2015年03月18日

誰が「NO派」を勝利に導いたのか 『NO/ノー』


先日、キネカ大森で
映画『NO/ノー』(2012年)を観ました。
同時上映は『プロミスト・ランド』(2012年)。

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この映画は、チリのパブロ・ラライン監督による、
アウグスト・ピノチェト政権時代の国民投票を描いた作品です。
主演はメキシコ出身の人気俳優:ガエル・ガルシア・ベルナル。
また、ピノチェトの退任後にチリ大統領を務めた
パトリシオ・エイルウィン元大統領が本人役で出演しています。



1988年、独裁体制に対する国際的な批判に譲歩する形で
ピノチェト政権は政権の信任を問う国民投票の実施を決めました。
賛成派・反対派の双方に政見放送の時間が与えられましたが、
いずれも放送時間は約15分間と短く、放送時間も深夜帯でした。
ピノチェト独裁政権にとって、15分間の政見放送は
「言論の自由」を偽装するためのアリバイ工作にすぎなかったのです。

反対派(「NO派」)のアドバイザーに起用された広告マン:レネは
明るくポップな「未来志向」の政見放送を企画しますが、
これまでピノチェト政権から弾圧されてきた「NO派」幹部からは
「事態の深刻さを理解していない」とむしろ反発を買ってしまいます。
実際に親族や友人を殺傷された「NO派」の人々からすれば、
楽天的なメッセージは過去に背を向けたものでしかありませんでした。

それでもレネは反対意見に(ほとんど)屈することなく、
「怖がらせるような広告では大衆は動かない」という信念の下、
歌やダンスや笑顔が登場する「未来志向」の政見放送を制作します。
その政見放送は、単なる「NO(反対)」の意思表示ではなく
「NOにYES!」というポジティヴな姿勢を前面に押し出すものでした。

国民投票「YES派」の幹部である上司がレネを脅迫したり、
政権側が「NO派」の政見放送を“悪用”したりもしますが、
それらの出来事によって、レネはかえって内なる情熱を燃やします。
レネにとっての「NO派」のキャンペーンは、「雑事の一つ」から
家族の生活までもが絡む「使命的な仕事」と変化していったのです。



『NO/ノー』は、1980年代当時のカメラを撮影に使用し、
あえて1980年代風ドキュメンタリーのように仕立てている作品です。
作品中では当時のアーカイヴ映像も挿入されており、
ピノチェト独裁政権に反発する「NO派」の政見放送には
クリストファー・リーヴやリチャード・ドレイファス、
ジェーン・フォンダによるチリ国民へのメッセージ映像も登場します。

ガルシア・ベルナルをはじめとする俳優陣が演技をする一方で
ドキュメンタリーの撮影手法やアーカイヴ映像が用いられているため、
この作品ではフィクションとノンフィクションの境界線が曖昧です。
そのため、堅苦しくなりがちなテーマを扱いながらも、
この作品は芸術的・娯楽的な要素を打ち出すことに成功しています。

政見放送内のCMにも実際の映像()が使用されていました。
チリ国民やラテンアメリカ研究者は一目で分かるのでしょうが、
そうではない私は、これが実際の映像だとは気付きませんでした。
当時のCMの「再現映像」だと思い込みながら映画を観ていた私は、
監督の巧みな“マジック”にまんまと騙されていたということですね。

そして、エンドクレジットで映し出される俳優陣の談笑シーンは
「ドキュメンタリーではない」という“ネタばらし”のようでもあり、
政治信条に由来してではなく広告マンとして“商業的”に
政治キャンペーンに参加したレネの姿を映し出しているようでもあり
(俳優はあくまでも役柄として政治的発言をしていたにすぎない)、
ピノチェト独裁政権下では制約を受けざるを得なかった
「言論の自由」「表現の自由」の勝利を宣言しているようでもありました。



忘れてならないのは、誰が「NO派」を勝利させたかという観点です。
この映画のラストでのレネは、まだ幼い息子を抱えながら
歓喜の渦に包まれる「NO派」の選挙事務所をひっそりと去ります。
観客は「レネこそが称賛されるべきなのに!」という感情を覚えますが
(そしてその感情が正当な感情であることは確かですが)、
客観的な事実として、国民投票で「NO派」が勝利を収めたのは
決して、広告担当者:レネ一人の力によるものではありませんでした。

「NO派」のスタッフがいなければ、政治家がいなければ、
「NO派」の政見放送を悪用した「YES派」の“自滅”がなければ、
「YES派」の広告戦略に憤慨したチリ国民がいなければ、
そして、国民投票で「NO」に投票したチリ国民がいなければ、
1988年の国民投票で「NO派」が勝利を収めることはありませんでした。
「NO派」が勝利したのは「全員のおかげ」とも言えますが、
しかし、「誰か一人が欠けていても敗北した」とまでは言えません。

レネがいなくても「NO派」は勝利していたかもしれないし、
レネがいなければ「NO派」は勝利できなかったかもしれない――。
このような帰結を受けて、「NO派」の勝利を
「歴史がそうさせたのだ」という一言で片付けることは容易でしょう。
しかし、その歴史を作り出しているのは一人ひとりの人間です。
「歴史」によって人間が動かされているという発想は、
人間の複雑性を無視した短絡的な見方でしかないように思われます。

――誰が「NO派」を勝利に導いたのか。
この問いの「途中式」は示せても、「正解」を示すことはできません。
だからこそ、「途中式」の内幕をできるだけ多角的に解明し、
一人ひとりの人間の関与を確認する必要があるのではないでしょうか。
その“確認作業”があってこそ、歴史は未来へとつながるはずです。
映画『NO/ノー』は、まさしくその「一人」である広告マンを通して、
歴史を変えたのが「一人ひとりの人間」だったことを示していました。


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2015年03月14日

ファンタジックでも穏やかな“説得力” ―小柳枝の『抜け雀』


今日は、国立演芸場 3月中席 へ行ってきました。
主任は、春風亭小柳枝師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 柳亭楽ちん 『饅頭こわい』
落語:(交互) 春風亭吉好 『動物園』
漫談:新山真理
落語:(交互) 春風亭笑好 『片棒』
曲芸:翁家喜楽・喜乃
落語:柳亭楽輔 『天狗裁き』

 〜お仲入り〜

奇術:(交互) 山上兄弟
落語:(代演) 春風亭柳橋 『禁酒番屋』
俗曲:桧山うめ吉
落語:(主任) 春風亭小柳枝 『抜け雀』



★楽ちん 『饅頭こわい』
楽輔師匠譲りのテンポよい語り口。
人物によって使い分ける声色が功を奏している。
「毛虫なんてものは……」の件で台詞が飛ぶも、
「お前が変なこと言うから忘れちゃったじゃねえか」。

★吉好 『動物園』
デパートや結婚式での余興ネタをマクラで語り、
小ネタやダジャレを散りばめた『動物園』へ。
時代設定は一昔前だろうか。
“ブラックライオン”の形態模写で拍手が起きた。

★真理
北陸新幹線(本日開業)のネタなどを披露した後、
『芸協と落協』を比較的長尺で。
真理先生、実は高座の上でほとんど笑顔を見せない。
マジメな口調で喋るからこそ活きる毒舌漫談だ。

★笑好 『片棒』
ケチ小噺「金槌」を経て『片棒』。
猫ひろしの一発芸を彷彿とさせる“銀次郎”の暴走劇
――笑好師匠の新たな可能性を感じた。
「ポーツマス! ポーツマス!」とかやってほしい。

★喜楽・喜乃
「五階茶碗」→「卵落とし」→「輪の投げ合い」。
もちろん「卵落とし」は大成功だったが、
相当の集中力が必要な芸なのだと改めて感じる。

★楽輔 『天狗裁き』
「エボラ出血熱」「熱中症」ネタなどで場を暖め、
「小便の夢」ネタから『天狗裁き』へ。
このハイテンポでスピーディな喋りと
密度の高いクスグリが、「楽輔落語」の持ち味だよなあ。
耳で聴いて楽しく、目で見て楽しい高座だった。

★山上兄弟
約1年ぶりのイケメン兄弟にドキドキ。
やや上滑り気味のトークを挿みつつ、
「棒一本・空中浮遊」「剣刺し」「兄弟交換BOX」など
国立演芸場ならではの大がかりなマジック。

★柳橋 『禁酒番屋』
柳好師匠の代演。
恒例の「近頃の大学生」マクラの後、
聴き取りやすい口跡で『禁酒番屋』に入る。
柳橋師匠は“小市民”たちを活躍させるのが上手い。

★うめ吉
喉を少しやられているといううめ吉さん。
「梅が咲いたか」「腹の立つときゃ〜」
「新土佐節」を歌い上げ、踊り『夜桜』で〆る。
踊りの際には、高座の襖が4色の照明で彩られた。

★小柳枝 『抜け雀』
「お日様・お月様・雷様の旅」の小噺や
今と昔では旅行の方法もだいぶ変わったというお話、
かつて「駕籠かき」は蔑称だったというお話を経て、
ファンタジックで、滑稽で、人情的な『抜け雀』へ。
名台詞「うちは働けば働くほど貧乏になる」に感激する。
小柳枝師匠のさらりとした話芸によって、
登場人物や宿場町・小田原の“空気”、部屋の畳の匂い、
朝の陽射しまでもが客席に伝わってくるようだった。



――『抜け雀』という噺は、実はとっても不思議な噺です。
設定が『左甚五郎』シリーズと似ているようで異なるし、
噺の主人公を誰と捉えればよいのかもいまいちハッキリとしない。
そもそも、「超能力者」とでも呼ぶべきあの親子は何者なのか。
「画の中の雀が飛ぶ」というファンタジックな要素も相まって、
古典落語でありながらも、この噺には多くの“謎”が詰まっています。

しかし、そこは江戸落語の名手:小柳枝師匠。
ファンタジックな噺が含有する不安定さを活かしつつ
「名人上手」論、「人生の回り道」論までをも噺の中に盛り込んで、
『抜け雀』という噺を“説得力”ある一席に仕上げていました。
私なんぞは、緞帳が下がってしばらく余韻に浸ってしまいましたよ。

小柳枝版『抜け雀』は人間関係がギスギスしていないのも特徴的で、
経済的に貧乏であっても、客が無一文だと判明しても、
いちいち腹を立てたり、喧嘩をしたり、声を荒げたりなどしません。
――この噺がどこか穏やかなのは、噺の舞台が
江戸ではなく小田原であることとも関係があるのかもしれませんが、
やっぱり、師匠ご自身の穏やかさに拠るところが大きいのでしょうね。


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2015年03月09日

「同性婚で少子化に拍車」 柴山議員の全方位的“差別ポエム”




 自民党ヘイトスピーチ対策プロジェクトチームの座長代理である柴山昌彦衆院議員の発言が波紋を広げています。
自民党・柴山昌彦氏の同性婚をめぐる発言に激しい批判(DailyNK Japan)
【追記あり】自民党ヘイトスピーチ対策PT座長代理の柴山昌彦議員「同性婚を認めると少子化に拍車がかかる」とテレビ番組でヘイトデマ発言を行い炎上(BUZZAP!)

 3月9日、柴山氏は自身のブログでも同性婚に関する見解を発表しましたが、やはりここでも「恥の上塗り」としか言いようがない差別的主張を展開しています。
 本人が差別主義者なのか、本人としては無自覚なのか、自民党本部の基本方針をなぞっているだけなのか、後援者の操り人形としての役割を果たしているだけなのかは不明ですが、いずれにせよ、柴山氏のコラムが差別的主張であることに変わりはありません。
 以下、どうしても気になった箇所のみをピックアップし(原文はこちら)、簡単な反論を付け加えました。ご意見・ご感想はコメント欄までどうぞ。



 私は弁護士ですし、自分が同性愛者だとカミングアウトした友人もいますので、極力そうした方々の不利益や差別をなくしていくことに賛成する立場です。
 周囲に当事者がいることは免罪符とはなりません。「俺には黒人の友達がいるんだぜ!」と言い訳する黒人差別主義者を風刺したスティーヴン・コルベアの写真コントは、あまりにも有名ですよね(詳しくはこちら)。
 同性愛者であっても同性愛を差別することは可能ですし、柴山氏のように「不利益や差別をなくしていくことに賛成する立場」だと自己紹介しつつ差別的主張(以下詳述)をすることも可能です。

 世界に目を転じると確かに同性婚まで認めている国が、特に先進国で増えています。しかし一方同性愛を刑罰をもって禁止している国もあります。婚姻制度がその国の伝統や文化に応じて多様であることの現れだと思います。
 そもそも、異性愛者でなければ異性同士の婚姻(異性婚)制度を利用できないわけではなく、同性愛者でなければ同性同士の婚姻(同性婚)制度を利用できないわけでもないので、性的指向(どの性別を好きになるか/ならないか)と婚姻制度を直結して理解することには注意が必要です。
 そのことを横に置いておくとしても、はたして日本の政治機構は、「同性愛を刑罰をもって禁止」する行為を「その国の伝統や文化に応じ」た「多様」性の一つとしてカウントできるのでしょうか。基本的人権と法の下の平等を原則とする国家であれば、特定の性的指向を「刑罰をもって禁止」するような「伝統や文化」は差別的な施策(多様性に反する施策)であるため、許容不可能なはずです。
 同性愛を処罰する「文化」(および、そのような「文化」に由来する婚姻制度)を「多様」性の一つと理解する柴山氏は、法の下の平等を原則とする政治的共同体の一員として、著しく人権感覚を欠いていると言わざるを得ません。

 少なくとも日本においては、婚姻制度は典型的には男女が子供をもうける共同体として理解されており、そしてそれに着目して法律上の相続や同居義務、各種の税制上の効果などが認められています。無論現在において子供のいない家庭や母子・父子家庭など、家族のあり方は多様化しており、それぞれに対して対応が求められていますが、やはり一般の経済ルールなどと違い、日本を支えてきたこうした伝統や家族のあり方は大切にしていくべきだと思うのです。
 いつから、婚姻制度が「男女が子供をもうける共同体」として理解されるようになったのでしょうか。少なくとも憲法や民法はそのような「理解」などしていません。生殖・出産の意思や可否に関わらず、利用条件さえ満たせば婚姻制度は利用可能です。「法律上の相続や同居義務、各種の税制上の効果」なども、その夫婦の生殖・出産の意思や可否とは関係ありません。婚姻制度は生殖・出産のためにあるという「理解」があるとすれば、それは単なる「誤解」です。
 ですから柴山氏は、「〜として理解されており」ではなく、「俺はそう信じているッ!」と主張するべきでしょう。個人の妄想や価値観を根拠に「俺は婚姻制度を生殖・出産のための制度だと信じているッ!」などと主張するのは個人の自由ですが(「こいつはなんて差別的なやつなんだ」とは思われるでしょうが)、迷信をさも事実であるかのように説明する行為は看過できません。
 単純な事実を申せば、「男女が子供をもうける」ことを前提とする婚姻制度なるものは、少なくとも戦後の日本国には存在していません。それでもなお柴山氏が「こうした伝統や家族のあり方は大切にしていくべき」だと主張するならば、柴山氏は「家制度」の復活を熱望する復古主義者だということになります。基本的人権と法の下の平等を否定することでしか、柴山氏の主張は成立しないのです。

 同性婚を制度化した国には、出生率がその後上昇した国も低下した国もあり、確かにデータ上同性婚が少子化をもたらしたと断言はできません。ただ、出生率の上昇は同性婚を導入したことによってではなく、他の少子化対策によってもたらされた可能性も高いわけですから、少なくとも自然な方法で夫婦間に子供ができる可能性のない同性婚を進めることで出生率が上がるという根拠はないと言わざるを得ないでしょう。
 同性婚を認めると「少子化に拍車がかかる」という柴山氏の発言は「少子化には結び付かない」「何を根拠にそんなことを言っているのか」と批判されたのであって、「同性婚を認めれば少子化は解消される」と反論されたのではありません。「同性婚を認めても少子化には結び付かない」を「同性婚を認めれば少子化は解消される」と読み換える論法は、詭弁以外の何物でもありません。
 柴山氏の持論の正当性が問われているだけなのに、架空の「敵」を持ち出してシャドーボクシングを始めるのであれば、柴山氏は壮大な「論点ずらし」をしたがっているだけということになります。

 「同性カップルは別に同性婚を認めるかどうかにかかわらず異性との間で子供をもうけることはない。少子化とは無関係だ。」というご指摘も数多くいただきました。これも番組出演前から想定していたことで、確かにそういう事例が多いと思いますが、バイセクシャルで現行制度の中において異性間の結婚により子供をもうけている方もいらっしゃるはずですから、「少子化とは無関係だ」と断言することができるかは疑問です。
 婚姻はあくまでも自由意志によって成立します。生殖・出産の意思や可否は関係ありません。バイセクシュアルの人は、同性の相手と結婚したいときには同性婚を、異性の相手と結婚したいときには異性婚をすればよいだけです。
 ところが、ブログの文章を素直に読む限り、柴山氏は「バイセクシュアルの連中は異性とも結婚できるでしょ。だったら、同性とは結婚せずに、異性と結婚した上で子作りに励んでくださいよ。それがお国の少子化対策のためになるんだから」と考えているようです。これはバイセクシュアルに対する典型的な差別発言でしかありません。「当事者の合意」はどこへ行ってしまったのでしょうか。これでは、国民を「子どもを作る機械」としか思っていないと批判されても致し方ないでしょう。

 現に、放送でも申し上げましたが、性同一性障害者の性別変更を認める法律も施行されており、こうした要件や手続を満たせば、同性カップルも結婚することができます。
 性同一性障害と同性愛の違いを理解できていない柴山氏は、「同性愛者だって性別を変えれば結婚できるぞッ!」などと主張していますが、そもそも同性愛者や両性愛者は性別を変更したい人たちではありません。性自認と性的指向、すなわち「自分の性別は何か」と「自分がどの性別を好きになるか」は別のお話です。
 性別を変更したくない人たちに向かって「結婚したいなら性別を変えればいいじゃない」などという言葉を吐くことがどれほど相手を傷付けることになるか、柴山氏にはしっかり反省してもらいたいと思います。

 ただ、不利益を極力解消することと、同性カップルに異性間と同じ結婚を正面から認めるということの間にはやはり差があると感じるのです。
 ここで私は断言しておきますが、異性婚が認められておきながら同性婚が認められていないという状況は、根本的な差別、原理的な「不利益」以外の何物でもありません。法の下の平等に反対しているならば話は別ですが(それならば同性婚の制度化にも反対するのは当然ですね)、法の下の平等という原則を受け入れるのならば、「同性愛を差別しない」と「同性婚を認めない」は両立しないのです。
 法の下の平等を否定しない限り、婚姻制度が現に存在する以上は「同性婚を認めるべき」とも言わなければなりません。これ以外の論理的帰結はあり得ません。

 ちなみに、私が党のヘイトスピーチ対策プロジェクトチームの座長代理であることから、「性的マイノリティー差別を行うヘイトスピーチを行う人物がこのような役職に就くのは不適切だ」という書き込みがツイッター上見られますが、このブログをお読みいただければ全くそのような批判が当たらないことはお分かりだと思います。(もちろん、今世界で議論している「ヘイトクライム」や「ヘイトスピーチ」が単なるヘイト(嫌悪)と違うことも承知していますし、これが現行法上の名誉毀損罪や侮辱罪でカバーされない部分があることが問題であることも承知しています。)
 柴山氏の発言や文章を一読すれば分かるように、柴山氏の主張は「妄想乙」と一刀両断されるようなポエムにすぎません。しかもそのポエムは、同性愛者にとっても、生殖・出産しない/できない夫婦にとっても、両性愛者にとっても、トランスジェンダーにとっても、すなわち全方位に対して差別的なポエムです。
 このような「差別ポエム」の作者が胸を張って座長代理を務める「ヘイトスピーチ対策PT」とは、一体どのような目的で何を議論している部署なのでしょうか。これでは、柴山氏自身が発言の差別性を自覚しているか否かにかかわらず、自民党ヘイトスピーチ対策PTの存在理由そのものが問われかねません。
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