2015年07月31日

「希望としての未来」を再生産する“旅” 『トゥモローランド』


先日、TOHOシネマズ渋谷で
映画『トゥモローランド』を観ました。

tomorrowland_movie_poster.jpg



 <あらすじ>
フロリダ州に住む17歳の楽観的な女子高校生ケイシーは、
合衆国のスペースシャトル計画が終わりを迎え
NASAの発射台が解体されている現状に不満を抱いていた。
発射台での妨害活動が発覚してケイシーは逮捕されるが、
釈放の際、手荷物の中に見慣れないピンバッジを見つける。
このピンバッジこそ、「トゥモローランド」へのパスポートだった……。



「トゥモローランド」といえば、カリフォルニアディズニーランドや
東京ディズニーランドなどに存在するパークエリアであり、
「楽観的な未来」を象徴するアトラクションが存在するエリアです。
TDLの「トゥモローランド」は私もお気に入りのセクションで、
中でも『ビジョナリアム』というアトラクションが大好きでした
(残念ながら2002年にクローズされたので過去形となります)。

ブラッド・バード監督の映画『トゥモローランド』は、
「トゥモローランド」というウォルト・ディズニーのアイディアを
2010年代ならではの視点も併せて「映画化」した作品です。
――「アイディアの映画化」という意味では、
五木寛之著『大河の一滴』の映画化と共通するところがありますね
(そのスケールや方向性はだいぶ異なるような気がするけど……)。



映画化にあたって、脚本・製作のデイモン・リンデロフは
ディズニースタジオで発見された「ある箱」を参考にしたとのこと。
この「箱」には、「トゥモローランド」(1955年オープン)や
ニューヨーク万国博覧会(1964年)の資料が入っていたそうです。
何を隠そう、この万博にはディズニーもパビリオンを出展しました。

映画の冒頭では、まさにそのニューヨーク万博が、
ジョージ・クルーニー演じる謎の男性の回想シーンで登場します。
ちなみに、劇中で万博会場のBGMとして流れているのは
There's a Great Big Beautiful Tomorrow』という楽曲。
この楽曲はディズニーパビリオンのテーマ曲で、
その後、「トゥモローランド」と同様の趣旨で構想された
テーマパーク「EPCOT」のアトラクションにも援用されている曲です。

▲1964年ニューヨーク万博 ディズニーパビリオンのプロモーションビデオ



ディズニーがパビリオンを出展したこのニューヨーク万博は
映画『トゥモローランド』でも重要な役割を担わされていますが、
このニューヨーク万博が開かれた「1964年」という時期は
ディズニーの――というよりもアメリカの――楽観主義に
パラダイムシフトがもたらされてしまった時期だと言えるでしょう。

1963年11月にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、
アメリカは楽観主義的で建設的な若き政治リーダーを失いました。
その後のアメリカは、ベトナム戦争という暗い現実と
正面から向き合うことを運命付けられ、活力を衰退させます。
1964年は、「楽観主義国」アメリカにとっての変節期だったのです。

ウォルトの発想を映画化した『トゥモローランド』でも、
「楽観的な未来」が示唆されていたのは万博の回想シーンまで。
時代設定が2010年代の現代社会に移ってからは、
紛争や内戦、地球温暖化などの現実が悲観的に描かれていました。
この時系列だけを切り取ると、ウォルトの楽観主義は
敗北主義やニヒリズムに打ち負かされてしまったようにもみえます。

しかし、ディズニー作品の「責任」として、
この作品の後半部では、楽観主義の応用力が提示されました。
すなわち、現実から目を逸らすための楽観主義ではなく、
現実を「消化」し、前に踏み出すための楽観主義が示されたのです。
1964年に置き忘れられたかに思えたウォルトの楽観主義が、
2010年代の現実を包括し、未来の希望へと繋がった瞬間でした。



それは同時に、ウォルトの構想した「トゥモローランド」が
実に「アメリカ的」であったこと――にもかかわらず、
ワールドワイドに展開する普遍性を今や有していること――を
ディズニーの映画作品が自ら再確認した瞬間でもありました。
ロナルド・レーガンの評伝『レーガン』(中公新書)の中で、
村田晃嗣先生は「アメリカの保守派」を次のように解説しています。

 通常、保守派は歴史に社会の統合作用を求める。しかし、共通の記憶としての歴史が浅いだけに、共有できる希望としての未来に統合作用を求めるのが、アメリカの保守派の特徴である。
(p.166)

ここで村田先生が解説しているのは「保守派」の特徴ですが、
ウォルト・ディズニーという建設的な楽観主義者が
「個人の自由」の尊重を意識し続けた共和党支持者であり、
その意味で典型的な「アメリカの保守派」だったことを踏まえれば、
ウォルトという人物を媒体として、「アメリカの楽観主義」と
「アメリカの保守主義」が直接的に結び付くことが分かるでしょう。

「アメリカの楽観主義者」であるウォルト・ディズニーが、
「トゥモローランド」や「EPCOT」の構想を具現化していくことで
「希望としての未来」を創造したのは、必然的なことでした。
逆に言えば、もしウォルトが「アメリカの楽観主義者」でなければ、
「希望としての未来=トゥモローランド」は構想されず、
彼は「地味」で小さな物語ばかりを編み出していたかもしれません
(北欧産・東欧産アニメの「現実性」を思い出してみてください)。

名実ともに「アメリカ的」なディズニー楽観主義は、
今やアメリカ国内のみならず世界各国の人々を魅了しています。
永遠に完成することのない「トゥモローランド」構想は
まさにその典型例であり、ディズニー楽観主義の真骨頂です。
世界各地のパークで「トゥモローランド」が支持されていることは、
「アメリカの楽観主義」の普遍性を証明していると言えそうです。



当然ながら、現実が暗く惨めで過酷であればあるほど、
「希望としての未来」はその統合作用を最大限に発揮します。
ディズニー楽観主義もまた、悲観的な社会でこそ輝きを放ちます。
『トゥモローランド』という映画作品は、
とある過去の地点で構想・発表された「希望としての未来」が
暗く惨めな現実の社会でむしろ再び見出されることを、
SFエンターテインメントという手法で解説している作品なのです。

私はこれまで、ウォルトの「トゥモローランド」構想は
現実から目を逸らす作用しかもたらさないと思い込んでいましたが
(そして、それゆえに素晴らしいものだと考えてきましたが)、
映画『トゥモローランド』が、過酷な現実を「消化」し、
ラストで「希望としての未来」を再生産したことを見届けた今、
この構想に対する自らの認識の誤りを改めなければなりません。

――そして、ウォルトが「トゥモローランド」を
「永遠に未完成な世界」として設定したことの必然性に気付いた今、
その裏に隠された「楽観主義」の神秘性に戦慄せざるを得ません。
アメリカの「保守主義」と「楽観主義」は、いわば「双子」として、
永遠に「希望」を再生産し続けるという「家業」を担っていたのです。

最後に、冒頭でも触れた『ビジョナリアム』日本版で、
このアトラクションの案内役:タイムキーパー(CV:所ジョージ)が
ゲストに向かって最後に述べる台詞をご紹介します。
この台詞こそが、「トゥモローランド」構想の指針はもとより、
ウォルトが打ち出したディズニー楽観主義の精神、
「アメリカの楽観主義」の理念を端的に表現していると思うからです。

 これで、私たちの旅はおしまいです。でも、皆さんの旅は今、始まったばかりです。それではまたいつの日か、“未来で”お会いしましょう!
――Timekeeper from "Le Visionarium"

▲『ビジョナリアム』のテーマ曲 "From Time to Time"
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2015年07月09日

“復刊”はしたけれど… やはり、『青春の墓標』は恋愛文学だ!


この度、社会評論社から
奥浩平著『青春の墓標』(1965年初版刊)が復刊されました。
(『レッド・アーカイヴズ 01 奥浩平 青春の墓標』)

青春の墓標 :: 奥浩平bot〈非公式〉 サポートサイト
『青春の墓標 ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋版)



このブログでは、過去に何度か
奥浩平と『青春の墓標』を取り上げてきました。
直近だと、没後50年記念のこちらのエントリ(2015年3月2日)。
没後50年―『青春の墓標』 奥浩平と「たった一人の恋人」

長らく絶版状態だった『青春の墓標』が
復刊されたことそれ自体は結構なことなのかもしれません
(もっとも、中古の文藝春秋版は比較的入手しやすいですが)。

しかし、この度出版された社会評論社版は、
前半では『青春の墓標』文藝春秋版を転載する一方で、
後半からは、編纂者(「レッド・アーカイヴズ刊行会」)の
自己満足にすぎないマスターベーションを展開しています。
これでは「復刊」というより、名著の「改作」とみなすべきでしょう。



後半冒頭の『刊行にあたって』と題された文章で
「国家権力の非人間的なシステムが発する政策との確執」
「警察国家的な情報統制と情報操作によるデマゴギー」
などという文言が躍っていた時点で嫌な予感がしたのですが、
「かがやかしい21歳」(福田善之)の物語だった『墓標』は、
社会評論社版で「左翼の読み物」に塗り替えられてしまいました。

『刊行にあたって』に続く『座談会』では
生前の奥を知る人々がよもやま話を繰り広げているのですが、
奥のエピソードを語ってくれるのは結構だとしても、
「活動家としての奥を評価しよう」などという会話を見ると
この人たち『墓標』を読んだことがあるのかしら、と感じました。

それでいて『座談会』では、元中核派の彼らが
「今の若者は奥浩平を読まないだろう」などと嘆くのですから、
私は、この気色悪いマスターベーションにはついていけません。
「今の若者」に読まれないように『墓標』を矮小化しているのは
あなた方じゃないんですか、と冷ややかにツッコみたいほどです。

――ちなみに、『青春の墓標』には
「今の若者」にも愛され得るような魅力が備わっています。
奥浩平bot」のフォロワーには若年層も少なくありません。
『墓標』が普遍的な作品として広まることを拒否して
懐古主義にひた走る左翼の面々には、心の底からうんざりです。



さらに、『「青春の墓標」をめぐるアンソロジー』と題された
『墓標』に関する過去の評論の紹介ページでは、
正体不明の匿名の筆者(ペンネームすらなし!)が、
他人の評論を「紹介」するという体裁をとりながら
実際には「『墓標』はこう読め」という解釈を押し付けています。

とりわけ、この「匿名の筆者」は、
『墓標』を恋愛文学として読まれることが気に食わないらしく、
高本茂さんや中野翠さんの評論を上から目線で批判しています。
中でも高本さんの評論に対する攻撃は激しいもので、
ほとんど個人攻撃としか思えないような記述すらありました。

もっとも、高本さんが文中でマルクス主義を批判したため、
「匿名の筆者」は高本さんの評論を罵倒したのかもしれません。
それならば、過剰反応のわけも察しがつこうというものです。
「浩平なら言うだろう。『お前はナンセンスなんだョ』」
などという「イタコ芸」には、さすがにドン引きさせられましたが。



すでに表明した通り、私も、高本さんや中野さんのように
『青春の墓標』という本を恋愛文学として受け取っています。
社会評論社版での「匿名の筆者」のヒステリックな文章を読んで、
皮肉にもその思いは「確信」へと変わりました。

『青春の墓標』は、感性豊かな一人の魅力的な青年が、
特定の誰かとの関わりを多元的に積み重ね、
その誰かを愛したことで、悩み、悶え苦しみながらも、
「恋愛という病」に打ち克っていく物語なのだと確信しています。

もちろん、本の読み方は人それぞれです。
唯一絶対に正しい読み方なんてものは存在しないと思うし、
私も、私の読み方を他人に押し付けるような真似はしません。
しかし、あえて言うならば、『青春の墓標』が
「左翼の読み物」として流布するのは実にもったいないことです。

社会評論社版の「レッド・アーカイヴズ刊行会」は、
『墓標』を「資本主義の不条理の根源」を問う書に矮小化し、
奥浩平のキャラクターそのものを政治利用しています。
351ページから始まる独善的な社会派メッセージは、
私には『青春の墓標』を侮蔑するものとしか思えませんでした。



これから『青春の墓標』を読んでみようという人には、
読者をミスリードさせる思惑をはらんだ社会評論社版ではなく
中古の文藝春秋版を手に入れることをおすすめします。
文藝春秋版には、当時の時代背景を知るために有益な
元中核派幹部・北小路敏氏の丁寧な解説も収録されています。

中古本の購入はこちらから。
奥浩平bot〈非公式〉 サポートサイト:青春の墓標

――本当は社会評論社版なんて黙殺しようと思ったのですが、
「レッド・アーカイヴズ刊行会」の独善的な態度のおかげで
『墓標』が恋愛文学であることを確信できて嬉しかったのと、
高校時代から中野翠さんの愛読者だった自分が誇らしくなったので、
あえて、不愉快な悪書の存在を記録に留めることにしました。



ちなみに、高本茂さんによる『墓標』の評論は
『青春再訪』(2014年、幻冬舎ルネッサンス)に収録されており、
公式ホームページでも全文を閲読することが可能です。
高本茂公式サイト:『青春再訪』(幻冬舎ルネッサンス)

そして、中野翠さんによる『墓標』の評論は
『あやしい本棚』(2001年、文藝春秋)に収録されています。
posted at 23:59 | Comment(8) | TB(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2015年07月07日

「当事者」であることを自覚するために 『グローリー 明日への行進』


先日、TOHOシネマズ川崎で
映画『グローリー 明日への行進』を観ました。

selma_poster.jpg



◆キング牧師、初の映画化

この映画(原題『Selma』)は、1965年3月、
アメリカ公民権運動の真っ只中にアラバマ州セルマで起こった
「血の日曜日事件」を題材にした作品です。
これまでにもキング牧師の生涯を映画化する構想はありましたが、
実際に映画化されたのは今回が史上初めてとのこと。

キング牧師の複数の遺族が演説の著作権を所有していることが
映画化に際しての最大の障害となってきたようですが、
本作『グローリー』のエヴァ・デュヴァネイ監督は、
キング牧師の有名な演説をそのまま引用するのではなく
一つひとつの単語を類語に置き換えることでこの問題をクリア。
キング牧師の発したメッセージの本質は変えずに、
今このタイミングでキング牧師を映画化することに成功しました。

キング牧師役のデヴィッド・オイェロウォはまさにハマり役で、
ジョンソン大統領役のトム・ウィルキンソン、
ウォレス州知事役のティム・ロスもこの作品に深みを与えています。
この作品でプロデューサーを務めたオプラ・ウィンフリーも
公民権運動家:アニー・リー・クーパー役を熱演していましたが、
個人的にはホワイト補佐官役のジョヴァンニ・リビシがお気に入り。



◆非暴力で差別主義者を「自滅」

キング牧師といえば、ガンジーの非暴力主義を参考にして
'50〜60年代アメリカの公民権運動を牽引した歴史上の偉人です。
しかし、この映画では、指導者としての彼の苦悩や
夫としての葛藤などもストレートに描かれており、
「あのキング牧師も人間だったんだ!」という当たり前の事実を、
時に彼を神格化してしまいがちな私たちに伝えています。

一人の人間として苦しみ、脅迫を受けながら、
それでもキング牧師が非暴力のデモ行進で差別に立ち向かったのは、
残酷としか言い様のない人種差別の現実を前にして、
「こんな不条理がまかり通る社会であってはならない」
という信念を、自らの「使命」にまで高めていったからでしょう。

だからこそキング牧師は、怒りに身を任せるのではなく、
怒りをコントロールしながら公正な社会を築く手法をとりました。
「許せないことをする人間に暴力を振るうこと」と
「許せないことを社会からなくしていくこと」は別物であり、
後者に取り組まない限り、問題は解決に向かわないと考えたのです。

同時に彼は、あらゆる差別主義が絶対に間違っていること、
それゆえに差別主義者が絶対に自滅することも知っていました。
そして、差別主義者を自滅させるためには
まさに非暴力の運動で闘いぬくしかないことを知っていました。
(それらのことを「知って」いたのは、
キング牧師が天性のカリスマだったからと言うほかありません。)

アラバマ州警察の黒人襲撃は、黒人たちを萎縮させるどころか
全米の白人に黒人差別の凶暴性を伝えることになったし、
差別主義者であるウォレス州知事との会談の結果、
ジョンソン大統領は「君の同類として名を残したくない」として
「1965年投票権法」への署名を決心しましたよね。
差別主義の行動は、歴史的にはいつも裏目に出るものなのです。



◆彼らが本当に侮蔑しているのは…

この映画のラストで、アラバマ州議会議事堂前に到着した
キング牧師が次のように演説するシーンがあります。
 「社会は我々をねじ曲げてきた。白人の権力者たちが社会を支配し、貧しい白人には黒人差別という嘘を与えた。その白人たちは子どもが腹を空かせて泣き出すと、同じ嘘でなだめるのだ。『どんな境遇に生まれようと、劣った黒人ではなく白人であること――それだけでマシなのだ』と」

差別者たちは、「××よりはマシだ」と自分に言い聞かせ、
自分の置かれている現実の状況から目を逸らしています。
その結果、自分が幸福か否かを相対的にしか判断できなくなり、
「自分の人生」を主体的に歩むことを放棄しています。
差別者たちにとっての「幸福」とは、いわば、
被差別者の存在を必要とする「砂上の幸福」だと言えるでしょう。

また、ウォレス州知事は、ジョンソン大統領との会談で
「もしも黒人に投票権までをも認めてしまえば、
黒人はさらに法外な要求を突き付けてくる」とも話していました。
これは、市民は「声の大きさ」に揺り動かされるのみで
「法の下の平等」を公正に判断することはできない――という、
自分たち自身の理性に対する侮蔑以外の何物でもありません。

差別者たちの大半は、自らが差別者であることを認めず、
自らの差別的な主張を論理的に正当化しようと必死で試みます。
その過程で、差別者はますます被差別者像を追い求め、
「無意識の差別者」から差別主義者へと「進化」してしまいます。
自分たち以外の何者かを侮蔑しているつもりでいて、
実は、差別者たちは自分たちの尊厳をこそ侮蔑しているのです。



◆「差別者」と「被差別者」の関係

差別の本当の苦しみは、被差別者でなければ分かりません。
ある件で自分が「被差別者」側に立っていないとき
――マジョリティであるとき――、私たちはいとも簡単に、
そして無意識に、差別的な主張をまくし立てることがあります。
しかし、悪意がなかったことは免罪符とはなりません。
むしろ「悪意のない差別的な主張」のほうが
被差別者側の気持ちをかえって傷付ける場合もあるでしょう。

21世紀を生きる私たちは、女性に参政権がなかったことや
黒人がバスの座席に自由に座れなかったこと、
ハンセン病患者が隔離させられたことの問題性を知っています。
しかし、それ以外の事柄ではどうでしょうか。

例えば、同性カップルの結婚が許されていないことや
特定の地域に広大な軍事基地が押し付けられていること
――そして、それらの件に対する賛否を表明すること――は、
同じ国や社会で暮らしているはずの人々を
「差別者」と「被差別者」の関係に分断してはいないでしょうか。

差別者側の無知や無関心によって差別が存続する以上、
映画『グローリー』から私たちが学び取るべきは、
「被差別者たちは偉かったね」という感想のみならず
「もしかしたら自分も当時は差別者側だったかもしれないし、
実は今でも何らかの件で差別者側に立っているかもしれない」
という自分自身への真摯な問いかけなのかもしれません。

逆に言うと、その問いかけを自らに促すためにこそ、
『グローリー』は無理をしてでも絶対に観るべき映画なのです。
私たちの社会が常に「差別」という問題を抱えていること、
そして、すべての人がこの問題の当事者であることを知るために。



コモン&ジョン・レジェンドが歌う『Glory』は、今年のアカデミー賞で主題歌賞を受賞。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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