2014年08月26日

エミー賞授賞式で追悼… '14年に旅立った“米テレビ界の偉人”8名


現地時間25日、アメリカの“テレビの祭典”である
第66回プライムタイム・エミー賞授賞式が開催されました。


アル・ヤンコビックアンディ・サムバーグによる歌唱パフォーマンス

受賞作品や受賞俳優などはガン無視することにして(!)、
このブログでは、式典中に披露された
「追悼企画(Memoriam Tribute)」を取り上げたいと思います。



2014年、アメリカのテレビ界は多くの人材を失いました。
すでに伝説的存在だった人、まさに活躍中だった人、
今後さらなる活躍が見込まれていた人――。
今月11日に亡くなったロビン・ウィリアムズもその一人です。

今年の「Memoriam Tribute」では、
人気シンガーソングライターのサラ・バレリスが歌う
『Smile』(作詞・作曲:チャールズ・チャップリン)に合わせながら、
43人のテレビ関係者の写真や映像が紹介されました。

(授賞式開催時期の都合により、2013年8月〜12月に逝去した人も
 2014年の「In Memoriam」として追悼されています。)



米テレビ史にとりわけ大きな足跡を残したとされる8名については、
動く映像に加えて肉声も放送されました。
このエントリでは、その偉大なる8名を振り返りたいと思います。



★ピーター・オトゥール (Peter O'Toole)
 <1932年8月2日 - 2013年12月14日>


『アラビアのロレンス』(1962年)で世界的に有名な俳優ですが、
いくつかのテレビ映画やトーク番組にも出演しています。
テレビ映画『ヒットラー』(2003年)ではヒンデンブルクを演じました。
『The Ruling Class』(1972年)というブラックコメディでは、
自分のことを“切り裂きジャック”だと思い込んで
本当に猟奇殺人を犯してしまう精神異常者を熱演していましたが、
これはイギリス制作のテレビ映画なのでご紹介できません(残念!)。
ここでは、『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』に
ゲスト出演した際の映像を貼り付けてお茶を濁すことにします。




★ドン・パルド (Don Pardo)
 <1918年2月22日 - 2014年8月18日>


第二次大戦前からラジオのアナウンサーとして活動を始め、
1944年にNBCの局アナウンサーとなりました。
サタデー・ナイト・ライブ』の冒頭ナレーションが超有名で、
番組開始時から39シーズンに渡ってアナウンスを務めています。
ドン・パルドに自分の名を読み上げられることは、
『SNL』出演を夢みる多くのコメディアンの憧れだったのです。
下の動画は、スティーヴ・マーティンやティナ・フェイらに囲まれ、
90歳の誕生日を祝福されているパルドの映像です。




★デイヴィッド・ブレナー (David Brenner)
 <1936年2月4日 - 2014年3月15日>


1970〜80年代にスタンダップコメディアンとして一世を風靡し、
テレビドラマの俳優としても活動した人物です。
ジョニー・カーソン司会時代の『ザ・トゥナイト・ショー』では、
ゲストとして番組最多出演記録を誇りました。
『ザ・トゥナイト・ショー』では代理司会を務めることもあったので、
もしかしたらそのまま後任司会者に選ばれていた可能性も……。
ブレナーは「ジェイ・レノになり損ねた男」と言えるかもしれません。
しかし、彼の温和で実直なキャラクターを考えれば、
「なり損ねた」のはむしろ望ましいことだったとも言えるでしょう。




★マーシャ・ウォレス (Marcia Wallace)
 <1942年11月1日 - 2013年10月25日>


1970年代に放送された人気シットコム
『ボブ・ニューハート・ショー』のレギュラーキャストとして、
その顔を全米のお茶の間に知られるようになりました。
その後、『ザ・シンプソンズ』のクラバーペル先生役で再ブレイク。
アニメ『ザ・シンプソンズ』のイントロは、毎回、
バート・シンプソンが黒板に反省文を書く場面から始まるのですが、
ウォレスの亡くなった直後に放送されたエピソードでは、
バートは「ホントさびしいよ、クラバーペル先生」と書いていました。
ウォレス逝去に伴い、クラバーペル先生も番組を“降板”しています。




★シド・シーザー (Sid Caesar)
 <1922年9月8日 - 2014年2月12日>


この人物を語らずして、米テレビ草創期は語れません!
何しろ、あのカール・ライナーも、あのメル・ブルックスも、
あのウディ・アレンも、あのニール・サイモンも、
全員、シーザーの番組から羽ばたいていったのですから――。
“巨匠の師匠”であるシーザーは、まさに“歴史上の偉人”。
カラー放送が始まる頃にはすでに大御所として君臨しており、
テレビ映画『不思議の国のアリス』(1985年)にも参加しています。
シド・シーザーについてはいずれまた取り上げたいなあ……。




★エレイン・ストリッチ (Elaine Stritch)
 <1925年2月2日 - 2014年7月17日>


シド・シーザーが米コメディ界の伝説的存在だとすれば、
エレイン・ストリッチは米ミュージカル界の伝説的存在。
スティーヴン・ソンドハイムも彼女には頭が上がりません。
ストリッチこそはブロードウェイミュージカルの象徴なのです。
エミー賞で追悼されていることも明らかなように
ストリッチはテレビドラマやバラエティ番組でも活躍しましたが、
やはりこのブログでは彼女の歌声を聴いてもらいたいと思います。
2010年に開かれたソンドハイム生誕80周年記念コンサートで、
『Follies』より「I'm Still Here」を歌っている動画です。
老齢の彼女ならではの迫力ある舞台。……鳥肌が立ちますね。




★ジェームズ・ガーナー (James Garner)
 <1928年4月7日 - 2014年7月19日>


映画『大脱走』(1963年)などで知られる名優中の名優ですが、
テレビドラマにもレギュラー出演し続けていました。
中でも、コメディ要素のあるサスペンスドラマ
『ロックフォードの事件メモ』では主人公の私立探偵を演じ、
国内外の視聴者(日本人も!)を虜にしています。
ジョン・リッター主演のシットコム『パパにはヒ・ミ・ツ』では、
主演のリッター急逝後、途中参加ながら番組を引っ張りました。
ハンサムな青年からシブい探偵、そして愉快なおじいちゃんと、
年齢に合わせて役柄を演じ切った国民的俳優の一人です。




★マヤ・アンジェロウ (Maya Angelou)
 <1928年4月4日 - 2014年5月28日>


キング牧師らとともに1950〜60年代の公民権運動をリードした、
現代アメリカを代表する黒人の女性作家・活動家です。
1993年のクリントン大統領就任式では自作詩を朗読し、
2011年にはオバマ大統領から自由勲章を授与されています。
アンジェロウはテレビのトーク番組にも積極的に出演し、
マスメディアを通して人権の重要性を訴え続けました。
オプラ・ウィンフリーもアンジェロウの影響を受けた一人です。
動画は、『セサミストリート』にゲスト出演した際のもの。
「♪私の名前もあなたの名前も素敵な名前」というシンプルな歌ですが、
「♪誰も私の名前を奪えない」という歌詞にハッとさせられます。




――というわけで、本日のこのブログでは、
2014年に亡くなった“米テレビ界の偉人”8名をご紹介しました。
それぞれの立ち位置は少しずつ異なりますが、
いずれも、「テレビ」というメディアを通して
その時々の米国民に夢や希望を与えた人物には違いありません。

映画と異なり、テレビではリアルタイム性が尊重されます。
今まさにお茶の間にいる視聴者に向けて番組は放送されるのです。
ですから、過去のある時期を代表したテレビシーンが、
2014年の現在でも普遍性を発揮しているとは限りません。
そこがテレビの面白いところでもあり、残酷なところでもあります。

しかし、良くも悪くも、時代というものは変遷するものです。
1970年の新製品を2014年の新製品としてリリースしたならば
それは「時代遅れ」ということになりますが、
その製品が1970年製であることを踏まえているならば
それは立派な「アンティーク」や「クラシック」製品となるでしょう。

「古いから」などという理由でクラシカルなものを軽視せず、
真正面から理解し、評価する姿勢を、私は今後も基本に据えたい。
そして、「古いとか新しいとかではない」という境地、
「笑いに古いも新しいもない」という見地を確立できれば――、と
ナウでヤングな(自称)若者としては目論んでいるところです。
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2014年08月24日

偏見を正当化するために「どぶろっく」を利用するな


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 田房永子さんという方が書いた『どぶろっくと痴漢の関係』というコラムを読みました。「どぶろっく」というのは、“勘違い男”の妄想を歌った「♪もしかしてだけど〜じゃないの?」というネタが人気のお笑いコンビです。

 そのコラムでは、あまりにも酷いこじつけで「どぶろっく」と「痴漢」が結び付けられていました。正直、批判や反論をするほどのものではないかもしれませんが(何しろそれは一読してこじつけだと理解できるものですから)、私の中で放置しておけない案件のように感じたので、簡単に反論しておきます。



 『どぶろっくと痴漢の関係』(8月19日付)というコラムでは、要約して以下の2点が主張されていました。
 痴漢加害者は、被害者を傷付ける意図で痴漢を働いているのではない。自らの「膜」の中(パーソナルスペース)に被害者が入り込んできたと考えている。そして、自らの「膜」の中にあるものに対しては何をしてもよいという心理で、痴漢を働いている。
 どぶろっくの「電車で前に座ってる女が白目をむいて寝ているが、もしかして、俺の股間を見て失神したのではないか」「夜道で前を歩いてた女が、こちらを振り返って急に歩くペースを速めた。もしかして、俺を招くために部屋を片付けたいんじゃないのか?」というネタは、自らの「膜」の中に相手が入り込んできた状況を歌っている。

 そして、田房さんは、どぶろっくの当該のネタは、痴漢加害者の心理を歌っているものだと結論付けるのです。



 まず、そもそもの議論として、この「膜」理論はあくまでも仮説にすぎません。たしかに、コラム内では「膜」理論のようなものを犯行動機として供述した痴漢加害者が1人紹介されていますが、そのことを踏まえても、この仮説は、田房さんの情緒的な感想の域に留まるものです。あまりにも少ない材料で大胆な結論を導いていると言わねばなりません。

 「膜」理論における痴漢加害者の心理と、どぶろっくの当該のネタにおける“勘違い男”の心理が異なるものであることを証明する前に(仮に共通しているとしても、それは田房さんにとって「共通している」ということにすぎませんが)、この「膜」理論自体に潜む問題点を指摘しておきたいと思います。

 私がこの「膜」理論を懸念するのは、これが男性特有の心理として説明されているためです。あのコラムでは、「男性」を主語にして「膜」理論が語られていました。田房さんは、自身のブログ記事(8月24日付)でも次のように記しています。
 もう痴漢加害者は圧倒的に男性が多く、被害者は女性が多いというのは、歴史的に見てもずっとそうなのだし、今までほったらかしにされてきたことのほうがおかしいと、私は思います。(←「どぶろっくと痴漢の関係」での主題もコレ)

 言うまでもないことですが、その犯罪者が男性だったからといって、あるいは、その犯罪者に男性が多かったからといって、「男性であれば」その犯罪をするというわけではありません。これは、「男性」の部分を「女性」や「その他の性」に置き換えても、または「外国人」や「同性愛者」などに置き換えても同様です。

 統計上、HIV陽性者の割合は同性愛者が多数を占めますが、「同性愛者であれば」感染のリスクが高くなるわけではありません。HIV感染に性的指向は無関係だからです。異性愛者であれ同性愛者であれ、感染のリスクは変わりません。もしも「同性愛者はHIVに感染しやすい」などと主張する人がいるならば、その人は正確な知識を得ないまま、自らの偏見をまき散らしているだけです。

 個人の犯した罪の責任は個人が負うべきものであり(さらに申せば、裁かれるのは「罪」に対してであって「人」に対してではありません)、「男性」や「女性」、「同性愛」や「異性愛」といった属性が負うべきものではないのです。企業・団体の「連帯責任」と「属性の責任」(そんなものはない)とを混同してはなりません。



 次に、どぶろっくの当該のネタは、「実際には女性は俺を誘惑していない」ことを前提に「もしかしたら女性は俺を誘惑しているのではないか(誘惑してくれているのならよいのだが)」と歌ったものです。これ自体は、「私が好きなあの人も私のことを好きでいてくれるといいな」という心理と変わりありません。違いがあるとすれば、性的欲求の存在が強調されているか否かだけです。

 そして、自由恋愛/性愛の保障された社会において、相手との両想いを期待することは咎められるべき性質のものではありません。その両想いが「一晩限りの両想い」にすぎないとしても、です。「相手側からのアプローチによって自己の欲望実現を期待するネタ」が痴漢加害者の心理を歌っているものだとするならば、この自由恋愛/性愛すら問題視されるべきものだとなってしまいます。

 当該のネタでは、現実(「あの女性は自分のことを気にも留めていない」)を前提しているからこそ、“勘違い男”の妄想(「あの女性は自分のことを誘惑しているのではないか」)が笑いに結び付いています。そして、この場合、“勘違い男”は「相手を誘惑しよう」などと行動を企図せず、あくまでも自分の脳内で「妄想」するに留めていることが肝要です。

 どぶろっくのネタでの“勘違い男”は、自らの妄想が妄想にすぎないことを百も承知で、実際にアプローチをかける「度胸」を持っていないがゆえに、あのように「♪もしかしてだけど〜」と歌っているのです。“勘違い男”が取り得る選択肢は、相手の女性が現実に自らを誘惑してきた際、それに応じることだけです。彼はことごとく受動的なのです。

 “勘違い男”は、現実と妄想の間に一線を画し、それが突拍子もない妄想にすぎないことを把握しているからこそ、反語的に「♪もしかしてだけど〜」と妄想性を強調しています。これは、能動的に妄想を現実化する「膜」理論とは、むしろ正反対の発想です。“勘違い男”が「膜」理論を採用していないからこそ、当該のネタは論理的に成立しているのです。



 「膜」理論における痴漢加害者は、自らの判断によってのみ「妄想=確信」を現実化していく能動的な態度です。自らの恣意的な決定によって、いつでも「妄想=確信」を現実化できる心理状況にあります。「膜」の中にあるものであれば自由に操作できるのですから、「(相手は)もしかして〜なのでは」などと相手の意思を推測する発想は持ち合わせていません。

 これに対し、当該のネタにおける“勘違い男”は、相手の判断によってのみ「妄想=希望」は現実化され得ると考える受動的な態度です。自らの「妄想=希望」が非現実的であることを理解するからこそ、「(相手は)もしかして〜なのでは」などと千に一つの希望を強調しています。“勘違い男”にとって、妄想は、自らの決定で現実化できないからこそ価値があるのです。

 現実と妄想の関係をめぐる認識という根幹的な部分で、両者は共通していません。さらには妄想の内容も違うというのに、両者を同一視することは論理として不可能です。おそらく、田房さんは、男性が女性に対して何らかの「妄想」をしているという一点で、両者を同一視したのでしょう。これは、「急いでいる者は信号無視をする」レベルの短絡的なこじつけだと言わざるを得ません。

 あのコラムが一部の読者から支持を得たのは、「男性の妄想は不快」という感覚と「男性の妄想が犯罪を引き起こした」という観測が「妄想」という概念一つで結び付けられているためです。あのコラムは、「性的妄想をする者は→性犯罪者の心理を備えている」という、原因と結果を反転させた単純な偏見を読者に提示しているがゆえに、一部の読者から情緒的な共感を招いたのです。

 どぶろっくの当該のネタは、女性に対する男性の性的な妄想を歌ったものなので、これに不快感を抱く人がいることは当然に推測されます。しかし、自らがそのネタを不快に思ったからといって、そのネタに社会的・政治的問題性を見出すことが正当化されるわけではありません。その2つは異なる検討課題です。その上、特定の属性を非難するのであれば、なおのことお門違いとなります。



 あらゆる表現活動は、絶対に、受け手の誰かを不快にする側面を持っています。表現が表現である限り、それは絶対です。あえて申せば、アンディ・カウフマンが身をもって示したように、「受け手の誰かを不快にすることを目的とした表現」も許容されなければならないと確信しています(名誉棄損など個別案件への対応はまた別の話題です)。

 例えば、古典落語には、不倫や詐欺、窃盗などを描いた噺がいくつも存在します。人権擁護活動を続けているある落語家さんは、以前、自身のブログで「まれに、口演中に席を立つお客さんがいる。後でお話を伺ってみると、不倫が描かれている噺は自身の過去のトラウマを呼び起こすので席を立った、とのことだった」とのエピソードを紹介していました。

 私にも、「あのような描写のある作品には触れたくない」という映画や演劇、小説が存在します。それどころか、ニュース番組が私のトラウマ(のようなもの)を呼び起こすこともあります。だからこそ、私は「あらゆる表現は、絶対に、受け手の誰かを不快にする側面を持っている」という大原則を度々思い出し、「不快」という動機付けの危険性に思いを巡らすのです。

 「あの作品が気に食わない」というのは、個人が抱くことを許されたごく自然な感想です。「気に食わない」ことに理由は要りません(「嫌いだから嫌い」でよいのです)。しかし、属性を根拠として「気に食わない」理由を説明するのは明らかに間違っています。例えば、ある「オネェタレント」を不快に思うからといって、「同性愛」という性的指向を攻撃するのは、差別的言動以外の何物でもないのです。



 『どぶろっくと痴漢の関係』というコラムは、自ら編み出した「膜」理論を我田引水し、自らがどぶろっくのネタを不快に感じたことを語っているだけです。それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。そして、上述したように、「膜」理論とどぶろっくのネタは根本的な部分でつながっていません。しかも、あのコラムでは、犯罪の責任を「男性」という属性に見出す差別的な主張がなされています。

 フェミニズムとは、男女同権の理念に基づき、女性差別を撤廃するための思想・運動です。フェミニズムの下では、差別撤廃のために新たな差別を生み出すことは許されません。ですから、本来はフェミニストこそ『どぶろっくと痴漢の関係』というコラムを糾弾する必要があります。あのコラムはフェミニズムの香りを漂わせながら、実際には反フェミニズムの理念を振りかざしているからです。

 男性だからといってその犯罪をしない者もいるし、女性だからといってその犯罪をする者もいる。罪を犯すのは「個人」であって「属性」ではない。――読者のみなさんには、このシンプルな事実を忘れないでほしいと願っています。許されざる行為の責任を属性に押し付ける論調(しかも、いたずらに芸人を巻き込む手法で!)には、もう本っっ当にコリゴリなのです。


< Points >
 ● 「膜」理論それ自体は、性犯罪をめぐる情緒的な仮説にすぎない。しかし、「男性」を主語にして「膜」理論を説明したり、個別の犯罪の責任を「男性」という属性に押し付けたりするのは差別的である。
 ● 「膜」理論における痴漢加害者と、どぶろっくの当該ネタにおける“勘違い男”とでは、現実と妄想の関係性という根本的な部分で認識が異なる。両者を同一視することは論理的に不可能である。
 ● すべての表現には、受け手の誰かを不快にする面がある。自分が不快に感じた表現だからといって、その表現に社会的・政治的問題性をこじつけたり、作品中に登場した属性を攻撃したりすべきではない。
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2014年08月16日

“人間の心情”描きだす熱演… 幻想的な歌丸『牡丹燈籠 -栗橋宿-』


今日は、国立演芸場 8月中席 へ行ってきました。
主任は、桂歌丸師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 桂竹のこ 『平林』
落語:(交互) 柳亭小痴楽 『ん廻し』
コント:コントD51
落語:(代演) 桂枝太郎 『茶の湯』
歌謡漫談:東京ボーイズ
落語:雷門助六 『長短』〜踊り『姐さん』『奴さん』

 〜お仲入り〜

落語:桂小南治 『源平盛衰記』
俗曲:桧山うめ吉
落語:(主任) 桂歌丸 『怪談 牡丹燈籠 ―栗橋宿―』



★竹のこ 『平林』
私はなぜか竹のこさんの高座によく遭遇する。
『平林』のような単純な噺でも、
独自の視点を投射して客席を沸かせていた。
“おばあさん”の件では志村けんトリビュート。
いま最も注目すべき前座さんの一人と言えよう。

★小痴楽 『ん廻し』
自動開閉トイレのマクラで客の心を掴み、
味噌田楽を食べたくなる古典落語『ん廻し』へ。
本来は「ん付き言葉」で笑いを獲る噺だが、
小痴楽さんの場合は、噺の“空気感”で愉しませる。
江戸っ子のパーパー騒ぐ様子が実に心地よい。

★コントD51
「ことぶき荘」のコント(老婆VS.警官)。
杖捌きのプロフェッショナルすぎて怖いよ……。
「すまんの、すまんの、まんのう町〜」
という謎のギャグを言うよう、最前列の客に強要。
だいぶムリヤリ言わせていたのが印象的である。

★枝太郎 『茶の湯』
冒頭、休演の文治師匠を「ゲイの道」ネタでイジる。
枝太郎版『茶の湯』は独自のクスグリが満載で、
独特の語り口の効果もあり、終始狂気を帯びている。
「倅はお茶を知っ……流派が違うからな」など、
細部までこだわり抜かれた完成度の高い高座。
客のウケも大変よく、記憶に残るような好演だった。

★東京ボーイズ
まずはローラやAKB48、W杯などで謎かけ問答。
さらに、今年で結成50年ということで(!)、
モノマネ、当てぶり歌唱などの珍しいネタを展開する。
「さよなら」という歌詞を利用してハケていった。

★助六 『長短』〜踊り『姐さん』『奴さん』
「雷が苦手」という自虐風マクラを経て、
関西出身の“甚兵衛”が登場する『長短』に入る。
助六版『長短』は独特の仕草も多いので見応えあり。
噺の後は、コント風解説付きの『姐さん』を踊ってから、
毎度惚れ惚れするあやつり踊りで『奴さん』を披露。

★小南治 『源平盛衰記』
まずは毎年恒例、8月中席“大入り袋”チェック!
もちろん今年も小南治師匠のコレクションは更新中だ。
芸協ウラ話とともに展開する『源平盛衰記』は、
「噺の進行に影響はございません」などのクスグリもあって
快笑の一大巨編(?)に仕立て上がっている。

★うめ吉
華やかな着物姿でうめ吉師匠が登場。
外ではポツポツと雨が降り始めてきたと告げ、
“晴れの国”岡山観光大使ならではの哀しいエピソード。
少しビターな『しげく逢ふのは』などを唄った後、
『なすとかぼちゃ』を踊って本日の主任につなぐ。

★歌丸 『怪談 牡丹燈籠 ―栗橋宿―』
板付きで登場した理由を説明するところが歌丸師匠らしい。
マクラで今年の圓朝祭や墓参りの様子を報告してから、
三遊亭圓朝作『怪談 牡丹灯籠』より第3話『栗橋宿』へ。
まずは“新三郎”がお札を貼るようになった経緯が語られ、
その後、夫婦の鬼気迫る感情のぶつけ合いが語られていく。
“お峰”はしっかり者であると同時に根の可愛い女性で、
客席の私たちも、一瞬は“伴蔵”の言葉に安心してしまう
(だからこそ、私たちは最後に裏切られることになるのだが)。
終盤は高座が暗い紫色に染まり、ホタルの光が舞う演出。
その美しいこと、怖ろしいこと――。貫録の熱演であった。



――『恩返し 不死鳥ひとり語り』(中央公論新社)によれば、
歌丸師匠が『栗橋宿』を初演したのは1994年とのこと。
ちょうど口演20周年を迎えた歌丸版『栗橋宿』は、
笑いどころも多いがゆえにかえって人間の心情を浮き出しており、
本当に怖ろしいのは幽霊ではなく人間だと訴えているかのようです。

事前に歌丸版『牡丹燈籠』第1・2話をCDで聴いてから
私は本日の公演に臨んだのですが(といってもCD2枚を聴いただけ)、
歌丸版『牡丹燈籠』は、精鋭な歌丸版『真景累ヶ淵』とは趣が異なり、
全体的にメルヘンティックで夢見心地な世界観に覆われています。
しかし、いざ人が死ぬ場面では過酷なリアリズムが突き付けられる。
悪夢にうなされ目を覚ますと、もっと悪い現実に直面するかのような、
そんな逃げようのない恐怖が歌丸版『牡丹燈籠』では語られています。

本日の公演では、主任のために共演者も活躍していました。
開口一番の竹のこさんから良い流れが続いたのですが、中でも、
枝太郎師匠の『茶の湯』と小南治師匠の『源平盛衰記』は印象的。
どちらも演者の個性を強く感じさせるように噺を改変していて、
しかも、「この人ならでは」の高座が本日の客にハマっていました。
つくづく、落語というのは双方向のメディアだと痛感させられますね。

――お盆の風物詩、歌丸主任の国立8月中席興行。
出しゃばりすぎはしないが充実している助演とともに、今年は、
口演20周年を迎える歌丸版『栗橋宿』を堪能させていただきました。
そこで展開されていたのは、年齢も病気も感じさせない白熱の高座。
人間の心情を巧みに描く歌丸師匠の熱演に、驚嘆を抱いた午後です。


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