2018年09月03日

上質な“ブラックユーモア”目白押し 『スターリンの葬送狂騒曲』


先日、川崎チネチッタで
映画『スターリンの葬送狂騒曲』を観ました。

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 <あらすじ>
舞台は1953年、ソビエト社会主義共和国連邦。
独裁者スターリン(アドリアン・マクローリン)が脳溢血で死去し、
側近だった共産党幹部たちは次期指導者レースに打って出る。
スターリンの娘スヴェトラーナ(アンドレア・ライズボロー)に
取り入ろうとする者、策略によって政敵を陥れようとする者──。
最高権力者の座をめぐり、狂気の“イス取りゲーム”が始まった。



この作品で監督と共同脚本を担当しているアーマンド・イアヌッチは、
1990年代からテレビ・ラジオで政治風刺コメディを放ち続けてきた、
現代イギリスが誇るコメディ界の“ビッグネーム=大看板”です。
英米の政治家はもとよりビンラディンなどをもネタにしてきた一方で、
ジュリア・ルイス=ドレイファス主演の『Veep/ヴィープ』(HBO)など、
風刺的な連続コメディドラマの脚本や演出、製作も手がけています。

不動の地位を確立したイアヌッチの長編映画第二作目にふさわしく、
本作にはスティーヴ・ブシェミ、サイモン・ラッセル・ビール、
モンティ・パイソン”のマイケル・ペイリン、ポール・ホワイトハウス、
ジェフリー・タンバーといった実力派のベテラン男優が集結しました
(ペイリン出演作が日本で公開されるのはかなり久々のことですが、
本作でもペイリンは往時を彷彿させる“怖ろしさ”を滲ませています)。

この作品では、旧ソ連の独裁者スターリンの死をきっかけに始まる
コミカルな権力闘争劇と並行して残忍な処刑シーンが描かれますが、
実際には処刑シーン自体が喜劇的に処理されることはありません。
劇中でコミカルに提示される“人間の死”はスターリンの死のみです。
本作は何百万人もの人々が命を落としたという事実に配慮しつつ、
喜劇の視点を忘れることなく貫いた“絶妙な”作品だと称えるでしょう。



この映画にはいくつもの秀逸かつ王道的なスケッチが存在します。
神経質な笑いが展開される“ラジオ番組の舞台裏”でのドタバタ劇
(パディ・コンシダインをわざわざ配役する力の入れよう!)に始まり、
代演指揮者の誤解、スターリン(アドリアン・マクローリン)の“尿”、
スターリンの“最期の伝言ゲーム”、モロトフ(ペイリン)の妻の帰還、
古典落語『船徳』の一節を思わせるアイスホッケー場での勘違い──。

さらには、政権幹部会での挙手したりしなかったりさせられたりなど、
緊迫感漂う状況から生じる上質のブラックユーモアが目白押しです。
しかも、各場面を演じるのはタンバーやブシェミ、ペイリンといった
個性的なコメディ演技の達人ばかりなのだから、“実にたまらない”。
それぞれのキャラクターを際立たせる名優たちの好演を観ていると、
今さらながら、“俳優”という存在の意味に恐れ戦かされるほどです。



念のため記すと、これらのスケッチは本筋を逸脱するものではなく、
むしろ本作のメインテーマど真ん中に位置しているものです。
すなわち本作は、愚かな者たちが真剣に行動すれば行動するほど
皮肉にも状況が気まずくなるという喜劇の古典的構造を通じて、
最終的にはごく自然に独裁政治の狂気性を露わにしているのです。

一例を挙げると、フルシチョフ(ブシェミ)とベリヤ(ビール)の政争が
血腥く緊迫する中で、政権トップのはずのマレンコフ(タンバー)は
自らのパフォーマンスに役立つ少女を探し続ける──というギャグは、
無能な政治家の“ズレてる感”を表す重要なモチーフでもあります
(ちなみにこの一連のギャグには、ついに選出された少女が結局は
パフォーマンス上の価値を失うという粋なオチが用意されています)。

もちろん笑いと恐怖は背中合わせなので、例えば終盤における
“臆病な”マレンコフがベリヤと目を合わせたがらないという演出は、
一片のギャグであり得ると同時に、最上級の緊張を醸成します。
独裁政治の恐怖を喜劇として表現するという難題に応えた本作は、
“政治風刺の達人”イアヌッチが最高の出演者とともに完成させた、
他に類を見ないほど理想的なブラックコメディの大々傑作なのです。



▲ 『スターリンの葬送狂騒曲』 (2017年) イギリス版 予告編



 <追記>
さて、本作の邦題が『〜狂騒曲』とされているのは、言わずもがな、
モロトフ役を演じたペイリンが所属するコメディグループの映画
『モンティ・パイソン 人生狂騒曲』(1983年)へのオマージュでしょう。
本作の上映時間が『人生狂騒曲』と同じ107分であるというのは、
何とも奇妙な(そして意味のない)偶然としか言いようがありません。


▲ 『モンティ・パイソン 人生狂騒曲』 (1983年) より #私の中学時代の愛唱歌
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2018年08月08日

“虚構”の世界に閉じ込められて 『女と男の観覧車』


先日、109シネマズ二子玉川で
映画『女と男の観覧車』を観ました。

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 <あらすじ>
1950年代。遊園地の食堂で働くジニー(ケイト・ウィンスレット)は、
回転木馬の操縦係・ハンプティ(ジム・ベルーシ)と再婚したものの、
監視員のミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)と密通している。
そんな折、ギャングと駆け落ちして音信不通だったハンプティの娘・
キャロライナ(ジュノー・テンプル)がジニーの目の前に現れて……。



現代映画界の名匠ウディ・アレン監督の最新作『女と男の観覧車』は、
アレンとAmazonスタジオの提携による劇場用作品第2弾です。
第二次大戦前後、少年時代のアレンがしばしば遊びに訪れたという
ニューヨークの半島・コニーアイランドの遊園地が舞台となりました。
まず、本作はキャスティングの時点で傑作の匂いを漂わせています。

『ムービー43』(2013年)で名女優ぶりを示したケイト・ウィンスレット、
4人目のザ・ロンリー・アイランド”ことジャスティン・ティンバーレイク、
紀元1年が、こんなんだったら!?』(2009年)のジュノー・テンプル、
そして、もはや説明不要の名コメディアン&名優のジム・ベルーシ──
コメディ作品にも馴染み深い、私好みの役者陣が顔を揃えています。

中でもジム・ベルーシは私にとって最も親しみがある俳優の一人で、
ボニー・ハント監督の『この胸のときめき』(2000年)での演技は
ゴールデングローブ賞などを受賞すべき快演だったと信じています。
彼がアレン監督作品に出演するのは意外にも今回が初めてですが、
巧みな表情と台詞回しで難のあるキャラクターを演じ切っていました。

デヴィッド・クラムホルツが出演していることも特筆に値するでしょう。
ここ数年、彼は『サンタクローズ』(1994年)の頃と比べると激太りし、
本作でも肥満体を見せていますが、どうやら最近は減量したようです。
──余談ですが、アレン監督作ではキャスティングが特に重要であり、
キャスト表を見れば本作の出来もだいたい察しがつくというものです。



ミッキー(ティンバーレイク)がカメラ目線で独白する冒頭部からして、
本作は自らが“つくりもの”であることを積極的にアピールしています。
カラフルな看板・建物に囲まれた賑やかな遊園地という舞台設定や、
頻繁に移り変わる照明の色彩、ハンプティという登場人物の名前も、
この作品が“つくりもの”であることを示唆したり強調したりしています。

虚構的な設定の一方で現実的なのは、ほかならぬ役者の演技です。
本作のキャストによる演技は常にシリアスかつリアルであり続けます。
ジニー(ウィンスレット)の「遊園地は嫌い」という呟きが示すように、
本作では、遊園地を思わせるほどのつくりもの(ファンタジー)の中に
現実(リアル)な息遣いの登場人物たちが閉じ込められているのです。

当然ながらこのような状況では、現実(リアル)の主体=登場人物は
事実と認識のミスマッチに耐え切れず、もがき苦しむことになります。
ウィンスレットらによる長台詞はまるでソープオペラのようですが、
これはまさしく“つくりもの”の典型例であるメロドラマの枠組みの中に
押し込められた登場人物たちの感情の爆発を表現したものでしょう。

さらに象徴的だったのは、元女優のジニーが息子(ジャック・ゴア)に
過去の出演舞台で使用した首飾りを何度も見せるという描写です。
虚構の世界において“現実”を確かめようとする焦燥感が伝わります。
同じような逸話は『チャップリン自伝』(新潮文庫)にも登場するので、
もしかすると アレンはその逸話を本作に援用したのかもしれません。



劇中のあらゆる仕掛けが無駄になっていくのも本作のポイントです。
3ドルで買ったテープレコーダーも、哲学科卒業生への恋愛相談も、
500ドルの時計も、息子の精神療法も、すべては水の泡となります。
物語が進むにつれて登場人物たちは袋小路へ追い詰められていき、
映画が終わる頃には登場人物の誰しもが不幸になっているのです。

極めつけは、衝撃的とすら形容できる数秒間のラストシーンでしょう。
ブルージャスミン』(2013年)のように主演女優の表情を映し出して
映画を終えるのかと思いきや、その後に衝撃的な数秒間を注ぎ足し、
まるで念を押すかのように本作の“救いようのなさ”を高めていました。
アレンの作家としてのサディスティックな一面が発揮された演出です。

しかし本来、救いがない“物語=つくりもの”は、現実の観客に対して
「自分たちはあれよりはマシだ」などといった救いをもたらすものです。
本作が“つくりもの性”を随所で強調してきた映画だったことを思えば、
逆説的ではありますが、完全に救いようがないこの映画のラストは
現実の観客にとってはこの上ない救い(救済)でもあるはずなのです。

本作はこうした創作物(虚構)と現実のあいだに存在する友好関係と
緊張関係を浮き彫りにしたメタフィクション的な作品であるとともに、
80歳を超えてもなお野心的な名匠による前衛的なドラマ映画でした。
本作を観る者は、これが“つくりもの”であることを意識させられつつ、
登場人物たちの直面する出来事を現実のように感じてしまうでしょう。



▲ OP/ED曲: ミルス・ブラザーズ 『コニーアイランド・ウォッシュボード』 (1926年)
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2018年06月24日

わたしの人生は“回復”できる 『レディ・バード』


先日、TOHOシネマズ川崎で
映画『レディ・バード』を観ました。

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 <あらすじ>
舞台は2002年、カリフォルニア州サクラメント。
高校生活最後の年を迎えたクリスティン(シアーシャ・ローナン)は
自らに“レディ・バード”と名付け、家族や友人にもそう呼ばせている。
彼女はニューヨークなどの都会の大学に進みたいと考えているが、
母マリオン(ローリー・メトカーフ)は娘を地元の大学に通わせたい。
母娘に溝が生じる中、“レディ・バード”は高校の演劇部に参加する。



“良い映画”を観た後は世界がこれまでとは変わって見えてきます。
心が豊かになり、他人にも少しだけ優しく接せられるようになります。
『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』(2010年)でおなじみの女優:
グレタ・ガーウィグにとって初めての単独脚本・監督作である本作は、
ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』(1989年)と肩を並べる
真に感動的な青春映画であり、“名作”と称すに相応しい作品でした。

“レディ・バード”こと主人公クリスティン役のシアーシャ・ローナン、
その母マリオン役のローリー・メトカーフ(彼女がレギュラー出演する
ABCのシットコム『Roseanne』は奇しくも先日打ち切られましたが)
をはじめ、すべてのキャストが文句の付けようがないハマり役です。
演劇部臨時顧問の“指導”のくだりは純粋に秀逸なコメディパートで、
臨時顧問役のボブ・スティーヴンソンは見事な快演をみせています。



本作では登場人物の沈黙が描かれるシーンも少なくなりませんが、
自主映画にしばしば見受けられるような“薄さ”は感じられません。
その理由は、本作では演出と編集に抑揚が効いていることに加え、
BGMとなる音楽が惜しみなく効果的に使用されているためでしょう。
結果的に本作は、“ポップ”なだけでもなくオフビートなわけでもない
独特な間合いを貫くことに成功し、観客を映画の中へと浸らせます。

台詞に価値があり、沈黙(とその際の役者の表情)に意味がある──。
やや大袈裟な言い回しかもしれませんが、『レディ・バード』を観て、
私は“映画”というメディアの永遠の可能性を確認させられました。
シスター・ジョアン(ロイス・スミス)が“愛”をめぐる台詞を言った後に
母マリオンを映し出すなどといった映画特有の手法を用いることで、
本作はすべての登場人物に人生があることを提示しているのです。

私が最も親近感を抱くキャラクター:ダニー(ルーカス・ヘッジズ)は、
ロナルド・レーガンの写真(※) を飾るようなカトリック教徒の家庭で
育った青年でありながら、自らがゲイであることを自覚し始めます。
2002年のサクラメントでゲイであることを自覚することの深刻さは、
ダニーが同性愛の自覚を「悪化」と表現する様子からも窺えます。
彼が“レディ・バード”を前にして嗚咽する場面はあまりに悲痛です。

本作では政治的主張が具体的に提起されるわけではありません。
劇中の人間関係の変化や登場人物の感情描写についても同様で、
本作では印象的な状況(ここでは具体例を挙げずにおきますが)を
提示することで、人物一人ひとりの感情や人間性を表しています。
そのため本作においては役者の演技が果たす役割が非常に大きく、
実際に本編を観なければ本作の魅力は十分に分からないでしょう。



エントリのお終いに、本作の物語に関して想ったことを一つだけ──。
この映画は“出発”の物語である以上に“回復”の物語でもあります。
劇中で主人公はダニー、親友ジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)、
そして母マリオンとの関係を最終的に“回復”することになりますが、
それは必ずしも元通りの関係性に戻るという“復元”を意味しません。
それは絶縁の過去を踏まえて関係を“再生”させることを意味します。

たとえどんなに望んでも過去の出来事をなかったことにはできない。
でも、過去を人生に消化して前に進む=“いま”を紡ぐことはできる。
それこそが自分の人生をより優しくさせるための唯一の方途であり、
生きることに不慣れな私たちが胸の中に抱え持つ確かな希望です。
新天地へ移った“レディ・バード”が本名を“回復”する本作のラストは、
『いまを生きる』のラストを思わせる、ほろ苦くも前向きなものでした。



▲ 『レディ・バード』 (2017年) テレビコマーシャル 「Fly」篇

<注釈>
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