2018年07月14日

“枯れた芸なんぞなりたくない” 私が聴いた「桂歌丸」


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 2018年7月11日、私は妙蓮寺で営まれた桂歌丸師匠の告別式に参列し、献花台に別れの花を手向けた。訃報に接してからしばらくは歌丸師匠の死を実感できずにいたが、不思議なもので、お寺の境内に入ると「ああ、歌丸師匠は本当に亡くなってしまったんだな」という思いが沸々とこみ上げてきた。ここ数年は入退院を繰り返していた師匠だから、またしばらくすれば高座へ復帰するのではないかと疑いつつも、私は徐々に歌丸師匠の死と向き合おうとしている。

 ここで私が歌丸師匠の生い立ちを紹介する必要はないだろう。生前中からテレビや新聞などで度々紹介されていたし、『歌丸 極上人生』(山本進編集協力、祥伝社黄金文庫)という決定版の半生記もある。だから、私はここでは「私が聴いた歌丸」の雑感を書き連ねることに終始したい。桂歌丸という“闘う名人”への思い入れのほんの一片を書き残そうと思うのだ。もっとも、そんなものを一体誰が読むのかという難題についてはあらかじめ棚上げしておくことにする。



 ◆ 滑稽噺の歌丸

 私が初めて歌丸師匠の落語を生で聴いたのは、2010年1月のことである。幼少時代からの友人を誘い、落語芸術協会(芸協)が興行する新宿末廣亭の正月初席へ向かったのだ。2004年から芸協会長を務めていた歌丸師匠は、新宿末廣亭初席第二部の主任(トリ)を2017年まで任されていた(2018年は体調不良のため全休を余儀なくされた)。2010年1月5日──私たちが聴きに行った日の歌丸師匠の演目は『鍋草履』。ある芝居小屋の客席を舞台にした滑稽噺である。

 のちに私は『鍋草履』が歌丸師匠の中堅時代からの十八番であること、最初の師匠・5代目古今亭今輔から「歌舞伎を観て芸を学びなさい」と言われて前座時代から歌舞伎座に通った歌丸師匠の経験が活かされた噺であることなどを知ることになるのだが、その日の私にとってはそもそも歌丸師匠を生で聴いたことが最大の“感想”であり、日記には「マクラが最高にブラック」だったことと、噺の最中に鳴った携帯電話の着信音を笑いに変えたことへの感動が記されている。

 その年以来、私は毎年正月になると、件の友人とともに新宿末廣亭へ歌丸師匠を聴きに行った。奇遇にも私たちが聴きに行く日の歌丸師匠の演目は、いつも『鍋草履』だった。私たちは「また今年も『鍋草履』かもね」と談笑しながら新宿三丁目へ向かい、「また今年も『鍋草履』だったね」と談笑しながら新宿三丁目を去り、例年のように『鍋草履』を聴けたことに安心感を覚えたものである。期待を裏切らないマンネリズムは精神の安定に必要なものなのだ。

 『鍋草履』は、春風亭の先生(先々代柳橋)にいただいたもの。「やりたいんです」って頼んだら、「NHKにオレの録音があるぞ」って。
 八四年六月、紀伊國屋寄席に初出演したときにやりましたね。歌舞伎見物のエピソードって感じで、噺自体が短いから、寄席で時間のないときには最適です。たまに気が向くと、芝居のまくらをたっぷりふったりして、遊ばせてもらう。珍しくて、伸縮自在。あたし好みのネタですよ。
── 桂歌丸 『恩返し 不死鳥ひとり語り』 (長井好弘編、中央公論新社) p.159

 正月初席に加えて、歌丸師匠は新宿末廣亭では5月上席昼の部でも主任を勤めていた。私がその興行で聴いた噺の一つ『火焔太鼓』は「5代目古今亭志ん生師匠の型通りに演じている」とのことだったが、志ん生版と歌丸版とではだいぶ印象が違う。志ん生版が天衣無縫の一席だったのに対し、歌丸版では高座への真剣な姿勢こそが噺の愉しさを引き出していたのだ。志ん生が“ボケ”の話芸だったとすれば、歌丸師匠は“ツッコミ”の話芸だったと言っていい。

 フラが尊重される落語界で、“ツッコミ”系を貫いて成功した噺家は少ない。「作品派」の巨匠とされる8代目桂文楽や6代目三遊亭圓生にしても、天然ボケとでも呼ぶべき一面が愛嬌となってファンを固めていた。歌丸師匠の最初の師匠・5代目今輔は純然たる“ツッコミ”系だったが、その“ツッコミ”系特有の闘争精神は新作落語では功をなすとしても、古典落語では江戸の情緒を損なう足枷になりかねない。誤解を恐れず申せば、歌丸師匠の高座に一瞬たりとも隙はなかった。

 いまになって振り返れば、高座の上での歌丸師匠は『笑点』(日本テレビ)でのイメージとは若干異なり、一種の“凄み”を利かせていたように思う。その話芸は決して客を置き去りにするものではないが、決して客に媚びるものでもない。歌丸師匠は生前、「お客さまを『笑わせる』のではなくお客さまに『笑っていただく』のが噺家の務め」とよく話していたが、一回一回の高座を客との真剣勝負だと認識していたからこそ、逆説的にそう主張していたのではないだろうか。



 ◆ 「圓朝噺」の歌丸

 新宿末廣亭のみならず、歌丸師匠は国立演芸場の8月中席と4月中席でも長きに亘って主任を勤めた。これらの興行では近代落語の祖・初代三遊亭圓朝の作品が口演されることが多く(逆にほかの定席で歌丸師匠が「圓朝噺」を口演することは皆無に等しかった)、私が国立演芸場で初めて聴いた歌丸師匠の演目も圓朝作の三題噺とされる『鰍沢』だった。私はこの『鰍沢』にえらく感動し、2013年4月20日の日記には「美しさの上に怖さが乗っかっていた」などと記している。

 晩年の歌丸師匠は「圓朝噺」の名手として名を馳せたが、私がまず言及したいのは、歌丸師匠が圓朝作品の名編集者だったということである。歌丸師匠は長大な『三遊亭圓朝全集』を紐解いて、複雑に入り組んだ人間関係を整理し、凄絶な叙事詩として物語をまとめ上げた。圓朝が二葉亭四迷の『浮雲』に直接的な影響を与えた言文一致小説の先駆者だったことを考えれば、圓朝作品を立派に改編したその業績は日本文学史上の偉業と評すべきだろう。

 本筋と直接関係のない部分を大胆にカットし、表現に関しては現代の客に通じる言葉に置き換える。ただし、「あんぽつ」などの変えてはならない古典的な表現は保ち、絶妙な塩梅で“解説”を挿入する──。圓朝作品への深い理解と天才的な編集センスがなければ、このような改編作業は成就しようがない。歌丸師匠はしかも、『真景累ヶ淵』や『牡丹灯籠』を一旦改編し終えた後も現状に満足せず、編集者の性とでも言うべきか、最晩年まで物語の再々構築に挑み続けた。

 平成八年のときは、『豊志賀』のところはみなさんおやりになってるし、あまり筋に関係がないからいいだろうとやらなかったんですが、しばらく経って『豊志賀』だけをやってみましたら、どうも発端抜きでお喋りをしているようで何だか中途半端なんですね。それに『宗悦殺し』をやってないと人物がうまく繋がらないことに気付きまして、じゃあ思い切って最初の『宗悦殺し』からやり直そうと、タイトルも「語り直して三遊亭圓朝作 怪談真景累ヶ淵」としまして、平成二十三年からでしたか再スタートさせました。
── 桂歌丸 『歌丸 極上人生』 (山本進編集協力、祥伝社黄金文庫) p.151

 編集者としての功績とともに言及しなければならないのは、自らの手による“編集版”を見事に演じた演者としての技芸についてである。私は国立演芸場で歌丸版「圓朝噺」をいくつも聴いたが、それらはいずれも「鬼気迫る」とでも形容すべき高座であり、語り口は端正でありながらも、その中身は静かな迫力に満ちていた。あの華奢な身体からは想像もつかない“勢い”と気迫のある話芸──とりわけ冷酷な悪女の描写に、私は畏怖の念を抱いたほどである。

 歌丸師匠が「圓朝噺」のよき演じ手だったのは、当人の出生地とも無縁ではないだろう。横浜出身であるがゆえに江戸弁ではなく「美しい日本語」を使うことにこだわった歌丸師匠は、“立て板に水”で噺を展開する必要性に縛られず、“物語”をじっくり聴かせる語り部=ストーリーテラーとして本領を発揮することができた。迫真の話芸は独自の芸術だったとはいえ、歌丸師匠は“物語中の物語”である圓朝作品を演じるために最適な話法をそもそも採用していたと考えられる。

 むろん、同じストーリーテリングといっても、落語と朗読は「目の前の客をどう意識するか」という点で性質が異なる。演芸家の歌丸師匠は「圓朝噺」をシリアスなドラマに終始させず、悪党が登場する場面で「あいつ、(6代目三遊亭)円楽みたいな顔をしているぞ」といったクスグリを挿んだり、濡れ場では「本当はみっちり喋りたいところだが」と地で語ったりして、長講を聴く客の集中を途切れさせないように工夫していた。まさしく「緊張と緩和」の技術を駆使した貫録の話芸だった。



 ◆ “珍品”の歌丸

 持ちネタに珍品が多かったという側面にも触れないわけにはいかない。私が生で聴いた中でも『おすわどん』や『城木屋』は普段の寄席ではまず聴くことのない噺である。私が最も多く聴いた歌丸師匠の演目である『鍋草履』にしたって、歌丸一門の総領弟子・桂歌春師匠が演じているのを聴いたことがある程度だ。歌丸師匠はこれらの珍品を「古い落語本」から掘り起こすことが多かった。今日の落語家の中に、文献を漁ってネタ探しをしている勉強家はどれほどいるだろうか。

 『おすわどん』は、落語の古い本を読んで見つけた噺。サゲに惚れこみました。 (中略) さらりと終わる、このサゲがいい。ただ、元の噺は前半が陰惨すぎる、どうも暗い感じがするというので、手を入れました。 (中略)
 あちこち直して高座にかけたら、いつだったか、名古屋の放送局での録音の時に圓楽さん(引用者注:5代目三遊亭圓楽)が聞いて「オレにくれよ」と言ってきました。「いいですよ、代わりに何か圓楽さんのネタをください」と言って『城木屋』と取り替えっこしたんです。
── 桂歌丸 『歌丸ばなし』 (ポプラ社) p.71-72

 歌丸師匠は生前、埋もれた噺を掘り起こす理由について問われると、「誰もやっていない噺をやれば他の演者と比べられることもないし、間違えてもお客さんに気付かれる心配がない」と説明していたが、根っからの編集者気質を備えていたことに加え、5代目今輔門下で新作落語のアプローチに馴染んでいたからこそ、復活させる噺の選定と改変ができたのだろう。珍品の掘り起こしと改変作業の経験が、のちの「圓朝噺」の改編にも役立ったであろうことは想像に難くない。

 「誰もやらない」という噺には、それなりの「やらない」理由ってのがあるんです。もう噺自体が時代遅れになっちゃって、今の観客には分かりにくい部分が多い。そのまま演じたら、面白くも何ともないんです。
 だから、かなりの手直しが必要になる。噺をいったんバラバラにして、一から組み立て直し、必要なら新しいサゲも考える。 (中略)
 古い噺の復活には、新作を一本作るぐらいの手間がかかるんですよ。
── 桂歌丸 『恩返し 不死鳥ひとり語り』 (長井好弘編、中央公論新社) p.157-158

 『後生鰻』もまた、最近の寄席では滅多にかけられることのない珍品の部類に入るだろう。古くは5代目志ん生の口演が有名だが、歌丸版はサゲが独自にアレンジされている。結果として「それなりの『やらない』理由」が解消され、現代の客にも通じる滑稽噺へと生まれ変わっているのだから、お見事としか言いようがない。歌丸版『後生鰻』は落語史に残る名改作であり、歌丸師匠の編集者としての才覚と技術の高さを端的に象徴する一席と言えよう。

 古い噺を大胆にアレンジする一方で、歌丸師匠は従来の型通りに噺を演じることもあった。『火焔太鼓』については「志ん生師匠のクスグリを変える気にはならない」と話していたし、『厩火事』についても8代目文楽の型通りに演じていた。滑稽噺にしても「圓朝噺」にしても、歌丸師匠は現代の客を“古典落語によって”愉しませるために改作していたのであって、決して改作自体が目的ではなかったのだ。いわば歌丸師匠は「改革保守」派であって、革新主義者ではなかった。

 とりわけ『紺屋高尾』はその「改革保守」ぶりがよく表れている一席だ。基本的には6代目圓生―5代目圓楽の型に忠実でありながら、独自の美しい文句を織り込んだり、合間に「今の言葉で言うと」などと注釈を挿んだり、江戸落語には珍しくハメモノを入れたりして、歌丸師匠ならではの廓噺に仕上げている。私はこの噺を我が大田区民プラザでの独演会で聴くことができた。あの艶っぽくて、清らかで、奥深くて、軽やかな名演を聴くことのできた私は、つくづく幸せ者だと思う。

 

 ◆ 闘う名人、歌丸

 今年(2018年)4月の国立演芸場中席が、私にとって歌丸師匠の落語を生で聴く最後の機会となり、歌丸師匠にとっても生前最後の高座となった。この時にネタ出しされていた演目は1980年初演の『小間物屋政談』で、私は4月15日の日記に「テンポはどうしても遅くなるが、その口跡は極めて明瞭」「病に惑わされてたまるか──名人歌丸、圧巻の話芸だった」などと記録している。私自身、これが歌丸師匠の最後の寄席になるとは考えていなかった。

 私は歌丸師匠の高座にちょうど20回、立ち会うことができた。「20回しか」立ち会えなかったとも、「20回も」立ち会えたとも言える。最晩年の8年間、歌丸師匠の体調的には過酷を極める時期にほかならなかったはずだが、客席から拝見する限り、私はただの一度たりとも歌丸師匠の高座から「辛さ」や「苦しさ」「弱さ」を感じたことはない。むしろ、その淡麗ながらも気迫のこもった話芸にいつも感嘆させられ、こちらがエネルギーをいただくことばかりだった。

 「よく『枯れた芸』って言うじゃないですか。アタシはどんどん新芽を伸ばし、葉を付け、花を咲かせ、実を持たせる。そういう勢いのあるものの方がいい。枯れた芸なんぞなりたくないですよ。枯れたもの見たってそんなの面白くもなんともない」。生前の取材でそう話していた通り、歌丸師匠は最後の高座に至るまで、“勢い”のある迫真の話芸で客を愉しませ続けた。滑稽噺も人情噺も「圓朝噺」も得意とする名人でありながら、今後ますますの成長可能性を常に感じさせられた。

 口演速記本の存在は名人上手であることの客観的証拠に値するが、歌丸師匠の場合は、昨年(2017年)11月に初の口演速記本『歌丸ばなし』(ポプラ社)、今年6月にその第2弾『芸は人なり、人生は笑いあり 歌丸ばなし2』(同社)が刊行されたばかりだった。さらに昨年8月の国立演芸場で「語り直して」と題して歌丸版『牡丹灯籠』の第一話が口演されていたことからも察せられるように、歌丸師匠自身もまだまだ高座を勤めていく決意であったに違いない。

 歌丸師匠はまさしく芸も人気もピークの状態で亡くなった。その絶頂期での死は私淑していた6代目圓生の最期を思わせなくもないが(歌丸師匠の生前最後となった高座での演目も、「圓生師匠の型を踏襲している」と話していた『小間物屋政談』だった)、営業先で突然死した圓生とは違って、晩年の歌丸師匠は壮絶な闘病生活を送りながら客の前で落語を演じ続けていた。酸素チューブを着けて高座に上がった落語家は後にも先にも歌丸師匠だけである。

 しかし、歌丸師匠は「病気なのに頑張っている姿」で客を感動させることは一度もなく、あくまでも古典落語の口演で客を感動させ続けた。その場の誰もが歌丸師匠の悲惨な体調を知りながら、その場の誰もがそんなことを忘れて歌丸師匠の話芸に惹きつけられた。こんな芸人はほかにはいない。いるはずがない。桂歌丸という“闘う名人”の高座に立ち会えたことは、我が人生の至上の財産である。──歌丸師匠、本当にお疲れ様でした。どうかゆっくりお休みください。


<私の「桂歌丸」鑑賞録>

 2010年1月5日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2010年4月10日 『おすわどん』 (大田区民ホール・アプリコ)
 2011年1月5日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2013年4月20日 『鰍沢』 (国立演芸場)
 2013年5月6日 『火焔太鼓』 (新宿末廣亭)
 2013年5月10日 『紺屋高尾』 (新宿末廣亭)
 2013年7月30日 『後生鰻』 (新宿末廣亭)
 2013年8月20日 『真景累ヶ淵 -お熊の懺悔-』 (国立演芸場)
 2013年9月25日 『後生鰻』 (文京シビックホール)
 2014年1月4日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2014年8月16日 『牡丹燈籠 -栗橋宿-』 (国立演芸場)
 2014年10月9日 『鍋草履』 『紺屋高尾』 (大田区民プラザ)
 2015年1月3日 『鍋草履』 (新宿末廣亭)
 2015年4月18日 『塩原多助 -青の別れ-』 (国立演芸場)
 2015年5月5日 『城木屋』 (新宿末廣亭)
 2015年8月15日 『怪談乳房榎』 (国立演芸場)
 2016年4月16日 『塩原多助 -出世噺-』 (国立演芸場)
 2016年8月13日 『江島屋怪談』 (国立演芸場)
 2017年8月13日 『牡丹燈籠 -お露新三郎 出逢い-』 (国立演芸場)
 2018年4月15日 『小間物屋政談』 (国立演芸場)

(文中一部敬称略)
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2018年07月06日

笑いと人情とファンタジーと “バランス”絶妙、鯉昇の『ねずみ』


今日は、新宿末廣亭 7月上席 昼の部 へ行ってきました。
主任は、瀧川鯉昇師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 瀧川あまぐ鯉 『英会話』
落語:(交互) 瀧川鯉丸 『二人旅』
相撲漫談:一矢
講談:神田京子 『山内一豊の妻』
落語:(交互) 春風亭傳枝 『反対俥』
バイオリン漫談:マグナム小林
落語:春風亭柳之助 『ちりとてちん』
落語:(交互) 三遊亭円楽 『酔っ払い』
漫才:東京太・ゆめ子
落語:三遊亭遊史郎 『紙入れ』
落語:桂米多朗 『粗忽長屋』
奇術:北見伸
落語:(代演) 瀧川鯉朝 『あいつのいない朝』

 〜仲入り〜

落語:(交互) 瀧川鯉斗 『強情灸』
スタンダップコメディ:(交互) ナオユキ
落語:桂米福 『錦の袈裟』
落語:三遊亭遊之介 『蝦蟇の油』
歌謡漫談:東京ボーイズ
落語:(主任) 瀧川鯉昇 『ねずみ』



★あまぐ鯉 『英会話』
開口一番は鯉昇門下のあまぐ鯉さん。
単なる“アナクロ新作落語”だと思っていた『英会話』も、
テンポがよく口跡も滑らかだと現代的なネタに聴こえる。

★鯉丸 『二人旅』
地方公演の途中で帰った“聖なる”団体客の話を経て、
“ボケ役の旅人”がニンにハマっている『二人旅』へ。
“都々逸”の件は省略して“なぞかけ”の件へすぐ入った。

★一矢
「W杯の結果は『半端ない』っていうか半端だったね」。
稀勢の里や栃ノ心に触れてから「優勝は白鵬」と予想し、
観客参加型の相撲甚句で平日の客席に活気を与える。

★京子 『山内一豊の妻』
海外で口演した英語版『浦島太郎』のさわりを語るも、
「日本文化に興味ある外国人は日本語を聴きたい」。
そして『一豊の妻 出世の馬揃え』をリズムよく聴かせる。

★傳枝 『反対俥』
「華を持たせましょう。歌丸師匠の告別式でも花を…」。
“ドリフト走行”や“マリオカート”も登場の『反対俥』は、
傳枝師匠の気力・体力を感じさせる陽気な一席だった。

★マグナム小林
『明日があるさ』→「救急車」→「コンビニ」→「新幹線」。
初めての客が多かったようで、感嘆の声がよく上がる。
後半は『恋のバカンス』『暴れん坊将軍』『天国と地獄』。

★柳之助 『ちりとてちん』
“西郷隆盛”のマクラで客席を暖め、『ちりとてちん』へ。
柳之助版『ちりとてちん』は“旦那”もなかなか意地悪で、
“寅さん”の「美味い」という表情も的確に描写している。

★円楽 『酔っ払い』
「“あれ”以来初めての寄席。何以来って“あれ”以来」。
縁があるから「お別れの会」に出席できそうだと話し、
「山田隆夫の葬式には参列できない。縁がないから」。
「歌丸師匠は酒を一滴も呑まなかった」と言ってから
(この日の出番で歌丸師匠の名を出したのは一度だけ)、
酒を呑む医者と呑まない医者の“診断”や忠告の違い、
独り言形式の“寝酒”の小噺で客席を大いに湧かした。

★京太・ゆめ子
「口は重宝」といった言葉選びに生活感があって好い。
夫を「はいご苦労さま」とあしらうゆめ子先生の存在は、
それ自体がもはや“達人”の域に入ってきているような。

★遊史郎 『紙入れ』
小遊三一門の芸名に関するマクラで客席を安心させ、
昼間にやる噺ではなかったと言いつつ『紙入れ』へ。
丁寧ながらリズミカルに噺を運び、要所で笑いを掴む。

★米多朗 『粗忽長屋』
米丸・笑三両師匠の紹介のあと、『粗忽長屋』に入る。
“行き倒れ”を目の前にしながら「歌丸さんじゃないよ」。
“熊”は粗忽者だが性格は穏やかで優しく朗らかだった。

★北見伸
まずは伸先生が「紐」や「トランプ」の技芸を披露する。
次に小泉ポロン先生が「ハンカチ」→「リング」を魅せ、
最後は座敷席の女性客との会話も楽しく「果物カード」。

★鯉朝 『あいつがいない朝』
桃太郎師匠の代演。
「桃太郎師匠は営業仕事が好き。暇な私が呼ばれた」。
再放送中『カーネーション』の人間関係に触れてから、
“ケンカ友達”が主役の新作落語『あいつがいない朝』。
「いま気が付いたけど、人形も“人”生でいいのでは?」。
『笠碁』チックな爆笑と感動の一編を堪能させてもらう。

★鯉斗 『強情灸』
「目を噛む男」の小噺で客を確かめてから『強情灸』へ。
「これが熱いの熱くないの。いや、熱いんだけどね」。
“娘”の覗きに至るまで所作も豊富で、結構ウケていた。

★ナオユキ
「土曜の夜に」「酒場の女」「ガード下の酔っ払い」など、
独特の話芸で昼の部一番の爆笑をかっさらっていく。
ネタの密度がかなり高く、客の集中を途切れさせない。

★米福 『錦の袈裟』
マクラで客のハートを掴んでから、『錦の袈裟』へ入る。
“与太郎”のキャラ造型がクドくないのでさっぱり聴ける。
“遊女”が「あのボーっとしたのが殿様よ」と話してサゲ。

★遊之介 『蝦蟇の油』
「師匠は自転車泥棒でも妙蓮寺の賽銭泥棒でもない」。
見世物小屋の小噺を経て、静かな迫力の『蝦蟇の油』。
言い立てをキメるも「間違えたので拍手はいりません」。

★東京ボーイズ
「羽生結弦国民栄誉賞」「関ジャニ∞」の“なぞかけ”、
『ラブユー東京』『よせばいいのに』『長崎は今日も〜』。
持ち時間は短めで、この後の鯉昇師匠にバトンを渡す。

★鯉昇 『ねずみ』
「地方の主催者はその日のうちに東京へ帰らそうとする」。
柳昇師匠に連れられた旅先での爆笑エピソードを踏まえ、
歌丸師匠の十八番でもあった“左甚五郎モノ”『ねずみ』へ。
“甚五郎”が謙遜しながらアドバイスをしてくれたことに応じ、
“卯兵衛”は「ご親切に甘えて愚痴を……」と経緯を明かす。
この演目はややもするとクサい人情噺になりかねないが、
鯉昇版は滑稽さと人情とファンタジーのバランスが絶妙だ。
人間の善良さを強調するでもなく、“欲”を押し出すでもなく、
全体的には穏やかながら、わずかに緊張感が漂っている。
様々な角度から愉しめる、ずっと浸っていたい世界だった。



──私にとって本日は歌丸会長逝去後初めての芸協の興行でしたが、
芸人のみなさんの“普段通り”の話芸にかえって感動させられました。
円楽師匠の心を淋しさが覆っていた感は否めようがなかったけれども、
それでも“あれ”を吹き飛ばす爆笑の高座を展開したのだからさすが。
こうやって寄席芸人は悲しい出来事から“リハビリ”していくのでしょう。

ところで、鯉昇師匠が本日の寄席で好演していた『ねずみ』という噺は、
前述した通り、歌丸師匠が「大好き」と公言して憚らない演目でした。
先月発売されたばかりの口演速記本『歌丸ばなし2』(ポプラ社)でも、
この『ねずみ』という噺が8席の速記のいわば“大トリ”を飾っています。
本日の末廣亭は、私にとっては期せずして“追悼”の寄席になりました。
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