2018年01月15日

アメリカのコメディは“異人種装”をどのように描いてきたか


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 2017年12月31日に放送された『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』(日本テレビ系)での「ブラックフェイス」が人種差別的だと批判されている。
 私は雨宮紫苑さんの見解(『日本には日本の価値観があるとはいえ、世界的にブラックフェイスがタブーであるという事実は変わらない。』)とほぼほぼ同意見だが、コメディを愛すると自称してきた人間として、近年(?)のアメリカンコメディにおける“異人種装”について少しだけ立ち入った話をしてみようと思う。



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そもそもの話、いったい何が問題なのか
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 他でも散々解説されているだろうから詳述はしないが、アメリカでは、黒人を模倣するために“黒塗り”をすること自体が黒人差別の歴史と直接的に紐付けられている。詳しくは「ミンストレルショー」で検索されたい。黒人を模倣するための“黒塗り”(「ブラックフェイス」)は、例えば日本人を原爆ネタで嘲り笑うのと同程度のタブーなのである。日本で生まれ育った大半の日本人には理解しにくくとも、当事者たる黒人(とりわけアメリカにルーツを持つ黒人)にとってはそうなのだ。

 Q. 「それはアメリカの話だろう。日本は関係ないじゃないか」
 「ブラックフェイス」はアメリカの白人が気にすればいいだけの話だと思う者もいるかもしれない。しかしこれは「誰が」ではなく「誰を」どうネタにしているかの問題なのだ。とりわけアメリカにルーツを持つ黒人にとってはそうである。日本には黒人差別の歴史がないと思うからといって、日本で黒人を「ニガー」と呼称していいことにはならないだろう。イギリスが日本に原爆を投下していないからといって、イギリス人なら日本人を原爆ネタで笑っていいことにはならないだろう。

 Q. 「どんな場合でも“黒塗り”は許されないのか」
 私はそうは考えない。例えば、子どもが田んぼで転んで泥まみれになる描写が規制されるべきではない。たとえ黒人模倣としての“黒塗り”(「ブラックフェイス」)が登場するとしても、そのことで「反差別ギャグ」が形成されるのであればむしろ立派なことだと思う。「保毛尾田保毛男」のコントで客を笑わせようとすることと、「『保毛尾田保毛男』のコントで笑いをとろうとした時代遅れの芸人が逆に世間から嘲笑されるコント」で客を笑わせようとすることはまったく意味が異なる。

 Q. 「“黒塗り”をする側に悪意がなければ構わないだろう」
 形而上ではなく現実の話をしたい。差別的な意図が存在していなかったからといって、差別的な表現がなかったことになるわけではないだろう。例えば、「ホモ」という呼称は同性愛者の蔑称として当事者を傷付け続けているが、「私はリスペクトの精神から同性愛者を『ホモ』と呼んでいる」と釈明しても当事者の神経を逆撫でするだけだ。侮蔑する意図がないなら、当事者の多かれ少なかれを傷付けることがあらかじめ分かっている表現を、わざわざ使用するべきではない。



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アメリカンコメディの“異人種装”あれこれ
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 さて、『笑ってはいけない』での「ブラックフェイス」をめぐっては、「これが差別なら○○も差別ではないのか」という反応をいくつか見聞きした。「○○」の話をしているわけでもないのにそのようなことを言い出すのはそもそも話を逸らす行為でしかないと思うのだが、それらの“告発”が的外れな上に、アメリカンコメディへの無理解に我慢がならなくなったので、「○○」をいくつか例示してみたい。


1. 「エディ・マーフィだって白人に扮装していたぞ!」

▲ 『サタデー・ナイト・ライブ』 第10シーズン第9回 (1984年12月15日) より

 『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』(NBC)のレギュラー降板から半年後の1984年12月、『SNL』にゲスト出演したエディ・マーフィは、『White Like Me』と題するスケッチで白人男性に扮装した。このスケッチの題名と内容には元ネタがある。黒人コメディアンの先駆者であるリチャード・プライヤーが『SNL』第1シーズンにゲスト出演した際、トーク番組のパロディで、「著書『White Like Me』を最近出版したジュニア・グリフィンさん」という架空のキャラクターを演じたのだ。

 司会者 「こんばんは。『読書案内』へようこそ。司会のジェーン・カーティンです。今夜のゲストはアメリカでいくつもの本を出版している人物です。今夜は彼の新著『White Like Me』について話してもらいましょう。ようこそ、ジュニア・グリフィンさん。新著の内容について教えてください」
 グリフィン 「ええと……。白人が抱える問題を理解する唯一の方法は白人になることだと、私は思い立ったのです。実際に白人になり、白い肌を得て、白人の世界で白人のように生きてみるしかない。そうでしょう?」
── 『Looks At Books』 (1975年12月13日)

 『White Like Me』はいわばプライヤーへの“オマージュコント”なのである。白人であるというだけで新聞をタダでもらえたり、銀行から審査なしでお金を貸してもらえたり──。このスケッチは白人が優遇されている社会を皮肉る「反差別ギャグ」であり、『SNL』の歴史に名を刻む傑作コントとしか言いようがない。ただし、「このスケッチは現在に至るまで決して作り話ではない」というデイリーニューズ紙記者の指摘を読んでしまうと、笑って済ますことが難しくなるが。



2. 「テッド・ダンソンだって黒人に扮装していたぞ!」

ted-danson-1993-roast-blackface.jpg▲ 『Friars Club Comedy Roast』 (1993年10月8日) より

 非当事者による「反差別ギャグ」の難しさを体現したのが、シットコム『チアーズ』(NBC)で知られるテッド・ダンソンだ。1993年に行われたウーピー・ゴールドバーグのローストで「ブラックフェイス」を披露したのだ。ローストというのは、主賓と縁のある人物が舞台に上がり、主賓を毒舌ジョークでこきおろしていく企画のことである。これは主賓と登壇者との間に友情や親交があるからこそ成立するもので、相手をイジることで褒め称えるという遊びにほかならない。

 ゴールドバーグと当時交際していたダンソンは、「ミンストレルショー」のパロディと一目瞭然の「ブラックフェイス」で登場し、「ニガー」という単語を十数回に渡って連発した。ダンソンのパフォーマンスに主賓のゴールドバーグは大ウケしたが、そのあまりにも直接的で攻撃的なユーモアに当事者の少なからずが不快感を表明した。ゴールドバーグは「レイシストを風刺したもの」にすぎないとして当時の恋人を擁護したが、のちにダンソンは公の場での謝罪に追い込まれている。

 ダンソンが非難を浴びたのは、差別主義者を描くことで差別の愚かさを示すという「反差別ギャグ」の文脈を上手く表現できていなかったからだろう。焦点と言葉選びを間違えれば、毒舌ジョークも単なる誹謗中傷になってしまう。この一件は、コメディにとって肝要なのは表現者の意図ではなく表現そのものであるということ(意図は行為を正当化し切れない)、そして白人が「ミンストレルショー」をパロディ化するのは時期尚早だということを教えているのかもしれない。



3. 「エディ・マーフィだってアジア人に扮装していたぞ!」

▲ 『マッド・ファット・ワイフ』 (2007年) より

 またしてもエディ・マーフィである。ということでお分かりのように、人種ネタとコスプレ芸はマーフィの代名詞なのだ。『ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合』(1996年)での1人7役は日本でも有名だろう。みのわあつお先生は『ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々』(2000年)を「エディ・マーフィの最高傑作」と評するとともに、マーフィのコスプレ芸歴をまとめている(『White Like Me』の放送時期がマーフィの『SNL』レギュラー時代とされているのは誤り)。

 まず、『〜クランプ家の面々』での驚きとすごさは、エディが前作の一人七役から、一人九役へとバージョンアップしていること。この“一人複数役”こそ、まさにエディの最高の芸だ。古くは、「SNL」のレギュラー時代(80〜84)に、特殊メイクで白人に扮したエディ(役名は、ミスター・ホワイト)が、ニューヨークの街に出て、いかに白人が優遇され、黒人が冷遇されているかという風刺ギャグを演じた。このギャグが大受けし、エディは『星の王子ニューヨークへ行く』(88)でも“一人複数役”を演じ、『エディ&マーティンの逃走人生』(99/未)の五十歳を超えた老人役へと受け継がれ、極めつけが『〜クランプ家の面々』の一人九役となったのだ。
── みのわあつお 『サタデー・ナイト・ライブとアメリカン・コメディ』(フィルムアート社) p.60

 『マッド・ファット・ワイフ』(2007年)でマーフィは原案・脚本・製作を担当するとともに、出演者としても一人三役に挑み、@親に捨てられて孤児院で育てられた黒人男性ノービット、Aその幼なじみの黒人女性ラスプーシア、B孤児院院長のアジア系男性ウォンを演じた。ウォンはノービットの父親代わりとなる最も重要な脇役であり、マーフィの芸風を反映させたキャラクターである(それゆえ、本来ならばアジア系俳優が得るべきだった職をマーフィが奪ったとは言い切れない)。

 なぜマーフィは院長をアジア系に設定したのか。これは推測だが、非白人の人種的マイノリティが差異を越えて共存する世界を描きたかったからではないだろうか。人種的マイノリティ同士が白人の“加護”を受けることなくフツーに共生できることを示したかったからではないか。そう考えれば、映画の冒頭で「クジラ狩り」をわざとらしく表現し(誇張されることでギャグは非現実性を高める)、「クジラ狩り」と黒人少年たちを絡ませていたのにも論理的な説明がつく。

 院長がアジア系なのは「黒人の親に捨てられても、別の非白人が拾ってくれる」という趣旨でもある。思い返せば、マーフィは白人にも黒人にも媚びないコメディアンだった。『ナッティ・プロフェッサー』では差別的な芸人役に黒人俳優を起用している。『マッド・ファット・ワイフ』でのマーフィは“第3の人種”を投じることで、「白人対黒人」という既存の人種観をも相対化したのだ。「相対化」をコメディの主要な役割と捉えれば、マーフィこそは正統派のコメディアンだと称えるだろう。



4. 「ロバート・ダウニー・Jr.だって黒人に扮装していたぞ!」

▲ 『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』 (2008年) より

 エディ・マーフィ同様、ベン・スティラーもコスプレが好きなコメディアンだ。脚本・監督を務めた『ズーランダー』(2001年)では奇抜なファッションに身を包み、製作を務めた『ドッジボール』(2004年)では特殊メイクに挑んだ。そして、原案・脚本・監督・製作を務めた『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』(2008年)ではジャック・ブラックに『ナッティ・プロフェッサー』シリーズ(1996年〜2000年)風の特殊メイクを施し、ロバート・ダウニー・Jr.には“黒塗り”をさせている。

 ダウニー演じるラザラスは役者バカの“カメレオン俳優”で、本当は白人であるにもかかわらず、黒人役を演じるため皮膚整形を施したというイタいキャラクターである。今や精神的にも自分自身を黒人だと思い込んでいる。劇中では「なんて連中だ」と罵られて「『連中』だと? 俺たち黒人を侮蔑しているのか」とマジギレし、本物の黒人俳優から「お前は黒人じゃないだろ」とツッコまれるくだりもあった。まさしく「ブラックフェイス」を利用した一種の「反差別ギャグ」だと称える。

 本作での演技が認められ、ダウニーはアカデミー賞にノミネートされた。人々はダウニーの「ブラックフェイス」を「反差別ギャグ」の一環として受け入れたのだ。もちろんスティラーは批判が起こる可能性を考慮していなかったわけではない。全米黒人地位向上協会で試写会を開き、黒人ジャーナリストの反応を事前に確かめていた。スティラーは語っている。「映画を観た者なら、その文脈からして、彼の役柄が“メソッド俳優”であるということは分かってくれるだろう」。



5. 「フレッド・アーミセンだってオバマ大統領のモノマネをしていたぞ!」

▲ 『サタデー・ナイト・ライブ』 第34シーズン第6回 (2008年10月25日) より

 2013年まで『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』の代表的レギュラーだったフレッド・アーミセンは、2008年2月から番組内のスケッチでバラク・オバマ大統領を演じていた。たしかにこのモノマネは一部から批判を受けた。といっても、批判のポイントは「なぜ黒人コメディアンに黒人大統領を演じさせないのか」というものである。番組プロデューサーのローン・マイケルズは、2012年の新シーズン開始に合わせてオバマ大統領役をジェイ・ファローに交代させている。

 なぜアーミセンの「ブラックフェイス」は批判を浴びずに済んだのか。私が思うに、その“黒塗り”がツッコもうにもツッコめないほど軽微なものだったためではないだろうか。2009年3月に放送されたスケッチ『The Rock Obama』では特に“黒塗り”はしていないようにさえ見受けられる。“黒塗り”の有無がよく分からなくてもオバマ大統領のモノマネとして成立しているところをみると、“黒塗り”は決して黒人を模倣するための必須条件ではないことが分かる。

 ちなみに、『SNL』でミシェル・オバマ夫人を演じていたのは誰かというと、配役難航の末、結局は元レギュラーのマーヤ・ルドルフが番組に復帰して演じていた。ルドルフの母親は黒人歌手のミニー・リパートンである。スケッチでは多少“黒塗り”を施しているようにも見えるが、黒人自身が“黒塗り”をする分には許容されるということなのだろう。しかし、「後進に道を譲るべき」という声も上がっていたためか、2014年からはサシーア・ザメイタが夫人役を演じるようになった。



6. 「ビリー・クリスタルだってサミー・デイヴィス・Jr.のモノマネをしていたぞ!」

billy-crystal-sammy-davis-jr-oscar-2012.jpg▲ 第84回アカデミー賞授賞式 (2012年2月26日) より

 2012年のアカデミー賞授賞式はエディ・マーフィが司会を務めるはずだった。ところが何やかんやあって司会を降板し、ビリー・クリスタルがピンチヒッターとして起用される。泣く子も黙る「Mr.アカデミー賞」の安定した司会ぶりはおおむね好評だったが、クリスタルが作品賞候補作品の世界に迷い込むというコント仕立てのオープニング映像が一部から批判を受けることになった。劇中でサミー・デイヴィス・Jr.を演じるために“黒塗り”をしていたからである。

 もっとも、その背景については言及しておく必要があるだろう。若手時代からクリスタルはデイヴィスを敬愛する人物と公言し、本人の公認を得る形でモノマネを披露してきた。1986年に放送された『Billy Crystal: Don't Get Me Started』(HBO)での本気のモノマネは今でも語り継がれるほどで、これほどまでの“憑依芸”を見せることができるのは、映画『マン・オン・ザ・ムーン』(1999年)でアンディ・カウフマンを演じた際のジム・キャリーぐらいなものだろう。

 クリスタルの“黒塗り”について、ある保守派のコラムニストは「『ブラックメイクアップ』と『ブラックフェイス』は違う」と主張した。特定の個人への本気の「オマージュ」なのだから問題ないというわけだ。この意見を『笑ってはいけない』に当てはめて考えるなら、そもそもあれが本当にエディ・マーフィのモノマネとして機能していたのかどうかを検証する必要がある。共演者の発言なども踏まえると、どうも私にはあれをモノマネとして捉えること自体に抵抗があるのだが。

 ところで、クリスタルは『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』でも“黒塗り”を披露していた。1984年に放送された『Baseball』というモキュメンタリー形式のスケッチで、クリストファー・ゲストとともに「ニグロリーグ」の元選手に扮装しているのだ。このスケッチは古い『SNL』ファンの間では有名なスケッチだが、番組の正史からは事実上抹殺されている。クリスタル本人も2017年の取材で「今では許されない」というようなことを話していて、もはや再放送されることは考えにくい。



7. 「スティーヴン・マーチャントだってアジア人に扮装していたぞ!」

movie-43-stephen-merchant.jpg▲ 『ムービー43』 (2013年) より

 『ムービー43』(2013年)は大好きな映画である。劇中のスケッチはどれもよく作られていて、決して豪華キャストだけが見どころではない。さてイギリスのコメディアン、スティーヴン・マーチャントがアジア人の特殊メイクを施されているのは、ピーター・ファレリー監督のスケッチ『フィーリング・カップル 下衆でドン!』でのことだ。デートの相手との「真実か挑戦か」ゲームが過熱した結果、整形手術でアジア人の風貌となり、相手からは「アジア人とは寝たくないの」とフラれる。

 アメリカ劇場公開版において、このスケッチは狂った脚本家(デニス・クエイド)の狂った企画として劇中劇形式で描かれている。このスケッチの直後には映画プロデューサー(グレッグ・キニア)が「アジア人に対して失礼だ」と冷ややかにツッコむ場面もあり、文脈から判断すれば差別的な印象は受け取れない。どんな「失礼な描写」をいくら描いても「それは失礼な描写だ」と一言添えれば許されるというわけではないが、総合的には広義の「反差別ギャグ」とみなせるだろう。

 スケッチ単体で判断する場合でも、実際に中身を鑑賞すれば分かるように、特定の人種を下に見てその人種に“変更”する外科出術は、「盲目の子の誕生日ケーキのろうそくを先に吹き消す」のと同程度かそれ以上に“下衆”な行為として位置付けられている。「反差別ギャグ」と称えるほどの趣旨がスケッチ自体に含まれているわけではないが、全体の構造としては「アジア人」自体というよりも「例えば人種差別的な言動を取るような連中」が笑いものにされているのだ。



8. 「チャニング・テイタムだってビヨンセのモノマネをしていたぞ!」

▲ 『リップシンクバトル』 第2シーズン第1回 (2016年1月7日) より

 芸能人が“口パク”パフォーマンスの出来を競い合う『リップシンクバトル』(MTV)の第2シーズン初回は、チャニング・テイタムとジェナ・ディーワンの夫婦対決だった。番組内でテイタムはビヨンセに扮して『ラン・ザ・ワールド(ガールズ)』の“口パク”を披露したが、たしかにその際のテイタムは顔を多少“黒塗り”しているように見受けられる。もっとも、放送後の反響は“ご本人登場”に限定され、テイタムの「ブラックフェイス」を指摘する意見はごく少数だった。

 この「ブラックフェイス」への批判が皆無に等しかったのは、テイタムの“黒塗り”が軽微(一般的な女性用メイクを施しただけだという弁明も成り立つ程度)だったことに加え、ビリー・クリスタルがサミー・デイヴィス・Jr.に扮した時のような本気のモノマネであり、かつビヨンセ本人のお墨付きを得る形で披露されていたからだろう。言い換えるならば、実際に「ブラックフェイス」が施されていようがいまいがどうでもいい場合においてのみ、「ブラックフェイス」は見過ごされ得るのだ。

 これに対し、『笑ってはいけない』での「エディ・マーフィに扮した」とされるものは「本気のモノマネ」どころか、肌色とジャンパーが共通しているだけの単なる“出オチ”にすぎなかった。番組内では「普通に笑てんねん! 黒人がこっち見て」(「マーフィが」でも「ビバリーヒルズ・コップが」でもなく「黒人が」である)という発言で笑いが誘われてもいた。これでは「マーフィ→黒人→黒い肌」というステレオタイプだけで造形されたキャラクターを笑っていると批判されても仕方ない。



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結局の話、いったい何が問題なのか
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● 「傷付けないのはいいことだ。でも……」

 ここまで見てきたように、「ブラックフェイス」の中には「反差別ギャグ」として機能したものもあれば、本気のモノマネであるがゆえに見逃されたものもあった。そもそも「ブラックフェイス」と“アジア人装”では位相が異なるが、『トロピック・サンダー』での「ブラックフェイス」はアメリカでも当然に受容されたのだから、アジア人の扮装はよくて「ブラックフェイス」は何が何でもダメだというわけではない。どのような文脈で「ブラックフェイス」が用いられているかが重要だということだ。

 それは言い換えるならば、アメリカの大半の観客はそれぞれの「ブラックフェイス」がどのような文脈で使われているかを理解、ないしは感知しているということでもある。コメディは人間の本質に迫ろうとすればするほど「文脈」を大事にする。作者が「文脈」で勝負を挑み、観客が「文脈」を読み取ってきたからこそ、メル・ブルックス監督の『ブレージングサドル』(1974年)は、非常識な描写が多くても「反差別ギャグ」の名作としての揺るぎない地位を獲得できたのだろう。

 そのブルックスは言っている。「民族を傷付けないのはいいことだ。でも、コメディは危険を冒しながら境界線ギリギリを歩くべきものなんだ」。この世には風刺的なコメディしか存在しないわけではないが、風刺的なコメディの存在は許されていなければならない。問われるのは常に何をどのように表現するかだ。ブルックスは「悪趣味なだけ」のネタは通用しないとも断言している。コメディを作るのが難しいのは、コメディこそが人間社会の縮図であるからにほかならない。


● アメリカでも無知な白人は増えている

 2017年の終わりに放送されたバラエティ番組がきっかけで、日本人は黒人差別の歴史にいかに無知であるかを自覚することになった。しかし無知なのは日本人だけではない。当のアメリカでも無知な者は増えている。黒人コメディアンのロイ・ウッド・Jr.は『ザ・デイリー・ショー』(コメディ・セントラル)のスケッチで、ハロウィンの仮装で「ブラックフェイス」を施すことの悪質性を訴えた。「肝心なのはそれが残虐な過去に由来しているということだ。だからこそ問題なのだ」。

▲ 『ザ・デイリー・ショー』 (2017年10月26日) より

 たしかにそれは外国の歴史かもしれない。だがインターネットが存在し、日本でも黒人が暮らしている以上、もはや日本人にとっても他人事では済まないだろう。──ところで、ウッドが出演したこのスケッチには素晴らしいオチが付いている。「レイシストの仮装をしたければこれがおすすめだ。『スティーヴ・バノン』。差別的な仮装をせずに差別主義者を表現できる」。優れたコメディアンはいつだって現実の厄介ごとをジョークに変換してくれる。「笑いこそは最良の薬」である。


(文中だいたい敬称略)
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2018年01月03日

これぞ落語のエッセンス! “さらっと上手い”小遊三の『浮世床』


今日は、新宿末廣亭 正月初席 第二部 へ行ってきました。
仲入り前は、三遊亭小遊三師匠。

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 <第二部>

(途中から)
落語:(交互) 三遊亭遊馬
紙切り:林家今丸
講談:(交互) 神田紅 『母里太兵衛』
落語:(交互) 三遊亭春馬 『読書の時間』
コント:(交互) チャーリーカンパニー
落語:(交互) 三笑亭可楽 『イスラムの世界』
漫才:(代演) ナイツ
奇術:(交互) 山上兄弟
落語:(代演) 春風亭昇太 『看板のピン』
落語:三遊亭小遊三 『浮世床』
(途中まで)



★遊馬
整理券310番台のため翔丸さんには間に合わず。
遊馬師匠の高座の途中で入場し、2階席へ上がる。

★今丸
本来ならば花さんとのコンビ出演のはずなのだが、
何らかの事情のため今丸師匠がソロで登場。
今年の干支である「犬」を切り、「客の横顔」で〆る。

★紅 『母里太兵衛』
最近の郷里の若者は「黒田節」を知らないと嘆き、
正月の定番ネタ『母里太兵衛』黒田節由来の一席。
普段よりも短い時間で客の集中を作り上げていた。

★春馬 『読書の時間』
マクラはそこそこに、6代目文枝作『読書の時間』。
初席に集った老若男女の客を万遍なく笑わせ、
教室でのやり取りでサゲる(「エロエロ日記だ!」)。

★チャーリーカンパニー
「安売り鮮魚店」のコントで客のハートを鷲掴み。
やはり初席の客は大いに笑い、過剰なほどに喜ぶ。
ハケる際の菊池先生のトボけた顔が洒落ていた。

★可楽 『イスラムの世界』
引退宣言”も束の間、可楽師匠は高座に上がる。
前座に手を取られて登場し、客を警戒させるも、
いざ喋り始めると笑いと感心をかっさらっていく。
「100歳まで続ければ誰でも人間国宝になれる。
 小三治は上手い。私も50代の頃は上手かった」。
カフィーヤを被るくだりでは大拍手が巻き起こった。

★翔丸
NHK総合テレビの番組で中継があるということで、
翔丸さんが時間調整のための前説役として再登場。
スタンダップコメディ的に自身の小噺で場を繋ぎ、
終盤には昇太師匠が高座に顔を出すハプニングも。

★ナイツ
内海桂子師匠をテーマ(?)とする「将棋」のネタ。
短い時間で伏線を回収していく安定の高座だが、
伏線部もギャグが詰まっているので勢いを感じる。

★山上兄弟
初っ端から「てじなーにゃ」を連発して盛り上げる。
「紐」→「犬のぬいぐるみ」→「ティースくん」。
暁之進さんが普段以上によく動き、トークしていた。

★昇太 『看板のピン』
「すごい拍手でしょ? 事前に頼んでおいたんです」。
初詣のマクラを経て、博打噺の名作『看板のピン』へ。
昇太師匠は若い衆のキャラがニンにハマっているが
(このネタは『マサコ』の古典版であるとさえ感じる)、
“隠居”の凄み方もユニークなので噺に奥行きがある。

★小遊三 『浮世床』
「ここからは中継がない。あってもなくてもよい時間」と
突っぱねながらも、江戸前の古典をしっかり聴かせる。
『浮世床』を「海老床」→「囲碁・将棋」→「本」まで。
物語性ゼロの“なんてことのない”ネタでありながらも、
これこそが落語のエッセンス(本質)だと思わせられる。
小遊三師匠ならではの“さらっと上手い”高座であった。



──というわけで、新しく始まった本年も、例年のように友人を連れ、
末廣亭の初席(の途中から途中まで)を愉しむことができました。
毎年この「第二部」では歌丸師匠が主任を勤めているのですが、
昨年からは交互出演となり、今年は全日休演が決定しました()。
歌丸師匠の一日も早い(かつ確かなる)快復を願ってやみません。

本日の公演については、可楽師匠の元気な姿にも満悦しましたが、
やはり小遊三師匠の『浮世床』の素晴らしさが思い出されます。
まさか『浮世床』を聴いて感動させられるとは思ってもみなかった。
若手の落語家が挿み込むような奇抜なクスグリがあるわけでも、
「江戸の風」を吹かせてやるという主張性があるわけでもないのに、
そこでは落語の本質を現す“軽い”話芸が繰り広げられていました。


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