2016年10月13日

「吊り橋の真ん中」へ連れていく前に



 先日、お酒の席で、ある話が始まりそうになった。私自身と直接関係がある話ではなかったが、私は「その話をするのはやめてほしい」と言ってしまった。これから始まるその話は、いまの私にはきっと耐えられない、怖い話だと思ったからだ。でも、結局その話は始まり、私は思わずトイレへ「避難」した。

 それがテレビから聞こえてくる発言ならば、私は電源を消すことができる。それが新聞や雑誌に掲載されている文章ならば、私はページをめくることができる。だが、目の前の相手はテレビでも雑誌でもない。あの時の私は恐怖を避けるため、相手が話している途中でもその場を離れるしかなかった。

 他の人の目には、私が急に不機嫌になったように見えたかもしれない。あるいは単純にトイレへ用を足しに行っただけに見えたかもしれない。でも、実際はそのどちらでもなかった。あの時、私は怖くて逃げた。

 相手はその話が私を怖がらせることを知らなかった。私が逃げたのは誰のせいでもない。しかし、そのことを相手に説明するのは難しい。「私に謝ってほしいということなのか」と誤解される可能性がある。「あいつの『地雷』が何なのか分からないから、あいつともう関わるのはやめよう」と思われる可能性もある。



 私がなぜこんな話をしているのかというと、「人によって怖いものは違う」(宮地尚子)からだ。結局のところ、残念ながら、私たちは相手が何を怖がっているのかよく知らない。よく知らないまま相手と接している。悪意はなくとも、私たちは、高所恐怖症の人を吊り橋の真ん中へ連れていっているかもしれない。

 そして実は本人も、自分が何を怖がっているのか、あらかじめ把握できていなかったりする。だから、「ああ、このまま連れていかれると怖いな」と感じた時点で、「その話は怖い」と言い合えるようでありたい。そうすれば私もあなたも、相手の怖がる話をしないで済む。相手を吊り橋の真ん中へ連れていかずに済む。

 どうしてもその話をしなければならなかったり、その話をすることが理に適っていたりすることもある。そういう環境に私たちがいることもある。ただし、そういう環境下でも、せめてトイレへ「避難」することは許されていてほしい。私にも、あなたにも、すべての人に許されていてほしい。

 「その話は怖いからやめて」と言う人や、トイレに「避難」する人のことを面倒くさがる人もいるかもしれない。でも、不機嫌になっていると誤解されたくない。会話の途中で突然席を立つ失礼なやつだと片付けられたくない。どうせ面倒くさがられるとしても、本当のことで面倒くさがられたい。――そう思うときはある。

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