2018年06月24日

わたしの人生は“回復”できる 『レディ・バード』


先日、TOHOシネマズ川崎で
映画『レディ・バード』を観ました。

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 <あらすじ>
舞台は2002年、カリフォルニア州サクラメント。
高校生活最後の年を迎えたクリスティン(シアーシャ・ローナン)は
自らに“レディ・バード”と名付け、家族や友人にもそう呼ばせている。
彼女はニューヨークなどの都会の大学に進みたいと考えているが、
母マリオン(ローリー・メトカーフ)は娘を地元の大学に通わせたい。
母娘に溝が生じる中、“レディ・バード”は高校の演劇部に参加する。



“良い映画”を観た後は世界がこれまでとは変わって見えてきます。
心が豊かになり、他人にも少しだけ優しく接せられるようになります。
『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』(2010年)でおなじみの女優:
グレタ・ガーウィグにとって初めての単独脚本・監督作である本作は、
ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』(1989年)と肩を並べる
真に感動的な青春映画であり、“名作”と称すに相応しい作品でした。

“レディ・バード”こと主人公クリスティン役のシアーシャ・ローナン、
その母マリオン役のローリー・メトカーフ(彼女がレギュラー出演する
ABCのシットコム『Roseanne』は奇しくも先日打ち切られましたが)
をはじめ、すべてのキャストが文句の付けようがないハマり役です。
演劇部臨時顧問の“指導”のくだりは純粋に秀逸なコメディパートで、
臨時顧問役のボブ・スティーヴンソンは見事な快演をみせています。



本作では登場人物の沈黙が描かれるシーンも少なくなりませんが、
自主映画にしばしば見受けられるような“薄さ”は感じられません。
その理由は、本作では演出と編集に抑揚が効いていることに加え、
BGMとなる音楽が惜しみなく効果的に使用されているためでしょう。
結果的に本作は、“ポップ”なだけでもなくオフビートなわけでもない
独特な間合いを貫くことに成功し、観客を映画の中へと浸らせます。

台詞に価値があり、沈黙(とその際の役者の表情)に意味がある──。
やや大袈裟な言い回しかもしれませんが、『レディ・バード』を観て、
私は“映画”というメディアの永遠の可能性を確認させられました。
シスター・ジョアン(ロイス・スミス)が“愛”をめぐる台詞を言った後に
母マリオンを映し出すなどといった映画特有の手法を用いることで、
本作はすべての登場人物に人生があることを提示しているのです。

私が最も親近感を抱くキャラクター:ダニー(ルーカス・ヘッジズ)は、
ロナルド・レーガンの写真(※) を飾るようなカトリック教徒の家庭で
育った青年でありながら、自らがゲイであることを自覚し始めます。
2002年のサクラメントでゲイであることを自覚することの深刻さは、
ダニーが同性愛の自覚を「悪化」と表現する様子からも窺えます。
彼が“レディ・バード”を前にして嗚咽する場面はあまりに悲痛です。

本作では政治的主張が具体的に提起されるわけではありません。
劇中の人間関係の変化や登場人物の感情描写についても同様で、
本作では印象的な状況(ここでは具体例を挙げずにおきますが)を
提示することで、人物一人ひとりの感情や人間性を表しています。
そのため本作においては役者の演技が果たす役割が非常に大きく、
実際に本編を観なければ本作の魅力は十分に分からないでしょう。



エントリのお終いに、本作の物語に関して想ったことを一つだけ──。
この映画は“出発”の物語である以上に“回復”の物語でもあります。
劇中で主人公はダニー、親友ジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)、
そして母マリオンとの関係を最終的に“回復”することになりますが、
それは必ずしも元通りの関係性に戻るという“復元”を意味しません。
それは絶縁の過去を踏まえて関係を“再生”させることを意味します。

たとえどんなに望んでも過去の出来事をなかったことにはできない。
でも、過去を人生に消化して前に進む=“いま”を紡ぐことはできる。
それこそが自分の人生をより優しくさせるための唯一の方途であり、
生きることに不慣れな私たちが胸の中に抱え持つ確かな希望です。
新天地へ移った“レディ・バード”が本名を“回復”する本作のラストは、
『いまを生きる』のラストを思わせる、ほろ苦くも前向きなものでした。



▲ 『レディ・バード』 (2017年) テレビコマーシャル 「Fly」篇

<注釈>
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2018年06月04日

共産主義者の“バディムービー” 『マルクス・エンゲルス』


先日、岩波ホールで
映画『マルクス・エンゲルス』を観ました。

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 <あらすじ>
26歳のジャーナリストだったカール・マルクス(アウグスト・ディール)は、
その過激な言論活動のため、妻とともにドイツ政府から国を追われる。
パリへ移ったマルクスは、マンチェスターにある紡績工場の御曹司:
フリードリヒ・エンゲルス(シュテファン・コナルスケ)と偶然にも出会う。
互いの第一印象は最悪だったものの、2人はたちまち意気投合し……。



ドイツの思想家とその協力者の若き日々を描いたこの映画を観ながら、
私はロバート・ダウニー・Jr.とジュード・ロウが主演するハリウッド映画
シャーロック・ホームズ』シリーズ(2009年〜)を思い出していました。
19世紀のヨーロッパで青年世代の男性コンビが活躍するばかりでなく、
対等でありながらも同等ではない2人の関係性が共通しているのです。

また、エンゲルスがアイリッシュパブで労働者の男に殴られるシーンや、
マルクスとエンゲルスが官憲に追われて街路を逃げ回るシーンなどは、
ハリウッド流の“エンターテインメント映画”的なタッチで描かれています。
ラウル・ペック監督の狙いはさておき、本作は教育的な映画ではなく、
あくまでも青年たちとその妻の友情を描くドラマ映画だと言えるでしょう。

実際、この映画を観ても、2人がなぜあのような思想を構築できたのか、
世界を“変革”するために“批判”を重視していたのかは分かりません。
たしかに、冒頭にはエンゲルスが労働者の声と直面する場面が存在し、
中盤ではマルクスが図書館で学習に励む様子が描かれてもいますが、
彼らの思想の根拠となる明瞭な“事件”が示されるわけではないのです。

まさしくそれゆえに、この映画は劇映画として信頼に値する作品であり
(シャーロック・ホームズが探偵を志した理由なんてどうでもいい!)、
結局のところは典型的な“バディ映画”となっているということもあって、
マルクスに関心がない観客にも通じる普遍的な力強さを持っています。
本作を機に『共産党宣言』を紐解く若者も現れるのではないでしょうか。

かくいう私は“科学的社会主義者”でも共産主義者でもあり得ませんが、
現代社会を生き抜くためには、『資本論』第1巻で解き明かされている
資本主義に対する分析を把握することがとても重要だと考えています。
「能力が向上すれば賃金も上がる」という誤解に足をすくわれないよう、
まずは池上彰著『高校生からわかる「資本論」』(ホーム社)をどうぞ!

さて、最後にこの映画についてやはり書いておきたいことがあります。
それは、シュテファン・コナルスケ演じるエンゲルスの魅力について──。
“ワトソン君”の立場でありながら、演説シーンでは見せ場を与えられ、
人間的な“誠実さ”と“優しさ”を常に秘めているそのキャラクター造型は、
エンゲルスに勝手な親近感を抱いてきた私も満足の出来栄えでした。



▲ 『マルクス・エンゲルス』 (2017年) 予告編



 <追記>
『マルクス・エンゲルス』を観ながら連想した映画が もう一つあります。
ジョン・ランディス監督の最近作『バーク アンド ヘア』(2010年)です。
19世紀に実際にあった連続殺人事件を題材にしたブラックコメディで、
英国喜劇の伝説的撮影所:イーリング・スタジオの製作による作品で、
私の隠れた(隠す必要はないのですが)お気に入り映画でもあります。

革命家が主人公の“真面目な”映画『マルクス・エンゲルス』とは違い、
“バディ映画”という点では共通するものの、『バーク アンド ヘア』は、
コメディという視点からこの世界や人間の在り方を“解釈”しています。
逆説的かつ横柄な説明になりますが、『マルクス・エンゲルス』を観て、
私はコメディ的な視点を忘れない人間であり続けたいと再認しました。
posted at 23:59 | Comment(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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