2017年01月28日

適切なキャスティングで“王道”を往く 『マダム・フローレンス!』


先日、川崎チネチッタで
映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』を観ました。

florence-foster-jenkins_japan_poster.jpg


 <あらすじ>
第二次世界大戦中のニューヨーク。
社交界の女王であるマダム・フローレンス(メリル・ストリープ)は、
ソプラノ歌手になるという淡い夢を捨てきれずにいる。
夫のシンクレア(ヒュー・グラント)はフローレンスの夢を叶えるため、
支持者ばかりを集めた小さなリサイタルを開くなどしていた。
やがてフローレンスは名門カーネギーホールで歌うことを決め……。



フローレンス・フォスター・ジェンキンスという実在したセレブ女性が
名門ホールでリサイタルを開くまでの道のりを描いた本作は、
ハリウッド2大スターの“競演”を愉しむドラマとして評価できるでしょう。
世間知らずの「天然」でありながらも実は繊細な一面をもつ妻と、
お調子者的ではあるのだが純愛と誠実さを内に宿している夫──。
ストリープとグラントは独特な夫婦の関係を軽々と表現していました。

さらに、フローレンスの伴奏者役として本作の“第3の主役”を務めた
サイモン・ヘルバーグ(『ビッグバン★セオリー』)も見逃せません。
ウザくならない程度にクドい演技が役柄にハマっていました。
激しいドラマ展開があるわけでもない「実話をもとにした作品」では、
やはり俳優の演技力と「ハマり具合」が問われることになります。
本作の最大の魅力は適切なキャスティングにあると総括できそうです。

惜しむらくは、マダム・フローレンスを演じたメリル・ストリープの歌声。
劇中ではストリープ本人が歌声を披露しているのですが
高音が耳につくぐらいで、音程そのものを外しているわけではない。
皮肉なことに、ストリープは本物の“音痴”には成りきれてないのです。
どうせエンディングでフローレンス本人の歌声を流すぐらいなら、
劇中でもフローレンス本人の歌声を利用すべきだったかもしれません。

とはいえ、本作のメインテーマは「ストリープによるモノマネ」ではなく、
あくまでもマダム・フローレンス夫妻を中心とした「人間ドラマ」です。
メリル・ストリープがやりそうな役をメリル・ストリープがやり、
ヒュー・グラントがやりそうな役をヒュー・グラントがやった本作は、
脚本面でも演出面でもまさに王道を貫いたからこそ、見応えがあります。
あるシーンで私が思わず涙を浮かべてしまったのはここだけの秘密。



▲ フローレンス・フォスター・ジェンキンス本人の歌声。
彼女のアルバムはデヴィッド・ボウイが“生涯愛した名盤”として有名らしい。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2017年01月10日

人間は“純ロマンチスト”ではあり得ない、が 『正義と微笑』


 太宰治の小説『正義と微笑』(1942年)を初めて読んだ時、なぜ前半部で物語を終わらせてくれなかったのかと作者を憎んだ。

seigi-to-bisyou_sdp.jpg
SDP Bunko 版


 『正義と微笑(びしょう)』の主人公の名前は芹川進。東京で母や兄と暮らす有閑階級の少年である。この小説は彼の16歳の年の4月から17歳の年の12月にかけての日記という形式を採っている(※1)。そのため、読者は進の日記をこっそり盗み読みする感覚でページをめくらされることになる。そういう意味では、この小説は作品の構造からして変態的だといえなくもない(※2)

 物語の後半で、進は「プロフェッショナルに生き」ることを決意した青年へと成熟する。理想は現実の生活に即していなければならず(生活を離れた理想を求めるのであれば「十字架へ行く路」を歩むしかない)、日常生活の中でも「理想に邁進する事が出来るはずだ」──。いわば《ロマンを抱えるリアリスト》として生きることを宣言し、進は新天地へ飛び込む。そしてそれからの7か月間が示される。

▼△▼△▼

 ロマンチストとは理想を“追う”者であり、リアリストとは現実に“追われる”者である。現実を生きている以上、すべての人間はリアリストとしての面をもっている。純リアリストはあり得ても、純ロマンチストはあり得ない。現代のロマンチストとは、リアリストとしての自分をまだ自覚していない者か、自覚した上で《ロマンを抱えるリアリスト》として生きることを決意した者のいずれかである。

 この小説で重要なのは、主人公の家庭が有閑階級であることだろう。有閑階級に属する者は自分がリアリストとしての面を有していることに気付きにくい。現実の生活に“追われる”機会が少ないからだ。進の兄さんがリアリストとしての自分を自覚し、「お金でも、とれるんでなかったら、小説なんて、ばからしい」というリアリスト的な発言をしたのは、文学賞という現実に“追われ”ていた時のことである。

 兄さんの発言を聞いた当時の進は「なんだか、堕落しているんじゃないかしら」「理想の喪失」という感想を抱くが、しばらくすると「僕は、兄さんと、もうはっきり違った世界に住んでいる事を自覚した。僕は日焼けした生活人だ。ロマンチシズムは、もうないのだ」と日記に記す。現実の生活に“追われる”中で、今度は自分こそが堕落してしまったのではないかと怯えるのだ。

 とはいえ、「ロマンチシズムは、もうないのだ」と記した時の進は、本当に純リアリストになってしまっていたわけではないと信じたい。純リアリストになりかけていた自分に気付いて軌道修正を図ったと信じたい。あの一文を書けるうちはロマンチシズムを失っていないと信じたい。別の角度からいえば、この一文に切なさや哀しみを覚える読者はまだ現実に呑み込まれてはいない。

▼△▼△▼

 進は意図してリアリズムを習得したわけではなかった。当初は憧れにすぎなかった世界を現実の舞台とすることで(※3)、いつの間にかリアリストの色を濃くしていたのである。最後の日記にはロマンチックとはいえない文言が躍る。「まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう」。進は《ロマンを抱えるリアリスト》のままなのか。それとも純リアリストに転じてしまったのか。

 感情が散発的に表現される日記体小説ということもあって、その答えは最後まで明らかにならない。だから私はこの小説を初めて読んだ時、なぜ前半部で物語を終わらせてくれなかったのかと作者を憎んだのだった。なぜ作者は進を「成長」させてしまったのか! あるいはせめて進が《ロマンを抱えるリアリスト》として生きると宣言したあの日に、この物語を終わらせてくれていたならば!

 今でも私はこの小説の締め括りに不を感じるが、それこそが作者の狙いなのだろう。人間は純ロマンチストではあり得ない。どんなロマンチストも、リアリストとしての自分と直面することを避けられない。今日のロマンチストは明日のリアリストであり、明日のリアリストは明後日のロマンチストである。誰もこの先の自分を知らない。かつて決意があったという事実を宿しつつ、日は改まっていく。

 小説の最後に記される讃美歌の詞は、《ロマンを抱えるリアリスト》たらんと欲する者にとっての指針となる。「わがゆくみちに/はなさきかおり/のどかなれとは/ねがいまつらじ」──。苦渋の選択である。険しそうな道である。しかし、一筋の光は差している。『正義と微笑』は巷間囁かれるような「明るく希望にみち」た青年の物語ではない。ほろ苦さを味わいながらも前を向く青年の物語である。


注釈
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
(C) Copyright 2009 - 2017 MITSUYOSHI WATANABE