2018年03月22日

伊東四朗80歳、再びの“コント”に臨む 『死ぬか生きるか!』


先日、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA にて
『伊東四朗 魔がさした記念コントライブ 死ぬか生きるか!』を観ました。

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コメディ番組『いい加減にします!』(日本テレビ系)で共演して以来、
舞台『いい加減にしてみました』や『伊東四朗一座』シリーズなどで
伊東四朗さんと三宅裕司さんは定期的にタッグを組んできましたが、
“お芝居”ではないコントライブでの共演は実に8年ぶりとのこと。
昨年傘寿を迎えた伊東さんにとっても8年ぶりとなるコント公演です。

私はてんぷくトリオ世代どころか『イカ天』世代ですらありませんが、
『いい加減にしてみました2』の深夜テレビ中継を観てからというもの、
このお二方の作りだす“東京の笑い”に憧憬の念を抱いてきました。
今回のコントライブでは、伊東さんと三宅さんの黄金コンビに加え、
伊東家次男の伊東孝明さん、SETの西海健二郎さん、榊英訓さん、
丸山優子さん、良田麻美さん、河本千明さんが脇を固めていました。



当日上演されたのは以下の5本のコント(各15〜20分程度)です。
作者は吉高寿男さんと小峯裕之さん、演出は伊東さんと三宅さん。
合間にはスクリーンに映し出される写真と孝明さんの朗読によって、
伊東四朗さんの半生が(面白おかしくも厳密に!)紹介されました。

● 法廷の攻防
 凶悪犯(西海健二郎)の裁判が開かれるが、裁判長(伊東四朗)がいい加減なので法廷は混沌状態に陥る。まじめな検事(三宅裕司)はとうとう業を煮やし……。科捜研の「沢口マリコ」も名前だけ登場する。
● 今夜の獲物
 人影のない森の中。山菜取りの男(三宅裕司)は何者かに左腕を撃たれ、途方に暮れていた。そこに銃を持った猟師(伊東四朗)が迷い込む。会話を進めるうちに、男を撃ったのはこの猟師であることが判明する。
● 歌声レストラン
 レストランでは客の夫婦がウェイター(伊東四朗)を叱りつけていた。注文したはずの料理が来ないのだ。謝罪のため支配人(三宅裕司)が登場するが、支配人の言葉に反応してウェイターは歌い出してしまう。
● 爆発寸前
 広い倉庫の真ん中で、男(三宅裕司)は体にダイナマイトを縛り付けられて座らされていた。爆発物処理班の職員(伊東四朗)がやって来て一安心かと思いきや、この職員はどうにもトボケていて要領を得ない。
● 歌舞伎役者
 深夜なのにマンションの一室からドタバタと音がする。管理人(三宅裕司)と階下の住人(伊東孝明)が件の一室へ駆けつけると、そこでは地方出身者の男(伊東四朗)が歌舞伎のようなものの稽古をしていた。

もうどのコントも本っ当におかしくて、何度も大笑いさせられました。
『歌声レストラン』は伊東&三宅コンビのザ・代名詞的鉄板コントで、
その息の合った掛け合いはもはや“名人芸”の域に達しているほど。
『今夜の獲物』と『爆発寸前』はその設定からして頬がゆるみます。
最後の『歌舞伎役者』ではコントと伊東四朗さんの人生がシンクロし、
“喜劇役者・伊東四朗”の魅力満載、充実度★5のコント公演でした。



さて、エンディングトークで伊東さんと三宅さんが強調していたのは、
お芝居ではない“コント”を上演することの難しさとやりがいです。
お芝居(喜劇を含む)とコントは実は似て非なる性質のものであり、
本公演のパンフレット序文でも伊東さんは次のように記しています。

 昨年の今頃、三宅氏から連絡があった。「伊東四朗一座ボチボチどうですか。コントライブに至っては随分になりますよ。来年どうです?」と。ウーン八十才になってのコントはお客さんも少し引くだろうと思っていたので「そうだなあ一座の芝居かなあ」と思った気持ちと裏腹に出た言葉は「コントライブ、久々にやってみようか」だった。電話のあとすぐに自問していると「お前は動くのか、台詞はすぐ覚えられるのか、テンポのあるやり取りを5本もやるんだぞ!」と。
── 伊東四朗 (『死ぬか生きるか!』パンフレット p.2)

ここ数年、私は喜劇とコントの違いを考えることが多かったのですが、
さすがと言うべきか、本公演パンフレット収録の特別インタビューで、
浜美雪さんがそこのところを伊東さんと三宅さんに直撃していました。
浜美雪さんのお仕事ぶりに、この場を借りて(?)感謝申し上げます。

 ── ところで、喜劇とコントの違いはなんでしょう? 長さの違いだけじゃないわけですよね。
 伊東 また、ずばっと来ましたね(笑)。まずはっきりさせておきたいのは、いま若い人たちがよくやる“ショートコント”というのとコントは違うってことです。コントというのは、ある程度筋があるものを短い時間の間に無理しても詰めてやるものだってあたしは思ってるんです。
── 『死ぬか生きるか!』パンフレット p.10-11
 ── 喜劇とコントの違いって一体何なんでしょう? 長さだけの問題じゃないんですよね?
 三宅 だけじゃないです。喜劇は時間が長いだけに伏線が張れますし、フリの説明も丁寧に時間をかけて出来る。なので、複雑な設定の役も登場させられる。でも、コントの場合はすぐ笑いが来なきゃいけないので、説明してる時間がない。なので状況やキャラクター設定を説明する時間を省くために衣裳や舞台装置を見てすぐ分かるものが多い……医者と患者とか、やくざと刑事がいる取調室とかね。
── 『死ぬか生きるか!』パンフレット p.21

伊東さんの“盟友”であり日本喜劇人協会現会長の小松政夫さんも、
著書『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』(KADOKAWA)の中で
「先輩方」の姿を述懐しつつ、喜劇とコントの違いに言及しています。

 東八郎さんには「シリアスな芝居は誰でもできる。喜劇は難しい。舞台で髪を振り乱して、跳ね回って、パンツ一丁になって大汗かいて、最後にお客さんをホロリとさせる。それが喜劇だ」と教えられました。
 こうした先輩方に接するうち、お客さんを笑わすだけの芝居は喜劇ではない、と思うようになりました。喜劇は「笑う劇」ではなく、「喜ぶ劇」と書くわけです。コントは喜劇を凝縮したものですから、芝居のできない人にできるものではない、とも思います。
── 小松政夫 『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』(KADOKAWA) p.145

総合すると、「コントとは喜劇を笑いに特化させて凝縮させたもの」、
というのがコントと喜劇をめぐるこの問題の模範解答となりそうです。
三宅さんも話していたように、コントは笑いを目的としたものであり、
短い時間の中で即効的なギャグを連発させることが重要となります。
その意味で、三宅さんの「人生に影響を与えたコメディ映画」である
トップ・シークレット』は正真正銘の“コント映画”だと称えるでしょう。

そう考えるならば、笑い声という観客の反応が露骨に求められる分、
出演者や脚本家にとってコントは喜劇よりもシビアな取り組みであり、
一般的な“お芝居”以上に神経をすり減らす仕事だと判断できます。
年齢的にも経歴的にも椅子にふんぞり返っていて当然の伊東さんが
そんな厳しきコントの現場に復帰しようと決めたことがまずスゴいし、
三宅さんらとともに観客を爆笑させていたのはあり得ないほどスゴい。

本公演の主役である伊東四朗さんと仕掛け人である三宅裕司さんに
「あんたはエライ!」(CV:小松政夫)の掛け声をお送りするとともに、
伊東さんのコントライブという珠玉の現場に立ち会えたことに感謝し、
私は今夜も『井上ひさし笑劇全集』(河出書房新社)を紐解くのでした。
それにしても今回、伊東さんに魔がさしてくれて本当によかったです。
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2016年04月30日

マデリーン・カーンの怪演が光る! 『Getting Married Today』


私がYouTubeの存在を知って以来、
最も頻繁に視聴してきた動画は…… 間違いなく ☟これ☟ です。



1992年6月12日、カーネギーホールで開催された
作曲家スティーヴン・ソンドハイムの楽曲を称えるイベントで
マデリーン・カーンが歌った『(Not) Getting Married Today』。

この曲は、『Company(カンパニー)』という
1970年に初演されたブロードウェイミュージカルのナンバーです。
作詞・作曲はもちろんスティーヴン・ソンドハイム。
結婚式を直前に控えた女性の混乱と絶望が描かれています。

私は「最も好きな映画女優」に彼女の名前を挙げてしまうほど
マデリーン・カーンのことがお気に入りなのですが、
その贔屓目を抜きにしても、このパフォーマンスは実に素晴らしい。
見る度に笑みがこぼれる。完璧としか言いようがない。



ちなみに、こちらはベス・ホーランドが歌った初演時のもの。
オリジナルの『(Not) Getting Married Today』というわけです。



この曲は、キャロル・バーネット
ケイティ・フィナーランらによっても歌われています。
役者さんのそれぞれの持ち味を活かしやすい曲なんですね。



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2015年02月11日

ジャン・ミッシェルの“背中”に応える時 『ラ・カージュ・オ・フォール』


今日は、日生劇場で ミュージカル
『ラ・カージュ・オ・フォール 籠の中の道化たち』を観てきました。

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 <キャスト>
ジョルジュ:鹿賀丈史
アルバン(ザザ):市村正親
ジャン・ミッシェル:相葉裕樹
アンヌ:愛原実花
ジャクリーヌ:香寿たつき
ダンドン議員:今井清隆
ダンドン夫人:森公美子
ハンナ:真島茂樹
シャンタル:新納慎也
ジャコブ:花井貴佑介
ルノー:林アキラ
フランシス:日比野啓一
ルノー夫人:園山晴子

 <スタッフ>
作詞・作曲:ジェリー・ハーマン
脚本:ハーヴェイ・ファイアスティン
原作:ジャン・ポワレ
翻訳:丹野郁弓
訳詞:岩谷時子、滝弘太郎、青井陽治
演出:山田和也
オリジナル振付:スコット・サーモン



ブロードウェイミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』の日本語版は、
今からちょうど30年前の1985年2月、帝国劇場で初演されました。
『ラ・カージュ』は、我が敬愛するジェリー・ハーマンの集大成的作品で、
この作品の発表後、ハーマンは新作ミュージカルを製作していません。
楽観主義的でヒューマニスティックな楽曲はどれもただただ素晴らしく、
今夜の私なんぞは、序曲の段階で胸の高鳴りを抑えるのに必死でした。

前回(2012年)・前々回(2008年)に引き続き、30周年記念の今回も、
鹿賀丈史さん&市村正親さんの名コンビが夫婦役を務めています。
初演時からこの作品に出演し続けている森公美子さんらをはじめ、
主なキャスト陣は前回公演と変わりありませんが(花井さんは改名!)、
今回、新たに相葉裕樹さんがジャン・ミッシェル役で参加しています。
軽やかに踊る相葉さんは、まるでアニメの中のウサギのようでした(笑)。



30周年を迎えた今年の『ラ・カージュ』は、隅から隅まで“完璧”です。
まず、キャストとオーケストラの“息”がピッタリと合っています。
途中、鹿賀さんの歌い出しで始まるナンバーが何曲かあったのですが、
鹿賀さんはかなりマイペースで歌い出しているように見受けられました。
キャストとオーケストラが互いを信頼しているからこそなせる業でしょう。
さらに、場面転換時のセットの移動があまりにもナチュラル。
観客がステージの中央で輝くキャストに目を凝らしているうちに、
いつの間にか、舞台後方のセットや背景が切り替わっているのです。

繊細かつ堂々とした俳優陣の演技にも、触れないわけにはいきません。
ハンナが鞭を使って大暴れする“レビュー”の一場面――
フランシス役:日比野啓一さんは表情と立ち姿で笑いをとりますが、
『ありのままの私』直前の件では、その場に残りつつ存在感を消します。
舞台上がコメディからシリアスに移り変わる一瞬に“魔法”を起こすのです。
もちろん、カジェルたちによる“レビュー”の楽しさは言うまでもないし、
ザザの喋り方に森さんが思わず笑ってしまうハプニング的要素も含めて、
『ラ・カージュ』は、音楽、舞台装置、演技と、何もかもが“完璧”なのです。



(以下、ネタバレを含みます!)

「完璧すぎるのが逆にキズ」と言いたくなるほどの今回の公演ですが、
3年前(2012年)には気付かなかった印象的な演出を発見しました。
それは、終盤におけるジョルジュとジャン・ミッシェルの別れの抱擁です。
同性愛差別派:ダンドン議員の娘アンヌと結婚したからといって
ジャン・ミッシェルは父母と今生の別れとなるわけではないのですが、
ジョルジュとジャン・ミッシェルの抱擁の場面はあまりにも悲しげで、
その後、一人去っていくジャン・ミッシェルの背中はとても寂しげでした。

また、ジョルジュ&ザザ夫妻が、同性愛差別派のダンドン議員を
「パーティーには……来ないで〜」と笑顔で拒絶する場面も特徴的でした。
この場面では、同性愛者と差別派の和解という展開も可能だったはず。
むしろ、物語としては、ジャン・ミッシェルには寂しげな背中を作らせず、
和解したジョルジュ・ダンドン両家の笑顔のうちに大団円を迎えたほうが、
観客を爽涼な心持ちで帰宅の途につかせることができるように思えます。
なぜ脚本のファイアスティンは、あえてダンドンを差別派のままにさせ、
ダンドン家へと一人向かうジャン・ミッシェルに寂しい背中を作らせたのか。



実は、ファイアスティンは過去にも似たようなシーンを執筆していました。
『ラ・カージュ』初演2年前の1981年にファイアスティンが執筆した
舞台劇『トーチソング・トリロジー』(1988年に映画化)のラストです。
同性愛者の主人公と同性愛を嫌悪する母親が一応「和解」するのですが、
その和解は部分的なものに留まり、完全な和解とはなっていません。
当事者と抵抗者の間の「分かり合えぬ一線」を浮き彫りにさせることで、
ファイアスティンは、綺麗事では済まされない苦い現実を示唆したのです。
『ラ・カージュ』での笑えるけど冷たいあしらい、父子の悲しげな抱擁、
息子の寂しげな背中は、『トーチソング――』のラストを彷彿とさせました。

『ラ・カージュ』初演時は同性愛への偏見が根強く、劇中のザザも、
ゲイなのかトランスジェンダーなのかはっきりしない形で描かれています。
当時の客のため、ザザは女性的である必要があったのかもしれません。
普段は寛容なジョルジュ&ザザ夫妻がダンドン議員を冷たくあしらう場面、
ファイアスティンが際立たせた「悲しげな抱擁」と「寂しげな背中」を見ると、
「不寛容に対する寛容」というものがあり得ないことを痛感させられます。
『トーチソング――』の親子同様、「愛がすべて」なのは真実だとしても、
同性愛の寛容と不寛容の間には「分かり合えぬ一線」が存在するのです。



現在の日本でもダンドンのように同性愛に不寛容な政治家はいますし、
残念ながら、性的少数者への差別が少なからず存在するのも事実です。
本公演のパンフレットに掲載されたリー・ロイ・リームズのインタビューは
ハーマンと『ラ・カージュ』を解説する見応えある内容となっていますが、
セクシャリティが「性的嗜好」と誤訳されていることからも窺えるように、
日本で同性愛が正しく理解されているかというと首を傾げざるを得ません。

しかし、渋谷区が「同性パートナー証明書」条例案の提出を決めるなど、
少しずつ、一歩ずつ、時代が明るい方向に動き出しているのも確かです。
寛容と不寛容の狭間で漂流しがちな現代の社会において、
『ラ・カージュ・オ・フォール』という作品は、不寛容でも無関心でもなく
寛容の精神で人間と人間が結び付くことの大切さを力強く訴えています。
私には、この訴えに呼応することこそが、ジャン・ミッシェルが見せた
「寂しげな背中」に対する、せめてもの救済となるように思えてなりません。


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リー・ロイ・リームズへのインタビューなどが収録されたパンフレット。
 「ジェリーの楽曲と言うと、誰もが耳に馴染みやすいメロディーばかりを評するけれど、実は歌詞も素晴らしい。シンプルな一語一語が粒立っていて、明瞭に観客の心に届くんだ。彼と対極にあるのが、スティーヴン・ソンドハイムだよね。 〔中略〕 その点ジェリーの曲は、一度憶えると自然に歌詞が出て来るんだ」(中島薫『観客から貰った一通の手紙』)
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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