2015年11月17日

ヒラリーが最も恐れる共和党候補 ―ジョン・ケーシックの半生〈下〉


kasich_2015-november-debate.jpg
▲ 大統領選・共和党候補討論会でのジョン・ケーシック(2015年11月)





John Kasich's Story: Part 2


◆政界引退、テレビキャスターに

kasich_on_foxnews.jpg
▲ FOXニュースの番組でレギュラーMCを担当

 9期18年間に及ぶ下院議員生活が終わり、ジョン・ケーシックは、ニュース専門放送局・FOXニュースで『Heartland with John Kasich』という冠番組を持つことになる。この番組はケーシックが話題の人物にインタビューで斬り込むという刺激的な番組で、2001年から2007年まで放送された。放送時間は毎週土曜の午後8時というゴールデンタイムだった。
 ケーシックは他にもビル・オライリー司会の『The O'Reilly Factor』で代理司会を務めたり、政治討論番組『Hannity & Colmes』にゲスト出演したりした。
 2015年現在、大統領選・共和党予備選でケーシックを支持している若者の中には、テレビキャスターとしてケーシックのことを記憶している人も多い。2000年代の「キャスター業」のおかげで、2001年1月に一度は政界を離れたにもかかわらず、彼は「過去の人」という不名誉なイメージをまとわずに済んだといえる。


◆リーマン・ブラザーズ取締役に

 FOXニュースでの「キャスター業」と併行して、ケーシックは複数の企業で役員を務めた。ケーシックが役員を務めたのは、電動車椅子などで知られるインバケア社や、ソフトウェア企業のノーヴァックス社などである。民間企業の役員職は、日本でもアメリカでも、政界を引退した(あるいは一時的に離れている)政治家の典型的な「再就職先」なのだ。
 ケーシックの「再就職」事情として特筆すべきは、2001年にリーマン・ブラザーズオハイオ支社の投資銀行部門取締役に就任していたことだろう。2008年の「リーマン・ショック」でリーマン・ブラザーズが倒産するまで、ケーシックはこの役員職に留まった。
 ちなみに、2008年にリーマン・ブラザーズが彼に支払った給与は18万2692ドル、ボーナスは43万2200ドルだったという。倒産間近の企業が支払うボーナスとしては多額のような気もするが、ケーシック本人の弁によると、このボーナスは2007年分の仕事に対する報酬だったのだという。


◆州知事選への出馬を検討

ted-strickland.jpg
▲ 第68代オハイオ州知事テッド・ストリックランド

 「キャスター業」やビジネスの分野でも成果を収めたケーシックだが、下院議員を退いてから数年が経ち、政治の世界にカムバックする日がやってくる。
 2006年のオハイオ州知事選に出馬するよう共和党から要請された際は、時期尚早・準備不足と考えたのか、党からの打診を丁重に断ったが、2007年に入ると、3年後のオハイオ州知事選への出馬を検討し始めた。
 自身が出馬を見送った2006年の州知事選で民主党のテッド・ストリックランドが当選したことも、共和党のケーシックにとっては出馬を検討する前向きな要因になったのかもしれない。もし2006年の州知事選で共和党候補が当選していたら、よほどのトラブルでも発生しない限り、その「共和党知事」が2010年の州知事選にも再選を目指して出馬することになっていたからだ。
 また、オハイオ州の財政が一向に改善しそうになかったことも、ケーシックの出馬意欲を駆り立てた。下院予算委員長時代に連邦予算の均衡化を導いたケーシックにしてみれば、州の財政が悪ければ悪いほど知事選に立候補する理由(財政再建)を説明しやすくなるし、挑戦者として選挙を戦いやすくなるからだ。


◆「オハイオ州を“取り戻す”」

 2008年になると、ケーシックは「州所得税は段階的に廃止されるべきだ」という政治的に踏み込んだ発言を行ったほか、新たに設立された「Recharge Ohio」という政治団体の名誉会長に就任した。この団体は「我らの州(=オハイオ州)を“取り戻す”リーダーを選ぼう」という目的を掲げており、2年後の州知事選挙を見据えた事実上の「ケーシック後援会」であることは誰の目にも明らかだった。
 ケーシックは「Recharge Ohio」の会合で、オハイオ州の財政収支を黒字化させるための経済・財政政策に取り組む決意があること、そして自分ならばそれが実現できることを訴えた。


◆知事選出馬を正式表明

kasich_2009-june.jpg
▲ 知事選出馬を表明するケーシック(2009年)

 2009年5月1日、ついにケーシックは、オハイオ州知事選に立候補する意向を明らかにする。民主党の現職州知事であるテッド・ストリックランドも再選を目指して出馬する意向を示していたので、事実上、民主党現職・ストリックランドと共和党新人・ケーシックの対決という構図が固まった。
 5月4日に州知事選の共和党候補に無投票で選出されたことを受けて、6月1日に知事選出馬を正式表明し、副知事候補にはメアリー・テイラーという43歳の女性を充てた。テイラーは共和党所属の元オハイオ州議会議員で、2007年からは州の監査役を務めていた人物である。


◆28年ぶりの「勝つのは無理だ」

 この州知事選では、下院議員選に初めて出馬した28年前の選挙同様、「ケーシックが現職に勝つのは無理だ」という見方も強かった。
 しかもケーシックは政界を一旦は退いた身であり、職業政治家としては9年間のブランクがある。州財政の再建は喫緊の課題で、たしかにケーシックは下院予算委員長時代に連邦予算の均衡化を導いた人物だが、それはもう13年も前の話だ。「オハイオ州はこのままではダメだ」という「上の句」が州民の総意だったとしても、「ケーシックならば財政を建て直すことができる」という「下の句」がどれほどリアリティを持ち得るかは、選挙戦序盤の段階ではまだ不透明だった。


◆州を二分するデッドヒート

kasich_2010.jpg
▲ 勝利宣言で雄叫びを上げるケーシック(3日午前1時)

 そして迎えた11月2日の知事選――。ケーシックは現職のストリックランドを僅差で打ち破り、州知事に当選した。ケーシックの得票率は49%、ストリックランドの得票率は47%で、ケーシックはまさにデッドヒートを制したのだった。
 2011年1月10日未明、州都・コロンバスのオハイオ州議事堂で新知事の就任宣誓が行われ、これに続いて同日午後、オハイオシアターで就任式が催された。


◆教職員組合との対決姿勢

 ところで、2009年3月、ケーシックは共和党アシュタビューラ郡支部の集会で、「学校の労働組合勢力を衰退させる」必要があると語っていた。この発言を面白くないと感じたオハイオ州の教職員組合は、翌年の州知事選では民主党の現職・ストリックランドを支持し、共和党の新人・ケーシックを激しくバッシングした。州知事に当選した後、ケーシックは「選挙期間中の私への発言について、教職員組合には新聞の全面広告で謝罪してもらいたいね」と皮肉めいた発言をしている。
 一方で、ケーシックは「仕事をする組合」とは喜んで仕事をするとも語り、教職員組合との対決姿勢を貫くことは得策ではないと早々に割り切った。
 労働組合批判は政治的に「保守派」の領分であり、アメリカでは共和党の政治家が労働組合を敵視することが多い。ケーシックは、自身の政治理念の内に「民主党らしさ」を抱えているとはいえ、民主党と対峙する必要がある場面では「共和党らしさ」を前面に打ち出すことができる。そのことはクリントン大統領の弾劾裁判の場面でも明らかだった。選挙では負け知らずの政治家・ケーシックのしたたかな戦略がうかがえるエピソードだ。


◆ティーパーティーからの警告

kasich_and_obama_2011.jpg
▲ 第44代大統領バラク・オバマとゴルフ(2011年)

 州知事に就任したケーシックは、職業政治家としてのブランクを懸念する声をよそに、州の財政支出を80億ドルの赤字から8億ドルの黒字へと改善させた。とりあえずのところ、「ケーシックならば財政を建て直すことができる」という「下の句」は本当だったのだ。
 その一方で、ケーシックは、低所得者向け医療保険制度の対象を拡大したり、移民政策で穏健な姿勢を示したりしたことから、州知事選では彼を支持していたはずの保守系草の根運動「ティーパーティー」の活動家たちから激しく非難されることになった。「大きな政府」に反発するティーパーティーからすれば、バラク・オバマ政権の「オバマケア」(国民皆保険制度を導入する医療保険制度改革)に理解を示すケーシックの姿勢は許し難いものだった。知事選期間中、ケーシックが「反オバマ」の姿勢を鮮明にしていたことを思えば尚更だった。
 結局は実行されなかったものの、オハイオ州のティーパーティーからは「2014年の州知事選では共和党予備選で別の候補を支持するか、リバタリアン党(リバタリアニズムを奉じ、民主党にも共和党にも反発する政党)の候補を支持する」という脅し文句まで出る始末だった。以後、ケーシックとティーパーティーは険悪な関係を保ち続けている。


◆2度目の州知事選

governor-kasich_2015.jpg
▲ 2期目の就任宣誓式(2015年1月)

 2期目を目指して2014年の州知事選に出馬したケーシックは、民主党新人のエド・フィッツジェラルドを降し、州知事に再選された。今度の彼の得票率は64%で、得票率33%のフィッツジェラルドと比べるまでもない圧勝だった。州内の郡ごとに勝敗を見比べても、ケーシックは88郡中86郡で勝利を収めていた。
 オハイオ州の有権者の大半は、長年の懸案だった州財政赤字の問題を解消した「ケーシック州政」の一期目を高く評価し、オハイオ州の舵取りを引き続きケーシックに担ってもらいたいと判断したのだった。


◆大統領選用スーパーPAC設立

 2015年4月、ケーシックは自身の政治団体「New Day For America」の設立を発表した。「〜 For America」という名前が示している通り、この団体はアメリカ大統領選のための団体である。この団体の設立は、ケーシックが次期大統領選への出馬を本格的に検討し始めたことを意味していた。
 6月に入り、「New Day For America」は単なる政治資金団体からスーパーPAC(上限なく政治献金を受け付ける政治行動委員会)に模様替えした。この団体は4月20日から6月30日までの間に1100万ドルを超える献金を集めており、10万ドル以上の献金も30件以上存在する。大手広告代理店インターパブリック・グループの元CEOであるフィリップ・ガイアー・ジュニアに至っては、このスーパーPACに50万ドルを寄付しているほどだ。


◆大統領選出馬を正式表明

kasich_2015-july-20.jpg
▲ 予備選出馬を表明するケーシック(2015年6月)

 ケーシックが大統領選への出馬を正式表明したのは、2015年6月21日のことだ。母校であるオハイオ州立大学のユニオン内で、ケーシックは2016年の大統領選に向けた共和党予備選に立候補することを宣言した。共和党内では16人目となる予備選の参戦表明者だった。
 この出馬表明演説でケーシックは、初めての下院議員選や州知事選を振り返り、「どちらの時も当初は無理だと言われたが、予想を覆すことができた」と語っている。下院議員選と大統領選、州知事選と大統領選とをそのまま類比させることはできないが、ケーシックはその柔和な外見に反して、「守り」ではなく「攻め」のタイプの政治家なのだろう。
 「共和党らしさ」と「民主党らしさ」を使い分ける政治スタイルは、有権者一般からの広範な支持を見込める反面、「ブレない」言動を要求される政治家としては諸刃の剣である。ましてやケーシックは独立系候補ではないのだから、「どっちつかず」の立場が鮮明になれば党内での居場所を失い、そもそも選挙に出馬できなくなる。ケーシックのような政治家が「攻め」の姿勢を示すことには、優柔不断なイメージを排し、「あいつはブレている」「どっちつかずである」という批判を交わす効果があるのかもしれない。


◆「シュワちゃん」もケーシック支持

 予備選への出馬表明の時点では16人の共和党候補者中14位の支持率しかなかったケーシックだが、その後、確実に知名度と支持率を伸ばしている。少なくとも党内支持率上位8〜10名しか出演できないテレビ討論会から漏れたことはないし、ケーシックに言及する報道は日々増加している(もちろん、その中には彼を批判する報道も含まれている)。アラバマ州知事のロバート・ベントリーや、前カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーがケーシックへの支持を明らかにしていることも心強い。
 もっとも、ケーシックが多少なりとも注目を浴びているのは今日の時点までの話であって、これからケーシックが静かに忘れ去られていく可能性はある。というよりも、現時点でケーシックが共和党候補に選ばれる、ましてや大統領に選ばれると観測している人はどこを探しても極めて少数だろう。


◆「ヒラリーが最も恐れているのは誰か」


▲ ケーシック陣営が公開した動画

 興味深いのは、共和党内からの支持率が高くない一方、ケーシックが民主党員・民主党支持者からは注目を浴びているという事実だ。
 AP通信が民主党員を対象に行った「手ごわい共和党候補は誰か」という調査では、共和党内で支持率がトップのドナルド・トランプやベン・カーソンではなく、マルコ・ルビオとケーシックの名前がトップに挙がった(11月14日配信)。これは、ヒラリー・クリントンが民主党の大統領候補に指名されることが早くも確定している現状において、民主党員は「もし共和党の大統領候補にルビオかケーシックが選ばれたら、ヒラリーは負けてしまうかもしれない」と恐れているということだ。
 実際、ヒラリー・クリントンは国民一般からは積極的に支持されているわけではなく、「クリントンとケーシックの一騎打ちだったら、ケーシックに投票する」と考える有権者が少なくないだろうことは以前から指摘されてきた。ケーシック陣営はその論調を利用し、YouTubeに「ヒラリーが最も恐れているのは誰か」という1分22秒の動画をアップロードしている。そして、クリントンがケーシックのことを(「最も」なのかどうかは別としても)恐れているのは紛れもない事実だろう。


◆「共和党らしさ」か、共和党勝利か

kasich_cnbc_debate.jpg
▲ 共和党候補討論会で語るケーシック(2015年10月)

 32年前、初めての下院選で、「自分を支持してくれる共和党員と同じぐらい、自分を支持してくれない民主党員がいる」と悟ったケーシックは、「民主党らしさ」を備えた共和党議員として経験を積み、連邦予算均衡化などの成果を残した。9年ぶりの政界復帰の舞台となった2010年のオハイオ州知事選で、やはり民主党候補と接戦を演じたことは、「共和党らしさ」に固執することの危険性をケーシックの政治家人生に改めて叩き込んだはずだ。
 もし共和党員が今度の大統領選で「共和党らしさ」を出したいと思ったならば、ケーシックが大統領選の共和党候補に選ばれることはありえないだろう。しかし、もし共和党員が大統領選で勝利を収めたいと決意したならば、ケーシックが共和党候補に選出される可能性は高まるだろう。次期大統領候補を決める共和党の予備選・党員集会は、来年(2016年)2月、アイオワ州でその幕を開ける。


posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2015年11月16日

「民主党らしさ」を抱える共和党員 ―ジョン・ケーシックの半生〈上〉


kasich_2015-september.jpg
▲ 大統領選・共和党候補討論会でのジョン・ケーシック(2015年9月)


 今年(2015年)8月、このブログでは、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙に名乗りを上げている第69代オハイオ州知事、ジョン・ケーシック(共和党)のことをご紹介しました。
 同性婚容認の共和党“大統領候補” ジョン・ケーシックとは何者か

 ケーシックが大統領選の共和党指名候補に選ばれる見込みは相変わらず薄いままですが、「民主党員たちが考える大統領選の『手ごわい共和党候補』はマルコ・ルビオとジョン・ケーシックである」というAP通信の調査結果(11月14日)も出ていて、まだまだケーシックからは目が離せません。状況次第では、ケーシックはランニングメイト(副大統領候補)に指名される可能性もあるでしょう。

 そこで今度は、全2回に渡って、政治家・ケーシックの半生を振り返ってみたいと思います。ケーシックの半生を辿ることで、なぜ民主党員がケーシックを「手ごわい共和党候補」と考えているのか、ヒラリー・クリントン(民主党)に対峙し得る存在だと恐れているのか、そのヒントが掴めてくるはずです。

 ……といっても、この「半生記」の大部分は英語版Wikipediaからの引用なので、ケーシックのことをすでにご存知の方にはそれほど読み応えのある内容ではないかもしれません。お忙しい方や特に興味がない方は、写真だけでも眺めていってくだされば幸いです。というか、そもそも、こんな地味なエントリを読もうと思う人なんているのかしら……。




John Kasich's Story: Part 1


◆「生物学上の民主党員」

kasich_1959.jpg
▲ 7歳頃のケーシック(1959年)

 ジョン・リチャード・ケーシックは、ペンシルヴェニア州の工業都市マッキーズロックスの平凡な家庭に生まれた。1952年5月13日のことだった。郵便配達員の父・ジョン(父子で同じ名前)はチェコ移民の子孫で、母・アンはクロアチア移民の子孫である。そのため、ケーシックは今でも自分のことを「チェコ系でもありクロアチア系でもある」と称している。
 ケーシックの友人であるカート・シュタイナーによると、ケーシックの両親はどちらも民主党員だったのだという。「ケーシックは、“生物学”上は民主党員なんだよ」というシュタイナーの表現は一つのジョークにすぎないが、実のところ、共和党所属でありながら「民主党らしさ」を常に抱えてきた政治家・ケーシックを論じる上で象徴的な表現なのかもしれない。


◆ニクソン大統領と面会

nixon_and_kasich.jpg
▲ 第37代大統領リチャード・ニクソンと面会(1970年)

 マッキーズロックスの公立高校を卒業後、ケーシックはオハイオ州立大学に進学し、大学では男子学生用の社交クラブに所属した。
 すでに政治に関心を持つ若者だった彼は、大学一年生の時、当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンに便箋3枚の「ファンレター」を送っている。その内容は、ズバリ「会ってお話がしたい」という情熱的なものだった(といっても、ケーシックは単にニクソンに惚れていたわけではない。若き共和党員としての意見を進言したいという一種の「使命感」に駆られていたのである)。この時のケーシックが、ニクソンのことが好きだったから共和党員だったのか、共和党員だったからニクソンのことを好きだったのかは分からない。しかし、彼がこの時すでに共和党の政治理念に深く共鳴していたことは間違いないだろう。
 当時の学長ノーヴィス・フォーセットの仲介によって、ケーシックはニクソン大統領との面会を実現する。面会は20分間に及んだというから、ニクソン側にも「この若造との面会はいいパフォーマンスになる」という思惑があったに違いない。


◆州議会議員の秘書となる

 1974年に大学を卒業したケーシックは、オハイオ州立法サービス委員会に調査員として就職する。1975年から1978年までは、オハイオ州議会議員バズ・ルーケンズの秘書を務めた。ルーケンズはケーシックよりも21歳年上で、オハイオ州第4区が地盤の政治家だった。言わずもがな、所属政党は共和党である。
 ちなみに、1975年、ケーシックはメアリー・リー・グリフィスという女性と一度目の結婚をしている。


◆史上最年少のオハイオ州議

kasich_first-married.jpg
▲ 最初の妻・メアリーと(1975年頃)

 1978年、当時26歳だったケーシックは、オハイオ州第15区から州議会議員選挙に立候補する。選挙の結果、ケーシックは全体の56%の票を獲得し、見事、民主党の現職ロバート・オーショネッシーを破って初当選を果たす。
 26歳で当選したケーシックは、初当選とともに「史上最年少で当選したオハイオ州議会議員」という称号を得ることになった。ケーシックの政治家生活の始まりは実に華々しいものだったといえよう。ただし、私生活のほうは必ずしも順風満帆ではなかったようで、議員生活2年目の1980年に妻・メアリーと離婚している。2人の間に子どもはいなかったが、離婚後もメアリーはケーシックの選挙活動に参加していたようだ。


◆下院選への出馬を決意

 ケーシックの州議会議員の任期は、1983年1月で切れることになっていた。そこで彼は、2期目には挑まず、連邦下院議員選挙に立候補することを決意する。というよりもケーシックにとっては、もともと地方議会議員としてのキャリアは国会議員になるための「踏み台」だったのだろう(とはいえ、州議会議員時代に彼が何も仕事をしなかったわけではない。議員報酬の増額を阻止するなど、きちんと実績も残している)。
 かくして、ケーシックはオハイオ州第12選挙区から下院議員選に立候補することを決心した。第12選挙区は、オハイオ州都のコロンバスをはじめ、ウェスターヴィル、レイノルズバーグ、ワージントン、ダブリンなどの都市を内包する選挙区である。この選挙区の現職議員は民主党のボブ・シャマンスキーで、ケーシックより30歳も年上の政治家だった。


◆州を二分する下院選

first_congress_election.jpg
▲ 選挙活動中のケーシック(1982年)

 これは議員選挙でも知事選挙でも大統領選でも事情は同じことだが、二大政党の国・アメリカでは、本選に立候補するためには、まず党内で行われる予備選を勝ち抜かなければならない。予備選に勝利して初めて、「共和党公認の候補」あるいは「民主党公認の候補」として本選に出馬することが可能になるのだ。
 1982年、下院議員選に挑むことを決めたケーシックは、党公認候補を選ぶための共和党予備選で83%の支持を獲得し、第12選挙区の共和党候補に選出される。当初は「共和党候補に選ばれはしたけれど、ケーシックが本選で当選するのは無理だろう」という見方が大勢だったが、実際の本選はかなりの接戦となり、ケーシックは現職のシャマンスキーを打ち破って当選した。この時のケーシックの得票率は50%、シャマンスキーの得票率は47%だったというから、この選挙はまさに「州を二分する下院選」だったといえるだろう。


◆「民主党員が投票できる共和党員」

 初めての下院選で、「自分に投票してくれる共和党支持者と同じぐらい、自分に投票してくれない民主党支持者がいる」という深層を悟ったケーシックは、その後、選挙対策のためにも「民主党らしさ」を備えた共和党議員へと成長していく。
 「彼は民主党員が投票できる共和党の政治家だ」というティム・アレンによる2015年のケーシック評は、物事の真理をついた発言であると同時に、この30年間でのケーシックの成長ぶりを示す発言である。ちなみに、この「ティム・アレン」とは何を隠そう、ピクサーのアニメ映画『トイ・ストーリー』シリーズ(1995年〜)のバズ・ライトイヤー役などで知られるアメリカの国民的俳優のことだ。
 晴れて連邦下院議員となったケーシックは、財政保守派の議員として頭角を現していく。後に独立系候補として大統領選に出馬することになる社会活動家のラルフ・ネーダーとともに、税金の無駄遣いをカットする計画に取り組むなど、共和・民主両党の垣根を超えて財政健全化策を提案した。


◆「タカ派」だけど「基地閉鎖」

kasich_and_dellums.jpg
▲ 民主党下院議員ロン・デラムズと

 ケーシックは外交・安全保障政策に関しては「タカ派」として知られるが、18年間に渡って委員を務め上げた下院軍事委員会でも、その財政保守派としての姿勢は貫かれた。民主党下院議員ロン・デラムズとタッグを組み、高コストが指摘されていた「B-2爆弾計画」の予算削減を部分的に成功させたほか、「A-12爆弾計画」の無駄な予算も削減させた。
 1986年には国防総省改編案(立案者の名を冠して「ゴールドウォーター=ニコルズ法案」と呼ばれる)の成立に深く関与したし、1988年には「基地再編・閉鎖法案」を成立させた。「基地再編・閉鎖法案」はペンタゴン(米国防総省本庁舎)の拡張計画に抵抗する法案で、使われなくなった米軍基地の閉鎖などの内容を盛り込んでいた。議員報酬の増額を阻止した州議会議員時代から一貫して、ケーシックは「税金の無駄遣い」に反発する政治家なのである。


◆両親の死と信仰心

kasich_and_sister-donna_and_parents.jpg
▲ 両親、妹との家族写真(1979年)

 1987年8月、ケーシックとその妹・ドナに突然の悲劇が訪れる。父・ジョンと母・アンを乗せた自動車がファーストフード店の駐車場を出ようとしたところ、飲酒運転の車が突っ込み、その衝撃で両親が死亡したのだ。ケーシックが35歳の時のことだった。一度に両親を失った悲しみから、彼は神への信仰に目覚める。
 幼少時代、ケーシックはカトリック教徒として育てられたが、それほど信仰心が篤いわけではなかった。両親の死をきっかけに彼が所属したオハイオ州のイングランド国教会は、リベラル色の濃い米国聖公会の姿勢に反発して離反した「北米聖公会」の教会の一つで、同性愛者を聖職者に叙任することを今でも拒絶している。下院議員時代のケーシックが「結婚防衛法」(同性婚禁止法)の成立を推進したのは、彼が信じる教義と決して無縁ではないはずだ。


◆「米軍撤退」で民主党と協力

 1991年の湾岸戦争や2001年のアフガニスタン紛争については、ケーシックは米軍の行動を「100%支持」した。しかし、1994年、米軍がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に介入したことについては支持しなかった。1997年、彼は共和党下院議員のフロイド・スペンスとともに、ボスニアで活動する「平和安定部隊」から米軍を撤退させるための法案を提出している。
 「平和安定部隊」とは、ボスニア・ヘルツェゴビナで活動を展開するため、1996年にNATO(北大西洋条約機構)主導で創設された多国籍の平和維持部隊のことだ。この「米軍撤退法案」を提出する際、ケーシックとスペンスは複数の民主党議員から協力を受けている。


◆反アパルトヘイト政策を後押し

 ケーシックは、南アフリカ共和国が1994年まで展開していたアパルトヘイト政策(人種隔離政策)にも強く反発した。議会では包括的な反アパルトヘイト政策を支持し、民主党下院議員ロン・デラムズが南アフリカ共和国に対する経済制裁を主張した際には、これを後押しした。
 これらのエピソードからは、財政問題のみならず、外交・安全保障の分野でも超党派の行動を厭わないケーシックの政治姿勢がうかがえる。ケーシックの「タカ派」姿勢は、自由と民主主義の理念のために実力行使を選択する民主党的「リベラル」の姿勢と通じるものだといえるかもしれない。


◆「ペニー=ケーシック法案」の立案

penny-kasich-plan.jpg
▲ ティム・ペニーらと記者会見するケーシック(1993年)

 1993年、ケーシックは下院予算委員会の委員に就任する。当時、ビル・クリントン大統領は議会に赤字削減法案を提案していたが、ケーシックをはじめとする共和党の委員たちは大統領案では不十分だと考え、対案を提出した。
 両者のすり合わせが行われた結果、その年のうちに和解案がまとめられた。ケーシックとティム・ペニーの名前を冠して、この和解案は「ペニー=ケーシック法案」と呼ばれることになった(ティム・ペニーという人物は作家にしてミュージシャンにしてリベラル派の政治家という、なかなか興味深い経歴を持つ人物なのだが、ここでは詳しくは触れないことにする)。
 この「ペニー=ケーシック法案」には、共和党側が要求した「医療」「福祉」「防犯」「子育てのための税額控除」などの政策が盛り込まれていたが、それらの政策を実行するためには莫大な予算が必要だった。言うは易く行うは難し、という政治事情は万国共通なのである。


◆「ペニー=ケーシック法案」の挫折

 検討の結果、ケーシックをはじめとする「ペニー=ケーシック法案」の立案者たちは、予算をまかなうためには3つの「大削減」が必要だという結論に至る。
 削減方針の1つ目は「お年寄りに対する医療手当の削減」だったが、当然、有力ロビー団体の全米退職者協会(AARP)から激しい反発を受けることになった。
 2つ目に考えていた「国防省予算と他国援助の削減」をめぐっては、レス・アスピン国防長官から「この法案が成立したら、軍の士気が打ち砕かれてしまう」と酷評されることになった。
 さらに、「連邦職員のリストラ」という3つ目の削減方針も多くの人々の不評を買うことになり、かくして、下院に提出された「ペニー=ケーシック法案」は219票対213票という僅差で否決されたのだった。
 州議会議員時代から「無駄遣いの削減」を売りにしてきた政治家・ケーシックにとって、「削減策」が非難されたこの一件は苦い経験となったことだろう。「人は長所でつまずく」とはよく言ったものである。


◆全米ライフル協会から「F判定」

 銃社会・アメリカでは、政治家は銃規制に対する立ち位置を常に問われることになる。「『銃を保持する権利』の強力な支持者」を自称するケーシックは決して「銃規制派」ではないが、かといって、「銃愛好家」として片付けられるほど話はそう単純ではない。
 1994年、ケーシックを含む共和党議員42人は、総合的な銃規制法案である「アサルトウエポン規制法」を成立させることで、クリントン大統領と土壇場で合意した。当時の大統領首席補佐官レオン・パネッタがケーシックの長年の友人であったことも合意のエンジンとなったのだろう。
 共和党を支えてきた「銃を保持する権利」の推進派たちの目には、法案に賛成した共和党議員たちは「裏切り者」と映った。当然、法案成立の立役者となったケーシックも全米ライフル協会の怒りを買い、この年に全米ライフル協会が格付けした政治家調査では「F判定」(失格)を下されている。その後、「汚名」を返上するために、ケーシックが「銃を保持する権利」の尊さを声高に主張せざるを得なくなったのは言うまでもない。


◆下院予算委員長に就任

kasich_in_the_house.jpg
▲ 下院予算委員長に就任した頃(1995年)

 1995年の連邦下院選で共和党は多数を獲得し、ケーシックは下院予算委員長に就任した。下院議員に初当選してから12年、ケーシックは「議会人」として最高位のポストに辿り着いたのである。1996年、彼は大型の福祉改革法案である「個人責任及び就職機会調整法」を議会に提出し、この法案はクリントン大統領の署名によって無事に成立した。
 ところで、1996年の大統領選に際しては興味深い一幕もあった。一部のメディアが「共和党候補のボブ・ドールは、副大統領候補にケーシックを指名するのではないか」と報じたのだ。実際には元下院議員で元アメリカ住宅土地開発長官のジャック・ケンプが副大統領候補に選ばれたが、この「飛ばし報道」はケーシックに対する注目度の高さを裏付けるものであった。


◆連邦予算の均衡化を導く

chairman-kasich.png
▲ 下院予算委員長時代のケーシック

 1997年、ケーシックは「1997年連邦均衡予算法」を成立させる。この法案が成立したことで、ケーシックは「1969年以来となる連邦予算の均衡化を導いた人物」として全国的に有名となった。予算均衡化という大仕事を果たしたことで、財政保守派の予算委員長としてやるべきことを成し遂げたといえるだろう。
 私生活のほうでも喜ばしい出来事があった。この年、広報会社で働いていたカレン・ワルビグという女性と再婚したのだ。その後、2人の間にはエマとリースという双子の娘が生まれることになった。


◆「ルインスキー事件」で大統領を攻撃

 クリントン政権との距離の近さが感じられるエピソードの多いケーシックだが、1998年に「ルインスキー事件」が発生するとクリントン大統領を厳しく非難する。当時を知る人には説明は不要だろうが、「ルインスキー事件」とは、クリントン大統領がホワイトハウス実習生だったモニカ・ルインスキーと「不適切な関係」を結んでいたことが暴露されるという政治的事件のことだ。
 この性的スキャンダルでクリントンは大統領としての資質を問われることとなり、第17代大統領アンドリュー・ジョンソン以来となる大統領の弾劾裁判にかけられることになった。ケーシックはクリントンにかけられた4つの訴因すべてに賛成票を投じ、上院で弾劾裁判が行われることが決まると、「(クリントン大統領は)罷免に値するものと信じている」と語った。


◆2000年大統領選に出馬表明

george-w-bush_and_kasich.jpg
▲ 第46代テキサス州知事ジョージ・W・ブッシュと(1999年)

 二大政党の国・アメリカでは、事実上、大統領選は民主党候補と共和党候補の一騎打ちとなる。大統領になりたければ、まずはどちらかの党の大統領候補に指名されなければならない。1999年2月、ケーシックは2000年の下院議員選には出馬せず、2000年大統領選の共和党予備選に挑むことを決意した。
 しかし、彼への支持は少なくとも共和党内ではまったくといってよいほど広がらず、資金集めも乏しい結果に終わった。大統領の弾劾裁判では反クリントンの立場を示したとはいえ、クリントン政権に親和的なそれまでのイメージが共和党員から敬遠されたのかもしれない。超党派的に活動し、「民主党らしさ」を備えた政治家としてのあり方は、国内の穏健派からは支持されるものであっても、所属議員や候補者に「共和党らしさ」を求める共和党員からはウケの悪いものなのだ。
 アイオワ州での世論調査を待たずして、1999年6月、ケーシックは予備選から撤退し、テキサス州知事ジョージ・W・ブッシュの支持に回ることを発表した。その後ブッシュは共和党予備選も本選も制し、2001年1月、第43代アメリカ大統領に就任することになる。


posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
(C) Copyright 2009 - 2017 MITSUYOSHI WATANABE