2015年05月23日

“勇気と希望”を与える映画こそ名作だ! 『水曜日は映画の気分』


2008年に亡くなった映画評論家・水野晴郎先生の著書
『水曜日は映画の気分』(1981年、冬樹社)を読んでいたら、
心に残る感動的なエピソードに出会いました。

suiyoubi_wa_eigano_kibun.png
装幀・イラストは安西水丸さん。


例えば、こんな話(p.184-187)が載っています。
水野先生が当時解説を担当していた『水曜ロードショー』で
『風と共に去りぬ』(1939年)が初めて放映された時のエピソード。

 この映画、私は劇場だけで三九回見た。
 すきなのである。
 そして人間の運命とは面白いもの。私の人生に大きな刺激を与えたこの「風と共に去りぬ」という映画。
 めぐりめぐって、私の水曜ロードショーで世界初のTV放映をすることになった。
 この映画超大作をである。当時アメリカでもTV放映されていなかった。
 私は感激し、力いっぱい解説させていただいた。
 TVでの放映がすむと、日本中の方々からお手紙やお電話をいっぱいいただいた。
 この映画のすばらしさ、その感激をしたためたものだった。
 そんな中に一通のぶ厚い封書がまざっていた。私にとって、一生忘れることの出来ない手紙となったものである。
 今から数年前のこと。もうお話ししてもいいのではないかと思う。
 その手紙は九州に住むある男の方からのものだった。当時、奥さんと高校生のお嬢さんの三人家族。
 自分で商売をなさっていた。
 だが、不況に襲われ倒産。借金に追われてどうしようもなく、遂に一家心中を考えた。
 だが、そんな話は高校生のお嬢さんにできるはずもなく、奥さんと二人で、今晩か、明日かと考え続ける毎日だった。
 そんなある日。お嬢さんの学校で、「風と共に去りぬ」という映画がTVで放映されるという話題がひろがっていた。そのお嬢さんも、ぜひ見たいということで、TVにかじりつくようにして映画を見ていた。
 ご主人にとっても奥さんにとっても、もうTVどころじゃないのだが、仕事もまったく手につかないとあって、お嬢さんの後の方からぼんやり画面を見るともなく眺めていたという。だから、物語も役者のことも全然わからない。
 ところが映画の終わり。女の人が突然叫んだ。「明日がある!」
 その時、思わず金づちで頭を殴られたような気がした、とそのお手紙は語る。奥さんも同じ気持ちであったのか、はっとしたようにご主人の顔をご覧になった。
 その晩二人で寝ないで、自分たちの明日についてもう一度考えなおしました……。一家心中やめました……。
 そのお手紙はそう結んであった。私は涙をぼろぼろこぼしながら、そのお手紙を読んだ。
 私の人生をかえたこの映画、このたった一つの言葉。TVで放映された日本語の「明日がある!」が今、この三人の命をすくった。
 私が映画の仕事をしていてはじめて人様の役に立ったということとともに、人生のすばらしさをしみじみと感じた。
 こんな映画こそが傑作だと思う。どんなむずかしい理屈を語る芸術映画より、人に勇気と希望を与える映画こそが永遠の名作だと私は信じる。
 私は「風と共に去りぬ」が大すきである。


『シェーン』(1953年)、『ロッキー』(1976年)をめぐっては、
こんなエピソードが紹介されていました(p.44-46)。

 先日、こんな事があった。
 札幌TVのお昼のワイドショウで、二十分間の時間をいただいて自分のすきな映画の話をさせていただいた。
 生放送だから、TVをご覧になっている方からどんどん反響の電話がかかって来る。しかしその場で出るわけにはいかない。
 TV局の方が、電話番号をメモしておいてくれて、放送が終わったあと、こちらからお電話をさしあげた。
 その中に、二十歳近いという青年からの電話があった。この方、私と映画の話をしたいという希望であった。
 話をするうちに、その方こんな事をおっしゃった。
「実は私は片手で電話をかけているんです」
 よく聞いてみると、この青年片腕がなく、さらに両の足も失って施設にいる重身体障害の方だった。
「ご家族は?」
 と私は聞いた。
「父は遠洋漁業で遭難し、死にました」
「じゃあ、お母さんと一緒なんですね」
「母は妹を生む時、出血多量で死んだんです」
 私はおどろいた。
「それじゃ妹さんと二人の生活なんですか?」
 私の重ねた問いに彼は言った。
「ええ、二人共この施設にいるんです。でも妹はもう一年生きられるかどうかわからないんです。筋肉の病気で……」
 私はなんと悲しい人生の方なのだろうかと思った。
 しかし。
 彼はこんな話をしてくれた。
 年に一、二回、施設から看護婦さんのつき添いで映画を見に連れて行ってくれる。
 ある時、「ロッキー」に連れて行ってもらった。
 負けるかも知れない、いや負ける率が遥かに高い試合だけれど、これが自分の生きる道なんだ。ロッキーは全身をこめてその試合にぶつかって行った。感激した。
 自分もロッキーのように自分の力をいっぱいに生きよう。彼はそう思ったと言う。
 そして、この「ロッキー」の感激を帰って妹さんに話したという。
 もう目が見えなくなっていた妹さんは、その目に涙をためながら、
「兄ちゃん、いい映画観て来たね。またいい映画見たら聞かしてね」
 彼の片手をしっかりにぎったという。
 私はもう黙って聞いていた。
 彼は続けた。
 あの「シェーン」のこと。
 映画のはじめのところで、シェーンが言った言葉。
「ものごとを目をそらさないで見つめる少年がすきだ」
 あの言葉が忘れられないと言う。
「ものごとを真正面から見つめて行きたいと思うんです。今の世の中、私よりずっとしっかりした体を持っているのに、世の中をまっすぐ見ない人がいますね。悲しい事だと思います」
 私はいつの間にか涙を流していた。この人の人生は悲しいものと思っていたが、それは私のまちがいだった。悲しい人生とは、世の中をまっすぐ見られない人生の事を言うのではあるまいか。
「いい映画、たくさん見せて下さい」
 彼は最後に言った。
 私は映画の仕事をしていて本当によかったと思う。
 映画とは、様々な見方がある。
 そして一人一人、見方が違ってもいいはずだと思う。
 私はどんな映画でも、その人に明日への勇気と希望を与えてくれる映画があったら、それはその人にとって大いなる傑作だと私は信じる。
 私はこれからも、映画の中に、それを見つめて行こうと思う。


――なんて素晴らしいエピソードと文章なんでしょう!
映画とは、アタマで観るものではなくて
ココロで観るものなんですね(身体的には眼で観るものだけど……)。
立川談志師匠が『談志映画噺』(2008年、朝日新書)の中で
「理屈で映画や舞台を見るやつは家元、信用しない」(p.142)
と書いていたことも思い出しました。

映画解説者・水野晴郎先生の代名詞とも言うべき
「いや〜、映画って本当にいいもんですね」という名文句には、
きっと、以上でご紹介したようなエピソードに裏打ちされた
水野先生ご自身の深い実感が込められていたのでしょうね。

それにしても、水野先生のような高名な映画評論家の方が
「人に勇気と希望を与える映画」が傑作だと言い切っていることは、
私の価値観と照らし合わせてもとてもありがたい。
水野先生のおかげで、私は、『パロディ放送局UHF』(1989年)や
『スーパーヒーロームービー!! 最'笑'超人列伝』(2008年)を
何の躊躇いや恥ずかしさもなく「私にとっての傑作」と断言できます。

「単なる」娯楽作品を見下す映画通は未だに少なくないけれど、
私は、自らの経験上も、「単なる」娯楽作品には
苦悩の中にある人々を「延命」させる力があると確信しています。
あのメル・ブルックスも言っているじゃないですか。
「ミュージカルコメディの“美味しい雲”の中で生きれば、
 2時間だけすべての悩み事を忘れることができるんだ」って――。



『シンドラーのリスト』(1993年)解説映像 (1997年1月10日 『金曜ロードショー』)


 <余談>
私が高校生の頃、高校の近くにレコード屋さんがあって、
そのお店には『水野晴郎のDVDで観る世界名作映画』という
ワンコインDVDのシリーズが置いてありました。
『毒薬と老嬢』(1944年)や『素晴らしき哉、人生!』(1946年)に
私が出会えたのは、このDVDシリーズのおかげです。
武蔵小山のあのレコード屋さん、今でも営業しているかしら……。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2015年05月21日

さよなら、レターマン! 最後まで“ホスト”であり続けた男


現地時間20日、CBSの深夜トークショー番組
『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』が
最終回を迎えました。

david_letterman_last_show.png
デイヴィッド・レターマン


この番組は、デイヴィッド・レターマンという
アメリカの国宝級コメディアンが司会を務める平日の帯番組で、
1993年8月30日に放送を開始した番組です。

それ以前にも、レターマンはNBCで
『レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』という
番組の司会を担当していたので(詳しくはこちら)、
今回、レターマンは、33年間に及ぶトークショーホストのキャリアに
自ら終止符を打ったことになります。



昨年(2014年)3月、日本のフジテレビでも
『森田一義アワー 笑っていいとも!』が最終回を迎えましたが、
終了間近の『いいとも!』に豪華ゲストが押し寄せたように、
『レイト・ショー』でも最終回に向けて特別な趣向が凝らされました。

『レイト・ナイト』初回(1982年2月1日)でも
『レイト・ショー』初回(1993年8月30日)でも最初のゲストだった
ビル・マーレイは、2015年5月19日、
『レイト・ショー』最後のトークゲストとして出演。
彼は、「レターマンが深夜トークショーホストになった日」と
「それを終えた日」の両日に立ち会ったわけですね。

もちろん、レターマンの盟友であるマーレイは
「最初」と「最後」だけではなく何度もレターマンの番組に出演しており、
5月19日の放送では名場面集が放送されました。
この名場面集からは2人の仲の良さが伝わってきます。





深夜トークショーには音楽ゲストが付きものですが、
中でも『レイト・ショー』は音楽ゲストの人選に力を入れており
(超有名ミュージシャンから新進気鋭のバンドまで)、
私もこの番組の音楽コーナーで多くのアーティストを知りました。
そういえば、フェニックスも『1901』を歌いに来ていたっけ……。



2015年5月19日(つまり最終回の一つ前の回)には
1993年以来22年ぶりの『レイト・ショー』出演となる
“生ける伝説” ボブ・ディランが登場しました。
今回、ボブ・ディランが歌ったのは、
今年2月に発表されたニューアルバムに収録されている曲です。

国民的長寿番組の実質的なレギュラー最終回ですから
普通だったら特別な曲で華々しく盛り上げるところですが、
レターマンの『レイト・ショー』は
最後まで音楽コーナーを「歌手のプロモーションの場」として設定。
レターマンは、あくまでもホスト(仕切る側)として
ある意味で淡々と『レイト・ショー』のラストを飾ったのです。




――そして迎えた2015年5月20日。
レターマンが司会を務める最後の『レイト・ショー』は、
ジェラルド・R・フォード元大統領の有名な就任演説
「Our Long National Nightmare is Over...」を引用した
映像コントから始まりました。

ジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、
ジョージ・W・ブッシュの歴代大統領(いずれも本物)が登場し、
バラク・オバマ現大統領が「オチ」を担当しています。
アメリカのバラエティ番組と政治家の関係性は本当に独特ですね。



映像コントの後、レターマンがいつものように登場。
収録スタジオのあるエド・サリヴァン・シアターの観客は
スタンディングオヴェーション(総立ち)でレターマンを迎えます。

さらにその後、最終回ならではの
懐かし映像や撮り下ろし特別映像が放送されました
(『もしもレターマンがタコベルで働いたら』は不朽の名作!)。




番組の名物コーナー「Top Ten」は、
毎回、1つのお題に10個のジョークを当てはめる
レターマンの「一人大喜利」的なコーナーです。
最終回のお題は、「前からデイヴに言いたかったこと」。

記念すべき最終回ということで、
10のジョークを言うために10名のサプライズゲストが登場。
ビル・マーレイ、スティーヴ・マーティン、バーバラ・ウォルターズ、
アレック・ボールドウィン、ジェリー・サインフェルド、
ジム・キャリー、ティナ・フェイ、クリス・ロックらが華を飾りました。



『レイト・ショー』の後任司会者:スティーヴン・コルベアに
愛情あふれるエールを送り、ついに別れの挨拶。
レターマンが「Thank you and Good night.」と言い終えると、
フー・ファイターズが『Everlong』の生演奏を開始します
(この曲はレターマンの一番好きな曲)。
音楽とともに映し出されるのは、懐かしの映像と写真です。



本当の本当のラストは、スタッフクレジットでお別れ。
『レイト・ショー』をめぐっては
過去には脚本家ストライキ騒動(2007年)などもありましたが、
この番組が多くのスタッフに支えられていたことは
紛れもない事実だし、視聴者も理解しておくべきことでしょう。




――さて、レターマンといえば(?)、ジェイ・レノ。
長年に渡る2人の対立関係は
このブログでも過去に触れた通りですが(詳しくはこちら)、
自身の冠番組の最終回でも2人の違いは明確に現れていました。

昨年(2014年)2月に放送を終了した
NBC『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』最終回にも
やはりサプライズゲストたちが登場しましたが
(ビリー・クリスタルやオプラ・ウィンフリー、ジム・パーソンズなど)、
自らの冠番組の最終回におけるレノは
ゲストたちから「お別れの歌」を聴かされる「受動的」な立場。
番組ホストであるはずのレノが、
最終回ではまるでスペシャルゲストのように扱われていたのです。

これに対し、『レイト・ショー』最後の
音楽コーナーでもボブ・ディランの新作アルバムを紹介し、
名物コーナーではゲストたちをネタ要員に「使用」したレターマンは、
最後までホスト(仕切る側)であり続ける「能動的」な立場でした。
私は、まさにこの点にこそ、2人の違いが現れているように思います。

人気者として「花束を贈られる側」になる道を選んだレノと
最後まで「Master of Ceremony」であり続けたレターマンは、
やはり、コメディアンとして対照的な存在だと言わざるを得ません。
(ちなみに、ここでの「能動的」「受動的」とは
「番組内で出しゃばっているか否か」とはまったく異なるお話です。)



――デイヴィッド・レターマンは引退してしまいましたが、
『レイト・ショー』の看板自体は存続します。
今年9月から始まる新生『レイト・ショー』の司会者は、
コメディ・セントラルの風刺バラエティ番組『コルベア・リポー』で
不動の地位を獲得したスティーヴン・コルベア。
レターマンの後継者と呼ぶにふさわしい人気コメディアンです。

この2人は過去にも『レイト・ショー』で共演していますが、
それだけではなく、昨年(2014年)12月の
ケネディ・センター名誉賞授賞式でも「共演」しています
(ケネディ・センターはこのブログにしばしば登場しますね……)。



動画をご覧頂ければ分かるように、
2012年の名誉賞受賞者:デイヴィッド・レターマンが
2014年の名誉賞受賞者:トム・ハンクスの業績を紹介するために
プレゼンターとして登場するのですが、
なぜかスティーヴン・コルベアも舞台後方からやって来てしまう。

場違いのコルベアに向かってレターマンが一言、
「Not yet. (まだ早いよ)」。
――これは、翌年(2015年)に控えた
コルベアの『レイト・ショー』司会就任と絡めたギャグですね。
アメリカ在住者なら笑わざるを得ない楽屋オチのギャグです。

ちなみに、なぜ同授賞式の場にコルベアが居たのかというと、
この年の授賞式ではコルベアが司会役を務めていたから。
同授賞式には大統領夫妻が出席するのが恒例ですが、
司会のコルベアは「本日は素晴らしい方にお越し頂いております。
……ミシェル・オバマとその夫です」
といったシニカルなジョークを本人たちの前で飛ばしていました。



――何はともあれ、デイヴィッド・レターマンという
国宝級のコメディアンが国民的番組『レイト・ショー』を去り、
アメリカのテレビ界では着々と世代交代が進行しています。
今年8月には、ジョン・スチュワートも
コメディ・セントラルの『ザ・デイリー・ショー』を降板予定です。

今年9月からは、コナン・オブライエン(TBS『Conan』)、
ジミー・キンメル(ABC『ジミー・キンメル・ライヴ!』)、
ジミー・ファロン(NBC『ザ・トゥナイト・ショー』)、
そしてスティーヴン・コルベア(CBS『レイト・ショー』)らが
「深夜トークショー戦争」で熾烈な争いを繰り広げることになります。

深夜トークショーのホストになることは、
アメリカのコメディアンの最終目標と言っても過言ではありません。
「夢を叶えた男たち」が今後どのような競争を展開するのか。
そして、彼らの番組から次代を担うコメディアンが登場するのか。
世代交代と切磋琢磨を繰り返し、コメディ界は進化していくのです。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2015年05月17日

そして、「悲しい笑顔」が残った 『私の殺した男』


先日、シネマヴェーラ渋谷で
映画『私の殺した男』(1932年)を観ました。
同時上映は『真珠の頚飾』(1936年)。

broken-lullaby_poster.png


 <あらすじ>
パリに住む青年ポールは、休戦から一年経った現在も
第一次世界大戦でドイツ兵:ワルターを殺したことが忘れられず、
激しい良心の呵責に苛まれていた。
ポールは、許しを請うためにワルターの故郷を訪れるが、
誤解が原因で、遺族と婚約者から逆に歓迎されてしまい……。



小津安二郎監督もお気に入りだった『私の殺した男』は
エルンスト・ルビッチ監督が手掛けたシリアスなドラマ作品で、
私の知っている「ルビッチ作品」とはやや毛色が異なります。
ルビッチといえば、やはり『極楽特急』や『ニノチカ』、
『生きるべきか死ぬべきか』などの喜劇作品が有名ですからね。

しかし、ある誤解がきっかけで、「最も糾弾されるべき相手」が
この上なく歓迎されてしまうというシチュエーションは、
まさしく正統的な喜劇のシチュエーションです。
本作こそは、喜劇の常套手段で究極の悲劇を描いた作品であり、
「喜劇=悲劇」という図式を表現した名作だといえるでしょう。



この作品にはいくつもの印象的な場面がありますが
それらの場面が「印象的」なのはルビッチの演出による賜物です。
「戦争で左足を失った男の欠落部から見える兵士の行進」
「その行進の音を耳にして爆撃を思い出す帰還兵たち」
「涙を拭くためのハンカチしか入っていないポーチ」などのカットは、
どんな大仰な台詞よりも雄弁に戦争の残酷さを物語っています。

印象的な場面は、台詞の存在しない場面だけに留まりません。
物語の冒頭で、ポールから「私は人を殺したんです!」と
告白された教会の牧師は、驚きと恐怖の表情を浮かべますが、
被害者が「戦地の敵兵」だったことを知ると胸を撫で下ろします。
ここで私たちは、『殺人狂時代』(1947年)の名台詞
「一人殺せば犯罪者だが〜」を思い出さずはいられません。
戦争は、大衆のみならず、聖職者の良識までをも反転させるのです。

ポールに殺されたワルターの父親が酒場で「演説」するシーンは
ややもすれば観客をシラけさせかねない場面ですが、
ライオネル・バリモアの好演によって名場面に仕上がっています。
 「フランスの息子たちが死んだ時、ドイツの父親たちはビールで祝杯をあげた。ドイツの息子たちが死んだ時、フランスの父親たちはワインで祝杯をあげた。あの時、父親たちは息子たちの死を祝っていたのだ!」

バリモア演じるこの「父親」は、このように語った後、
一人で酒を飲んでいた傷病帰還兵の青年から握手を求められ、
さらに「私は死に行く息子を励ましていたんだ……」と呟きます。
戦争の愚かさは、すべてが終わって初めて実感されるのですね。
この後、ルビッチはこの「父親」を「見えない行進」と直面させ、
終戦後も「戦争」から逃れられない遺族の苦悩を描いていました。

――ややネタバレになりますが、『私の殺した男』という作品は、
ポールとエルザ(ワルターの婚約者)が
ワルターの両親にある「嘘」を貫き通すことを決意して
それぞれヴァイオリンとピアノで『トロイメライ』を演奏し、
ワルターの両親に笑顔を取り戻させることで、その幕を閉じます。

2人の演奏シーンではなく「両親」の姿で映画を終えたのは
演奏者を映せないがための苦肉の策だったのかもしれませんが
(おそらく俳優はヴァイオリンもピアノも弾けませんからね)、
「嘘」によって安心させられる「両親」の姿で映画を終えることで
このラストシーンはかえって意味深な印象をもたらしていました。



戦後の日本は一人の戦死者も出していないとされますが、
NHKの調査では、イラク復興支援で派遣された自衛隊員のうち
28名が帰国後に自殺したことが判明しています()。
防衛省は派遣と自殺の因果関係は不明だと説明していますが、
各国で帰還兵のPTSDが社会問題化しているのは重い事実です。

PTSDに苦しんでいた『私の殺した男』の主人公:ポールは
作品のラストでついに笑顔を取り戻しましたが、
エルザと共に「嘘」をつくことで取り戻した笑顔であることを思うと、
その笑顔は「悲しい笑顔」とでも呼ぶべきものかもしれません。
彼が戦争で勝ち得たものは「悲しい笑顔」だけだったとも言えます。

しかしあえて言うならば、ポールは、祖国の命令通りに敵兵を
――しかも「たった」1人を――戦地で殺しただけでした。
ただし、個人的には恨んでも憎んでもいない相手を殺したことを
帰還後も気にしてしまうという精神の持ち主だっただけです。
本物の戦争に勝者はいない」――。
やはり、戦争の本質は「行かされる」側でなければ分かりません。


broken-lullaby_image.png
ポールを演じたフィリップ・ホームズは、1942年に第二次世界大戦で戦死した。
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
(C) Copyright 2009 - 2017 MITSUYOSHI WATANABE