2017年08月13日

81歳の誕生日企画も! “脂がノる”歌丸の『お露新三郎 出逢い』


今日は、国立演芸場 8月中席 へ行ってきました。
主任は、桂歌丸師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 三遊亭遊七 『道灌』
落語:(交互) 桂夏丸 『代書屋』
落語:(交互) 三遊亭遊雀 『堪忍袋』
落語:(交互) 桂文治 『源平盛衰記 -木曽義仲-』
コント:コント山口君と竹田君
落語:(交互) 三遊亭円楽 『読書の時間』

 〜お仲入り〜

落語:(交互) 桂小南治 『ドクトル』
動物ものまね:江戸家まねき猫
落語:(主任) 桂歌丸 『語り直して牡丹灯籠 -お露新三郎 出逢い-』



★遊七 『道灌』
開口一番は遊之介門下の遊七さん。
女性ならではの温かみある口調で『道灌』を乗り切る。
サゲに至るまでの言葉の畳みかけがスルッとしていた。

★夏丸 『代書屋』
最近声をかけられるようになったというマクラを経て、
ケン×ッキーフライドチキンの名も飛び出す『代書屋』。
「異常性行為のCD販売? DVDならまだ分かるが……」。
鉦が鳴らされる中、『高校三年生』を三番まで歌った。

★遊雀 『堪忍袋』
先ほど袖で鉦を鳴らしたのは円楽師匠だとネタばらし。
「それにしても夏丸ちゃんも強情だったね」と言うと、
今度は夏丸さんが遊雀師匠めがけて袖から鐘を鳴らす。
“ハプニング”後は、爆笑必至の『堪忍袋』をサゲまで。

★文治 『源平盛衰記 -木曽義仲-』
先代文治師匠の十八番に触れてから『源平盛衰記』へ。
新宿、池袋、浅草、そして国立の客層を分析(?)し、
「湯島天神」や「シンドウ3(さん)」などのネタを炸裂する。
「ワニガメは『ダーウィンが来た!』によく出てくる動物」。

★コント山口君と竹田君
先日、『クイズ!脳ベルSHOW』で優勝した山口さん。
本日は「お義父さん」のコントで会場に爆笑をもたらす。
「ホテルに泊まっておいて一線を越えないのは不自然」
「国会議員と市会議員? 県会議員の立場はどうなる?」。

★円楽 『読書の時間』
今年6月に「客員」として晴れて芸協入りした円楽師匠。
本日の午前中はドラマ『桂歌丸』の収録に臨んだという。
「私は昭和のスター役で、小遊三さんは清掃員役だった」。
歌丸師匠の“臨死体験”の話を経て、活字離れに触れ、
『笑点』メンバーの本名も登場の『読書の時間』(文枝作)。
円楽師匠の「オゥ!?」の発声はユニーク&ユーモラスで、
「早退するか?」という教師の台詞もニンにハマっていた。

★小南治 『ドクトル』
小南治師匠の今席の出番は昨年までと違って交互だが、
とりあえず今年の分は「今日の大入り袋」として披露する。
3代目小南を襲名することに触れてから『ドクトル』へ。
「……これもお客さんの『協力』が必要かな?」と繰り返す。

★まねき猫
NHKに「マネキネコ」の意味を勘違いされてしまった!
「ネットの一部で……ごく一部で話題になっております」。
馬と鹿の鳴きまね、初代猫八師匠のレコード紹介を経て、
40年前の名曲『チキンソング』をアカペラで歌い上げる。

★歌丸 『語り直して牡丹灯籠 -お露新三郎 出逢い-』
「1月から6月まで入退院を繰り返した。息を吸えないのは辛い。
入院中は看護師に冗談を言うもんじゃないと思った」と笑わせ、
「筋も人物も入り組んでいる」とことわってから『お露新三郎』。
美しい日本語と明瞭な口跡でシリアスな物語を展開させつつ、
「あいつ、円楽みたいな顔をしているぞ……きっと大悪人だな」
「蕎麦のおつゆもお露に見えた」などのクスグリを適度に挿む。
難解な圓朝噺に心血を注いできた歌丸師匠だからこそ可能な、
長編噺における緊張と緩和の絶妙なバランスのとり方である。
「(濡れ場を)事細かに語りたいところだが、ここ国立演芸場は
警察署と裁判所に挟まれているので……ご想像にお任せする」
というフレーズを言わせたら、歌丸師匠の右に出る者はいない。

★お誕生日企画
降りた緞帳が再び上がり、マイクを持ったまねき猫先生以下、
出演者総出で歌丸師匠のお誕生日(8月14日)をお祝いする。
「明日は休演なので、今年の誕生日企画はないと思っていた」。
東京ボーイズ先生の伴奏で『ハッピーバースデートゥーユー』。
短パン姿の円楽師匠が不謹慎なギャグで場を和ませたのち、
歌丸師匠が「来年までもつか……」とボヤきつつも、抱負を語る。
「『笑点』の司会は卒業したが、落語はこれからもやり続ける。
特に国立の高座は勤めたい。来年4月は『小間物屋政談』を」。
「東京ボーイズさんは出番もないのに、ありがとうございます」。



―― というわけで、今年の8月も歌丸師匠の“圓朝噺”を愉しめました。
酸素チューブを付けてはいるものの、歌丸師匠は相変わらずカッコよく、
少なくとも高座では昨年までと何も変わらない“気迫”を放っています。
しかもそれに加えて、向かうところ敵なしの“余裕”までもが感じられる。
演目を未だにグレードアップさせ続けている歌丸師匠はやっぱりスゴい。

途中で鳴り物が入るものの(今席では舟を漕ぐくだりで演奏されました)、
『お露新三郎』の一篇はそれほどまで劇的な“怪談噺”ではありません。
だからこそ語り部としての演者の腕前が如実に問われることになりますが、
歌丸師匠は観客を惹きつけてやまない充実の高座を提供してくれました。
まさに歌丸師匠こそは、“いま”、最高に脂がノッている落語家なのです。


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2017年08月04日

全体主義の下、いかに「私」はあり得るか 『残像』


先日、岩波ホールで 映画『残像』を観ました。

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 <あらすじ>
第二次大戦後、ソ連の影響下で社会主義国家となったポーランド。
前衛的な画家・ストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)は
ウッチ造形大学の教授として若い学生たちの指導にあたっていた。
しかし、芸術を政治に利用とする政府の方針に反発したために、
画家としての名声、人間としての尊厳までもが踏みにじられていく。



『残像』(2016年)は『灰とダイヤモンド』(1958年)などで高名な巨匠、
アンジェイ・ワイダ監督(2016年没)の遺作となった作品です。
社会主義の政権下で「社会主義リアリズム」に追従しなかったために
迫害されていく実在の画家・ストゥシェミンスキの晩年を描いています。
とはいえ、本作では次代を担う若者たちの葛藤や行動も映されており、
シリアスな展開が続く中にも、活力や希望が滲んでいるのも確かです。

主人公・ストゥシェミンスキは学生に慕われる造形大学の教授であり、
その講義は情熱的でありつつも理論的で、決して抽象的ではありません。
例えば、「どのように自らの芸術を確立すべきか」と問い掛けられると
ストゥシェミンスキは「自分で探すしかない」と返答するとともに、
芸術と自身を調和させる重要性について示唆的な助言を送っています。
最晩年には自らの『視覚理論』をまとめることに精力を傾けていました。

情熱と理論を融和させるストゥシェミンスキの芸術家としての在り方は、
人生というレベルにおいては理想と現実の対立劇となって現れます。
ストゥシェミンスキは「社会主義リアリズム」に静かに抵抗しつつも、
自らの生活と生存のためにスターリンの肖像画を描き始めるのです。
信条と責任のあいだで葛藤する全体主義体制下の個人を描いてきた
ワイダ監督作品の集大成と呼ぶにふさわしい、物語の構図であります。

もちろん、ワイダ監督は『ワレサ 連帯の男』(2013年)でそうしたように、
自らの映画の主人公を聖なる英雄として表現するのではなく
私生活での“かっこよくない”人間像も併せて冷徹に提示していました。
まるでそれは、完全無欠で隙がないと前提されている「国家」に対して
優柔不断でだらしがなくて綻びだらけの「個人」をぶつけることで、
全体主義が非人間的な仕組みであることを強調しているかのようです。



生前のワイダ監督は、全体主義の国家が個人を抑圧していくようすを、
作品を通して、そして自身の発言としても粘り強く発信してきました。
本作『残像』でも、文化大臣から「あなたはどちらの側につくんだ?」と
問われたストゥシェミンスキの友人が「私はあなたの側につく」と答えて、
大臣が「『あなた』? 我々の側につくということか?」と返す場面など、
全体主義体制ならではの象徴的なセリフや展開が用意されていました。

全体主義体制の下では「I」や「you」のような単数形の存在は許されず、
「we」や「they」のような複数形のみが用いられることになります。
ボーヴォワールが「真理は一つだが誤謬は複数ある」と言い放ったように、
全体主義はたった一つの「正解」以外の存在を許容できません。
芸術活動が本来的に「別解」しか持たない営みであることを考えれば、
全体主義の世の中で芸術家であり続けることの困難さがよく分かります。

「社会主義は間違っておらず、ソ連型社会主義が間違っていただけだ」
という主張は今なお存在しますが、社会主義が全体主義である以上、
そのような“技術論”は的外れの妄説だと指摘せざるを得ません。
「独裁は他の体制でもあったのだから、社会主義が悪いわけではない」
という主張にしても、社会主義だけが悪ではないことの説明ではあっても、
社会主義という全体主義が根本的に抱える問題を何も隠せていません。

私たち──否、“私”は、社会主義や共産主義を含むあらゆる全体主義を、
個人の尊厳を破壊するイデオロギーとして否定しなければなりません。
必要なのは、全体主義に対抗する体制としてのリベラル・デモクラシーの
“完成なき構築作業”であって、全体主義の“運用論”ではないはずです。
──今日の世界を見渡せばもはや手垢のついた結論ですらありませんが、
それこそが、私がワイダ監督の遺作から受け取ったメッセージなのです。



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