2017年10月25日

モンティ・パイソンとの遭遇 『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』


先日、岩波ホールで
映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ました。

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 <あらすじ>
19世紀の北米に生まれたエミリ・ディキンスン(シンシア・ニクソン)は
恵まれた資産家の家庭に育ち、家族や友人からも愛されていた。
進歩的な考えを持っていたことから他者と衝突することも多かったが、
愛する母の死を境に心を閉ざし、屋敷の自室に引きこもるようになる。
やがて彼女の精神と肉体は「ブライト病」という難病に襲われ始め……。



エミリ・ディキンスンといえばアメリカを代表する19世紀の詩人であり、
現在に至るまでアメリカ内外の文化に影響を与え続けている女性です。
J・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)にも、
主人公の弟が評価していた「戦争詩人」としてその名前が登場します。
彼女は「生前わずか10篇の詩を発表し、無名のまま生涯を終え」、
1800篇近くに及ぶ未発表の詩稿が没後になってから発見されました。

劇中においてディキンスンは攻撃的な人物として描き出されています。
静謐な存在として「詩人」をイメージしてきた人々は、映画を観ながら
「なぜ彼女はそこまで外部に反抗するのか」と感じたかもしれません。
精神科医の帚木蓬生は著書『ネガティブ・ケイパビリティ』(朝日選書)で、
ジョン・キーツの言葉を紹介しながら「詩人」の在り方を解説しています。

 「詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。神の衝動の産物である太陽や月、海、男と女などは詩的であり、変えられない属性を持っている。ところが、詩人は何も持たない。アイデンティティがない。確かに、神のあらゆる創造物の中で最も詩的でない。自己というものがないのだ。」

 ここに至って、キーツの真意がようやく読み取れた気がしました。アイデンティティを持たない詩人は、それを必死に模索する中で、物事の本質に到達するのです。

── 帚木蓬生 『ネガティブ・ケイパビリティ』 (朝日選書) p.6-7

他者や社会などの外部から信仰や“女性性”を強制されることを否定し、
それらに反抗することで「自由」を確かめようとしたディキンスンは、
自らの力でもって愛別離苦という現実に対処するしかありませんでした。
いわば彼女はゼロの地点から宗教哲学を構築しようとしていたのです。
「物事の本質」を知るために「必死に模索」する人物が情熱的であり、
外部に対して攻撃的ですらあるのは、ある意味では自然なことでしょう。



さて、この伝記映画を観ていてびっくりさせられたことが一つあります。
それは、場面を印象的に盛り上げるための劇伴(BGM)として
ミュージカル『スパマロット』(2005年初演)の楽曲が使われていたこと!
19世紀アメリカの詩人を描いたドラマチックな伝記映画を観ていたら
なぜかモンティ・パイソンのミュージカルナンバーが流れてきたのだから、
中学生の頃からのパイソン狂としては驚きの念を禁じ得ませんでした。

本作で使用されたのは『I'm All Alone』という第二幕のナンバーで、
作詞・作曲はもちろんエリック・アイドルとジョン・デュ・プレです。
初演ではティム・カリーとマイケル・マクグラスがこの曲を歌唱しました。
メロディそのものは美しく、歌詞も素直に読めば感動的ではあるものの、
『スパマロット』の物語上では笑いを(も)誘う曲と位置付けられています。

当然ながら(?)本作で使われたのはインストゥルメンタル版でしたが、
それでもモンティ・パイソン発のミュージカルの冗談混じりの楽曲が
エミリ・ディキンスンの伝記映画に使われたことには変わりありません。
私としては思いがけぬ「ギフト」に遭遇したかのような気分になりました。
ディキンスンがアメリカ文化に影響を与え続けている人物だとすれば、
パイソンズもまた世界中に影響を与え続けている存在だと言えそうです。


▲ 『モンティ・パイソンのスパマロット』 ブロードウェイ公演 (2005年) より
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2017年10月09日

プレストンより愛をこめて 『ハロルド・ディドルボックの罪』


先日、シネマヴェーラ渋谷で
映画『ハロルド・ディドルボックの罪』(1947年)を観ました。
同時上映は『ロイドの人気者』(1925年)。

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 <あらすじ>
勤務先の社長(レイモンド・ウォルバーン)から突然リストラを宣告された
中年サラリーマンのハロルド・ディドルボック(ハロルド・ロイド)は、
路上でたまたま知り合ったノミ屋風の男・ウォーミー(ジミー・コンリン)に
地元のバーへ連れて行かれ、生まれて初めてカクテルを飲む。
すると、堅物だったはずのディドルボックの性格が急に変わってしまい……。



当時パラマウント映画を離脱したばかりだったプレストン・スタージェスが、
映画俳優としては引退状態にあった一昔前の“喜劇王”ハロルド・ロイドを
引っ張りだして製作したのが、本作『ハロルド・ディドルボックの罪』です。
1947年に『The Sin of Harold Diddlebock』のタイトルで公開されるも、
興行的には失敗し、プロデューサーのハワード・ヒューズの手によって
Mad Wednesday』と改題・再編集の上、1950年に再公開されました。

では、ロイドとスタージェスが協働した本作のその肝心の中身はというと、
ロイドの代表作の一つ『ロイドの人気者』(1925年)の続編と位置付けられ、
『ロイドの人気者』の主人公“スピーディ”の20年後の姿を描いています。
主人公の名字がなぜか「ラム」から「ディドルボック」に変更されているのは、
何か特別な意図があってのことでしょうか、それともただの凡ミスでしょうか。

本作の冒頭では『ロイドの人気者』のアメフトシーンが流用されていますが、
試合とは無関係の汽笛が鳴る──“スピーディ”は立ち止まる──カットは
観覧席の少年が応援の笛を鳴らすという新撮のカットに替えられています。
ヒロインのペギー(ジョビナ・ラルストン)が“スピーディ”を応援するカットも
社長(レイモンド・ウォルバーン)が登場する新撮のカットに差し替えられ、
ペギーは最初からその世界には存在していなかったことにされていました。



本作は“喜劇王”ロイドへのスタージェスのラブレターとも称うべき作品です。
一度聴いたら忘れられない、主人公ディドルボックの印象的な“奇声”は
「ロイドはトーキーでもイケるぞ」というメッセージ性さえ伴うギャグでした。
往年のロイド作品で定番だった動物とのやり取りもがっつり挿まれています
(『ロイドの人気者』の子猫は20年経ってライオンへと“成長”したのだ!)。
動物を決して粗雑に扱わず、むしろ尊重するところもやはり共通しています。

本作の見どころの一つ、高層ビルの外壁で繰り広げられるあれやこれやは、
ロイドの別の代表作『要心無用』(1923年)を連想させずにはいられない。
ディドルボックの妹(マーガレット・ハミルトン)がかけている「ロイド眼鏡」は
ロイドがかつて喜劇界のアイコンだった事実を観客に思い出させるものです。
さらに、スタージェス作品にしては拍子抜けするほど素直で優しい結末は、
まさしく往年のロイド作品の心温まるハッピーエンドを思わせるものでした。

スタージェスによるロイドへのトリビュートは目に見える部分に留まりません。
1920年代に“人気者”になったものの現在では忘れ去られた主人公が
逆境をバネに立ち上がる──というプロット自体が、ロイド本人と重なります。
ロイドはよくこの役柄を引き受けたものだと思いますが、このプロットからは、
一昔前の“喜劇王”を何事もなかったかのように銀幕に復帰させることで
ロイドに恥をかかせてはならないというスタージェスの配慮がうかがえます。



それでいてスタージェスは、いかにも自らの作品らしい脚本上のギャグ
──“姉妹”をめぐるヒロインとの台詞の応酬──にロイドを挑戦させています。
スタージェスが書いた世界観の上にロイドが立っているというこの面白さ!
加えて、スタージェス作品の常連であるジミー・コンリンやルディ・ヴァリーが
ロイドと共演する様子は、ロイドと“スタージェス組”のコラボレーションを
視覚的にもはっきりと映しだす、喜劇映画ファンにはたまらない光景でした。

もっとも、現場ではロイドとスタージェスは衝突することもあったようですが、
出演者と演出家の対立は必ずしも作品を失敗に導くわけではありません。
事実、本作を「最も偉大な喜劇の一つ」「我がオールタイムベストの一本」と
評する映画ファンも少なくなく、本作は米国でカルト的人気を誇っています
(逆にこの作品を駄作としてこき下ろす批評には滅多にお目にかかれない)。

個人的には、“ロイドのドタバタ喜劇”としても“スタージェスの作品”としても
いささか物足りなさを感じてしまいましたが、いずれにせよ本作から、
チャップリンやキートンと並ぶ“喜劇王”ロイドに対するスタージェスの愛情と、
役者として新境地を開こうとするロイドの意欲が伝わってくるのは確かです。
ロイドとスタージェスという2人の天才がタッグを組んだ貴重な作品として、
『ハロルド・ディドルボックの罪』は喜劇映画史にその名を刻み続けるでしょう。
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2017年09月12日

業界を皮肉る“通好み”モキュメンタリー 『俺たちポップスター』


先日、新宿シネマカリテで
映画『俺たちポップスター』を観ました。

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 <あらすじ>
一世を風靡したアメリカの3人組ヒップホップグループ「Style Boyz」。
グループのフロントマンであるコナー(アンディ・サムバーグ)が
「Conner4Real」としてソロデビューし、グループはあえなく解散する。
元メンバー(ヨーマ・タコンヌ、アキヴァ・シェイファー)がくすぶる一方、
大人気となったコナーは自身のドキュメンタリー製作に着手するが、
ニューアルバムは酷評され、世界を股にかけたツアーも中止となり……。



本作はコメディグループ「ザ・ロンリー・アイランド」の劇場作品第2弾です。
ザ・ロンリー・アイランドとはアンディ・サムバーグ、ヨーマ・タコンヌ、
アキヴァ・シェイファーが2001年頃に結成した3人組で(詳しくはこちら)、
アメリカの国民的番組『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』の元レギュラー。
『SNL Digital Short』というコーナーで架空のミュージックビデオを連発し、
“カッコいいけどバカな曲”を披露するグループとして人気を獲得しました。

ザ・ロンリー・アイランドの映画が日本で公開されるのはこれが初めてだし
(『ホット・ロッド めざせ!不死身のスタントマン』はDVDスルーでした)、
シェイファー監督作(本作で3作目)が日本で公開されるのもこれが初めて。
劇映画だった『ホット・ロッド』とは対照的に本作はモキュメンタリー形式で、
架空のヒップホップグループとそのメンバーの挫折と再生を描いています。
いわば『Digital Short』の企画そのものを拡張した作品だと言えるでしょう。

『Digital Short』は毎回、有名人がカメオ出演することでも話題でしたが、
モキュメンタリーである本作でも世界的アーティストたちが本人役で登場し、
主人公「Conner4Real」の楽曲や人物像について証言を重ねていきます。
ただし、単体では客が呼べず、ゲストを招くも仇となるというプロットは、
これまで有名アーティストとの共演やコラボレーションを売りにしてきた
ザ・ロンリー・アイランド自身への自虐ギャグだと捉えられなくもありません。

主人公のキャラクターを1人・1組に絞って“一本勝負”していることもあり、
劇中で挿入される「Conner4Real」の楽曲群(という設定の楽曲群)は、
ザ・ロンリー・アイランドの過去の名曲と比べるとやや精彩を欠いています。
唯一出色だったのは『Equal Rights(平等の権利)』という楽曲です。
LGBTの平等な権利保障を訴えながらも「俺自身はゲイじゃないけどね」と
釈明したがるストレートアライを皮肉った、画期的な視点のナンバーでした。

ザ・ロンリー・アイランドのYouTubeチャンネルには、本編では削除された
『F**k Off』という題名からして危ない楽曲が投稿されていますが、
未公開とはいえ、これこそが本作で一番“カッコいいけどバカな曲”です。
このシーンが削除された理由は定かではありませんが、舞台上でミニコント
(楽曲を聴く保護者や教師が戸惑う)を上演してしまっているからでしょう。
そのミニコントは「主人公が支持されている」という設定には適合しません。

▲ 『俺たちポップスター』 未公開シーン 『F**k Off』



本作のキャスティングはコメディファンの心をくすぐる“通好み”なものです。
サラ・シルヴァーマンを常識人のパブリスト役で起用したのは大正解で、
彼女は他者との絡みで真価を発揮するタイプなのだと確認させられました。
『ホット・ロッド』でメインキャラクターの一人を演じていたビル・ヘイダーも、
出演シーンはわずかながら、本作でも個性的な役どころを助演しています。
家電メーカーの社員役でマーヤ・ルドルフが出演しているのも“たまらない”。

TMZ』ならぬ『CMZ』のコーナーではウィル・アーネットが進行役を演じ、
若者から人気のコメディアン、エリック・アンドレが記者役を演じています。
アンドレはカートゥーンネットワークの「アダルトスイム」枠で冠番組を持ち、
タブーを打ち破るコント仕立ての“ショックユーモア”で注目を浴びました。
また、Instagramに全裸画像を投稿して何分で削除されるかを試すという、
男子中学生しか思いつかないような過激&バカなネタでも有名です()。

ただし、彼の“全裸ネタ”はくだらないものとして単純に片付けられません。
例えば、Instagramに全裸画像(ペニスの写る画像)を投稿したのは、
男性の上半身裸の画像は放置するくせに女性の乳首の画像は削除する
Instagramの“ダブルスタンダード”を告発するためでもあります()。
天性の愛嬌があるがゆえに彼から“危険人物”感はあまり受けませんが、
レニー・ブルースに通じる風刺精神の持ち主だと言っては大げさでしょうか。

▲ 『ジ・エリック・アンドレ・ショー』 (アダルトスイム) 総集編


さらに、ザ・ロンリー・アイランドの芸風の“先輩”であるアル・ヤンコビック、
元『SNL』スターのケヴィン・ニーロン、実力派俳優でもあるウィル・フォーテ、
若手スタンダップコメディアン兼YouTuberのジェームズ・バックリーなど、
出演シーンが少ないチョイ役にも“通好み”のコメディアンを配しています。
「4人目のザ・ロンリー・アイランド」(?)ことジャスティン・ティンバーレイクも
ノンクレジットながらがっつり助演し、この作品に弾力性をもたせています。

“通好み”の最たる例は、『ザ・トゥナイト・ショー』(NBC)のパロディでしょう。
司会のジミー・ファロンが本人役で登場するだけならよくある光景ですが
(1990年代の映画にはジェイ・レノがテレビ画面越しにしばしば登場した)、
その際に番組バンドのザ・ルーツはもとより、アナウンサー(サブ司会)の
スティーヴ・ヒギンズをも登場させているところがまさしく“通好み”です。
コメディ界を本当に愛する人間が作った映画だということがよく分かります。

物語性という観点から言うと、マネージャー役を演じたティム・メドウスや、
主人公の母親役を演じたジョーン・キューザックの好演には唸らされました。
両者のおかげでこのモキュメンタリー作品には適度な“重厚さ”が生まれ、
単なる悪ふざけ映画を超えたドラマを展開することが可能となっています。
これは私の勝手な推測ですが、メドウスやキューザックを起用するセンスは
製作のジャド・アパトーではなく、監督であるシェイファーのセンスでしょう。



本作は『SNL Digital Short』というコーナーの劇場版だと先述しましたが、
『ブルース・ブラザース』(1980年)や『ウェインズ・ワールド』(1992年)、
『コーンヘッズ』(1993年)や『ロクスベリー・ナイト・フィーバー』(1998年)など、
『SNL』のコーナーに物語を付けて映画化した作品は過去にも存在します。
本作の何がそれらと違うのかというと、既出のキャラクターを登場させず、
『Digital Short』というコーナーの企画そのものを映画化している点です。

そのため、本作は『Digital Short』の“オリジナル番外編”とは言えても、
7年間に渡り放送された『Digital Short』の集大成と言うことはできません
(『Digital Short』の集大成と呼ぶべきは放送100回記念ビデオでしょう)。
また、ザ・ロンリー・アイランドを追いかけてきた私のような人間からすると、
本作は音楽産業を風刺するモキュメンタリー映画としては傑作であるものの、
彼らの代名詞たる“カッコいいけどバカな曲”のクオリティに不満が残ります。

もっとも、それは私が「ヒップホップミュージシャン」という主人公の属性に
親しみにくかっただけの話かもしれないし、劇中で披露される曲についても
あくまでも私の好みに今回はハマらなかっただけの話かもしれません。
繰り返しますが、本作は業界を皮肉るモキュメンタリーとしては傑作であり、
“通好み”のコメディアンによる小ネタも満載で、何度も観返したい映画です。
今日のアメリカ喜劇界の「B面」を学ぶための格好の教材にもなるでしょう。

これは余談ですが、私はザ・ロンリー・アイランドのファンであると同時に
グループの“頭脳”であるシェイファー監督とその作品のファンでもあります。
監督処女作『ホット・ロッド』の楽しさについては過去に触れた通りですが、
第2作『エイリアン バスターズ』(2012年)の面白さには舌を巻きました。
設定の整合性を軽視しがちな最近のコメディ映画の弱点を見事に克服し、
ギャグとストーリーが自然に調和する骨太なコメディ映画を仕上げています。


▲ 『俺たちポップスター』 日本版予告編
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