2017年12月07日

“温故知新”のアメコメ×バディ活劇 『セントラル・インテリジェンス』


先日、川崎チネチッタで
映画『セントラル・インテリジェンス』を観ました。

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 <あらすじ>
高校時代は誰もが憧れるスターだったカルヴィン(ケヴィン・ハート)だが、
卒業から20年後、現在は中年会計士としてサエない日々を送っている。
そんな彼のもとに突如、当時「おデブ」と呼ばれていじめられていた
ボブ(ドウェイン・ジョンソン)から“久しぶりに会いたい”との連絡が届く。
しぶしぶ会いに行くと、そこにはマッチョな肉体へと変貌したボブの姿が!
しかも実はCIAの一員で、組織に追われているため助けてほしいという。



私がこのアクションコメディ映画を観に行こうと思った理由は2つあります。
一つは、米国民的コント番組『サタデー・ナイト・ライブ』の裏番組として
FOXテレビで放送された『マッドTV!』(1995年〜2009年)の元レギュラー、
コメディアンのアイク・バリンホルツが原案と共同脚本を担当しているから。
較べるまでもなく番組の完成度も視聴率も『SNL』のほうが上でしたが、
個人的には『マッドTV!』の“空気”のほうに親近感を抱いていたりします。

もう一つの理由は、かねてより私がその制作姿勢に信頼を置く映画監督、
ローソン・マーシャル・サーバーが監督と共同脚本を担当しているから。
サーバーは『ドッジボール』(2004年)、『なんちゃって家族』(2013年)と、
良質なアメコメ(アメリカンコメディ)映画を発表していることでおなじみです。
ちなみに、『なんちゃって家族』に出演していた俳優のエド・ヘルムズは
本作に出演してはいませんが、製作総指揮の一人として参加しています。



サーバーは処女作品『ドッジボール』でも、第3作『なんちゃって家族』でも、
コミュニティから疎外されている人生不調組を主人公に設定してきました。
サーバーの作品において、人生不調組の面々は時の経過とともに団結し、
最終的には富と権力を不当に独占する“勝ち組”の悪役に一泡吹かせます。
本作もその例外に漏れませんが、主人公を2名の男性に絞っているため、
いわゆるバディムービーとしてテンポよく物語が展開するのが特徴的です。

とはいえ本作は決して子ども騙しのありきたりなバディムービーではなく、
ましてや陳腐なブロマンス映画の範疇に留まっているわけでもありません。
一癖あるシナリオのおかげで、観客は本作がバディムービーなのか、
“相棒”が味方なのか敵なのかを最後まで判断できなくされているのです。
シナリオ上のこの仕掛けが映画に丁度良い緊張感と遊び心をもたらし、
世界中で量産されている数多のバディムービーとは一線を画しています。

──しかし、107分間の本編を観終わり、改めて歴史を振り返ってみれば、
「“相棒”が味方なのか敵なのかがラストまで分からない」という仕掛けは
映画史上屈指の名作『スティング』(1973年)でも施されていたわけで、
脚本を担当したサーバーやバリンホルツの発明というわけではありません。
名作映画からの学びに基づいて独自の映像センスを打ち出した本作は、
まさしく“故きを温ねて新しきを知る”正統派の娯楽映画だと称えるでしょう。



『セントラル・インテリジェンス』では、サーバーとバリンホルツのみならず、
デヴィッド・スタッセンというコメディ作家も共同脚本に名を連ねています。
バリンホルツとスタッセンは、2012年9月にFOXテレビで放送を開始し、
2015年から2017年11月までは動画配信サービス「Hulu」で配信された
ミンディ・カリング主演の連続コメディドラマ『The Mindy Project』で
ともに脚本と製作を担当した、いわば“直近の”ビジネスパートナーです。

いまや全米No.1の人気映画スターの座に就いたドウェイン・ジョンソンと
人気No.1コメディアンであるケヴィン・ハートの好演が際立つ本作ですが、
一癖ある“温故知新”な設定はもとより、明るく笑える下ネタや人種ネタ、
Facebookのメッセージ機能の特性を活用した(?)不条理なギャグ、
そして「裸の自分を恥ずかしがるな!」という前向きなメッセージ性など、
3名のコメディ作家が書いた脚本の出来も相応に評価されるべきでしょう。

黒人や同性愛者に関する差別的な表現を逆手にとってギャグを紡ぎ出し、
“当事者”をも満足させるカタチで映画を面白くしている本作を観ると、
PCのせいで笑いを創れない」という弁明は欺瞞だということが分かります。
これは『22ジャンプストリート』(2014年)を観た時にも感じたことですが、
今日の優れたコメディ制作者たちは、人権の概念に「縛られる」どころか
むしろ人権意識を発露することで面白いコメディを創り続けているのです。


▲ 「ダサいカバンを持ちたいなら堂々と持てばいい」 (ドウェイン・ジョンソン)
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2017年10月25日

モンティ・パイソンとの遭遇 『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』


先日、岩波ホールで
映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ました。

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 <あらすじ>
19世紀の北米に生まれたエミリ・ディキンスン(シンシア・ニクソン)は
恵まれた資産家の家庭に育ち、家族や友人からも愛されていた。
進歩的な考えを持っていたことから他者と衝突することも多かったが、
愛する母の死を境に心を閉ざし、屋敷の自室に引きこもるようになる。
やがて彼女の精神と肉体は「ブライト病」という難病に襲われ始め……。



エミリ・ディキンスンといえばアメリカを代表する19世紀の詩人であり、
現在に至るまでアメリカ内外の文化に影響を与え続けている女性です。
J・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)にも、
主人公の弟が評価していた「戦争詩人」としてその名前が登場します。
彼女は「生前わずか10篇の詩を発表し、無名のまま生涯を終え」、
1800篇近くに及ぶ未発表の詩稿が没後になってから発見されました。

劇中においてディキンスンは攻撃的な人物として描き出されています。
静謐な存在として「詩人」をイメージしてきた人々は、映画を観ながら
「なぜ彼女はそこまで外部に反抗するのか」と感じたかもしれません。
精神科医の帚木蓬生は著書『ネガティブ・ケイパビリティ』(朝日選書)で、
ジョン・キーツの言葉を紹介しながら「詩人」の在り方を解説しています。

 「詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。神の衝動の産物である太陽や月、海、男と女などは詩的であり、変えられない属性を持っている。ところが、詩人は何も持たない。アイデンティティがない。確かに、神のあらゆる創造物の中で最も詩的でない。自己というものがないのだ。」

 ここに至って、キーツの真意がようやく読み取れた気がしました。アイデンティティを持たない詩人は、それを必死に模索する中で、物事の本質に到達するのです。

── 帚木蓬生 『ネガティブ・ケイパビリティ』 (朝日選書) p.6-7

他者や社会などの外部から信仰や“女性性”を強制されることを否定し、
それらに反抗することで「自由」を確かめようとしたディキンスンは、
自らの力でもって愛別離苦という現実に対処するしかありませんでした。
いわば彼女はゼロの地点から宗教哲学を構築しようとしていたのです。
「物事の本質」を知るために「必死に模索」する人物が情熱的であり、
外部に対して攻撃的ですらあるのは、ある意味では自然なことでしょう。



さて、この伝記映画を観ていてびっくりさせられたことが一つあります。
それは、場面を印象的に盛り上げるための劇伴(BGM)として
ミュージカル『スパマロット』(2005年初演)の楽曲が使われていたこと!
19世紀アメリカの詩人を描いたドラマチックな伝記映画を観ていたら
なぜかモンティ・パイソンのミュージカルナンバーが流れてきたのだから、
中学生の頃からのパイソン狂としては驚きの念を禁じ得ませんでした。

本作で使用されたのは『I'm All Alone』という第二幕のナンバーで、
作詞・作曲はもちろんエリック・アイドルとジョン・デュ・プレです。
初演ではティム・カリーとマイケル・マクグラスがこの曲を歌唱しました。
メロディそのものは美しく、歌詞も素直に読めば感動的ではあるものの、
『スパマロット』の物語上では笑いを(も)誘う曲と位置付けられています。

当然ながら(?)本作で使われたのはインストゥルメンタル版でしたが、
それでもモンティ・パイソン発のミュージカルの冗談混じりの楽曲が
エミリ・ディキンスンの伝記映画に使われたことには変わりありません。
私としては思いがけぬ「ギフト」に遭遇したかのような気分になりました。
ディキンスンがアメリカ文化に影響を与え続けている人物だとすれば、
パイソンズもまた世界中に影響を与え続けている存在だと言えそうです。


▲ 『モンティ・パイソンのスパマロット』 ブロードウェイ公演 (2005年) より
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2017年10月09日

プレストンより愛をこめて 『ハロルド・ディドルボックの罪』


先日、シネマヴェーラ渋谷で
映画『ハロルド・ディドルボックの罪』(1947年)を観ました。
同時上映は『ロイドの人気者』(1925年)。

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 <あらすじ>
勤務先の社長(レイモンド・ウォルバーン)から突然リストラを宣告された
中年サラリーマンのハロルド・ディドルボック(ハロルド・ロイド)は、
路上でたまたま知り合ったノミ屋風の男・ウォーミー(ジミー・コンリン)に
地元のバーへ連れて行かれ、生まれて初めてカクテルを飲む。
すると、堅物だったはずのディドルボックの性格が急に変わってしまい……。



当時パラマウント映画を離脱したばかりだったプレストン・スタージェスが、
映画俳優としては引退状態にあった一昔前の“喜劇王”ハロルド・ロイドを
引っ張りだして製作したのが、本作『ハロルド・ディドルボックの罪』です。
1947年に『The Sin of Harold Diddlebock』のタイトルで公開されるも、
興行的には失敗し、プロデューサーのハワード・ヒューズの手によって
Mad Wednesday』と改題・再編集の上、1950年に再公開されました。

では、ロイドとスタージェスが協働した本作のその肝心の中身はというと、
ロイドの代表作の一つ『ロイドの人気者』(1925年)の続編と位置付けられ、
『ロイドの人気者』の主人公“スピーディ”の20年後の姿を描いています。
主人公の名字がなぜか「ラム」から「ディドルボック」に変更されているのは、
何か特別な意図があってのことでしょうか、それともただの凡ミスでしょうか。

本作の冒頭では『ロイドの人気者』のアメフトシーンが流用されていますが、
試合とは無関係の汽笛が鳴る──“スピーディ”は立ち止まる──カットは
観覧席の少年が応援の笛を鳴らすという新撮のカットに替えられています。
ヒロインのペギー(ジョビナ・ラルストン)が“スピーディ”を応援するカットも
社長(レイモンド・ウォルバーン)が登場する新撮のカットに差し替えられ、
ペギーは最初からその世界には存在していなかったことにされていました。



本作は“喜劇王”ロイドへのスタージェスのラブレターとも称うべき作品です。
一度聴いたら忘れられない、主人公ディドルボックの印象的な“奇声”は
「ロイドはトーキーでもイケるぞ」というメッセージ性さえ伴うギャグでした。
往年のロイド作品で定番だった動物とのやり取りもがっつり挿まれています
(『ロイドの人気者』の子猫は20年経ってライオンへと“成長”したのだ!)。
動物を決して粗雑に扱わず、むしろ尊重するところもやはり共通しています。

本作の見どころの一つ、高層ビルの外壁で繰り広げられるあれやこれやは、
ロイドの別の代表作『要心無用』(1923年)を連想させずにはいられない。
ディドルボックの妹(マーガレット・ハミルトン)がかけている「ロイド眼鏡」は
ロイドがかつて喜劇界のアイコンだった事実を観客に思い出させるものです。
さらに、スタージェス作品にしては拍子抜けするほど素直で優しい結末は、
まさしく往年のロイド作品の心温まるハッピーエンドを思わせるものでした。

スタージェスによるロイドへのトリビュートは目に見える部分に留まりません。
1920年代に“人気者”になったものの現在では忘れ去られた主人公が
逆境をバネに立ち上がる──というプロット自体が、ロイド本人と重なります。
ロイドはよくこの役柄を引き受けたものだと思いますが、このプロットからは、
一昔前の“喜劇王”を何事もなかったかのように銀幕に復帰させることで
ロイドに恥をかかせてはならないというスタージェスの配慮がうかがえます。



それでいてスタージェスは、いかにも自らの作品らしい脚本上のギャグ
──“姉妹”をめぐるヒロインとの台詞の応酬──にロイドを挑戦させています。
スタージェスが書いた世界観の上にロイドが立っているというこの面白さ!
加えて、スタージェス作品の常連であるジミー・コンリンやルディ・ヴァリーが
ロイドと共演する様子は、ロイドと“スタージェス組”のコラボレーションを
視覚的にもはっきりと映しだす、喜劇映画ファンにはたまらない光景でした。

もっとも、現場ではロイドとスタージェスは衝突することもあったようですが、
出演者と演出家の対立は必ずしも作品を失敗に導くわけではありません。
事実、本作を「最も偉大な喜劇の一つ」「我がオールタイムベストの一本」と
評する映画ファンも少なくなく、本作は米国でカルト的人気を誇っています
(逆にこの作品を駄作としてこき下ろす批評には滅多にお目にかかれない)。

個人的には、“ロイドのドタバタ喜劇”としても“スタージェスの作品”としても
いささか物足りなさを感じてしまいましたが、いずれにせよ本作から、
チャップリンやキートンと並ぶ“喜劇王”ロイドに対するスタージェスの愛情と、
役者として新境地を開こうとするロイドの意欲が伝わってくるのは確かです。
ロイドとスタージェスという2人の天才がタッグを組んだ貴重な作品として、
『ハロルド・ディドルボックの罪』は喜劇映画史にその名を刻み続けるでしょう。
posted at 23:59 | Comment(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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