2018年08月08日

“虚構”の世界に閉じ込められて 『女と男の観覧車』


先日、109シネマズ二子玉川で
映画『女と男の観覧車』を観ました。

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 <あらすじ>
1950年代。遊園地の食堂で働くジニー(ケイト・ウィンスレット)は、
回転木馬の操縦係・ハンプティ(ジム・ベルーシ)と再婚したものの、
監視員のミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)と密通している。
そんな折、ギャングと駆け落ちして音信不通だったハンプティの娘・
キャロライナ(ジュノー・テンプル)がジニーの目の前に現れて……。



現代映画界の名匠ウディ・アレン監督の最新作『女と男の観覧車』は、
アレンとAmazonスタジオの提携による劇場用作品第2弾です。
第二次大戦前後、少年時代のアレンがしばしば遊びに訪れたという
ニューヨークの半島・コニーアイランドの遊園地が舞台となりました。
まず、本作はキャスティングの時点で傑作の匂いを漂わせています。

『ムービー43』(2013年)で名女優ぶりを示したケイト・ウィンスレット、
4人目のザ・ロンリー・アイランド”ことジャスティン・ティンバーレイク、
紀元1年が、こんなんだったら!?』(2009年)のジュノー・テンプル、
そして、もはや説明不要の名コメディアン&名優のジム・ベルーシ──
コメディ作品にも馴染み深い、私好みの役者陣が顔を揃えています。

中でもジム・ベルーシは私にとって最も親しみがある俳優の一人で、
ボニー・ハント監督の『この胸のときめき』(2000年)での演技は
ゴールデングローブ賞などを受賞すべき快演だったと信じています。
彼がアレン監督作品に出演するのは意外にも今回が初めてですが、
巧みな表情と台詞回しで難のあるキャラクターを演じ切っていました。

デヴィッド・クラムホルツが出演していることも特筆に値するでしょう。
ここ数年、彼は『サンタクローズ』(1994年)の頃と比べると激太りし、
本作でも肥満体を見せていますが、どうやら最近は減量したようです。
──余談ですが、アレン監督作ではキャスティングが特に重要であり、
キャスト表を見れば本作の出来もだいたい察しがつくというものです。



ミッキー(ティンバーレイク)がカメラ目線で独白する冒頭部からして、
本作は自らが“つくりもの”であることを積極的にアピールしています。
カラフルな看板・建物に囲まれた賑やかな遊園地という舞台設定や、
頻繁に移り変わる照明の色彩、ハンプティという登場人物の名前も、
この作品が“つくりもの”であることを示唆したり強調したりしています。

虚構的な設定の一方で現実的なのは、ほかならぬ役者の演技です。
本作のキャストによる演技は常にシリアスかつリアルであり続けます。
ジニー(ウィンスレット)の「遊園地は嫌い」という呟きが示すように、
本作では、遊園地を思わせるほどのつくりもの(ファンタジー)の中に
現実(リアル)な息遣いの登場人物たちが閉じ込められているのです。

当然ながらこのような状況では、現実(リアル)の主体=登場人物は
事実と認識のミスマッチに耐え切れず、もがき苦しむことになります。
ウィンスレットらによる長台詞はまるでソープオペラのようですが、
これはまさしく“つくりもの”の典型例であるメロドラマの枠組みの中に
押し込められた登場人物たちの感情の爆発を表現したものでしょう。

さらに象徴的だったのは、元女優のジニーが息子(ジャック・ゴア)に
過去の出演舞台で使用した首飾りを何度も見せるという描写です。
虚構の世界において“現実”を確かめようとする焦燥感が伝わります。
同じような逸話は『チャップリン自伝』(新潮文庫)にも登場するので、
もしかすると アレンはその逸話を本作に援用したのかもしれません。



劇中のあらゆる仕掛けが無駄になっていくのも本作のポイントです。
3ドルで買ったテープレコーダーも、哲学科卒業生への恋愛相談も、
500ドルの時計も、息子の精神療法も、すべては水の泡となります。
物語が進むにつれて登場人物たちは袋小路へ追い詰められていき、
映画が終わる頃には登場人物の誰しもが不幸になっているのです。

極めつけは、衝撃的とすら形容できる数秒間のラストシーンでしょう。
ブルージャスミン』(2013年)のように主演女優の表情を映し出して
映画を終えるのかと思いきや、その後に衝撃的な数秒間を注ぎ足し、
まるで念を押すかのように本作の“救いようのなさ”を高めていました。
アレンの作家としてのサディスティックな一面が発揮された演出です。

しかし本来、救いがない“物語=つくりもの”は、現実の観客に対して
「自分たちはあれよりはマシだ」などといった救いをもたらすものです。
本作が“つくりもの性”を随所で強調してきた映画だったことを思えば、
逆説的ではありますが、完全に救いようがないこの映画のラストは
現実の観客にとってはこの上ない救い(救済)でもあるはずなのです。

本作はこうした創作物(虚構)と現実のあいだに存在する友好関係と
緊張関係を浮き彫りにしたメタフィクション的な作品であるとともに、
80歳を超えてもなお野心的な名匠による前衛的なドラマ映画でした。
本作を観る者は、これが“つくりもの”であることを意識させられつつ、
登場人物たちの直面する出来事を現実のように感じてしまうでしょう。



▲ OP/ED曲: ミルス・ブラザーズ 『コニーアイランド・ウォッシュボード』 (1926年)
posted at 23:59 | Comment(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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