2015年10月12日

これぞ傑作! 私の映画オールタイムベスト10 (予告編付き)


 恥ずかしながら、好きな映画を10本選んでしまいました。
 賛否両論を巻き起こしかねないラインナップですが、まあ、「こういう選び方もあるんだね」「今のあなたはそういう気分なんだね」ということでご了承ください。
 なお、10作品の並びは原題のアルファベット順で、順位はありません。


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▲ 我が愛しの傑作、ジッポン!



<< Greatest Films of All Time >>


● 『リチャード・レスターの不思議な世界』 (1969年/英)
   原題:The Bed Sitting Room
   監督:リチャード・レスター/脚本:ジョン・アントロバス、チャールズ・ウッド



 職人監督として知られるリチャード・レスターだが、彼の本領はシュールなスラップスティックコメディにある。その極めつけは何といっても『リチャード・レスターの不思議な世界』(1969年)だろう。この作品ではスパイク・ミリガンやピーター・クック、ダドリー・ムーアといった英コメディ界のレジェンドたちの若かりし日の演技を堪能できるし(若い頃のクックは二枚目だった)、リタ・トゥシンハムの恋人役を演じているリチャード・ワーウィックの素朴さも好い。トゥシンハムが「あの人は太陽みたいにバカ、だけどそこが好き」とのろける場面にはキュンとさせられる。

 映画の内容はとにかくシュールだ。28秒で終わった核戦争後のイギリスが舞台で、劇中の自称・BBCアナウンサーによればイギリス人の生存者は20人。体が徐々に「家具化」「住宅化」していく者もいれば(原題の「bed-sitting room=ワンルームアパート」はこの設定に由来)、それを治そうとする自称・医師や自称・看護師もいる。さらには自称・牧師やら自称・首相候補やらも現れる始末で、まるでいい年をした大人たちの“おままごと”を見せられているかのようだ。

 考えてみると、この世はすべて壮大な“おままごと”、ロールプレイングなのかもしれない。日本の首相にしたって、私たちが「安倍さんは首相だ」と信じ込んでいるから――選挙や政治制度に正統性を見出しているから――安倍さんは首相ということになっているのであって、それは会社員にせよ経営者にせよヤクザにせよ同じことだろう。みんな、自分の役目や肩書きを精いっぱい演じているだけなのだ。それが分かれば、少しだけ肩の力を抜いて生きていけるような気がする。実のところ、『リチャード・レスターの不思議な世界』は究極の癒し系映画なのだ。



● 『バード★シット』 (1970年/米)
   原題:Brewster McCloud
   監督:ロバート・アルトマン/脚本:ドラン・ウィリアム・キャノン



 不自由でなければ自由にはなれない。ロバート・アルトマン監督の『バード★シット』(1970年)はそんなことを教えてくれるカルト映画だ。ドーム球場の地下室で「空飛ぶ翼」の開発に励む少年の夢と希望、栄光と挫折を描いたこの作品は、映画ならではの遊び心にあふれている。後半のカーチェイスシーンは娯楽性と芸術性をミックスさせたシークエンスで、現場のノリのよさを感じるし、眺めているだけでも楽しい。キャストの大半が『M★A★S★H』(1970年)と重複していることからも、この頃のアルトマンの「勢い」は窺い知れるというものだ。

 この作品は、自由と不自由の関係を暴くシニカルな喜劇であると同時に、連続殺人事件のドラマであり、愛と束縛の物語でもある。登場人物も一癖ある連中ばかりだ。ややもすれば複雑怪奇な作品になってしまうところだが、狂言廻しの鳥類学者が随時「解説」を挿んでくれるおかげで、観客は映画から置いてけぼりを食らわずに済む。この鳥類学者はもともと脚本には存在せず、監督が用意したキャラクターだというから、アルトマンは実は親切な映画作家なのだろう。ただし、彼のその親切さは優しさとイコールではなく、時として残酷さを意味する。

 私が『バード★シット』を振り返って思い出すのは、誰かの台詞というよりも、誰かの無表情や誰かの微笑み、涙が出てくるほど陽気な音楽と、音楽に乗って映し出される誰かの「羽ばたき」だ。この映画では、登場人物の微妙な表情の変化、体の動きが赤裸々に映し取られている。アルトマンはきっと、脚本上の台詞よりもカメラに映し出されるものを信頼していたに違いない。監督が台本に依存しなかったからこそ、この作品は自由と不自由、優しさと残酷さを奇妙に同居させることができたのだし、映画史に残る名フィナーレを飾ることができたのだろう。



● 『永遠に美しく…』 (1992年/米)
   原題:Death Becomes Her
   監督:ロバート・ゼメキス/脚本:マーティン・ドノヴァン、デヴィッド・コープ



 SFX満載のゴシックホラー『永遠に美しく…』(1992年)では、オープニングタイトルからラストカットに至るまで、ロバート・ゼメキスの映画作家としての才能がいかんなく発揮されている。冒頭のミュージカルシーンで、私たちは映し出される舞台の「ダサさ」に惹き込まれることになるだろう。イザベラ・ロッセリーニの名前が表示されるタイミング、舞台上で繰り広げられる冴えないダンス、完全にしらけた客席、ゴールディ・ホーンのさりげない二度見――。この作品の最初の5分間は何もかもが完璧で、私はいつもこのシーンばかりを観返してしまうほどだ。

 もちろん、面白いのは冒頭5分間だけではない。メリル・ストリープがホーンの婚約者(ブルース・ウィルス)を略奪するまでの一連の流れも、婚約者を奪われたショックで激太りしたホーンが魅せる怪演も素晴らしい。ネタバレになるので詳しくは書かないが、ストリープとホーン、二人の「影」が暖炉の灯りで照らし出されるシーンはその映像美に鳥肌が立つし、二人が鍵カッコ付きの「友情」を確かめ合う場面では女の怖ろしさを感じさせられる。やはりゼメキスは伊達じゃない。

 劇場予告編にはトレイシー・ウルマンの姿も映っているが、実際の本編では彼女の出演シーンはすべてカットされた。当時のウルマンは飛ぶ鳥を落とす勢いの人気タレントだったから、ウルマンを役柄ごと切り捨てるのは勇気のいる判断だったはずだ。しかし彼女の出演シーンが削除されたおかげで、ストリープとホーンの対決色が際立ち、物語もすっきりと整理されている。ウルマンには申し訳ないけれど、ゼメキス監督が彼女の出演シーンをカットしたのは大正解だろう。どのシーンを削除するかにも監督のセンスが表れることは言うまでもない。



● 『クリビアにおまかせ!』 (2002年/蘭)
   原題:Ja Zuster, Nee Zuster
   監督・脚本:ピーター・クラマー/脚本:フランク・ハウトアッペルス



 舞台ミュージカルを映画化するのは難しい。舞台をそのまま再現するのでは「劇場中継」と変わりないし、実験的な映像表現に傾くのではミュージカルとしての一貫性が損なわれる。その点、1960年代のオランダで放送されたテレビシリーズとその舞台版を原作とする『クリビアにおまかせ!』(2002年)は、舞台演出家でありながらテレビドラマも手掛けるピーター・クラマーが監督しただけあって、舞台と映像の両方から「いいとこどり」している。Doopのヒット曲『Ridin'』(1996年)のミュージックビデオでみせたようなカラフルな衣装へのこだわりも健在だ。

 劇中のミュージカルナンバーはもともとは1960年代のテレビシリーズ版で放送されたもので、オランダでは誰もが知る懐メロだった。舞台化・映画化に際して、クラマーはそれらの楽曲を見事に「再生」させている。雨の中を通行人が踊る『Met U Onder Een Paraplu』、金髪イケメン俳優の白ブリーフ姿をフィーチャーした『Duifies, Duifies』、ガラス窓の使い方が印象的な『Stroei Voei』、ポップで個性的なダンスが楽しい『De Twips』、白昼の“おじいさん”賛歌『M'n Opa』など、心浮き立つミュージカルシーンは枚挙にいとまがない。

 療養所のナース・クリビアと入所者たち、意地悪な大家さん、好青年風の泥棒、妻を亡くしたギリシャ移民など、『クリビアにおまかせ!』には一風変わったキャラクターが揃っている。彼らのドタバタ劇を見て気付かされるのは、この世には本当の意味での「凡人」など存在せず、すべての人間は一人ひとり「変人」であるということだ。そうである以上、社会から「変人」を排除しようすることではなく、みんなが少しずつ歩み寄ることこそが、みんなが楽しく暮らすための方法なのではないか。この映画はそんなことを明るく伝えている映画でもある。



● 『監督・ばんざい!』 (2007年/日)
   英題:Glory to the Filmmaker!
   監督・脚本・編集:北野武



 北野武監督の『監督・ばんざい!』(2007年)は何度観ても面白い快作で、ヨーロッパの芸術と日本のお笑いを融合させたような作品だ。映画監督キタノが得意のギャング映画を封印し、「あれでもない、これでもない」と次々に新作「映画」を撮りっ放すという劇中劇+オムニバス形式をとっているが、どの「映画」にもキタノが出ているため、観客は観ているうちに現実と虚構の境目が分からなくなってくる。後半の「SF映画」パート(岸本加世子と鈴木杏が母娘役を好演)を観ている頃には、この「SF映画」パートが劇中劇であることさえ忘れてしまう。

 気分としては、合わせ鏡に映る自分を見ている時の感覚に近い。ここに一枚しか鏡がなければ、目の前に映る人間が自分の「コピー」で、ここに立っている自分が「原本」であることを疑うことなどない。しかし、鏡を何枚も重ね合わせると、自分の「コピー」が鏡の世界で無限に映し出され、どこからどこまでを「コピー」と呼ぶべきか分からなくなってくる。それどころか、ここに立っている自分が本当に実在する「原本」なのかどうかすら怪しく思えてくる。こうして、観客はこの映画を通して「自分は何者なのか」という哲学上の最難問に向き合う羽目になる。

 『監督・ばんざい!』の素晴らしいところは、最後にきちんと「鏡」を割ってくれるところだ。「自分は何者なのか」という恐怖感を、「自分は何者でもあり得る」という解放感へと鮮やかに転換するラストシーンは、全映画ファン感涙の名場面だと思うのだが……。いかんせん、この作品は国内での評価が低すぎる。これほど哲学的なテーゼがこれほどバカバカしく仕上がっているのは、芸術家でもあり批評家(漫才師)でもある“北野武=ビートたけし”の面目躍如といったところか。



● 『カインド・ハート』 (1949年/英)
   原題:Kind Hearts and Coronets
   監督・脚本:ロバート・ヘイマー/脚本:ジョン・ダイトン



 視覚芸術のはずの映画でナレーションを使用するなどけしからん、という人がイーリング・スタジオ製作、ロバート・ヘイマー監督の『カインド・ハート』(1949年)を観たら絶句するだろう。というのも、この作品では主人公のナレーションが全編を支配しているからだ。この映画が「ある死刑囚の回想」というスタイルをとっているがゆえのことだが、むしろナレーションと映像の華麗なる相乗効果こそが、この映画を唯一無二の名作ブラックコメディに仕立て上げている。

 「優しい心と宝冠」という原題が示唆しているように、この映画はイギリスの貴族制を扱った映画だ。主人公の母はもともとは貴族の一員だったが、オペラ歌手の恋人と駆け落ちしたために一族から勘当された。その母が亡くなって、主人公は「母を一族の墓に埋葬してあげたい」と申し入れるも、母のかつての実家からはにべもなく断られてしまう。そこで主人公は、自分より上位の爵位継承権者8人を殺害し、一族の爵位を奪うことを決意する。自分が貴族になることで貴族への復讐が完結する、というこの物語のストラクチャーは実に皮肉めいたものだ。

 この作品は、名優アレック・ギネスが1人8役を演じていることでも名高い。その8役とはもちろん、主人公に殺害される貴族たちのことである。つまり主人公はヤマタノオロチの首を一本ずつ切り落とすように、同じ顔をした貴族たちを殺していかなければならないわけだ。ギネスによる人物の演じ分け、そして「殺されっぷり」は見事としか言いようがない。主人公によるナレーションと映像の相乗効果、一族全員が殺害されるという脚本、1人8役というキャスティング――。これらの奇抜な要素が掛け合わさったことで、『カインド・ハート』という奇跡的名画は誕生した。



● 『レディ・イヴ』 (1941年/米)
   原題:The Lady Eve
   監督・脚本:プレストン・スタージェス



 脚本家は、脚本を書き終えた時点で本来の役割を終える。脚本上で構築されたその世界観を、独自の感性に基づいて具現化するのが監督の仕事だ。だから、もし両方の才能を備えているのならば、一人の人間が脚本と監督を兼ねることが望ましい。ハリウッド初の脚本家出身監督とされるプレストン・スタージェスは、当然のようにすべての監督作であらかじめ脚本を担当した。そのためか、スタージェスの創りだした喜劇はどれも統一された躍動感に満ちており、製作から数十年以上経った現在も色褪せることがない。

 とりわけ、彼の代表作の一つ『レディ・イヴ』(1941年)は、スクリューボールコメディとしても、シチュエーションコメディとしても、ソフィスティケイテッドコメディとしても高度に洗練された作品だ。詐欺師の娘(バーバラ・スタンウィック)が色仕掛けでエール会社の御曹子(ヘンリー・フォンダ)から金を騙し取ろうとするも、御曹子に本気で惚れてしまったからさあ大変。御曹子のほうも娘に惚れて、二人は結婚を約束してしまったからなお大変――というお話だが、「喜劇の神様」とも称されるスタージェスは中盤でさらに劇的な仕掛けを用意している。

 真に優れた喜劇とは、「人間がしている面白いこと」ではなく「面白いことをしている人間」を描くものだろう。『レディ・イヴ』が良質な喜劇として評価されるのは、ドラマの中で伏線が散りばめられ、出来事に翻弄される人間の喜怒哀楽を表しているためだ。観客はこの作品の前半で恋愛の「恋」の部分を楽しみ、後半で「愛」の部分に夢中となる。しかし前半でも後半でも、作品の主題は「人間」であり「感情」である。前半と後半が何の違和感もなくつながっているのは、スタージェスが脚本家としても監督としても喜劇の本質を熟知していたからに違いない。



● 『プロデューサーズ』 (1968年/米)
   原題:The Producers
   監督・脚本・作詞・作曲:メル・ブルックス



 公演が黒字になったら出資者に儲けを分配しなければいけないが、赤字だったら分配する必要がない(そもそも分配に充てる儲けがない)。それならば公演が半端に成功するよりも、大失敗して一晩で閉幕したほうがプロデューサーは儲かる――。出資者にとってハイリスクな仕組みを悪用し、かつての大物プロデューサーと臆病者の会計士がコンビを組んで“史上最低”のブロードウェイミュージカルを製作する、というのが『プロデューサーズ』(1968年)のあらすじ。

 私の神様、メル・ブルックスの作品から一本だけ選ぶなんて本来は不可能なのだが、今の気分であえて一本だけ選んでみた。劇中歌『ヒトラーの春(Springtime for Hitler)』の楽しさについてもはや言うことはない。ここで特筆しておきたいのは、本編における悪徳と友情の描写のバランスのよさだ。マックス・ビアリストックとレオ・ブルームの二人はただ犯罪に手を染めているわけではないし、ただ仲がいいわけでもない。これは「ブロマンス」などという生ぬるい話ではない。この作品では人間の愚かさと美しさが絶妙の加減で描かれている。

 この映画は、2001年にブルックス自身の手によってブロードウェイミュージカル化され、2005年にはそのミュージカル版が映画化された。1968年のオリジナル版と2001年のブロードウェイミュージカル版ではわずかに設定が異なるが、少なくともラストシーンに関しては私はオリジナル版のほうが好みである(もっとも、華やかさが求められるブロードウェイでオリジナル版の終わり方が許されないことは承知している)。劇中歌『愛の囚人(Prisoners of Love)』の合唱で締めくくられるラストシーンは、今なお私に最高のカタルシスを呼び起こすものだ。



● 『赤ちゃん泥棒』 (1987年/米)
   原題:Raising Arizona
   監督・脚本:ジョエル・コーエン/脚本:イーサン・コーエン



 フランク・キャプラ作品への愛が詰まった『未来は今』(1994年)でコーエン兄弟を知って以来、彼らの作品はすべて楽しんできた。中でも、『赤ちゃん泥棒』(1987年)を初めて観た時の興奮と感動は未だに忘れられない。映画の冒頭、ニコラス・ケイジ演じる元コンビニ強盗の主人公に「俺が再犯を繰り返したのはレーガンの経済政策が悪かったせいなんだ」と語らせた後で、「……いや、彼は評判のいい人だから、悪いのはきっと顧問たちなんだろうな」と付け加えるセンスのよさ。主人公のどこか憎めないキャラクターがこの台詞に凝縮されている。

 『赤ちゃん泥棒』のシナリオはなかなか過激なものだ。コンビニ強盗が拘置所で出会った女性警官と結婚するも、夫婦の間に子どもはできず、養子ももらえない。そんな時に「アリゾナ州で5つ子誕生」のニュースに接したこの若き夫婦は、「5人のうち1人ぐらいならいいだろう」ということで“赤ちゃん泥棒”を計画する――。この夫婦のやっていることは明白な犯罪で、動機もそれなりに深刻なのだが、コーエン兄弟は登場人物たちの行動をあくまでもコメディとして表現している。

 この兄弟は、喜劇と悲劇が表裏一体であることを誰よりも深く知る監督である。『赤ちゃん泥棒』のテーマ曲『Way Out There』も、ただの陽気なカントリーナンバーのように思えて、聴いているうちに寂しい気持ちになってくるから不思議だ。パニック状態の妻を夫がなだめる場面や、ストッキングを被った夫が強盗に失敗する場面では、ひとしきり笑わされた後に、人間の弱さや人間関係の脆さを痛感させられる。それでもこの作品の「読後感」がどこかあたたかいのは、アホらしさや不器用さをも含めて、コーエン兄弟が人間の有り様を愛しているからだろう。



● 『パロディ放送局UHF』 (1989年/米)
   原題:UHF
   監督・脚本:ジェイ・リーヴィ/脚本:アル・ヤンコビック



 『パロディ放送局UHF』(1989年)について今さら何を語ろうか。この作品こそは、私にパロディの面白さを教えてくれた作品であり、コメディの素晴らしさを教えてくれた作品である。パロディ音楽の第一人者、アル・ヤンコビックが主演で、監督はヤンコビックのマネージャーであるジェイ・リーヴィ。後に『となりのサインフェルド』(1989年〜1998年)で人気を博すことになるマイケル・リチャーズ、当時『SNL』のレギュラーだったヴィクトリア・ジャクソン、ジョー・ダンテ作品の常連役者であるケヴィン・マッカーシーなど、共演陣も実に「濃い」顔ぶれだ。

 妄想癖のある主人公がひょんなことから弱小UHF局を経営する、というこの物語は、「友情」「恋愛」「正義」などの要素を盛り込んだ分かりやすいサクセスストーリーで、当時中学生だった私を楽しませるには打ってつけの作品だった。劇中のUHF局でオンエアされているという設定の架空のコマーシャル、架空の番組予告群、そして架空の映画予告『ガンジー2』(あのガンジーがステーキを喰らい、暴力を振るう!)は、パロディのお手本として今でも私の脳裏に焼き付いている。劇中ミュージックビデオの無駄なカッコよさも忘れられない。

 コンピューターと同じように、人間の心にも「容量」がある。人間の場合に特殊なのは、「空き容量」がその時々の気分や状況によって大きく変動するということだ。まじめに生きる人々にとって、この世はあまりにも過酷で厳しい。現実は「容量」を蝕んでいく。そんな時、『パロディ放送局UHF』のような楽しいコメディ映画は、心の「空き容量」をきっと増やしてくれるはずだ。増える「容量」はわずかだし、観たところで悩みが解決するわけではない。だが、少しでも「容量」が残っていれば、とりあえず今日を生きられる。今日を越えれば、「明日は明日の風が吹く」。


(2015年10月記)
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