いつだったか、名古屋の放送局での録音の時に圓楽さん(引用者注:5代目三遊亭圓楽)が聞いて「オレにくれよ」と言ってきました。「いいですよ、代わりに何か圓楽さんのネタをください」と言って『城木屋』と取り替えっこしたんです。
── 桂歌丸 『歌丸ばなし』 (ポプラ社) p.71-72

 歌丸師匠は生前、埋もれた噺を掘り起こす理由について問われると、「誰もやっていない噺をやれば他の演者と比べられることもないし、間違えてもお客さんに気付かれる心配がない」と説明していたが、根っからの編集者気質を備えていたことに加え、5代目今輔門下で新作落語のアプローチに馴染んでいたからこそ、復活させる噺の選定と改変ができたのだろう。珍品の掘り起こしと改変作業の経験が、のちの「圓朝噺」の改編にも役立ったであろうことは想像に難くない。

 「誰もやらない」という噺には、それなりの「やらない」理由ってのがあるんです。もう噺自体が時代遅れになっちゃって、今の観客には分かりにくい部分が多い。そのまま演じたら、面白くも何ともないんです。
 だから、かなりの手直しが必要になる。噺をいったんバラバラにして、一から組み立て直し、必要なら新しいサゲも考える。 (中略)
 古い噺の復活には、新作を一本作るぐらいの手間がかかるんですよ。
── 桂歌丸 『恩返し 不死鳥ひとり語り』 (長井好弘編、中央公論新社) p.157-158

 『後生鰻』もまた、最近の寄席では滅多にかけられることのない珍品の部類に入るだろう。古くは5代目志ん生の口演が有名だが、歌丸版はサゲが独自にアレンジされている。結果として「それなりの『やらない』理由」が解消され、現代の客にも通じる滑稽噺へと生まれ変わっているのだから、お見事としか言いようがない。歌丸版『後生鰻』は落語史に残る名改作であり、歌丸師匠の編集者としての才覚と技術の高さを端的に象徴する一席と言えよう。

 古い噺を大胆にアレンジする一方で、歌丸師匠は従来の型通りに噺を演じることもあった。『火焔太鼓』については「志ん生師匠のクスグリを変える気にはならない」と話していたし、『厩火事』についても8代目文楽の型通りに演じていた。滑稽噺にしても「圓朝噺」にしても、歌丸師匠は現代の客を“古典落語によって”愉しませるために改作していたのであって、決して改作自体が目的ではなかったのだ。いわば歌丸師匠は「改革保守」派であって、革新主義者ではなかった。

 とりわけ『紺屋高尾』はその「改革保守」ぶりがよく表れている一席だ。基本的には6代目圓生―5代目圓楽の型に忠実でありながら、独自の美しい文句を織り込んだり、合間に「今の言葉で言うと」などと注釈を挿んだり、江戸落語には珍しくハメモノを入れたりして、歌丸師匠ならではの廓噺に仕上げている。私はこの噺を我が大田区民プラザでの独演会で聴くことができた。あの艶っぽくて、清らかで、奥深くて、軽やかな名演を聴くことのできた私は、つくづく幸せ者だと思う。

 

 ◆ 闘う名人、歌丸

 今年(2018年)4月の国立演芸場中席が、私にとって歌丸師匠の落語を生で聴く最後の機会となり、歌丸師匠にとっても生前最後の高座となった。この時にネタ出しされていた演目は1980年初演の『小間物屋政談』で、私は4月15日の日記に「テンポはどうしても遅くなるが、その口跡は極めて明瞭」「病に惑わされてたまるか──名人歌丸、圧巻の話芸だった」などと記録している。私自身、これが歌丸師匠の最後の寄席になるとは考えていなかった。

 私は歌丸師匠の高座にちょうど20回、立ち会うことができた。「20回しか」立ち会えなかったとも、「20回も」立ち会えたとも言える。最晩年の8年間、歌丸師匠の体調的には過酷を極める時期にほかならなかったはずだが、客席から拝見する限り、私はただの一度たりとも歌丸師匠の高座から「辛さ」や「苦しさ」「弱さ」を感じたことはない。むしろ、その淡麗ながらも気迫のこもった話芸にいつも感嘆させられ、こちらがエネルギーをいただくことばかりだった。

 「よく『枯れた芸』って言うじゃないですか。アタシはどんどん新芽を伸ばし、葉を付け、花を咲かせ、実を持たせる。そういう勢いのあるものの方がいい。枯れた芸なんぞなりたくないですよ。枯れたもの見たってそんなの面白くもなんともない」。生前の取材でそう話していた通り、歌丸師匠は最後の高座に至るまで、“勢い”のある迫真の話芸で客を愉しませ続けた。滑稽噺も人情噺も「圓朝噺」も得意とする名人でありながら、今後ますますの成長可能性を常に感じさせられた。

 口演速記本の存在は名人上手であることの客観的証拠に値するが、歌丸師匠の場合は、昨年(2017年)11月に初の口演速記本『歌丸ばなし』(ポプラ社)、今年6月にその第2弾『芸は人なり、人生は笑いあり 歌丸ばなし2』(同社)が刊行されたばかりだった。さらに昨年8月の国立演芸場で「語り直して」と題して歌丸版『牡丹灯籠』の第一話が口演されていたことからも察せられるように、歌丸師匠自身もまだまだ高座を勤めていく決意であったに違いない。

 歌丸師匠はまさしく芸も人気もピークの状態で亡くなった。その絶頂期での死は私淑していた6代目圓生の最期を思わせなくもないが(歌丸師匠の生前最後となった高座での演目も、「圓生師匠の型を踏襲している」と話していた『小間物屋政談』だった)、営業先で突然死した圓生とは違って、晩年の歌丸師匠は壮絶な闘病生活を送りながら客の前で落語を演じ続けていた。酸素チューブを着けて高座に上がった落語家は後にも先にも歌丸師匠だけである。

 しかし、歌丸師匠は「病気なのに頑張っている姿」で客を感動させることは一度もなく、あくまでも古典落語の口演で客を感動させ続けた。その場の誰もが歌丸師匠の悲惨な体調を知りながら、その場の誰もがそんなことを忘れて歌丸師匠の話芸に惹きつけられた。こんな芸人はほかにはいない。いるはずがない。桂歌丸という“闘う名人”の高座に立ち会えたことは、我が人生の至上の財産である。──歌丸師匠、本当にお疲れ様でした。どうかゆっくりお休みください。


<私の「桂歌丸」鑑賞録>

 2010年1月5日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2010年4月10日 『おすわどん』 (大田区民ホール・アプリコ)
 2011年1月5日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2013年4月20日 『鰍沢』 (国立演芸場)
 2013年5月6日 『火焔太鼓』 (新宿末廣亭)
 2013年5月10日 『紺屋高尾』 (新宿末廣亭)
 2013年7月30日 『後生鰻』 (新宿末廣亭)
 2013年8月20日 『真景累ヶ淵 -お熊の懺悔-』 (国立演芸場)
 2013年9月25日 『後生鰻』 (文京シビックホール)
 2014年1月4日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2014年8月16日 『牡丹燈籠 -栗橋宿-』 (国立演芸場)
 2014年10月9日 『鍋草履』 『紺屋高尾』 (大田区民プラザ)
 2015年1月3日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2015年4月18日 『塩原多助 -青の別れ-』 (国立演芸場)
 2015年5月5日 『城木屋』 (新宿末廣亭)
 2015年8月15日 『怪談乳房榎』 (国立演芸場)
 2016年4月16日 『塩原多助 -出世噺-』 (国立演芸場)
 2016年8月13日 『江島屋怪談』 (国立演芸場)
 2017年8月13日 『牡丹燈籠 -お露新三郎 出逢い-』 (国立演芸場)
 2018年4月15日 『小間物屋政談』 (国立演芸場)

(文中一部敬称略)
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2018年02月17日

『サタデー・ナイト・ライブ』の“ミスター黒歴史” チャールズ・ロケット


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 現在も続くアメリカの人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』には、「黒歴史」とされているシーズンがある。そのシーズンでメインキャストを担わされていたのは、コメディアンでもなければ俳優でもない「普通の男」だった。



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“暗黒時代”に現れ、そして消えた男
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 立ち上げプロデューサーのローン・マイケルズが番組から離れていた1980年代前半のシーズン(第6〜第10シーズン)は、一般的に、NBCのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』にとっての「暗黒時代」とみなされている。とりわけ、それまでのスタッフや主演者の総入れ替えを余儀なくされた第6シーズン(1980年11月〜1981年4月)は視聴率も評判も最悪で、のちに大スターとなるエディ・マーフィが途中から番組に加入したことが唯一の慰めとされている。

 出演者を一新して臨まざるを得なかった第6シーズンで中心的役割を担わされたのが、実力派コメディアンでもなければ名の売れた俳優でもなく、ローカル局でキャスターを務めた経験があるだけの31歳の青年、チャールズ・ロケットだった。彼は多数のスケッチ(コント)でメインキャラクターを演じさせられたほか、『SNL』の看板コーナー『ウィークエンド・アップデート』のキャスター役にも起用され、視聴率が低迷する中でそのコメディ番組の先頭に立たされ続けた。

 1981年2月21日に放送されたスケッチで、ロケットは射殺されるキャラクターを演じる。そのキャラクターに扮したままエンディングトークに参加したロケットは、「射殺」された感想をその回のホストから問われ、「撃たれたのはこれが人生で初めてだよ。誰がこんなファックなことをしやがったのか知りたいね」と答えた。放送禁止用語がオンエアされたことが局内で問題となり、番組の早期リニューアルが決まった上、ロケットはシリーズ最終回を待たずして降板させられた。

 もっとも、前年の『SNL』で「ファック」という単語がオンエアされた際には騒ぎは起こっていなかったし、当時の『SNL』がテコ入れされるのは時間の問題だったから、ロケットの発言が番組リニューアルの「大義」として都合よく用いられた面は否定できない。いずれにせよ彼は、酷使された挙げ句、数か月ほどで番組をクビになり、その後はいくつかのテレビドラマや映画に俳優として参加したものの、これといった注目を浴びることもないまま、2005年10月に自ら命を絶った。



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「誰がチャールズ・ロケットを撃ったのか」
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 マンフレッド・ヨンと名乗る自称コメディ作家の男性は、「Medium」に投稿したコラムでロケットを回顧している。そのコラムは追悼文と呼ぶにはいささか内容がシビアだが、根本的にはロケットとコメディへの愛情に裏打ちされたものには違いないので、私のずさんな抄訳によってご紹介したい。この文章を必要とするどこかの誰かが目にすることを願いつつ。


── マンフレッド・ヨン / 2017年8月9日


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 私は第2のチャーリー・ロケットにはなりたくない。分かるだろ?
── フィル・ハートマン

 『サタデー・ナイト・ライブ』は多くの人気者を生み出すとともに、出演者たちに苦難をもたらしてきた。
 
 ある者は期待に応えることができず、ある者は露出を減らし、ある者は「舞台裏ではいやなやつ」と思われるようになった。どういうわけか、チャールズ・ロケットはこの3点すべてを背負うことになってしまった。

 もしも憐れむべきチャーリーの名前が知られているとすれば、そして真に理解されているわけではないとすれば、それは『サタデー・ナイト・ライブ』の番組内で「ファック」と発言してクビになった出演者としてのことだろう。彼はその単語を発した最初の人物でもなければ、唯一の人物でもない。しかし、ジェニー・スレイトやノーム・マクドナルドの場合とは異なり(訳注:両者も『サタデー・ナイト・ライブ』のスケッチ内で「ファック」と発言したことがある)、彼のその発言は悪しき行為とみなされている。

 しかし、私は、彼のレガシーの部分を擁護しておきたい。



 チャールズ・ロケットは番組の暗黒時代におけるマシな存在だった

 1980年。『サタデー・ナイト・ライブ』の世界はぶち壊され、壊滅状態はその後も5シーズンに渡って続くことになる(訳注:当時『サタデー・ナイト・ライブ』はプロデューサーの降板により体制を一新したが、結果として視聴率は下落した)。チェヴィー・チェイスが番組を降板した時は、ビル・マーレイがその穴を埋めることになった。その時、ビル・マーレイはチェヴィー・チェイスの穴を埋めることができた。それでは、すべての関係者が番組を降板したらどうなるだろうか。すべての者──すべての出演者(ビル・マーレイを含む)、ほとんどの脚本家、そしてローン・マイケルズが番組を降板したら、一体どのようにしてその穴を埋めればよいだろうか。その時に「チャールズ・ロケットを持ってこよう」となるだろうか。

 『サタデー・ナイト・ライブ』の名前と放送時間帯だけが残り、新レギュラーのギルバート・ゴットフリードは番組を「眺めのよいレストラン」と呼んだ。1980年度は番組史上最悪のシーズンとなったが、ロケットの存在は悪いことではなかった。




 チャールズ・ロケットはいつでもマシな存在だった

 その他の「最悪な」出演者候補であるデヴィッド・スペード、ロブ・シュナイダー、フィネッセ・ミッチェルと比較すれば、チャールズ・ロケットはマシな存在だといえる。小奇麗でキザな男が出てくるコメディに私が甘いことを差し引いても、私は彼を「優秀な」出演者と共演させたいと思うほどだ。


 ロケットは番組にものすごく貢献した人物ではなかった。彼はそのわずかな才能をもって、ちぐはぐながらも何とかして番組を続行させたのである。ロケットは幅広い演技の技術を持っていたわけでも、ユーモラスな動きができたわけでも、モノマネができたわけでもなかった。その上、彼は特に面白い人間だと思われてもいなかった。

 要点はお分かりだろうか。彼はウィットに富んでいたわけでも、アドリブができたわけでもなく、あなたの親友を大笑いさせるような存在でもなかった。もっとも、コメディの世界においても、ダイヤモンドの原石はそうそう埋まっているものではない。彼はただの男性だった。彼は「ザ・グラウンドリングス」の出身でも「セカンド・シティ」の出身でもなく、演劇ワークショップの出身者ですらない。イキのいいスタンダップコメディアンでもなければ、アンソニー・マイケル・ホールやロバート・ダウニー・Jr.のような若いスター俳優でもない。彼は短編映画とバンド活動に手を出したことがあるだけの「お天気お兄さん」だった(訳注:ロケットはかつてローカル局でキャスターを担当していた)。彼は普通の男性であり、沈みかけた船に何とかしがみつき、手に入れた仕事をこなしただけである。

 何をやらせても面白みに欠ける人物は、いかにしてコメディ番組で自らの居場所を見出すべきだろうか。彼は1980年代初頭のニューヨークの街頭(寒くて、暗くて、薄汚い場所)に出向き、そこでのあれやこれやを、内容がどうであれ、『ロケット・リポート』と題してまとめた。



 『ロケット・リポート』


 何かに挑戦してみたところで、たいていはうまくいかないものだ。
── チャールズ・ロケット

 『ロケット・リポート』での彼は、フェリー乗り場で人々と会話を交わしたり、クリスマスを控えた買い物客のそばを歩いたりしている。路上で撮影しているといっても、わずか一つの通りが舞台となっているだけだ。


 彼らは人々から何か面白い反応を得ることができただろうか。──できなかった。彼らは何らかの課題を自らに課して撮影に臨んでいたのだろうか。──そういうわけではなかった。

 しかし、私は『ロケット・リポート』を完全なる失敗作とみなすつもりはない。彼はどうにかこうにか、死んだ馬をゴール手前のところまで持っていったのだから。


 彼がテレビで「ファック」と発言するまで、チャールズ・ロケットは虫の好かないやつだと思われることが多かった。そのような役柄を演じていたからである。ほとんどすべての視聴者がそのように思い込んでいたと言っても過言ではない。しかし、少なくとも『ロケット・リポート』を見る限り、実際の彼はそのような嫌味な男ではない。街中で街頭インタビューをしているリポーターのほとんどはカメラさえ回っていなければ殴りたくなるような連中ばかりだが、ロケットの場合はどこかチャーミングなところがある。通りすがりの人たちとかくれんぼに興じるその姿は、ジミー・ファロン(訳注:現在のアメリカで好感度の高いコメディアン)とそうかけ離れてはいない。

 たとえハンサムな役柄を演じていても、彼は視聴者からハンサムなやつだと思われることもなければ、ハンサムなやつになれると思われてもいなかった。しかし、少なくともカメラの前において、彼は一生懸命に働き、確かなるチームプレイヤー兼セールスマンであり続けたのだ!


 驚くべきことに、彼は裸の姿で壁に貼り付けられ、滑稽な異常者役のデニー・ディロンから鞭で叩かれるというスケッチをやってのけた。この男、なかなか体を張っているではないか。

 そして時々、時々ではあるが、彼は金鉱を掘り当てた。


 このスケッチ(『Rocket Report: President Reagan』)は、のちのアーマンド・イヌアッチ作品を思わせるものではないだろうか。

 つつましげに申せば、このスケッチは、エディ・マーフィの出演した名作スケッチと遜色ない、現代の『サタデー・ナイト・ライブ』視聴者をも満足させられるスケッチである。まあ、たしかにそれは言い過ぎの感があるが、そう言えなくもないほどのものではあろう。




 チャールズ・ロケットは椅子にふんぞり返るクズ野郎ではなかった

 1980年度のシーズンが犯した過ちの一つは、過去5年間の栄光に固執してしまったことだ。


 1980年度の新レギュラーをお披露目するため、番組はオープニングスケッチでエリオット・グールドとともに新レギュラーを登場させ、「プライムタイムへの準備が整っていない出演者たち」と紹介した。もしも興味があればその時の映像を見てもらいたい。もちろん、あなたがこの話に興味を持っていないことは承知しているが。


 チャールズ・ロケットは、チェヴィー・チェイスとビル・マーレイを混じり合わせた存在として紹介された。当然ながらそれは誇大な表現であり、番組は過去5年間の栄光に固執するあまり、視聴者が離れることを恐れてそう紹介したのである。

 とはいうものの、ロケットはたしかに両者をミックスさせた感じの存在ではあった。彼は両者の姿を自らの内に隠し持っていた(のちに前者は転落し、後者は称賛を浴びることになるわけだが)。彼はスポットライトを追いかける一方で、視聴者からどう思われるかを恐れなかった。実際、彼が演じたいけ好かないビジネスマン風のキャラクターは、のちにフィル・ハートマンに受け継がれることになる。


 ハートマンが史上最高のコメディアンと評され、チェイスとマーレイが紛れもないダイナマイト級のスターとなったのに対し、残念ながら、ロケットの取り組んだ仕事は平均的かつ標準的な水準とみなされるに留まった。



 それからのチャールズ・ロケット

 チャールズ・ロケットは働くことをやめなかった。彼は『ジム・キャリーはMr.ダマー』(1994年)や『タイタンA.E.』(2000年)のような傑作に出演している。しかし、彼のほとんどの仕事は駄作への出演であった。


 チャールズ・ロケットは2005年、56歳で亡くなった。私はそれを残念だと言うつもりも、「知られていなかったが彼はコメディの天才だった」と偽りを述べるつもりもない。彼はそのような逸材ではなかった。彼はコメディの現場に何とかしがみついた普通の男だったのである。しかし、ロケットは一生懸命に働いたのであって、「彼はコメディ番組での仕事を馬鹿にしていた」という見方に私は怒りを覚えるし、私がコメディ界の王様になるときにそのことを本人に告げられないことを残念に思う。

 そういうわけで、チャールズ・ロケットとは、仕事に全力を尽くし、「取るに足らない人物」の域から抜け出た男であった。

 とてつもない苦痛を受け入れるよう努めなさい。
── チャーリー・マーフィ





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わが愛すべき“ミスター黒歴史”
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 『SNL』第6シーズンは、本物の『SNL』と本物の『SNL』の間に挟まれた番外編のようなものであった。しかし、その「番外編」は「本物」と「本物」のいわば橋渡し役を担ったのであって、もしもロケットが存在していなかったら、橋にはより深刻なひびが入っていたに違いない。『誰がチャールズ・ロケットを撃ったのか』の執筆者はロケットを過大評価しないよう注意を払っているが、私はもっと単純に、彼は『SNL』の生命を維持させた功績者であると評価したい。

 ところで、私がなぜロケットのことを知ったのかというと、YouTubeの『SNL』公式チャンネルで古今の動画をちまちまと視聴していたころ、モナ・リザが登場するスケッチに遭遇したからである。そのスケッチではゲストのカレン・ブラックがモナ・リザ役を演じ、ロケットが少しキザな警備員役を演じている。美術館の絵画が実は生きているという古典的な設定は今日では逆に新鮮で、ロケットの演技には喜劇の奥に潜む哀愁を感じさせられた。


 第6シーズンの動画を漁るうちに、当然ながら私は『ロケット・リポート』の数篇にぶち当たり、ロケットの魅力に気付くようになっていった。例えば、公園のベンチで寝ている男性を観察するというリポートは、後年のコナン・オブライエンの芸風に通じるところがある。普遍的な前衛性を発露しながらもどこか牧歌的で、人間という存在への繊細な意識が滲み出ているのだ。言い換えるならば、ロケットもオブライエンも人間をモノとして扱うことができない。

 例となるスケッチをもう一つ挙げよう。年越しカウントダウンならぬ『1月11日カウントダウン』というバカバカしい企画はロケットによく似合っている。そこでの彼は報道キャスターほど冷静には振る舞っていないが、お祭り会場を盛り上げようとする芸人ほどおちゃらけてはいない。人間への繊細な意識が、他者との優しい距離感となって表れ、純然たる俳優のそれとも、純然たるコメディアンのそれとも、純然たるアナウンサーのそれとも異なる雰囲気を醸しだしている。


 『ロケット・リポート』のようなコメント系の企画ではない、演技が求められるシチューエションスケッチにおいても話は同様である。第6シーズンでは風刺的なスケッチが多かったが、ロケットの隠しきれないヒューマニズムはここでも絶妙な隠し味を放っていた。風刺的なスケッチはややもするとスノッブな印象だけを残して終わってしまうきらいがあるが、ロケットの芝居の奥底には優しさがあるため、彼がいるとどんな冷たいタッチのスケッチにも人間味が生じるのだ。


 それとともに、第6シーズンはどこか古臭いスケッチが目立つ時期でもあった。『鼻のレスリング』や『ただいま脚本執筆中』で提示されているギャグは、当時でも「一昔前の笑い」であったろう。『空飛ぶモンティ・パイソン』以前のテレビ番組で放送されていたような、アイディアに感心させられる類の笑いである。先進的なオリジナルスタッフが番組を離れていた時期なのだから仕方ないが、むしろその微温的な笑いはロケットのパーソナリティにハマっていた。

 (これは素朴な疑問なのだが、ロケットはどこで演技を習得したのだろうか。彼はそれまで演劇と無縁だったわけではないが、これが役者としてのメジャーデビュー作だとは思えないほど、『SNL』での彼は堂々としている。『ロケット・リポート』でのコメント芸はキャスター時代の修練の賜物と捉えるとして、シチュエーションスケッチで的を外さず役をこなしているところをみると、やはり彼にはコメディ俳優の資質があったと判断せざるを得ない。)


 ロケットの「ファック」発言をきっかけとして終了したことを思えば、第6シーズンはロケットの奮闘によって継続し、ロケットの失態によって終了した、「ロケットの」「ロケットによる」シーズンだったと総括できなくもない。ただし、彼は「ロケットのための」シーズンにしようとは企まず、番組内ではあくまでもチームワークを意識していた。その「普通の男」は、一定のタレント性は持ち合わせていても、自分が目立てばよいというエゴイズムは持ち合わせていなかったのだろう。

 この三十数年間、ロケットは『SNL』のいわば「ミスター黒歴史」としてその存在を黙殺されてきた。ローリング・ストーン誌が2015年2月に選出した「『SNL』出演者ランキング」でも、彼は145人中131位という不格好な位置に落ち着いている。しかし、誰が何と言おうと、あるいは黙殺しようと、私にとって『SNL』第6シーズンはこれはこれで楽しいコメディ番組であり、チャールズ・ロケットは愛すべきコメディプレイヤーである。おそらくはこれからも、ずっと。


<余談>
『SNL』に“帰ってきた”チャールズ・ロケット

 『誰がチャールズ・ロケットを撃ったのか』でも言及されていた通り、『SNL』降板後のロケットは複数のコメディ映画に出演している。中でも特筆すべきは、1990年代前半の『SNL』で放送されたスケッチシリーズを映画化した『いとしのパット君』(1994年)への出演だろう。ロケットが『SNL』ブランドの作品に「復帰」を果たした点でも興味深く、『SNL』レギュラー時代よりもぶっ飛んだ怪演を披露している点でも見逃せない。

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2018年01月15日

アメリカのコメディは“異人種装”をどのように描いてきたか


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 2017年12月31日に放送された『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』(日本テレビ系)での「ブラックフェイス」が人種差別的だと批判されている。
 私は雨宮紫苑さんの見解(『日本には日本の価値観があるとはいえ、世界的にブラックフェイスがタブーであるという事実は変わらない。』)とほぼほぼ同意見だが、コメディを愛すると自称してきた人間として、近年(?)のアメリカンコメディにおける“異人種装”について少しだけ立ち入った話をしてみようと思う。



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そもそもの話、いったい何が問題なのか
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 他でも散々解説されているだろうから詳述はしないが、アメリカでは、黒人を模倣するために“黒塗り”をすること自体が黒人差別の歴史と直接的に紐付けられている。詳しくは「ミンストレルショー」で検索されたい。黒人を模倣するための“黒塗り”(「ブラックフェイス」)は、例えば日本人を原爆ネタで嘲り笑うのと同程度のタブーなのである。日本で生まれ育った大半の日本人には理解しにくくとも、当事者たる黒人(とりわけアメリカにルーツを持つ黒人)にとってはそうなのだ。

 Q. 「それはアメリカの話だろう。日本は関係ないじゃないか」
 「ブラックフェイス」はアメリカの白人が気にすればいいだけの話だと思う者もいるかもしれない。しかしこれは「誰が」ではなく「誰を」どうネタにしているかの問題なのだ。とりわけアメリカにルーツを持つ黒人にとってはそうである。日本には黒人差別の歴史がないと思うからといって、日本で黒人を「ニガー」と呼称していいことにはならないだろう。イギリスが日本に原爆を投下していないからといって、イギリス人なら日本人を原爆ネタで笑っていいことにはならないだろう。

 Q. 「どんな場合でも“黒塗り”は許されないのか」
 私はそうは考えない。例えば、子どもが田んぼで転んで泥まみれになる描写が規制されるべきではない。たとえ黒人模倣としての“黒塗り”(「ブラックフェイス」)が登場するとしても、そのことで「反差別ギャグ」が形成されるのであればむしろ立派なことだと思う。「保毛尾田保毛男」のコントで客を笑わせようとすることと、「『保毛尾田保毛男』のコントで笑いをとろうとした時代遅れの芸人が逆に世間から嘲笑されるコント」で客を笑わせようとすることはまったく意味が異なる。

 Q. 「“黒塗り”をする側に悪意がなければ構わないだろう」
 形而上ではなく現実の話をしたい。差別的な意図が存在していなかったからといって、差別的な表現がなかったことになるわけではないだろう。例えば、「ホモ」という呼称は同性愛者の蔑称として当事者を傷付け続けているが、「私はリスペクトの精神から同性愛者を『ホモ』と呼んでいる」と釈明しても当事者の神経を逆撫でするだけだ。侮蔑する意図がないなら、当事者の多かれ少なかれを傷付けることがあらかじめ分かっている表現を、わざわざ使用するべきではない。



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アメリカンコメディの“異人種装”あれこれ
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 さて、『笑ってはいけない』での「ブラックフェイス」をめぐっては、「これが差別なら○○も差別ではないのか」という反応をいくつか見聞きした。「○○」の話をしているわけでもないのにそのようなことを言い出すのはそもそも話を逸らす行為でしかないと思うのだが、それらの“告発”が的外れな上に、アメリカンコメディへの無理解に我慢がならなくなったので、「○○」をいくつか例示してみたい。


1. 「エディ・マーフィだって白人に扮装していたぞ!」

▲ 『サタデー・ナイト・ライブ』 第10シーズン第9回 (1984年12月15日) より

 『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』(NBC)のレギュラー降板から半年後の1984年12月、『SNL』にゲスト出演したエディ・マーフィは、『White Like Me』と題するスケッチで白人男性に扮装した。このスケッチの題名と内容には元ネタがある。黒人コメディアンの先駆者であるリチャード・プライヤーが『SNL』第1シーズンにゲスト出演した際、トーク番組のパロディで、「著書『White Like Me』を最近出版したジュニア・グリフィンさん」という架空のキャラクターを演じたのだ。

 司会者 「こんばんは。『読書案内』へようこそ。司会のジェーン・カーティンです。今夜のゲストはアメリカでいくつもの本を出版している人物です。今夜は彼の新著『White Like Me』について話してもらいましょう。ようこそ、ジュニア・グリフィンさん。新著の内容について教えてください」
 グリフィン 「ええと……。白人が抱える問題を理解する唯一の方法は白人になることだと、私は思い立ったのです。実際に白人になり、白い肌を得て、白人の世界で白人のように生きてみるしかない。そうでしょう?」
── 『Looks At Books』 (1975年12月13日)

 『White Like Me』はいわばプライヤーへの“オマージュコント”なのである。白人であるというだけで新聞をタダでもらえたり、銀行から審査なしでお金を貸してもらえたり──。このスケッチは白人が優遇されている社会を皮肉る「反差別ギャグ」であり、『SNL』の歴史に名を刻む傑作コントとしか言いようがない。ただし、「このスケッチは現在に至るまで決して作り話ではない」というデイリーニューズ紙記者の指摘を読んでしまうと、笑って済ますことが難しくなるが。



2. 「テッド・ダンソンだって黒人に扮装していたぞ!」

ted-danson-1993-roast-blackface.jpg▲ 『Friars Club Comedy Roast』 (1993年10月8日) より

 非当事者による「反差別ギャグ」の難しさを体現したのが、シットコム『チアーズ』(NBC)で知られるテッド・ダンソンだ。1993年に行われたウーピー・ゴールドバーグのローストで「ブラックフェイス」を披露したのだ。ローストというのは、主賓と縁のある人物が舞台に上がり、主賓を毒舌ジョークでこきおろしていく企画のことである。これは主賓と登壇者との間に友情や親交があるからこそ成立するもので、相手をイジることで褒め称えるという遊びにほかならない。

 ゴールドバーグと当時交際していたダンソンは、「ミンストレルショー」のパロディと一目瞭然の「ブラックフェイス」で登場し、「ニガー」という単語を十数回に渡って連発した。ダンソンのパフォーマンスに主賓のゴールドバーグは大ウケしたが、そのあまりにも直接的で攻撃的なユーモアに当事者の少なからずが不快感を表明した。ゴールドバーグは「レイシストを風刺したもの」にすぎないとして当時の恋人を擁護したが、のちにダンソンは公の場での謝罪に追い込まれている。

 ダンソンが非難を浴びたのは、差別主義者を描くことで差別の愚かさを示すという「反差別ギャグ」の文脈を上手く表現できていなかったからだろう。焦点と言葉選びを間違えれば、毒舌ジョークも単なる誹謗中傷になってしまう。この一件は、コメディにとって肝要なのは表現者の意図ではなく表現そのものであるということ(意図は行為を正当化し切れない)、そして白人が「ミンストレルショー」をパロディ化するのは時期尚早だということを教えているのかもしれない。



3. 「エディ・マーフィだってアジア人に扮装していたぞ!」

▲ 『マッド・ファット・ワイフ』 (2007年) より

 またしてもエディ・マーフィである。ということでお分かりのように、人種ネタとコスプレ芸はマーフィの代名詞なのだ。『ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合』(1996年)での1人7役は日本でも有名だろう。みのわあつお先生は『ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々』(2000年)を「エディ・マーフィの最高傑作」と評するとともに、マーフィのコスプレ芸歴をまとめている(『White Like Me』の放送時期がマーフィの『SNL』レギュラー時代とされているのは誤り)。

 まず、『〜クランプ家の面々』での驚きとすごさは、エディが前作の一人七役から、一人九役へとバージョンアップしていること。この“一人複数役”こそ、まさにエディの最高の芸だ。古くは、「SNL」のレギュラー時代(80〜84)に、特殊メイクで白人に扮したエディ(役名は、ミスター・ホワイト)が、ニューヨークの街に出て、いかに白人が優遇され、黒人が冷遇されているかという風刺ギャグを演じた。このギャグが大受けし、エディは『星の王子ニューヨークへ行く』(88)でも“一人複数役”を演じ、『エディ&マーティンの逃走人生』(99/未)の五十歳を超えた老人役へと受け継がれ、極めつけが『〜クランプ家の面々』の一人九役となったのだ。
── みのわあつお 『サタデー・ナイト・ライブとアメリカン・コメディ』(フィルムアート社) p.60

 『マッド・ファット・ワイフ』(2007年)でマーフィは原案・脚本・製作を担当するとともに、出演者としても一人三役に挑み、@親に捨てられて孤児院で育てられた黒人男性ノービット、Aその幼なじみの黒人女性ラスプーシア、B孤児院院長のアジア系男性ウォンを演じた。ウォンはノービットの父親代わりとなる最も重要な脇役であり、マーフィの芸風を反映させたキャラクターである(それゆえ、本来ならばアジア系俳優が得るべきだった職をマーフィが奪ったとは言い切れない)。

 なぜマーフィは院長をアジア系に設定したのか。これは推測だが、非白人の人種的マイノリティが差異を越えて共存する世界を描きたかったからではないだろうか。人種的マイノリティ同士が白人の“加護”を受けることなくフツーに共生できることを示したかったからではないか。そう考えれば、映画の冒頭で「クジラ狩り」をわざとらしく表現し(誇張されることでギャグは非現実性を高める)、「クジラ狩り」と黒人少年たちを絡ませていたのにも論理的な説明がつく。

 院長がアジア系なのは「黒人の親に捨てられても、別の非白人が拾ってくれる」という趣旨でもある。思い返せば、マーフィは白人にも黒人にも媚びないコメディアンだった。『ナッティ・プロフェッサー』では差別的な芸人役に黒人俳優を起用している。『マッド・ファット・ワイフ』でのマーフィは“第3の人種”を投じることで、「白人対黒人」という既存の人種観をも相対化したのだ。「相対化」をコメディの主要な役割と捉えれば、マーフィこそは正統派のコメディアンだと称えるだろう。



4. 「ロバート・ダウニー・Jr.だって黒人に扮装していたぞ!」

▲ 『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』 (2008年) より

 エディ・マーフィ同様、ベン・スティラーもコスプレが好きなコメディアンだ。脚本・監督を務めた『ズーランダー』(2001年)では奇抜なファッションに身を包み、製作を務めた『ドッジボール』(2004年)では特殊メイクに挑んだ。そして、原案・脚本・監督・製作を務めた『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』(2008年)ではジャック・ブラックに『ナッティ・プロフェッサー』シリーズ(1996年〜2000年)風の特殊メイクを施し、ロバート・ダウニー・Jr.には“黒塗り”をさせている。

 ダウニー演じるラザラスは役者バカの“カメレオン俳優”で、本当は白人であるにもかかわらず、黒人役を演じるため皮膚整形を施したというイタいキャラクターである。今や精神的にも自分自身を黒人だと思い込んでいる。劇中では「なんて連中だ」と罵られて「『連中』だと? 俺たち黒人を侮蔑しているのか」とマジギレし、本物の黒人俳優から「お前は黒人じゃないだろ」とツッコまれるくだりもあった。まさしく「ブラックフェイス」を利用した一種の「反差別ギャグ」だと称える。

 本作での演技が認められ、ダウニーはアカデミー賞にノミネートされた。人々はダウニーの「ブラックフェイス」を「反差別ギャグ」の一環として受け入れたのだ。もちろんスティラーは批判が起こる可能性を考慮していなかったわけではない。全米黒人地位向上協会で試写会を開き、黒人ジャーナリストの反応を事前に確かめていた。スティラーは語っている。「映画を観た者なら、その文脈からして、彼の役柄が“メソッド俳優”であるということは分かってくれるだろう」。



5. 「フレッド・アーミセンだってオバマ大統領のモノマネをしていたぞ!」

▲ 『サタデー・ナイト・ライブ』 第34シーズン第6回 (2008年10月25日) より

 2013年まで『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』の代表的レギュラーだったフレッド・アーミセンは、2008年2月から番組内のスケッチでバラク・オバマ大統領を演じていた。たしかにこのモノマネは一部から批判を受けた。といっても、批判のポイントは「なぜ黒人コメディアンに黒人大統領を演じさせないのか」というものである。番組プロデューサーのローン・マイケルズは、2012年の新シーズン開始に合わせてオバマ大統領役をジェイ・ファローに交代させている。

 なぜアーミセンの「ブラックフェイス」は批判を浴びずに済んだのか。私が思うに、その“黒塗り”がツッコもうにもツッコめないほど軽微なものだったためではないだろうか。2009年3月に放送されたスケッチ『The Rock Obama』では特に“黒塗り”はしていないようにさえ見受けられる。“黒塗り”の有無がよく分からなくてもオバマ大統領のモノマネとして成立しているところをみると、“黒塗り”は決して黒人を模倣するための必須条件ではないことが分かる。

 ちなみに、『SNL』でミシェル・オバマ夫人を演じていたのは誰かというと、配役難航の末、結局は元レギュラーのマーヤ・ルドルフが番組に復帰して演じていた。ルドルフの母親は黒人歌手のミニー・リパートンである。スケッチでは多少“黒塗り”を施しているようにも見えるが、黒人自身が“黒塗り”をする分には許容されるということなのだろう。しかし、「後進に道を譲るべき」という声も上がっていたためか、2014年からはサシーア・ザメイタが夫人役を演じるようになった。



6. 「ビリー・クリスタルだってサミー・デイヴィス・Jr.のモノマネをしていたぞ!」

billy-crystal-sammy-davis-jr-oscar-2012.jpg▲ 第84回アカデミー賞授賞式 (2012年2月26日) より

 2012年のアカデミー賞授賞式はエディ・マーフィが司会を務めるはずだった。ところが何やかんやあって司会を降板し、ビリー・クリスタルがピンチヒッターとして起用される。泣く子も黙る「Mr.アカデミー賞」の安定した司会ぶりはおおむね好評だったが、クリスタルが作品賞候補作品の世界に迷い込むというコント仕立てのオープニング映像が一部から批判を受けることになった。劇中でサミー・デイヴィス・Jr.を演じるために“黒塗り”をしていたからである。

 もっとも、その背景については言及しておく必要があるだろう。若手時代からクリスタルはデイヴィスを敬愛する人物と公言し、本人の公認を得る形でモノマネを披露してきた。1986年に放送された『Billy Crystal: Don't Get Me Started』(HBO)での本気のモノマネは今でも語り継がれるほどで、これほどまでの“憑依芸”を見せることができるのは、映画『マン・オン・ザ・ムーン』(1999年)でアンディ・カウフマンを演じた際のジム・キャリーぐらいなものだろう。

 クリスタルの“黒塗り”について、ある保守派のコラムニストは「『ブラックメイクアップ』と『ブラックフェイス』は違う」と主張した。特定の個人への本気の「オマージュ」なのだから問題ないというわけだ。この意見を『笑ってはいけない』に当てはめて考えるなら、そもそもあれが本当にエディ・マーフィのモノマネとして機能していたのかどうかを検証する必要がある。共演者の発言なども踏まえると、どうも私にはあれをモノマネとして捉えること自体に抵抗があるのだが。

 ところで、クリスタルは『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』でも“黒塗り”を披露していた。1984年に放送された『Baseball』というモキュメンタリー形式のスケッチで、クリストファー・ゲストとともに「ニグロリーグ」の元選手に扮装しているのだ。このスケッチは古い『SNL』ファンの間では有名なスケッチだが、番組の正史からは事実上抹殺されている。クリスタル本人も2017年の取材で「今では許されない」というようなことを話していて、もはや再放送されることは考えにくい。



7. 「スティーヴン・マーチャントだってアジア人に扮装していたぞ!」

movie-43-stephen-merchant.jpg▲ 『ムービー43』 (2013年) より

 『ムービー43』(2013年)は大好きな映画である。劇中のスケッチはどれもよく作られていて、決して豪華キャストだけが見どころではない。さてイギリスのコメディアン、スティーヴン・マーチャントがアジア人の特殊メイクを施されているのは、ピーター・ファレリー監督のスケッチ『フィーリング・カップル 下衆でドン!』でのことだ。デートの相手との「真実か挑戦か」ゲームが過熱した結果、整形手術でアジア人の風貌となり、相手からは「アジア人とは寝たくないの」とフラれる。

 アメリカ劇場公開版において、このスケッチは狂った脚本家(デニス・クエイド)の狂った企画として劇中劇形式で描かれている。このスケッチの直後には映画プロデューサー(グレッグ・キニア)が「アジア人に対して失礼だ」と冷ややかにツッコむ場面もあり、文脈から判断すれば差別的な印象は受け取れない。どんな「失礼な描写」をいくら描いても「それは失礼な描写だ」と一言添えれば許されるというわけではないが、総合的には広義の「反差別ギャグ」とみなせるだろう。

 スケッチ単体で判断する場合でも、実際に中身を鑑賞すれば分かるように、特定の人種を下に見てその人種に“変更”する外科出術は、「盲目の子の誕生日ケーキのろうそくを先に吹き消す」のと同程度かそれ以上に“下衆”な行為として位置付けられている。「反差別ギャグ」と称えるほどの趣旨がスケッチ自体に含まれているわけではないが、全体の構造としては「アジア人」自体というよりも「例えば人種差別的な言動を取るような連中」が笑いものにされているのだ。



8. 「チャニング・テイタムだってビヨンセのモノマネをしていたぞ!」

▲ 『リップシンクバトル』 第2シーズン第1回 (2016年1月7日) より

 芸能人が“口パク”パフォーマンスの出来を競い合う『リップシンクバトル』(MTV)の第2シーズン初回は、チャニング・テイタムとジェナ・ディーワンの夫婦対決だった。番組内でテイタムはビヨンセに扮して『ラン・ザ・ワールド(ガールズ)』の“口パク”を披露したが、たしかにその際のテイタムは顔を多少“黒塗り”しているように見受けられる。もっとも、放送後の反響は“ご本人登場”に限定され、テイタムの「ブラックフェイス」を指摘する意見はごく少数だった。

 この「ブラックフェイス」への批判が皆無に等しかったのは、テイタムの“黒塗り”が軽微(一般的な女性用メイクを施しただけだという弁明も成り立つ程度)だったことに加え、ビリー・クリスタルがサミー・デイヴィス・Jr.に扮した時のような本気のモノマネであり、かつビヨンセ本人のお墨付きを得る形で披露されていたからだろう。言い換えるならば、実際に「ブラックフェイス」が施されていようがいまいがどうでもいい場合においてのみ、「ブラックフェイス」は見過ごされ得るのだ。

 これに対し、『笑ってはいけない』での「エディ・マーフィに扮した」とされるものは「本気のモノマネ」どころか、肌色とジャンパーが共通しているだけの単なる“出オチ”にすぎなかった。番組内では「普通に笑てんねん! 黒人がこっち見て」(「マーフィが」でも「ビバリーヒルズ・コップが」でもなく「黒人が」である)という発言で笑いが誘われてもいた。これでは「マーフィ→黒人→黒い肌」というステレオタイプだけで造形されたキャラクターを笑っていると批判されても仕方ない。



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結局の話、いったい何が問題なのか
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● 「傷付けないのはいいことだ。でも……」

 ここまで見てきたように、「ブラックフェイス」の中には「反差別ギャグ」として機能したものもあれば、本気のモノマネであるがゆえに見逃されたものもあった。そもそも「ブラックフェイス」と“アジア人装”では位相が異なるが、『トロピック・サンダー』での「ブラックフェイス」はアメリカでも当然に受容されたのだから、アジア人の扮装はよくて「ブラックフェイス」は何が何でもダメだというわけではない。どのような文脈で「ブラックフェイス」が用いられているかが重要だということだ。

 それは言い換えるならば、アメリカの大半の観客はそれぞれの「ブラックフェイス」がどのような文脈で使われているかを理解、ないしは感知しているということでもある。コメディは人間の本質に迫ろうとすればするほど「文脈」を大事にする。作者が「文脈」で勝負を挑み、観客が「文脈」を読み取ってきたからこそ、メル・ブルックス監督の『ブレージングサドル』(1974年)は、非常識な描写が多くても「反差別ギャグ」の名作としての揺るぎない地位を獲得できたのだろう。

 そのブルックスは言っている。「民族を傷付けないのはいいことだ。でも、コメディは危険を冒しながら境界線ギリギリを歩くべきものなんだ」。この世には風刺的なコメディしか存在しないわけではないが、風刺的なコメディの存在は許されていなければならない。問われるのは常に何をどのように表現するかだ。ブルックスは「悪趣味なだけ」のネタは通用しないとも断言している。コメディを作るのが難しいのは、コメディこそが人間社会の縮図であるからにほかならない。


● アメリカでも無知な白人は増えている

 2017年の終わりに放送されたバラエティ番組がきっかけで、日本人は黒人差別の歴史にいかに無知であるかを自覚することになった。しかし無知なのは日本人だけではない。当のアメリカでも無知な者は増えている。黒人コメディアンのロイ・ウッド・Jr.は『ザ・デイリー・ショー』(コメディ・セントラル)のスケッチで、ハロウィンの仮装で「ブラックフェイス」を施すことの悪質性を訴えた。「肝心なのはそれが残虐な過去に由来しているということだ。だからこそ問題なのだ」。

▲ 『ザ・デイリー・ショー』 (2017年10月26日) より

 たしかにそれは外国の歴史かもしれない。だがインターネットが存在し、日本でも黒人が暮らしている以上、もはや日本人にとっても他人事では済まないだろう。──ところで、ウッドが出演したこのスケッチには素晴らしいオチが付いている。「レイシストの仮装をしたければこれがおすすめだ。『スティーヴ・バノン』。差別的な仮装をせずに差別主義者を表現できる」。優れたコメディアンはいつだって現実の厄介ごとをジョークに変換してくれる。「笑いこそは最良の薬」である。


(文中だいたい敬称略)
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