2015年02月26日

アカデミー賞の“名”司会者は一日にして成らず


oscars_8hosts.png
左上から ホープ、クリスタル、ゴールドバーグ、マーティン、
スチュワート、デジェネレス、マクファーレン、ハリス


このブログでもお伝えした第87回アカデミー賞授賞式ですが、
 →『“ミュージカル司会者”ニール・パトリック・ハリスの歩み(進行形)
ニール・パトリック・ハリスの今年の司会ぶりをめぐっては
本国アメリカで評価が分かれているようです。

「おおむね好評だった」というのはその通りなのですが、
「オープニングナンバーが素晴らしかった」という意見がある一方で
「凡庸だった」「パッとしなかった」との意見もあるとのこと。
「悪くはないけど、良くもないよね」という辛辣な声も聞こえます。



そんな中で、私がその内容に最も納得したのは、
ロサンゼルス・タイムズ紙のスティーヴン・ザイトチック記者による
Oscars: Why Neil Patrick Harris
 (and everyone else) is wrong for the job
』というコラム。
「たしかにハリスの司会はイマイチだったかもしれないけど、
 そんなこと言ったら誰だってイマイチじゃないか」という内容です。

1990年代以前のアカデミー賞授賞式といえば
ボブ・ホープやジャック・レモン、ビリー・クリスタルなどの
コメディアンたちによる華麗なる司会ぶりが思い浮かぶわけですが、
2010年代を生きる私たちは、もしかしたら
彼らの司会ぶりをあまりに過大評価しすぎているのかもしれません。

もちろん、彼らの司会が「イマイチ」だったと言うつもりはありません。
他でもないクリスタルの司会を見て私はオスカーにハマったのだし、
彼らの司会ぶりが素晴らしかったことは「歴史的事実」でしょう。
しかし、人間が過去を美化しがちな生き物であることもまた事実であり、
彼らの「亡霊」を神聖視し続けるのであれば
私たちは「昔はよかった」というたわ言しか吐けなくなると思うのです。



過去のオスカー司会者を振り返ってみると分かることですが、
著名なコメディアンだからといって
オスカー司会者として好評を博すというわけでもなければ、
オスカー司会者としてその後定着するというわけでもありません。

1985年: ジャック・レモン(4)
1986年: アラン・アルダ/ジェーン・フォンダ(2)/ロビン・ウィリアムズ
1987年: チェヴィー・チェイス/ゴールディ・ホーン/ポール・ホーガン
1988年: チェヴィー・チェイス(2)
1989年: (不在)

1990年: ビリー・クリスタル
1991年: ビリー・クリスタル(2)
1992年: ビリー・クリスタル(3)
1993年: ビリー・クリスタル(4)
1994年: ウーピー・ゴールドバーグ
1995年: デイヴィッド・レターマン
1996年: ウーピー・ゴールドバーグ(2)
1997年: ビリー・クリスタル(5)
1998年: ビリー・クリスタル(6)
1999年: ウーピー・ゴールドバーグ(3)

2000年: ビリー・クリスタル(7)
2001年: スティーヴ・マーティン
2002年: ウーピー・ゴールドバーグ(4)
2003年: スティーヴ・マーティン(2)
2004年: ビリー・クリスタル(8)
2005年: クリス・ロック
2006年: ジョン・スチュワート
2007年: エレン・デジェネレス
2008年: ジョン・スチュワート(2)
2009年: ヒュー・ジャックマン

2010年: スティーヴ・マーティン(3)/アレック・ボールドウィン
2011年: ジェームズ・フランコ/アン・ハサウェイ
2012年: ビリー・クリスタル(9)
2013年: セス・マクファーレン
2014年: エレン・デジェネレス(2)
2015年: ニール・パトリック・ハリス

1990年代のアカデミー賞授賞式では
クリスタルとゴールドバーグがほぼ交互に司会を務めましたが、
2000年代に入ってからは毎年のように司会者が交代しています。
スティーヴ・マーティンやジョン・スチュワート、
エレン・デジェネレスが複数回司会を担当してはいるものの、
彼らの司会が全方位的に大喝采を浴びたという事実はありません。

エディ・マーフィが司会を突然降板したという事情もあって、
2012年の授賞式ではクリスタルが司会に復帰しました。
もちろん、8年ぶりとなる彼の司会は好評ではあったのですが、
彼が「神業」を見せたかというとそんなことはありませんでした。
その証拠に、以前は常に噴出していたクリスタル司会復帰待望論も、
2012年の授賞式以降はすっかり影を潜めてしまいました。

視聴者はもはや、スチュワートにも、デジェネレスにも、
そして「Mr.アカデミー賞」ことクリスタルにも、
オスカー司会者としての積極的な価値を見出さなくなっているのです。
現在の視聴者はオスカー司会者に多くを求めすぎており、
毎年のように「最後の切り札」をビリビリに破いているのが実情です。



こうなると、オスカー司会者をめぐる近年の混迷は、
司会者側というよりは視聴者側に原因があると考えるべきでしょう
(ここでの「視聴者」とは、批評家的な視聴者のことですが)。
エミー賞やトニー賞の授賞式で絶賛されたハリスの司会が
オスカーに移ると「イマイチ」と評されてしまったのはそのためです。

過激なジョークを展開したクリス・ロック(2005年)や
セス・マクファーレン(2013年)によるオスカーの司会は
文字通り大不評を浴びましたが、彼らが司会に抜擢されたのは
それまでのクラシカルな司会者に対する反動の結果でもありました。

ロックやマクファーレンが不評を買ったことからも明らかなように、
視聴者は、オスカーの司会者に対して
ラジカルであるよりはクラシカルであることを望んでいるのですが、
実は心のどこかで、ラジカルさを秘めた司会者を望んでもいる――。

だからこそ、「客席にピザを配達」というデジェネレスのコントは
斬新な演出ではないが予定調和的でもなかったがゆえに、
老若男女の幅広い視聴者層から支持を受けることができたと言えます。
オスカー視聴者は、「過激派」を拒絶する代わりに、
安定感を基調とする「微かに先鋭的な」司会者を望んでいるのです。



2013年の「マクファーレン事件」直後、
カナダ・スクリーン・アワード(カナダ版アカデミー賞)授賞式で
マーティン・ショートが司会を務めました。
ショートは今やクラシカルなコメディアンの代表格ですが、
同授賞式での彼の司会ぶりはカナダ国内外で高い評価を受けました。
「彼こそが模範的な式典司会者だ」というわけです。


20130324_0808.jpg


同授賞式直前、ラジオ番組に出演したショートは
本家アカデミー賞での「マクファーレン事件」を受けて、
こんなことを語っていました。

20130324_0801.jpg

まさしくこれぞ「式典司会者の鑑」といった発言ですが、
もしもショートがオスカーで司会を務めたとしても
「彼に毎年司会をやってほしい」という意見は少数に留まるでしょう。

――念のため書いておきますが、そう予想するのは、
私がショートのことを好きでないからではなく
(私は自分がショートのファンであると自信を持って宣言できます)、
オスカー司会者についてあれこれ語る人々は、
ボブ・ホープやクリスタルの「亡霊」に惑わされている限り
もはやどんな司会者が現れようと満足しないだろうと思うからです。



そこで私のささやかな提言ですが、
オスカーの司会者に「神業」を求めるのはもうやめにしましょうよ。
神様はアカデミー賞授賞式の司会なんてやりません。
ボブ・ホープもビリー・クリスタルも人間だったという事実に、
彼らの司会ぶりを高く評価する人々ほど自覚的になるべきです。

今年の司会を務めたハリスに話題を戻しますが、
もちろん、彼は俳優であってスタンダップコメディアンではありません。
自分でも述べている通り「Song and Dance Man」であり、
ジョーク分野が弱点なのは以前から分かり切っていることです。
逆に言えば、ジョーク分野をより強化することで、
ハリスはさらにハイグレードな「式典司会者」に成長できると言えます。

ましてや、ハリスは式典司会者としての天性の資質を有しており、
彼ほどポテンシャルのある式典司会者は滅多にいません。
ジョークを含めて「期待以上ではなかった」からといって
ハリスの起用を今後あきらめるのは、あまりにももったいないことです。

ホープやクリスタルがオスカーの名司会者と評されたのは、
彼らが一夜限りしか司会をしなかったからではなく
彼らが何回も(あるいは連続して)司会を務めたからでしょう。
たった一晩で90点以上が取れなかったからといって
毎年コロコロと司会者を交代させるのでは、育つものも育ちません。
(50点以下しか取れなかった司会者を変えるのは当然だとしても。)

まさに、「オスカーの名司会者は一日にして成らず」。
(私を含む)オスカー視聴者に求められるのは、
オスカーの司会者が神様ではなく人間であることを理解し、
減点主義から加点主義に発想を転換させることではないでしょうか。
私は、ハリスがオスカーの司会を積み重ねていくことを望んでいます。



 <補足>

そもそも、オスカーの司会者が注目され始めたのは、
私の推測では、1980年代終盤になってからのことだと思います。
1980年代中盤までは、超大御所のホープやレモン、
ジョニー・カーソンが例外的に単独司会を務めた年を除けば、
複数名のハリウッドスターによる共同司会体制が一般的でした。
その頃までは、司会者の存在価値は軽視されていたと思われます。

しかし、1988年、当時はまだ中堅コメディアンにすぎなかった
チェヴィー・チェイスが単独司会者に抜擢されたことで
「司会者次第で授賞式はこんなにもつまらなくなるものなのか……」
という意識が視聴者に共有されてしまい、皮肉にも、
司会者の人選に注目が集まるようになったのではないでしょうか。

もっとも、当時の彼にホープらほどの“質”を望むのは酷な話で、
チェイスを何らかの「元凶」とみなすのはアンフェアです。
ましてや、19871988年はオスカー授賞式自体が迷走しており
(意味不明のミュージカルナンバーがオープニングを飾りました)、
むしろチェイスこそ授賞式の最大の「被害者」だったと言えるでしょう。

私自身、1987・1988年のオスカー授賞式映像を見ても、
ホープらと比べれば地味で単調であるとはいえ
チェイスのジョークや司会ぶりがそれほど酷いとは感じません。
あくまでも、ホープらと比較した場合に不足感を抱くだけなのです。
逆に、チェイスのおかげでハードルが低まったからこそ
1990年のクリスタルの司会ぶりが際立ったとも考えられそうです。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/414723086

この記事へのトラックバック
(C) Copyright 2009 - 2017 MITSUYOSHI WATANABE