2015年11月16日

「民主党らしさ」を抱える共和党員 ―ジョン・ケーシックの半生〈上〉


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▲ 大統領選・共和党候補討論会でのジョン・ケーシック(2015年9月)


 今年(2015年)8月、このブログでは、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙に名乗りを上げている第69代オハイオ州知事、ジョン・ケーシック(共和党)のことをご紹介しました。
 同性婚容認の共和党“大統領候補” ジョン・ケーシックとは何者か

 ケーシックが大統領選の共和党指名候補に選ばれる見込みは相変わらず薄いままですが、「民主党員たちが考える大統領選の『手ごわい共和党候補』はマルコ・ルビオとジョン・ケーシックである」というAP通信の調査結果(11月14日)も出ていて、まだまだケーシックからは目が離せません。状況次第では、ケーシックはランニングメイト(副大統領候補)に指名される可能性もあるでしょう。

 そこで今度は、全2回に渡って、政治家・ケーシックの半生を振り返ってみたいと思います。ケーシックの半生を辿ることで、なぜ民主党員がケーシックを「手ごわい共和党候補」と考えているのか、ヒラリー・クリントン(民主党)に対峙し得る存在だと恐れているのか、そのヒントが掴めてくるはずです。

 ……といっても、この「半生記」の大部分は英語版Wikipediaからの引用なので、ケーシックのことをすでにご存知の方にはそれほど読み応えのある内容ではないかもしれません。お忙しい方や特に興味がない方は、写真だけでも眺めていってくだされば幸いです。というか、そもそも、こんな地味なエントリを読もうと思う人なんているのかしら……。




John Kasich's Story: Part 1


◆「生物学上の民主党員」

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▲ 7歳頃のケーシック(1959年)

 ジョン・リチャード・ケーシックは、ペンシルヴェニア州の工業都市マッキーズロックスの平凡な家庭に生まれた。1952年5月13日のことだった。郵便配達員の父・ジョン(父子で同じ名前)はチェコ移民の子孫で、母・アンはクロアチア移民の子孫である。そのため、ケーシックは今でも自分のことを「チェコ系でもありクロアチア系でもある」と称している。
 ケーシックの友人であるカート・シュタイナーによると、ケーシックの両親はどちらも民主党員だったのだという。「ケーシックは、“生物学”上は民主党員なんだよ」というシュタイナーの表現は一つのジョークにすぎないが、実のところ、共和党所属でありながら「民主党らしさ」を常に抱えてきた政治家・ケーシックを論じる上で象徴的な表現なのかもしれない。


◆ニクソン大統領と面会

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▲ 第37代大統領リチャード・ニクソンと面会(1970年)

 マッキーズロックスの公立高校を卒業後、ケーシックはオハイオ州立大学に進学し、大学では男子学生用の社交クラブに所属した。
 すでに政治に関心を持つ若者だった彼は、大学一年生の時、当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンに便箋3枚の「ファンレター」を送っている。その内容は、ズバリ「会ってお話がしたい」という情熱的なものだった(といっても、ケーシックは単にニクソンに惚れていたわけではない。若き共和党員としての意見を進言したいという一種の「使命感」に駆られていたのである)。この時のケーシックが、ニクソンのことが好きだったから共和党員だったのか、共和党員だったからニクソンのことを好きだったのかは分からない。しかし、彼がこの時すでに共和党の政治理念に深く共鳴していたことは間違いないだろう。
 当時の学長ノーヴィス・フォーセットの仲介によって、ケーシックはニクソン大統領との面会を実現する。面会は20分間に及んだというから、ニクソン側にも「この若造との面会はいいパフォーマンスになる」という思惑があったに違いない。


◆州議会議員の秘書となる

 1974年に大学を卒業したケーシックは、オハイオ州立法サービス委員会に調査員として就職する。1975年から1978年までは、オハイオ州議会議員バズ・ルーケンズの秘書を務めた。ルーケンズはケーシックよりも21歳年上で、オハイオ州第4区が地盤の政治家だった。言わずもがな、所属政党は共和党である。
 ちなみに、1975年、ケーシックはメアリー・リー・グリフィスという女性と一度目の結婚をしている。


◆史上最年少のオハイオ州議

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▲ 最初の妻・メアリーと(1975年頃)

 1978年、当時26歳だったケーシックは、オハイオ州第15区から州議会議員選挙に立候補する。選挙の結果、ケーシックは全体の56%の票を獲得し、見事、民主党の現職ロバート・オーショネッシーを破って初当選を果たす。
 26歳で当選したケーシックは、初当選とともに「史上最年少で当選したオハイオ州議会議員」という称号を得ることになった。ケーシックの政治家生活の始まりは実に華々しいものだったといえよう。ただし、私生活のほうは必ずしも順風満帆ではなかったようで、議員生活2年目の1980年に妻・メアリーと離婚している。2人の間に子どもはいなかったが、離婚後もメアリーはケーシックの選挙活動に参加していたようだ。


◆下院選への出馬を決意

 ケーシックの州議会議員の任期は、1983年1月で切れることになっていた。そこで彼は、2期目には挑まず、連邦下院議員選挙に立候補することを決意する。というよりもケーシックにとっては、もともと地方議会議員としてのキャリアは国会議員になるための「踏み台」だったのだろう(とはいえ、州議会議員時代に彼が何も仕事をしなかったわけではない。議員報酬の増額を阻止するなど、きちんと実績も残している)。
 かくして、ケーシックはオハイオ州第12選挙区から下院議員選に立候補することを決心した。第12選挙区は、オハイオ州都のコロンバスをはじめ、ウェスターヴィル、レイノルズバーグ、ワージントン、ダブリンなどの都市を内包する選挙区である。この選挙区の現職議員は民主党のボブ・シャマンスキーで、ケーシックより30歳も年上の政治家だった。


◆州を二分する下院選

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▲ 選挙活動中のケーシック(1982年)

 これは議員選挙でも知事選挙でも大統領選でも事情は同じことだが、二大政党の国・アメリカでは、本選に立候補するためには、まず党内で行われる予備選を勝ち抜かなければならない。予備選に勝利して初めて、「共和党公認の候補」あるいは「民主党公認の候補」として本選に出馬することが可能になるのだ。
 1982年、下院議員選に挑むことを決めたケーシックは、党公認候補を選ぶための共和党予備選で83%の支持を獲得し、第12選挙区の共和党候補に選出される。当初は「共和党候補に選ばれはしたけれど、ケーシックが本選で当選するのは無理だろう」という見方が大勢だったが、実際の本選はかなりの接戦となり、ケーシックは現職のシャマンスキーを打ち破って当選した。この時のケーシックの得票率は50%、シャマンスキーの得票率は47%だったというから、この選挙はまさに「州を二分する下院選」だったといえるだろう。


◆「民主党員が投票できる共和党員」

 初めての下院選で、「自分に投票してくれる共和党支持者と同じぐらい、自分に投票してくれない民主党支持者がいる」という深層を悟ったケーシックは、その後、選挙対策のためにも「民主党らしさ」を備えた共和党議員へと成長していく。
 「彼は民主党員が投票できる共和党の政治家だ」というティム・アレンによる2015年のケーシック評は、物事の真理をついた発言であると同時に、この30年間でのケーシックの成長ぶりを示す発言である。ちなみに、この「ティム・アレン」とは何を隠そう、ピクサーのアニメ映画『トイ・ストーリー』シリーズ(1995年〜)のバズ・ライトイヤー役などで知られるアメリカの国民的俳優のことだ。
 晴れて連邦下院議員となったケーシックは、財政保守派の議員として頭角を現していく。後に独立系候補として大統領選に出馬することになる社会活動家のラルフ・ネーダーとともに、税金の無駄遣いをカットする計画に取り組むなど、共和・民主両党の垣根を超えて財政健全化策を提案した。


◆「タカ派」だけど「基地閉鎖」

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▲ 民主党下院議員ロン・デラムズと

 ケーシックは外交・安全保障政策に関しては「タカ派」として知られるが、18年間に渡って委員を務め上げた下院軍事委員会でも、その財政保守派としての姿勢は貫かれた。民主党下院議員ロン・デラムズとタッグを組み、高コストが指摘されていた「B-2爆弾計画」の予算削減を部分的に成功させたほか、「A-12爆弾計画」の無駄な予算も削減させた。
 1986年には国防総省改編案(立案者の名を冠して「ゴールドウォーター=ニコルズ法案」と呼ばれる)の成立に深く関与したし、1988年には「基地再編・閉鎖法案」を成立させた。「基地再編・閉鎖法案」はペンタゴン(米国防総省本庁舎)の拡張計画に抵抗する法案で、使われなくなった米軍基地の閉鎖などの内容を盛り込んでいた。議員報酬の増額を阻止した州議会議員時代から一貫して、ケーシックは「税金の無駄遣い」に反発する政治家なのである。


◆両親の死と信仰心

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▲ 両親、妹との家族写真(1979年)

 1987年8月、ケーシックとその妹・ドナに突然の悲劇が訪れる。父・ジョンと母・アンを乗せた自動車がファーストフード店の駐車場を出ようとしたところ、飲酒運転の車が突っ込み、その衝撃で両親が死亡したのだ。ケーシックが35歳の時のことだった。一度に両親を失った悲しみから、彼は神への信仰に目覚める。
 幼少時代、ケーシックはカトリック教徒として育てられたが、それほど信仰心が篤いわけではなかった。両親の死をきっかけに彼が所属したオハイオ州のイングランド国教会は、リベラル色の濃い米国聖公会の姿勢に反発して離反した「北米聖公会」の教会の一つで、同性愛者を聖職者に叙任することを今でも拒絶している。下院議員時代のケーシックが「結婚防衛法」(同性婚禁止法)の成立を推進したのは、彼が信じる教義と決して無縁ではないはずだ。


◆「米軍撤退」で民主党と協力

 1991年の湾岸戦争や2001年のアフガニスタン紛争については、ケーシックは米軍の行動を「100%支持」した。しかし、1994年、米軍がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に介入したことについては支持しなかった。1997年、彼は共和党下院議員のフロイド・スペンスとともに、ボスニアで活動する「平和安定部隊」から米軍を撤退させるための法案を提出している。
 「平和安定部隊」とは、ボスニア・ヘルツェゴビナで活動を展開するため、1996年にNATO(北大西洋条約機構)主導で創設された多国籍の平和維持部隊のことだ。この「米軍撤退法案」を提出する際、ケーシックとスペンスは複数の民主党議員から協力を受けている。


◆反アパルトヘイト政策を後押し

 ケーシックは、南アフリカ共和国が1994年まで展開していたアパルトヘイト政策(人種隔離政策)にも強く反発した。議会では包括的な反アパルトヘイト政策を支持し、民主党下院議員ロン・デラムズが南アフリカ共和国に対する経済制裁を主張した際には、これを後押しした。
 これらのエピソードからは、財政問題のみならず、外交・安全保障の分野でも超党派の行動を厭わないケーシックの政治姿勢がうかがえる。ケーシックの「タカ派」姿勢は、自由と民主主義の理念のために実力行使を選択する民主党的「リベラル」の姿勢と通じるものだといえるかもしれない。


◆「ペニー=ケーシック法案」の立案

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▲ ティム・ペニーらと記者会見するケーシック(1993年)

 1993年、ケーシックは下院予算委員会の委員に就任する。当時、ビル・クリントン大統領は議会に赤字削減法案を提案していたが、ケーシックをはじめとする共和党の委員たちは大統領案では不十分だと考え、対案を提出した。
 両者のすり合わせが行われた結果、その年のうちに和解案がまとめられた。ケーシックとティム・ペニーの名前を冠して、この和解案は「ペニー=ケーシック法案」と呼ばれることになった(ティム・ペニーという人物は作家にしてミュージシャンにしてリベラル派の政治家という、なかなか興味深い経歴を持つ人物なのだが、ここでは詳しくは触れないことにする)。
 この「ペニー=ケーシック法案」には、共和党側が要求した「医療」「福祉」「防犯」「子育てのための税額控除」などの政策が盛り込まれていたが、それらの政策を実行するためには莫大な予算が必要だった。言うは易く行うは難し、という政治事情は万国共通なのである。


◆「ペニー=ケーシック法案」の挫折

 検討の結果、ケーシックをはじめとする「ペニー=ケーシック法案」の立案者たちは、予算をまかなうためには3つの「大削減」が必要だという結論に至る。
 削減方針の1つ目は「お年寄りに対する医療手当の削減」だったが、当然、有力ロビー団体の全米退職者協会(AARP)から激しい反発を受けることになった。
 2つ目に考えていた「国防省予算と他国援助の削減」をめぐっては、レス・アスピン国防長官から「この法案が成立したら、軍の士気が打ち砕かれてしまう」と酷評されることになった。
 さらに、「連邦職員のリストラ」という3つ目の削減方針も多くの人々の不評を買うことになり、かくして、下院に提出された「ペニー=ケーシック法案」は219票対213票という僅差で否決されたのだった。
 州議会議員時代から「無駄遣いの削減」を売りにしてきた政治家・ケーシックにとって、「削減策」が非難されたこの一件は苦い経験となったことだろう。「人は長所でつまずく」とはよく言ったものである。


◆全米ライフル協会から「F判定」

 銃社会・アメリカでは、政治家は銃規制に対する立ち位置を常に問われることになる。「『銃を保持する権利』の強力な支持者」を自称するケーシックは決して「銃規制派」ではないが、かといって、「銃愛好家」として片付けられるほど話はそう単純ではない。
 1994年、ケーシックを含む共和党議員42人は、総合的な銃規制法案である「アサルトウエポン規制法」を成立させることで、クリントン大統領と土壇場で合意した。当時の大統領首席補佐官レオン・パネッタがケーシックの長年の友人であったことも合意のエンジンとなったのだろう。
 共和党を支えてきた「銃を保持する権利」の推進派たちの目には、法案に賛成した共和党議員たちは「裏切り者」と映った。当然、法案成立の立役者となったケーシックも全米ライフル協会の怒りを買い、この年に全米ライフル協会が格付けした政治家調査では「F判定」(失格)を下されている。その後、「汚名」を返上するために、ケーシックが「銃を保持する権利」の尊さを声高に主張せざるを得なくなったのは言うまでもない。


◆下院予算委員長に就任

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▲ 下院予算委員長に就任した頃(1995年)

 1995年の連邦下院選で共和党は多数を獲得し、ケーシックは下院予算委員長に就任した。下院議員に初当選してから12年、ケーシックは「議会人」として最高位のポストに辿り着いたのである。1996年、彼は大型の福祉改革法案である「個人責任及び就職機会調整法」を議会に提出し、この法案はクリントン大統領の署名によって無事に成立した。
 ところで、1996年の大統領選に際しては興味深い一幕もあった。一部のメディアが「共和党候補のボブ・ドールは、副大統領候補にケーシックを指名するのではないか」と報じたのだ。実際には元下院議員で元アメリカ住宅土地開発長官のジャック・ケンプが副大統領候補に選ばれたが、この「飛ばし報道」はケーシックに対する注目度の高さを裏付けるものであった。


◆連邦予算の均衡化を導く

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▲ 下院予算委員長時代のケーシック

 1997年、ケーシックは「1997年連邦均衡予算法」を成立させる。この法案が成立したことで、ケーシックは「1969年以来となる連邦予算の均衡化を導いた人物」として全国的に有名となった。予算均衡化という大仕事を果たしたことで、財政保守派の予算委員長としてやるべきことを成し遂げたといえるだろう。
 私生活のほうでも喜ばしい出来事があった。この年、広報会社で働いていたカレン・ワルビグという女性と再婚したのだ。その後、2人の間にはエマとリースという双子の娘が生まれることになった。


◆「ルインスキー事件」で大統領を攻撃

 クリントン政権との距離の近さが感じられるエピソードの多いケーシックだが、1998年に「ルインスキー事件」が発生するとクリントン大統領を厳しく非難する。当時を知る人には説明は不要だろうが、「ルインスキー事件」とは、クリントン大統領がホワイトハウス実習生だったモニカ・ルインスキーと「不適切な関係」を結んでいたことが暴露されるという政治的事件のことだ。
 この性的スキャンダルでクリントンは大統領としての資質を問われることとなり、第17代大統領アンドリュー・ジョンソン以来となる大統領の弾劾裁判にかけられることになった。ケーシックはクリントンにかけられた4つの訴因すべてに賛成票を投じ、上院で弾劾裁判が行われることが決まると、「(クリントン大統領は)罷免に値するものと信じている」と語った。


◆2000年大統領選に出馬表明

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▲ 第46代テキサス州知事ジョージ・W・ブッシュと(1999年)

 二大政党の国・アメリカでは、事実上、大統領選は民主党候補と共和党候補の一騎打ちとなる。大統領になりたければ、まずはどちらかの党の大統領候補に指名されなければならない。1999年2月、ケーシックは2000年の下院議員選には出馬せず、2000年大統領選の共和党予備選に挑むことを決意した。
 しかし、彼への支持は少なくとも共和党内ではまったくといってよいほど広がらず、資金集めも乏しい結果に終わった。大統領の弾劾裁判では反クリントンの立場を示したとはいえ、クリントン政権に親和的なそれまでのイメージが共和党員から敬遠されたのかもしれない。超党派的に活動し、「民主党らしさ」を備えた政治家としてのあり方は、国内の穏健派からは支持されるものであっても、所属議員や候補者に「共和党らしさ」を求める共和党員からはウケの悪いものなのだ。
 アイオワ州での世論調査を待たずして、1999年6月、ケーシックは予備選から撤退し、テキサス州知事ジョージ・W・ブッシュの支持に回ることを発表した。その後ブッシュは共和党予備選も本選も制し、2001年1月、第43代アメリカ大統領に就任することになる。


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