2015年03月02日

没後50年―『青春の墓標』 奥浩平と「たった一人の恋人」




 今からちょうど半世紀前の1965年3月6日、新左翼グループ「中核派」に所属する21歳の青年が自ら命を絶った。彼の名前は奥浩平(おく・こうへい)。横浜市立大学文理学部の二年生である。奥が生前に記していたノートや手紙をまとめた遺稿集は、その年の秋、文藝春秋から『青春の墓標 ある学生活動家の愛と死』という陰気な題名で出版され、大ベストセラーとなったらしい。

 「らしい」と書いたのは、私が当時のことをまったく知らない世代だからだ。日本でも共産主義革命運動が盛んだったと聞かされたところで、「冷戦を知らない子ども」の私にはどうもピンと来ない。そもそも私はいかなる意味でも共産主義者ではないし、これからも自分が共産主義者に「転向」することはないと断言できてしまうほどの人間である。それではなぜ、そんな私が、彼と彼の遺稿集『青春の墓標』を偏愛するようになったのか。

 それは、奥が魅力的な青年であり、この本が恋愛を主題とする至高の「文学作品」であるからだ。この本では、高校時代の同級生・中原素子に対する荒々しいほどの恋愛感情が描かれている。しかし、奥は決して野蛮な男ではない。知性と行動力を兼ね備えた才能豊かな人間である。それでいて、自己に対しても客観的な彼は、自らのセンシティヴィティに溺れることもない。劇作家・福田善之が評したように、この本は「かがやかしい21歳」の物語として読まれるべきであろう。

    ◆ ◇ ◆

 奥と中原は都立青山高校の同級生だったが、『青春の墓標』を読む限り、高校時代に特別な交友はなかったようである。卒業直後の1962年3月、2人は手紙のやりとりをきっかけに親交を深めるようになった。といっても、この時点での両者の関係は純粋な友人関係に留まり、奥が中原に恋愛感情を抱くのはそれからしばらく後になってからのことだ。

 まともに受験勉強をしていなかった奥が浪人生活を送る一方、現役で早稲田大学に進学していた中原は、新左翼の学生運動に関与し、奥にもグループの機関誌を送るなどしていた。高校時代に安保闘争に参加していた奥のことだから、放っておいても大学での学生運動に参加していた可能性が高いが、中原の存在が奥の「活動家」化を促した面は否定できない。奥にとって、「中原素子」と「学生運動」は、複雑に絡まり合う相互的な概念であったと考えられる。

 お互いに学生活動家となり、政治的な面でもプライベートでも交流を深めていく奥と中原であったが、1963年の初夏、2人の所属する新左翼グループが「中核派」と「革マル派(山本派)」という2つのグループに分裂してしまう。在籍する大学のカラーの違いもあって、奥は「中核派」、中原は「革マル派」に参加し、その後、それぞれの党派は激しく対立することになる――。以上が、『青春の墓標』という「文学作品」の簡単なあらすじである。

    ◇ ◆ ◇

 これまで、『青春の墓標』は、敵対する組織に所属しながらも愛し合う男女の悲劇として理解されてきた。時代のいたずらによって引き裂かれる切ない愛の物語――。出版当時、奥と中原の関係が「学生運動版ロミオとジュリエット」と揶揄されたのは、そのような解釈が一般に流布していたからだ。メロドラマ性が週刊誌などでフィーチャーされたからこそ、『青春の墓標』はベストセラーになったと言える。

 しかし、党派対立によって「愛」が引き裂かれたとする解釈は適切ではない。奥の所属するグループと中原の所属するグループが敵対していたのは紛れもない事実だが、そうした状況下でも奥と中原は相変わらず私的交流を続けており、何度も逢瀬を重ねている。しかも、門限が近くなるとお互いに指と指を絡め合って別れを惜しむなど、読んでいるこちらが恥ずかしくなるほどのラブラブぶりである。

 もっとも、奥が中原に政治的論争を挑むせいで2人のデートはいつも面倒くさいものになっていたようだが、その後も交流が続いていたことを考えると、この面倒くささは中原にとっては許容範囲内だったのだろう。というより、中原はいつでも奥のわがままに寛容であった。「ぼくが論文を書いた雑誌ができたんだ。15分後に駅で待っていて」と夜中に呼び出されても、この後予定があるのに「もっと一緒にいるんだ!」と映画館に連れて行かれても、中原が怒ったような形跡はない。

 だが、中原が奥との交流を拒絶していなかったからといって、2人が愛し合っていたかというと疑問符がつく。奥が中原のことを愛していたかどうかについては議論の余地はない。問題は、中原が奥のことを愛していたかどうかである。たしかに、ある晩、中原のほうから奥にもたれかかってきたことはあった。しかし、その直後に奥が中原にキスしようとすると、彼女はキスされまいと抵抗している。

 中原のファーザーコンプレックスが2人の関係性に暗い影を落としたと推測することも、不可能ではないだろう。しかし、関係が進展しなかった理由を「ファザコン」という単語で説明することには限界がある。中原が奥のことを「友達以上恋人未満」程度の存在として捉えていた可能性はあるが、総合的に判断して、2人が相思相愛であったと結論付けることはできない。とはいえ、悪意はなかったにせよ、中原が奥に示していた態度が思わせぶりであったことも否定できない。

    ◆ ◇ ◆

 こうして、『青春の墓標』は、『ロミオとジュリエット』以上の難問を抱えることになる。すなわち、ものすごく愛している相手から「生殺し」されるという状況をどう処理すればいいのか、という難問である。そこは誰よりもクレヴァーな奥のことである、2人がめでたく結ばれるというハッピーエンドが現実に起こるとは考えていない。しかし、奥自身がノートに書き残しているように、恋愛感情は革命運動とは異なり、合理的に清算できるものでもないのだ。

 だからこそ奥は、自分が中原の頬を叩いてしまったことが事態を悪化させているだけなのではないか、中原は党派対立や「ファザコン」のせいで恋愛に臆病になっているだけなのではないか、もしかしたら中原は自分のことを本心では愛しているのではないか、という「後悔にならない後悔」と「憶測でしかない憶測」を展開せざるを得なくなる。そうして、最終的には、中原の自宅前でストーカーまがいの行動をとらざるを得なくなる。

 奥にとって何よりも不幸だったのは、彼自身の想像以上に、彼が彼自身を客観視できてしまったことだ。自分が底なし沼に浸かっていることを自覚することほど、辛く、悲しく、苦しいことはない。しかも、恋愛という病は、患者をジタバタさせるという症状によって発現する。底なし沼に浸かりながらも体が勝手にジタバタしてしまう自分を、まるで戦地に赴いたフォトジャーナリストのように、奥はその目で正確に直視してしまったのである。

 どうすればこの苦しみから解放されるというのだろう――。1964年後半以降に記された奥のノートや手紙は、彼の心から発せられた悲痛な叫びで満ちている。渋谷の喫茶店で女の子と一緒にプリンを食し、冗談めかした手紙を書き、快活に学生運動を展開していた青年は、徐々に精気を失っていく。中原の存在なしでは息も吸えなくなっていた奥は、このような状況でも、自分を苦しめているはずの中原に助けを求めるほかなかった。しかし、中原は奥からの手紙を無視した。

    ◇ ◆ ◇

 自殺の3日前、奥は実兄に宛てて手紙をしたためている。これが、生前の奥が残した最後の文章となった。この手紙では、それまでの重苦しい心の霧が晴れたかのように、一転して、前向きで爽涼な文章が綴られている。
 「今晩ほど心静かに彼女の姿を思い浮べ、素子を身近に感じることはありません。ぼくは二年半昏迷し続けた末とうとう好きになった彼女を絶対にぼく以外の男の手などに渡さないつもりです。きっといつかは七・二事件についてお互いの意見の中に自分の主張を見出すことができるでしょう」
(兄への手紙、1965年3月3日)
 「彼女はなぜかこの半年の間に目立って美しくなりました。そしてぼくは彼女を静かに愛して、もっと美しくなった彼女を兄上に見せたいと思います。初めて手を握り合った六月のあの甘美な夕べを取り戻すことができたら、ぼくのもっていくサントリー・レッドを飲んで下さい」(同上)

 ここにはもはや、恋愛という病を克服できずに混乱している青年の姿はない。この時、ついに奥は恋愛という病に勝利したのだ。しかし、それは中原を忘れることによってではなく、中原を愛し切ることによって――病を克服することによってではなく、病に身を捧げることによって――である。芸術家・岡本太郎は言っている。「たとえば片想いも立派な恋愛なんだ」「自分がその人を好きだという、その気持ちに殉じればいい」(岡本太郎『自分の中に毒を持て』、青春文庫 p.154-155)。

 奥浩平の最期は幸せであったと言わねばならない。なぜなら彼は、革命運動やマルクス主義以上にたしかなものを自分の中に見つけたからだ。苦しみ抜いた者の特権として、彼は、恋愛の真価に触れることができた。そして、自分の中にいる「おれにとってただ一人の、たった一人の恋人」(ノート、1965年1月28日)の姿を確認することで、長い間失われていた自己の精神を取り戻したのである。



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 「昨日、中原さんの手を握ってはじめて散歩した。だが、それが一体なんだろう。ぼくの顔はほてり、彼女の顔も紅潮していた。おれには二〇・二九闘争がある。このギラギラ輝く太陽の下で、ぼくは生きていかねばならないのだ。なんということだろう、なんということだろう!」
(ノート、1964年5月17日)

 ※このエントリは自殺を美化するものではありません。また、「気持ちに殉じ」ることとは自ら命を絶つことを意味しません。
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