2017年03月05日

『それでも町は廻っている』 見事な最終話、残念なエピローグ


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 石黒正数の漫画『それでも町は廻っている』(少年画報社)が完結しました。
 私の地元が物語の舞台ということもあって1巻から読み続けてきた『それ町』。間違いなく我が人生で最も繰り返し読んだ出版物です。『それ町』こそは我が愛読書と称ってよい。色んなことがあった時もなかった時も、私の青春時代は常に『それ町』とともにありました。

 11年以上に渡って連載された作品なので、巻が進むごとに絵のタッチも変化しているし、作品全体の雰囲気も徐々に変化しています。連載当初は真四角のテレビゲーム機が描かれていたのに、後期に入ると登場人物が普通にスマホを使っていたりする。それはまあ構わないとして、ぶっちゃけて言うと、私は単行本12〜13巻頃からは作品に味気なさのようなものを感じるようになっていました。上手く説明できないけど私の知っている『それ町』じゃなくなってきた、みたいな。以前の『それ町』ってこんなに機微なヒューマンドラマやってたっけ、みたいな。

 若干の引っかかりを感じるようになってもこの漫画を最後まで完走できたのは、やっぱりこの漫画の世界観やキャラクターが大好きだったからに他なりません。本物の丸子町には嵐山歩鳥も真田エロ章もクリーニング屋の荒井さんも存在しませんが(ただし「喫茶シーサイド」っぽい喫茶店や「鮮魚真田」っぽい魚屋などは実在する)、私にとって彼らはリアルのご近所さん以上に馴染み深い「ご近所さん」でした。紛うことなき創作上の人物ではあるものの、彼らは私の人生の一部を担ってくれていたのです。

 さーて、この漫画がどう完結されるのか。全国の『それ町』ファンと同じように私も気にかけていましたが、最終巻(16巻)最終話『少女A』は見事な最終話だったと思います。主人公不在という特異なシチュエーションで最終話らしい寂しさを漂わせつつも、『それでも町は廻っている』のタイトル通りに「日常の一コマ」としてエピソードを終える。しかも時系列のシャッフルを売りにしてきた作品らしく、ミステリ小説さながらに前話との関係をミスリードしている。多様な解釈が可能なオチの一言も含めて、『それ町』にふさわしい最高の最終話だったと思います。

 それだけに、巻末に特別収録されたエピローグ『…それから』にはがっかりしました。実に後味が悪い。宇宙人のアイテム(12巻第90話『消された事件』参照のこと)を使って、読んでしまったことを本気で忘れてしまいたい。エピローグはエピローグに過ぎないとはいえ、個人的にはこのエピローグのせいで『それ町』全編が汚されたような気がしてしまうほどです(それなのにネット上では「エピローグに感動して泣いちゃいました(涙)」などというレビューが並んでいるのが私には理解できない。いや、理解できなくはないけど理解するつもりはない)。

 私に言わせれば、『それ町』は山手線なのです。もちろん『それ町』は時系列をシャッフルしている作品なので、単純に内回りに走ったり外回りに走ったりするわけではなく、渋谷駅から新宿駅に行ったかと思ったら恵比寿駅へ向かい、その後は品川駅に行ったかと思ったら新大久保駅へ向かうというような「ダイヤル式黒電話」的な動きをするのですが、しかし結局のところは「円」として全駅がゆるやかに繋がっているという安心感がある。少なくとも私にとっては、この「いつもの感じ」(16巻第123話『Detective girls final』)こそが『それ町』の世界観を支える基本理念(←大げさな表現ですが)なのです。

 ところがエピローグでは「円」から逸脱した「線」の物語が展開されちゃってる。山手線じゃなくて中央線が走っちゃってる。この車両は円環状にくるっと廻っていますよというお約束のはずだったのに、最後の最後に「円」から脱け出て直線上を前進してしまっているのです。これじゃあ『ドラえもん』最終回の都市伝説と同じじゃないか。『それ町』では「あれから×年後──」みたいなことはあくまでもネタとしてしか許されなかったはずなのに(10巻第81話『歩鳥ファーストキス』や12巻第98話『エピローグ』)、公式でこんなことをやっちゃっていいものなんですかね。私はこれは「表切り」じゃなくて裏切りだと感じました。

 と考えるのも、私がやはり歩鳥やその友人たちの「成長」を見届けたくなかったからなのでしょう。彼らの「成長」は高校生活3年間の枠内に留まっていなければならない(=「いつもの感じ」が続いていてほしい)と願っていたからなのでしょう。最終巻エピローグで歩鳥とその友人たちは(少なくとも外見は)大人っぽくなり、タケルやユキコやエビちゃんなんかはまさしく「大きくなったわねぇ!」(CV:親戚のおばさん)なわけですが、私にとって「大きくなった」彼らの姿を見るのは苦痛以外の何物でもありませんでした。

 エピローグについてさらに「イジワル」(6巻第50話『まぼろしの少年』)なことを申せば、歩鳥が文学賞を受賞するというのもう〜んという感じだし(本年度はよっぽど応募者が少なかったんですかね)、歩鳥と静さんの関係性がまるで『それ町』のメインテーマだったような感じで締め括られてますけどそれって『それ町』の一要素(それも途中から浮上してきた一要素)にすぎませんよね、という感じだし。歩鳥の最後のセリフも違和感がある。2巻第15話『パジャマの天使』のひねくれ爺さんの伏線が回収された点ぐらいしか、私はこのエピローグを評価できません。

 ……まあ、繰り返しになりますが、しょせんエピローグは単行本特典に過ぎないわけで、『それ町』の最終話が『少女A』であるという歴史的事実は修正されません。このエピローグはくらもちふさこ『おしゃべり階段』の番外編『まゆをつけたピカデリー』程度のものとして捉えるのがちょうどいいのかもしれませんね(とはいえ『それ町』エピローグの場合は未来を描いているから厄介なんだよなぁ。これが「ひねくれ爺さんがシーサイドに来店」とかいう番外編的なエピソードだったら文句なしだったんだけど。いっそこのエピローグは静さんの夢だということにしようか)。

 今の私はあのエピローグを読んでしまったせいで『それ町』全体の評価が難しくなっちゃってるし、エピローグのトラウマを乗り越えるまでにはしばらく時間がかかりそうだけど(20歳になった歩鳥の姿は「比音小学校の幽霊」より怖い!)、いずれにせよ『それ町』が我が人生の愛読書であり、我が人生の一つの処方箋であったことは確かです。こう言っちゃなんだけど、私はよい読者だったと思うよ。『それ町』をちゃんと楽しめたという自負がある。ちゃんと愛せたという自負がある。……うーん、だからこそあのエピローグは(以下略


▲ 12巻第94話『A・KO・GA・RE ロンギング』参照のこと
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2017年01月10日

人間は“純ロマンチスト”ではあり得ない、が 『正義と微笑』


 太宰治の小説『正義と微笑』(1942年)を初めて読んだ時、なぜ前半部で物語を終わらせてくれなかったのかと作者を憎んだ。

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SDP Bunko 版


 『正義と微笑(びしょう)』の主人公の名前は芹川進。東京で母や兄と暮らす有閑階級の少年である。この小説は彼の16歳の年の4月から17歳の年の12月にかけての日記という形式を採っている(※1)。そのため、読者は進の日記をこっそり盗み読みする感覚でページをめくらされることになる。そういう意味では、この小説は作品の構造からして変態的だといえなくもない(※2)

 物語の後半で、進は「プロフェッショナルに生き」ることを決意した青年へと成熟する。理想は現実の生活に即していなければならず(生活を離れた理想を求めるのであれば「十字架へ行く路」を歩むしかない)、日常生活の中でも「理想に邁進する事が出来るはずだ」──。いわば《ロマンを抱えるリアリスト》として生きることを宣言し、進は新天地へ飛び込む。そしてそれからの7か月間が示される。

▼△▼△▼

 ロマンチストとは理想を“追う”者であり、リアリストとは現実に“追われる”者である。現実を生きている以上、すべての人間はリアリストとしての面をもっている。純リアリストはあり得ても、純ロマンチストはあり得ない。現代のロマンチストとは、リアリストとしての自分をまだ自覚していない者か、自覚した上で《ロマンを抱えるリアリスト》として生きることを決意した者のいずれかである。

 この小説で重要なのは、主人公の家庭が有閑階級であることだろう。有閑階級に属する者は自分がリアリストとしての面を有していることに気付きにくい。現実の生活に“追われる”機会が少ないからだ。進の兄さんがリアリストとしての自分を自覚し、「お金でも、とれるんでなかったら、小説なんて、ばからしい」というリアリスト的な発言をしたのは、文学賞という現実に“追われ”ていた時のことである。

 兄さんの発言を聞いた当時の進は「なんだか、堕落しているんじゃないかしら」「理想の喪失」という感想を抱くが、しばらくすると「僕は、兄さんと、もうはっきり違った世界に住んでいる事を自覚した。僕は日焼けした生活人だ。ロマンチシズムは、もうないのだ」と日記に記す。現実の生活に“追われる”中で、今度は自分こそが堕落してしまったのではないかと怯えるのだ。

 とはいえ、「ロマンチシズムは、もうないのだ」と記した時の進は、本当に純リアリストになってしまっていたわけではないと信じたい。純リアリストになりかけていた自分に気付いて軌道修正を図ったと信じたい。あの一文を書けるうちはロマンチシズムを失っていないと信じたい。別の角度からいえば、この一文に切なさや哀しみを覚える読者はまだ現実に呑み込まれてはいない。

▼△▼△▼

 進は意図してリアリズムを習得したわけではなかった。当初は憧れにすぎなかった世界を現実の舞台とすることで(※3)、いつの間にかリアリストの色を濃くしていたのである。最後の日記にはロマンチックとはいえない文言が躍る。「まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう」。進は《ロマンを抱えるリアリスト》のままなのか。それとも純リアリストに転じてしまったのか。

 感情が散発的に表現される日記体小説ということもあって、その答えは最後まで明らかにならない。だから私はこの小説を初めて読んだ時、なぜ前半部で物語を終わらせてくれなかったのかと作者を憎んだのだった。なぜ作者は進を「成長」させてしまったのか! あるいはせめて進が《ロマンを抱えるリアリスト》として生きると宣言したあの日に、この物語を終わらせてくれていたならば!

 今でも私はこの小説の締め括りに不を感じるが、それこそが作者の狙いなのだろう。人間は純ロマンチストではあり得ない。どんなロマンチストも、リアリストとしての自分と直面することを避けられない。今日のロマンチストは明日のリアリストであり、明日のリアリストは明後日のロマンチストである。誰もこの先の自分を知らない。かつて決意があったという事実を宿しつつ、日は改まっていく。

 小説の最後に記される讃美歌の詞は、《ロマンを抱えるリアリスト》たらんと欲する者にとっての指針となる。「わがゆくみちに/はなさきかおり/のどかなれとは/ねがいまつらじ」──。苦渋の選択である。険しそうな道である。しかし、一筋の光は差している。『正義と微笑』は巷間囁かれるような「明るく希望にみち」た青年の物語ではない。ほろ苦さを味わいながらも前を向く青年の物語である。


注釈
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2015年07月09日

“復刊”はしたけれど… やはり、『青春の墓標』は恋愛文学だ!


この度、社会評論社から
奥浩平著『青春の墓標』(1965年初版刊)が復刊されました。
(『レッド・アーカイヴズ 01 奥浩平 青春の墓標』)

青春の墓標 :: 奥浩平bot〈非公式〉 サポートサイト
『青春の墓標 ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋版)



このブログでは、過去に何度か
奥浩平と『青春の墓標』を取り上げてきました。
直近だと、没後50年記念のこちらのエントリ(2015年3月2日)。
没後50年―『青春の墓標』 奥浩平と「たった一人の恋人」

長らく絶版状態だった『青春の墓標』が
復刊されたことそれ自体は結構なことなのかもしれません
(もっとも、中古の文藝春秋版は比較的入手しやすいですが)。

しかし、この度出版された社会評論社版は、
前半では『青春の墓標』文藝春秋版を転載する一方で、
後半からは、編纂者(「レッド・アーカイヴズ刊行会」)の
自己満足にすぎないマスターベーションを展開しています。
これでは「復刊」というより、名著の「改作」とみなすべきでしょう。



後半冒頭の『刊行にあたって』と題された文章で
「国家権力の非人間的なシステムが発する政策との確執」
「警察国家的な情報統制と情報操作によるデマゴギー」
などという文言が躍っていた時点で嫌な予感がしたのですが、
「かがやかしい21歳」(福田善之)の物語だった『墓標』は、
社会評論社版で「左翼の読み物」に塗り替えられてしまいました。

『刊行にあたって』に続く『座談会』では
生前の奥を知る人々がよもやま話を繰り広げているのですが、
奥のエピソードを語ってくれるのは結構だとしても、
「活動家としての奥を評価しよう」などという会話を見ると
この人たち『墓標』を読んだことがあるのかしら、と感じました。

それでいて『座談会』では、元中核派の彼らが
「今の若者は奥浩平を読まないだろう」などと嘆くのですから、
私は、この気色悪いマスターベーションにはついていけません。
「今の若者」に読まれないように『墓標』を矮小化しているのは
あなた方じゃないんですか、と冷ややかにツッコみたいほどです。

――ちなみに、『青春の墓標』には
「今の若者」にも愛され得るような魅力が備わっています。
奥浩平bot」のフォロワーには若年層も少なくありません。
『墓標』が普遍的な作品として広まることを拒否して
懐古主義にひた走る左翼の面々には、心の底からうんざりです。



さらに、『「青春の墓標」をめぐるアンソロジー』と題された
『墓標』に関する過去の評論の紹介ページでは、
正体不明の匿名の筆者(ペンネームすらなし!)が、
他人の評論を「紹介」するという体裁をとりながら
実際には「『墓標』はこう読め」という解釈を押し付けています。

とりわけ、この「匿名の筆者」は、
『墓標』を恋愛文学として読まれることが気に食わないらしく、
高本茂さんや中野翠さんの評論を上から目線で批判しています。
中でも高本さんの評論に対する攻撃は激しいもので、
ほとんど個人攻撃としか思えないような記述すらありました。

もっとも、高本さんが文中でマルクス主義を批判したため、
「匿名の筆者」は高本さんの評論を罵倒したのかもしれません。
それならば、過剰反応のわけも察しがつこうというものです。
「浩平なら言うだろう。『お前はナンセンスなんだョ』」
などという「イタコ芸」には、さすがにドン引きさせられましたが。



すでに表明した通り、私も、高本さんや中野さんのように
『青春の墓標』という本を恋愛文学として受け取っています。
社会評論社版での「匿名の筆者」のヒステリックな文章を読んで、
皮肉にもその思いは「確信」へと変わりました。

『青春の墓標』は、感性豊かな一人の魅力的な青年が、
特定の誰かとの関わりを多元的に積み重ね、
その誰かを愛したことで、悩み、悶え苦しみながらも、
「恋愛という病」に打ち克っていく物語なのだと確信しています。

もちろん、本の読み方は人それぞれです。
唯一絶対に正しい読み方なんてものは存在しないと思うし、
私も、私の読み方を他人に押し付けるような真似はしません。
しかし、あえて言うならば、『青春の墓標』が
「左翼の読み物」として流布するのは実にもったいないことです。

社会評論社版の「レッド・アーカイヴズ刊行会」は、
『墓標』を「資本主義の不条理の根源」を問う書に矮小化し、
奥浩平のキャラクターそのものを政治利用しています。
351ページから始まる独善的な社会派メッセージは、
私には『青春の墓標』を侮蔑するものとしか思えませんでした。



これから『青春の墓標』を読んでみようという人には、
読者をミスリードさせる思惑をはらんだ社会評論社版ではなく
中古の文藝春秋版を手に入れることをおすすめします。
文藝春秋版には、当時の時代背景を知るために有益な
元中核派幹部・北小路敏氏の丁寧な解説も収録されています。

中古本の購入はこちらから。
奥浩平bot〈非公式〉 サポートサイト:青春の墓標

――本当は社会評論社版なんて黙殺しようと思ったのですが、
「レッド・アーカイヴズ刊行会」の独善的な態度のおかげで
『墓標』が恋愛文学であることを確信できて嬉しかったのと、
高校時代から中野翠さんの愛読者だった自分が誇らしくなったので、
あえて、不愉快な悪書の存在を記録に留めることにしました。



ちなみに、高本茂さんによる『墓標』の評論は
『青春再訪』(2014年、幻冬舎ルネッサンス)に収録されており、
公式ホームページでも全文を閲読することが可能です。
高本茂公式サイト:『青春再訪』(幻冬舎ルネッサンス)

そして、中野翠さんによる『墓標』の評論は
『あやしい本棚』(2001年、文藝春秋)に収録されています。
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