2017年12月22日

「私はいまだに堂上華族の娘」 池坊保子とは何者なのか



 突然だが、私は怒っている。

 今年(2017年)11月に発覚した元横綱・日馬富士の暴行事件を受けて、日本相撲協会評議員会の池坊保子議長が「相撲協会は法律よりも上」などと発言したという事実無根の記事がインターネット上に出回っているためである。




◆ 「法律よりも上」というデマ

 11月26日、池坊女史はテレビ朝日系のニュース情報番組『サンデーLIVE!!』にゲスト出演した。その数日後、池坊女史が番組内で「相撲協会は法律よりも上」などと発言したという箇所の“文字起こし”がインターネット掲示板に投稿され、複数のまとめサイトがその“文字起こし”をもとに記事を作成した。それらの記事はまたたく間に拡散され、Twitter上は池坊女史を非難するツイートであふれ返った。Togetterでも『池坊保子「相撲協会は法律よりも上」』と題するまとめ記事が公開され、インターネット空間では池坊女史への批判がそれまで以上に激しく強まっていったが、実際にはその“文字起こし”はまったくの捏造だった。

 一人の人間(おそらくは)が虚偽の“文字起こし”をインターネット掲示板に投稿したことがきっかけで、デマが事実として拡散され、おそらくは未だに多くのネットユーザーが「池坊保子は『相撲協会は法律よりも上』と発言した」と信じ込んだままでいる──。フェイクニュースの恐ろしさを感じざるを得ない出来事であるが、何より許せないのは、その“文字起こし”はデマであるとの指摘を受けても相変わらずデマを垂れ流すまとめサイトが存在したことだ。これらのウェブサイトはもはや故意にフェイクニュースを流布させているとしか判断できない。日本でもフェイクニュースの取り締まりが検討されて然るべきであろう。

 それにしても、なぜこのような悪質なデマが流布したのだろうか。その答えのヒントとなる出来事がある。11月20日、池坊女史は暴力行為を「絶対にあってはならないこと」とした上で、相撲協会への報告義務を怠った貴乃花親方に苦言を呈した。おそらくはそれ以来、“貴乃花支持者”の人々は池坊女史のことを「敵」「悪」と見做すようになったのではないか。そして本来の発言に装飾が施され、貴乃花親方の「敵」である池坊女史を攻撃するためのストーリーが構築されたのだろう。この推察に客観的根拠は存在しないものの、Twitter上で散見される“貴乃花支持者”の善悪二元論的な傾向を眺めているとそのようにしか思えない。



◆ 「私はいまだに堂上華族の娘」

 私は以前から池坊女史のことを尊敬している。自省を厭わない実直な人柄には深い親しみを覚えてきたし、理性と情熱を併せ持って前進する姿勢には敬意を抱いてきた。しかし、日馬富士の暴行事件をきっかけに初めて池坊女史のことを知ったという人々は、テレビニュースなどを通じて感知した勝手なイメージで“池坊保子像”を作り上げてしまっているかもしれない。おそらくはそのような印象先行の思い込みこそが、池坊女史をめぐるデマを流布させる一因ともなったのだろう。そこでこのエントリでは、池坊保子という人物がどのような人物であるのか、粗雑にならない程度に私なりの言葉で説明を試みたいと思う。

 1942年4月18日、米軍ドーリットル隊が東京を空襲する中、堂上華族の梅渓家に三女が産まれた。それこそがのちの池坊保子女史である。母は久邇宮朝彦親王の六女と結婚した子爵・仙石政敬の末娘で、香淳皇后の従姉妹にあたる。父・通虎もまた子爵で、戦後は日本水産の取締役を務め、晩年にはよみうりランドの常任監査役として糸山英太郎氏の買収工作を阻止した。これは次女が正力亨氏に嫁いでいたからにほかならない。2012年に上梓された自伝『華の血族』(新潮社)で、池坊女史は「自分を規定する言葉を好まない」とことわった上で、強いて言うならば「私はいまだに堂上華族の娘」であると綴っている。

 右を向いて丁寧極まる尊敬語を使いこなした直後、左を向いて乱暴な言葉で友と語ることもできる。生活力がなさそうでいて、生き延びる術は心得ている。乞食になろうと、乞食なりに人生を味わい、プライドを持ち続ける。何の恒産も持たない公家として、ただ頭だけを使い、権謀術数を駆使し、人の心を読み、人の弱点を見据え、社会の流れを敏感に感じとり、権威を保ちつつ、知恵だけで生き延びていく。そんなしたたかさと誇り高さと生命力が堂上華族の血であって、それは父の血そのものであり、私にもその血は脈々と流れている。
── 『華の血族』 (新潮社) p.11-12

 池坊女史は学習院大学在学中に華道家元池坊の池坊専永家元と結婚した。最初の数年間こそ京都での生活に戸惑っていたようだが、次第に持ち前の発信力を発揮し始め、若き家元夫人としてメディアに露出するようになる。二女にも恵まれ、自身は池坊学園の理事長・学園長として生け花の発展に尽力した。しかし1984年、編集者の口車に乗せられて月刊誌『PENTHOUSE』(講談社)にセミヌード写真を撮らせてしまう。週刊誌やワイドショーの格好の餌食となったが、今日に至るまで編集者への恨み節を述べようとしない(それどころか「私が編集長でも同じことをしたに違いない」と冷静に省みる)ところが池坊女史らしい。



◆ しきたり×「合理的な精神」

 「生け花の根源」である華道家元池坊の家元夫人というと、いかにも権威的で伝統主義的なキャラクターを連想する向きもあるだろう。しかし実際の池坊女史は“合理主義者”とさえ称える思考の持ち主であり、日本の伝統文化を尊重しつつもリベラルな価値観を体現してきた女性である。例えば、池坊女史は2012年に上梓した著書『美しい日本のしきたり』(角川SSC新書)の第一章において、人日の節句(1月7日)の「七草粥」の風習を解説するとともに、七草粥はもともとは「寒さが厳しい」季節に「野菜不足を補う」ための料理であったのだろうから「現代風にアレンジ」してみてはどうか、と読者に提案する。

 現在では、お節料理で疲れた胃をいたわってくれるのが、七草粥です。七草をセットにして、パックに詰めたものが売られていますが、7日のだいぶ前から野菜売り場に積まれていて、残念ながら、鮮度がいいとは言えません。せっかくいただくなら、新鮮な野菜のほうがいいのではないでしょうか。
 せり、大根(すずしろ)、かぶ(すずな)は、泥付きの新鮮な物が手に入っても、ほかのものはなかなか野菜売り場で探すことはできません。それならば、新鮮なブロッコリーやほうれん草、小松菜など、栄養価の高い緑の野菜を7種入れてお粥を作るのはどうでしょうか? 緑の野菜にこだわらず、にんじんやかぼちゃを入れてもいいかもしれません。要は、家族の健康を願って作るもの。
── 『美しい日本のしきたり』 (角川SSC新書) p.31

 何とも合理的な提案だが、池坊女史はただいたずらに変革を訴えているのではない。この文章の後に「古から異国の習慣を、自分たちの暮らしに合うようにアレンジして取り入れてきた日本人は、もともと合理的な精神を持っているのです」という一文を添えている。合理的改革にも歴史的な正統性を求めるところが、伝統文化の世界を生き抜いてきた池坊女史の面目躍如であろう。同書ではこのほか、メールやパソコンといったツールを上手に活用することの重要性も説かれている。マナーや作法は相手を心地よくさせるための手段にすぎない。池坊女史は目的と手段を違えては本末転倒だということを熟知しているのである。



◆ 国会議員としての5870日

 1996年から2012年までの16年間に渡り、池坊女史は衆院議員として忙しい日々を送った。政界入りのきっかけは新進党の小沢一郎党首からの出馬要請である。池坊女史は比例近畿ブロックの単独1位候補として初当選するも、一年後の1997年末、小沢党首の独断で新進党は解党してしまう。この時、池坊女史は「お肉だけでない。党も解党するんだ」と思ったという。居場所を失うことになった池坊女史は、「教育、福祉をやっていきたいという強い希望」があったことから「その政策を同じくする」旧公明党グループへの参加を決意する。1998年の公明党再結成にも参加し、政界を引退するまで公明党の議員として活動を重ねた。

 華道池坊の家元夫人であるということは頂法寺(六角堂)の住職の妻であることを意味する。創価学会を支持母体とする公明党に池坊女史が参加するとの報せには、当時の誰もが驚いたことだろう。しかしこのエピソードこそ、池坊女史のユニークな性格を示す具体例であるように思う。壁を越えてきたことへの配慮があったのか、公明党はいずれの衆院選でも池坊女史を比例近畿ブロック単独1位の座に据えた。党と女史の間で密約が交わされていたわけでも、女史が見返りを企んで入党したわけでもないだろうが、もしかすると堂上華族の「したたかさと誇り高さと生命力」を池坊女史は無意識に発揮していたのかもしれない。

 衆院議員時代の池坊女史は一貫して文部科学委員会に属し、ひたすらに文教畑を歩み続けた。森・小泉内閣では文部科学政務官を、第1次安倍・福田内閣では文部科学副大臣を歴任している。特筆すべき実績を一つ挙げるとすれば、やはり議員立法による児童虐待防止法の成立であろう。当初は反対論が強く、「虐待としつけはどう違うのか」と難癖をつけられることもあったが、自由民主党の太田誠一、民主党の田中甲、日本共産党の石井郁子、社会民主党の保坂展人の各衆院議員とともに法案を練り上げた。衆院青少年問題に関する特別委員会理事としてのリーダーシップも発揮し、2000年に法案を成立へと導いている。

 今年(2017年)12月8日、安倍内閣は「新しい経済政策パッケージ」を決定し、2020年度までに「年収590万円未満世帯を対象とした私立高等学校授業料の実質無償化を実現する」方針を明確にしたが、これなども池坊女史が衆院議員時代に取り組んでいたテーマの一つである。現職議員として迎える最後の通常国会となった第180回国会の衆院予算委員会では、私立高校の授業料無償化をめぐって当時の野田佳彦首相や安住淳財務相らを相手に堂々たる貫録を見せつけている。下掲の録画では今年4月に逝去した中井洽予算委員長の中立的な運営ぶりも垣間見えるので、時間が許すようであれば視聴していただきたい。

▲ 第180回国会 衆院予算委員会 (2012年3月1日)



◆ 「あっという間」の解任劇

 池坊女史は2010年には日本漢字検定協会理事長にも就任している。漢検協会では当時、前理事長らが資金の私的流用を疑われて辞職したことを受け、元日本弁護士連合会会長の鬼追明夫氏が理事長を務めていた。しかしその鬼迫氏も理事長を退任したため、池坊女史に“貧乏くじ”が廻ってきたのである。文教政策に精通する池坊女史であれば漢検協会を改革できるという期待もあったが、漢検協会の体質はそう容易く革められるものではなかった。外部からやってきた池坊女史の存在が目障りだったのだろうか、女史を中傷する怪文書や街宣車までもが出回り、池坊女史は「あっという間に」理事長職を解任されたのだった。

 街宣車にも屈しない私に、更に苛立ったのでしょう。暗い闇の存在者(誰だか私にはわかりませんが…)は、今度は職員有志と書いた匿名の私への中傷、誹謗の手紙を評議員、理事に送りつけたのです。誰が一体街宣車を依頼したのか。依頼した誰かがいるのです。
 しかしながら、その解明もないまま、中傷されるような私はけしからんという風潮がいつの間にか一部の理事者の流れを構築していったのです。本来、問題にすべきは匿名の記事が来た事ではなく、そのような職場の中に存在する風土、文化のはずでした。
 しかし、それらを検証する時間もなく、あっという間に、匿名記事がくるような理事長は理事長にふさわしくないという事で罷免されたのです。
── 池坊保子ブログ (2011年5月26日付)

 政界引退後の2013年、池坊女史は日本相撲協会の公益財団法人化に伴い新設された評議員会の議長に就任した。今年(2017年)11月に日馬富士による暴行事件が発覚してからは、その発言と存在感がひときわ注目されている。私は女史の発言をつぶさに把握しているわけではないが、聞き及ぶ限り、少なくとも本件に関して池坊女史は社会的に至極真っ当なことを言い続けているように思う。先述の『サンデーLIVE!!』にゲスト出演した際の発言内容(文字起こしはこちら)についても、警察に被害届を提出する前に相撲協会に問題を報告する必要性はないと思うものの、その点を除けば特に違和感はない。



◆ 貴乃花は本当に“正義”なのか

 本件をめぐっては「事実関係を調べる役目は警察に任せておけばいい」などと暢気に主張している者もいるようだが、警察と相撲協会とでは役割が異なる。警察の捜査が刑事手続きの一端であるのに対し、相撲協会の調査は@協会員間の問題について事実関係を整理したり、Aその結果をメディアや世間一般に公表したり、B協会員の処分を判断するための材料を集めたり、C組織としての再発防止策を講じたりするためのものである。警察の捜査と協会の調査は決して対立するものではない。趣旨も目的も異なり、相互に干渉することが許されない以上、警察の捜査と協会の調査は当然に両立されるべきものである。

 「警察の捜査結果が発表されるのを待てばよいではないか」と考える者もいるかもしれない。たしかに重大事件が起こると警察が記者会見を開き、テレビのニュースでは「捜査関係者の話によると……」という情報が報じられることはあるが、これらは特定の警察署や関係者による“サービス”の結果にすぎない。刑事手続きにおける警察の仕事は調書を作成して検察に報告することに尽きる。警察にはメディアに対して捜査結果を公表する義務などない。いくら緊密に連携を取っているからといって、相撲協会に詳細な捜査結果を伝える義務もない。公開裁判が開かれない限り、基本的には捜査結果が明るみに出ることはないのだ。

 そうすると今度は「裁判で事実が明らかになるのを待てばよいではないか」と考える者もいるだろうが、そもそも検察が被疑者を起訴するか否かはその段階になるまで分からない。起訴されなければそれまでである(検察には請求されない限り不起訴の理由を開示する義務はないし、リークされない限り捜査結果は明るみに出ない)。「裁判で事実が明らかになるのを待てばよい」と主張する者は、不起訴の場合は事件を隠蔽すべきだとでも考えているのだろうか。また、仮に裁判が開かれても事実認定に至るには相応の時間がかかる。それまで調査を行わず、事件をスルーして興行を続けるのは公益法人の対応として無責任であろう。

 それともう一つ、相撲協会が貴乃花親方への降格処分を検討していることについても言いたい。「被害者サイドを処分するのはおかしい」との声もあるようだが、親方は「被害者サイド」だから処分を検討されているのではない。巡業中に発生した問題を協会に報告しなかったり、弟子の休場に際して診断書を提出しなかったりと、協会員として果たすべき義務を怠ったから処分を検討されているのである。刑事事件の「被害者サイド」であることは所属組織の規則を侵してよい理由にはならない。「被害者サイド」だろうが「加害者サイド」だろうが、自らの“信念”で仕事をサボった会社員が社内で処分を受けるのは当然であろう。



◆ “反省”を決して忘れない

 ──最後は私見を述べることに終始してしまったが、私が池坊女史の半生を顧みて、そして最近の池坊女史の発言を聴いて思ったことは以上の通りである。それにしても、日馬富士の暴行事件はいつまで世間を騒がせるのだろうか。今やメディアの関心は事件そのものから貴乃花親方と相撲協会の“対立劇”へと移り、すっかり問題の本質がぼやけてしまったような気がしてならない。協会が事件を隠蔽しようとしたわけでも、理事会が貴乃花親方を敵視しているわけでもないのに(そもそも貴乃花親方は理事会の一員である)、本当にこれほどまで問題を長期化させる必要があるのか。これでは他の力士たちが可哀想である。

 12月21日、暴行事件を受けて実施された相撲協会の研修会で、評議員会議長として登壇した池坊女史は「本当に無念な事件が起きた。大切な教訓にして前に進んでもらいたい。負の遺産にしてはいけない」と協会員たちに訴えた。この世で現実を生きていく限り、人間は前へ進まなければならない。しかし人間は完全無欠の存在ではないから、前に進むということは何かしらの過ちを犯してしまうことを意味する。だからこそ人間には“反省”の能力が求められる。私が池坊女史のことを敬愛してやまないのも、女史が人生をエネルギッシュに前進しながらも“反省”を決して忘れない人物だからである。

 2009年の衆院選で公明党が大敗した際、池坊女史は「一週間ほど落ち込んだ」という。そこで女史は「スイッチの切り替え」のために旅行へ出かけたが、直後に自らの行動を反省する。最も落ち込んでいるのは自分ではなく落選した同志ではないか、炎天下の中を駆け巡った支援者ではないか。うだるような暑さの中で「私は末期がんだが……」と話してくれたあの支援者の顔を忘れたか。余裕がないため旅行に出かけれらない者が大半なのに、自分は「愚か者としか言いようが」ない──。私は人間にとって最も大切なのは誠実さだと信じている。しかしその“誠実”という名の弟は、“反省”という名の姉の支えなくして成り立たない。

 聖書にも、神様は無駄なことはなさらない、という一言があり、いつも心の片隅に留めていますが、人間は平時にはどんな偉そうなことも言えるのですね。
 若い人が人事の季節になり、同期の人が自分より早く出世して、落ち込んでいる時、よく「全て塞翁が馬よ。人生なんて、長い目で見なければ何事も分からないのよ。人生はあざなえる縄の如し。幸せが不幸を招き、不幸が幸せを運んでくることも数多くあるのよ」なんて偉そうなことを言って励ましていましたが、何と説得力のない私の言動であったことか。
 (中略) 政治家にふさわしくない、なんて見放さないで下さい。
 落ち込んだ後、私は必ずバランス感覚や公平性や、正義感を取り戻しますから。
── 池坊保子ブログ (2009年9月21日付)

(肩書はいずれも当時)
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2017年12月09日

“イスラム頭巾”を被りながら… 9代目可楽 “最後”の高座


今日は、国立演芸場 12月上席 へ行ってきました。
主任は、三笑亭可楽師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 三遊亭馬ん長 『つる』
落語:(交互) 瀧川鯉斗 『紙入れ』
落語:(交互) 三笑亭可風 『浮世床 -夢-』
落語:(代演) 三笑亭夢花 『四人癖』
漫才:東京丸・京平
落語:雷門助六 『六郷駕籠』

 〜仲入り〜

コント:コント青年団
落語:三笑亭可龍 『四段目』
奇術:松旭斎小天華
落語:(主任) 三笑亭可楽 『イスラムの世界』



★馬ん長 『つる』
開口一番は圓馬門下の馬ん長さん。
声が大きくてよく通る。間はベテランのようにゆったりと。
「池上彰」はともかくとして、「沖合といったらナンパだろ」
「ヘイ!婆さん」など初めて耳にするクスグリも多かった。

★鯉斗 『紙入れ』
「義眼の男」「3人の狩人」の小噺で客を“テイスティング”。
おかみさんが艶っぽく、新吉は終始震えているなど、
鯉斗版『紙入れ』は登場人物のキャラクターが立っている。
「それだとただ逃げただけになる。これが俺の誠意だ!」。

★可風 『浮世床 -夢-』
師匠から「芸人は売れるかゴミかだ」と言われたと語り、
「今日はそんな師匠に教わったわけでも何でもない噺を」。
可風師匠の『浮世床』はとにかくテンポが端麗である。
「小便の余りで『後輩をビール瓶で殴っては〜』と書いた」。

★夢花 『四人癖』
圓丸師匠の代演かつ出番交替(⇔可龍師匠)。
米丸師匠が『徹子の部屋』に出演した際の様子を紹介し、
「米丸師匠の生の高座は早めに聴きに行ってください!」。
「999円」など“痒いところに手が届く”クスグリが心嬉しい。

★京丸・京平
オレンジのスーツ&ネクタイで登場の京丸先生、
「盛り上がらないなあ。昨日の客のほうがよかったなあ」。
「50万円を拾って交番に届けた」というネタのあと、
おなじみの「新婚旅行」→「お殿様の東京観光」で締める。

★助六 『六郷駕籠』
「歌丸師匠と自分が向かい合わせで着替えたら鏡のよう」
「高知行の機内で円楽さんに会った」というマクラを経て、
一般的には『蜘蛛駕籠』の前半部とされる『六郷駕籠』へ。
“達者”と評するにふさわしい、安心感のある高座だった。

★コント青年団
クイツキはコント青年団の「四菱銀行員と中小企業社長」。
「消費者金融が貸してくれないから仕方なくここに来た」
「『陸王』ならすぐ貸してくれるのに!」などギャグが豊富で、
一瞬たりとも客の集中を途切れさせない。

★可龍 『四段目』
学校寄席(「佐々木ィ」)のマクラで客の笑いを獲ったのち、
ある意味では師走のネタだと称える『四段目』に入る。
可龍師匠は芝居の再現の件をしっかりと魅せてくれるので、
その“本格さ”との落差により、終盤の展開も素直に笑える。

★小天華
鮮やかな照明を浴びながら次々とマジックを披露していく。
「リング」→「紐」→トークコーナーで「紐で首絞め」講座。
「下からマイクが出るのにはタネも仕掛けもありません」。
カラフルな紐の滝を見せ、終わりに孔雀のスカーフを現す。

★可楽 『イスラムの世界』
板付き、黒紋付姿で登場。傍らにはペットボトルの水が。
「(小天華は)ずいぶん誤魔化したね。歳も誤魔化してる」。
「明日で引退する。間違えるので落語はやらない」と話し、
「アメリカと南アフリカ以外は仕事で行った」という思い出話へ。
各国の「ありがとう」を言い立て(十数個はあっただろうか)、
米大統領による“エルサレム首都認定”のニュースに触れる。
イスラム教のカフィーヤと付け髭を着用して拍手を得るが、
「こんなのは芸でもなんでもないんだから拍手はいらない」。
先日亡くなった染之助師匠から教わった篠笛を吹いたのち、
「昔はもっと上手く吹けたんだけどな」と強がってみせる。
「能や狂言は鎌倉時代から続くが、落語はせいぜい250年。
“古典”ではなく“旧作”落語と呼ぶべき」との論には納得。
そして、江戸落語は初代可楽が発祥だという歴史を紹介し、
「さっき上がった可龍を10代目可楽にすることに決めている。
本人が嫌なら駄目だが、嫌とは言わないだろう」と宣言した。
「明日で落語家を廃業」と何度か強調していた可楽師匠だが、
その間合いや言葉選びは的確で、客席を大いに沸かした。



──というわけで、今年も残すところあと3週間となり、寒さが厳しくなる中、
本日は我が敬愛する可楽師匠の主任興行を愉しむことができました。
可楽師匠はこの芝居をもって落語家を「廃業」すると説明していましたが、
傍らの水を飲む際に「これは酒じゃありませんから」と笑いを獲ったり、
客の反応を察知してワードを選ぶなど、依然として“現役感”は強いまま。

「若手の頃には“赤線”に通った。今の若いのはそれができないから……」
という話をできるのは今日の寄席では可楽師匠ぐらいなものだし、
私などは可楽師匠が高座に座っていてくれるだけでいいと思うのですが、
師匠が引退を匂わす理由は「落語ができなくなった」ためなのでしょうから、
「いてくれるだけで」というのは私の我が侭にすぎないのかもしれません。

可楽師匠の高座が本当にこの芝居で“見納め”“聴き納め”になるのかは
私には分かりませんが(実際にはそうならないだろうと思っていますが)、
いずれにせよ、意地っ張りで強がりで(少なくともそういうスタイルで)、
それでいて観客に対してとても親切な可楽師匠のことが私は大好きです。
結局のところ、私は落語というよりも落語家を聴きに行っているのですね。


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 <追記>
12月中旬現在、可楽師匠は池袋演芸場の12月中席、
新宿末廣亭の正月初席、国立演芸場の正月初席に顔付けされています。
私たちはどうやら来年も可楽師匠の高座を拝見することができそうです!
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2017年12月07日

“温故知新”のアメコメ×バディ活劇 『セントラル・インテリジェンス』


先日、川崎チネチッタで
映画『セントラル・インテリジェンス』を観ました。

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 <あらすじ>
高校時代は誰もが憧れるスターだったカルヴィン(ケヴィン・ハート)だが、
卒業から20年後、現在は中年会計士としてサエない日々を送っている。
そんな彼のもとに突如、当時「おデブ」と呼ばれていじめられていた
ボブ(ドウェイン・ジョンソン)から“久しぶりに会いたい”との連絡が届く。
しぶしぶ会いに行くと、そこにはマッチョな肉体へと変貌したボブの姿が!
しかも実はCIAの一員で、組織に追われているため助けてほしいという。



私がこのアクションコメディ映画を観に行こうと思った理由は2つあります。
一つは、米国民的コント番組『サタデー・ナイト・ライブ』の裏番組として
FOXテレビで放送された『マッドTV!』(1995年〜2009年)の元レギュラー、
コメディアンのアイク・バリンホルツが原案と共同脚本を担当しているから。
較べるまでもなく番組の完成度も視聴率も『SNL』のほうが上でしたが、
個人的には『マッドTV!』の“空気”のほうに親近感を抱いていたりします。

もう一つの理由は、かねてより私がその制作姿勢に信頼を置く映画監督、
ローソン・マーシャル・サーバーが監督と共同脚本を担当しているから。
サーバーは『ドッジボール』(2004年)、『なんちゃって家族』(2013年)と、
良質なアメコメ(アメリカンコメディ)映画を発表していることでおなじみです。
ちなみに、『なんちゃって家族』に出演していた俳優のエド・ヘルムズは
本作に出演してはいませんが、製作総指揮の一人として参加しています。



サーバーは処女作品『ドッジボール』でも、第3作『なんちゃって家族』でも、
コミュニティから疎外されている人生不調組を主人公に設定してきました。
サーバーの作品において、人生不調組の面々は時の経過とともに団結し、
最終的には富と権力を不当に独占する“勝ち組”の悪役に一泡吹かせます。
本作もその例外に漏れませんが、主人公を2名の男性に絞っているため、
いわゆるバディムービーとしてテンポよく物語が展開するのが特徴的です。

とはいえ本作は決して子ども騙しのありきたりなバディムービーではなく、
ましてや陳腐なブロマンス映画の範疇に留まっているわけでもありません。
一癖あるシナリオのおかげで、観客は本作がバディムービーなのか、
“相棒”が味方なのか敵なのかを最後まで判断できなくされているのです。
シナリオ上のこの仕掛けが映画に丁度良い緊張感と遊び心をもたらし、
世界中で量産されている数多のバディムービーとは一線を画しています。

──しかし、107分間の本編を観終わり、改めて歴史を振り返ってみれば、
「“相棒”が味方なのか敵なのかがラストまで分からない」という仕掛けは
映画史上屈指の名作『スティング』(1973年)でも施されていたわけで、
脚本を担当したサーバーやバリンホルツの発明というわけではありません。
名作映画からの学びに基づいて独自の映像センスを打ち出した本作は、
まさしく“故きを温ねて新しきを知る”正統派の娯楽映画だと称えるでしょう。



『セントラル・インテリジェンス』では、サーバーとバリンホルツのみならず、
デヴィッド・スタッセンというコメディ作家も共同脚本に名を連ねています。
バリンホルツとスタッセンは、2012年9月にFOXテレビで放送を開始し、
2015年から2017年11月までは動画配信サービス「Hulu」で配信された
ミンディ・カリング主演の連続コメディドラマ『The Mindy Project』で
ともに脚本と製作を担当した、いわば“直近の”ビジネスパートナーです。

いまや全米No.1の人気映画スターの座に就いたドウェイン・ジョンソンと
人気No.1コメディアンであるケヴィン・ハートの好演が際立つ本作ですが、
一癖ある“温故知新”な設定はもとより、明るく笑える下ネタや人種ネタ、
Facebookのメッセージ機能の特性を活用した(?)不条理なギャグ、
そして「裸の自分を恥ずかしがるな!」という前向きなメッセージ性など、
3名のコメディ作家が書いた脚本の出来も相応に評価されるべきでしょう。

黒人や同性愛者に関する差別的な表現を逆手にとってギャグを紡ぎ出し、
“当事者”をも満足させるカタチで映画を面白くしている本作を観ると、
PCのせいで笑いを創れない」という弁明は欺瞞だということが分かります。
これは『22ジャンプストリート』(2014年)を観た時にも感じたことですが、
今日の優れたコメディ制作者たちは、人権の概念に「縛られる」どころか
むしろ人権意識を発露することで面白いコメディを創り続けているのです。


▲ 「ダサいカバンを持ちたいなら堂々と持てばいい」 (ドウェイン・ジョンソン)
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