2018年11月13日

My alternative tranquilizer. ―馬生の落語


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 もう何年も前の話になるが、動揺するような出来事のあと、生きた心地のしない時期を過ごした。心ここにあらずの状態が二六時中続き、以前から好きだった落語を聴いても、集中力を保てずに右から左へ聴き流すばかりだった。そんな折、なんとはなしに近所の図書館で借りて聴いたのが、『NHK落語名人選 十代目 金原亭馬生』(ポリドール)に収録されていた『花瓶』という落語である。

 『し瓶』という不衛生な別名を持つこの噺は、いわゆる“大ネタ”でもなければ人情噺でもない。かといって短時間で済ませられる滑稽噺でもなく、いわば“儲からない噺”だ。そんなことだから現在ではほとんど演り手がおらず、私が聴いたのもその馬生版が初めてだった。その馬生版『花瓶』に私は感動してしまった。そしてようやく心の平穏を取り戻し、人生の現実感を回復したのだった。

 馬生版『花瓶』のサゲの間際にはこんなせりふがある。道具屋に騙されて不当な品を買わされた武士が、後日になってそのことに気付き道具屋を再訪するも、怒りを必死に堪えて宥恕する。その武士が目の前から立ち去ったのち、道具屋の母親が息子(すなわち武士を騙した道具屋)に向かって言うせりふである。

 だけど、なんだよ。お前さんはね、あのお侍さんを騙して、五両儲けたような了見になってるけれども、あたしはね、違うと思うね。ああ、お前さんはね、もっと損したんだよ。もっとたくさんの損をしたと思うねえ。(あの侍は)立派だねえ。あたしゃ、感心しちゃったねえ。「品物は戻す、金は返せ。命だけは助けてやるぞッ」──これだけだって、ありがたいよ。それなのに、「金も命もそのほうにくれてやるわ」ってツーッと帰るところなんぞ、偉いもんだねえ。

 このせりふを聴いた瞬間、ハッとさせられた。人間がどの視点に立って生きていくべきなのかが、まるで説教くさくないトーンで示唆されていたからだ。それまでは先代馬生の音源を特に意識して聴いてこなかった私だが、以来、馬生の落語CDを日常的に聴くようになり、馬生落語に特有の優しさ──弱い立場にある者や追い詰められている者、心乱れる者を包摂するまなざしに救われていった。

 『船徳』でも『おせつ徳三郎』でも『笠碁』でも『柳田角之進』でも、馬生落語において優しいせりふは実にさらりと現れる。そこに「客の琴線に触れる文句を吐いてやろう」という衒いはなく、人生相談の番組のように物事を割り切ろうとする意識もない。要するに、馬生の落語には無理がないのだ。だから私は馬生落語の優しさを自然に受け入れ、そこから心の落ち着きを見出すことができた。

 私は芸談や書籍を通してしか馬生の人となりを知らないが、馬生自身が苦渋を味わってきた人物だからこそ、苦しむ者にただ寄り添うようなスタンスの馬生落語が醸成されたのだろうとは思う。それは実際の高座の録音を聴けば分かる。馬生落語において優しさは打ち出されるものではなく、滲み出るものである。作為の産物ではなく、演者の人格がニュートラルに提示された結果なのだ。

 いまや私は馬生の落語なしでは生き延びるのが難しくなった。大袈裟に言っているのではない。苦しみ追い詰められているとき、馬生の落語は私の心を直接的に救う“もう一つの精神安定剤”になっている。そしてそもそもの話、あの生きた心地のしない時期を経験しなければこの“美味しい精神安定剤”の真価を知ることもなかったかと思うと、つくづく人生に無駄はないと思わされるのである。


 <追記>
 当然ながら、馬生落語の魅力は優しさのみにあるのではない。『あくび指南』や『目黒のさんま』や『宿屋の富』にみられるようなとぼけた可笑しさ、『ざるや』や『そば清』や『千両みかん』にみられるようなエキセントリックなまでの軽妙さ(キャラクター落語性)などといったものも、馬生落語のかけがえのない魅力の一つである。それらについてはまた別の機会に詳述することにしたい。

◆10代目 金原亭馬生(きんげんてい・ばしょう)
 本名、美濃部清。1928年、5代目古今亭志ん生の長男として東京・渋谷に生まれる。1943年、父のもとへ入門。1947年、「古今亭志ん橋」で真打ちに昇進する。1949年、10代目「馬生」を襲名。1966年に東横落語会のレギュラーになり、『大坂屋花鳥』『お富与三郎』などの人情噺を得意とした。落語協会副会長在任中の1982年、食道がんのため逝去。享年54。
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