2014年06月18日

伝説の「ハーフタイムショー」再び!? 44年越しのキャロル・チャニング


ワールドカップ開催期間中にふさわしくない話題なのは承知の上で、
今夜は、スーパーボウルの「ハーフタイムショー」にまつわるお話です。
(決してサッカーファンに喧嘩を売りたいわけではありません。)

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スーパーボウルのハーフタイムショー(2014年)

スーパーボウルとは、毎年2月に実施されるNFL優勝決定戦のこと。
米国では、試合中継がそれはもう物凄い視聴率を叩きだす……らしい。
その休憩時間中に行なわれるエンターテインメントショーこそ、
「ハーフタイムショー」と呼ばれるもう一つのビッグイベントです。

ハーフタイムショーで歌うことができるのは超一流歌手のみ。
過去にはスティーヴィー・ワンダー、ポール・マッカートニー、
ザ・ローリング・ストーンズ、マドンナなどの大物が登場してきました。
(もちろん、ジャネット・ジャクソンの乳首ポロリ事件もお忘れなく。)



第1回(1967年)から第3回(1969年)までのハーフタイムショーでは
大学のマーチングバンドが楽曲を“演奏”するのみでしたが、
第4回(1970年)スーパーボウルのハーフタイムショーにて
ハーフタイムショー史上初めて、ある女性パフォーマーが“歌唱”します。

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ハーフタイムショーで『聖者の行進』を歌うキャロル・チャニング(1970年

その女性こそ、『ハロー・ドーリー!』の初代ドーリー役として有名な
歴史的ミュージカル女優:キャロル・チャニング(Carol Channing)。
「アメリカの森光子」的存在、とでも申し上げればよいでしょうか。
93歳になった現在もご健在です(2014年6月18日現在)。
ちなみに、彼女については過去にもこのブログで言及しています。



そんなブロードウェイの名女優キャロル・チャニングが
44年の歳月を超えて、なんとハーフタイムショーに戻ってくる!
(※ただし、敬老ビンゴ大会の「ハーフタイムショー」に、だが。)
――というのが、今年(2014年)1月に制作されたペプシコーラのCM。
翌2月の本家ハーフタイムショーを盛り上げるための企画でした。


「44年前のハーフタイムショーの思い出を語ってください」という
ニセ企画(あながちニセ企画でもないのだが)に騙されたオコナーさん。
「あの年のハーフタイムにはキャロル・チャニングが出ていたよ」と、
記録映像の残っていない(と推測される)「あの時」を語りだします。
そしてビンゴ大会の「ハーフタイム(休憩)」が訪れると、
会場奥の舞台からチャニングが登場し、オコナーさんたちは驚きの表情。
かくしてドッキリは成功し、三波伸介は小野ヤスシの労をねぎらった(完)。



私はこのCMを視聴して鳥肌が立ちました。涙さえ出そうになりました。
このドッキリ企画が感動的だったからではありません。
期待に反してオコナーさんがそこまで驚いていないからでもありません。
キャロル・チャニング(御年93歳)の歌声が――
 『聖者の行進』を歌う声が――私の心を理由もなく揺さぶったからです。

あの美しきしわがれ声! ブロードウェイの象徴とも言うべき歌声!
キャロル・チャニングの歌う『聖者の行進』を聴いて、
私は何の他意もなく、何の皮肉でもなく、ただただ感動しました。
もはや歌唱力だとか技術だとかの問題ではない。
「ブロードウェイの生きる伝説」の歌声に私は感動させられたのです。

――このようなことは落語や音楽を聴いていてもごく稀に体験します。
「魂を吸い寄せられる」、あるいは「虜になる」という体験です。
「聴いている自分」「客体である自分」の存在を忘れ、
目の前の演者の創りだす世界にすっかり嵌まり込んでしまう――。
客にそんな体験を与えることのできる者を「スター」と呼ぶのでしょう。
『聖者の行進』によってもたらされたひとしきりの感動の後、
私はキャロル・チャニングが真のスターであることを再認識しました。


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ペプシのCMで『聖者の行進』を歌うキャロル・チャニング(2014年)
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2014年06月17日

ざこビッチだからこその名演! 『肝つぶし』の“本気者”たち


今日は、文京シビックホール 小ホールで開かれた
『六代目三遊亭円楽 独演会』へ行ってきました。
ゲストは、桂ざこば師匠。

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 <本日の番組>

オープニングトーク:三遊亭円楽 桂ざこば
落語:桂そうば 『動物園』
落語:三遊亭円楽 『行ったり来たり』
落語:桂ざこば 『肝つぶし』

 〜お仲入り〜

落語:三遊亭円楽 『一文笛』



★オープニングトーク
この落語会のためだけに上京したざこば師匠。
酒と弁当をもらったら、最終で大阪へ帰るという。
ざこば師匠のカジノ話に始まり、「チョウマル(馬)」
「木久“象”」などの爆笑エピソードを展開。
本日は上方落語特集と宣言して今夜の会はスタート。

★そうば 『動物園』
開口一番代りは、ざこば師匠の7番弟子:そうばさん。
ネタは、冒頭部を簡略化しての『動物園』。
着ぐるみ着用の場面では大胆なアクションを披露し、
「東京ドームの近くやけど……」というクスグリや
定番の“子ども”と“トラ”のやり取りなどで笑わせる。

★円楽 『行ったり来たり』
「車を運転していると自転車が邪魔、
 しかし自転車に乗っていると車が邪魔」。
立場によって物の見方も異なるというマクラから、
故・桂枝雀師匠の新作『行ったり来たり』に入る。
使われている単語が違うだけ(かもしれない)なのに、
まるで異星を舞台にしたSF落語を聴いているかのよう。
言葉で遊ぶこと=世界を愉しむことなんだなあ……。
ウキウキするようなシュールな世界にニヤリ。

★ざこば 『肝つぶし』
「あんな落語を創るから枝雀兄ちゃんは……」。
「志ん朝・ざこば二人会」の思い出話にも、
ご自宅での奥さまと愛犬をめぐる愚痴(?)にも、
2個の100円ライターをきっかけに始まった
ANAとの「悩ましき文通」ネタにも爆笑させられた
(この半年でいちばん笑ったのではないかと思う)。
「腕を骨折している者には励ましの言葉が効くが、
 悩みを抱えている者にはそうとは限らない」。
そう振って、苦悩する男を描いた『肝つぶし』に入る。
“吉松”も“友人”も、他人というより自分に嘘をつけない。
だからこそ現実をうやむやにできず、苦悩してしまう。
犯人が真面目であるがゆえに起きる犯罪もあるのだ。
常に「本気(マジ)」なざこば師匠だからこその名演だった。

★円楽 『一文笛』
「先程、ざこば兄ちゃんは東京駅へ走って行きました」
「ざこば、文枝、文珍の3名と関係良好なのは私だけ」。
ざこば師匠に『一文笛』の稽古をつけてもらった後、
『一文笛』の作者である米朝師匠に挨拶しに行ったら、
米朝師匠「あれはいい噺。自分も一度やってみたい」。
「昔は動機のある犯罪が多かったが、最近は……」と、
古典落語『出来心』のお宅訪問パートを軽く演じる
(“泥棒”は「椎名巌」宅、「天野幸夫」宅を訪れた)。
『一文笛』の主人公:スリの“ヒデ”は口達者で
盗人精神の持ち主だが、ヒューマニズムを抱えてもいる。
しかし、正しいことは正しい手段で行わなければならない。
さもなくば、どこかで誰かが泣かされる羽目になる。
東京を舞台にしての『一文笛』、サゲは「左利きなんだよ」。



――というわけで本日は、ついに念願かなって
上方の重鎮:ざこば師匠の生高座を拝見することができました。
昨年、『ざこBar』(朝日新聞出版)が出版された際は
発売日に書店へ駆け込んで『ざこBar』を購入した私――。
『たかじん胸いっぱい』時代(?)からの“隠れザコビアン”です。
今夜、かなり期待して会場を訪れてしまいましたが、
憧れのざこば師匠の高座は、私の期待を遥かに超えるものでした。

奇妙な「文通」のマクラでは心の底から笑わされ、
『肝つぶし』では、一つの視界に入り込んでしまう男たちに
笑わされ、共感させられ、少し泣かされそうにもなりました。
“本気者”ざこば師匠だからこそ具現化できる「本気(マジ)」の世界――。
やはり落語とは、人間を通して人間を愉しむ芸能なのですね。

「本気」で生きることはとても危険なことなのでしょう。
「本気」が過ぎると人間は客観的な視点を保てなくなり、
それこそ『肝つぶし』の“友人”のように人を殺めかねません。
一般的に、「本気」な行動は「愚行」として片付けられがちですが、
あえて私は「本気である者」「真剣である者」の味方でありたい。

なぜなら彼らは、狡猾でなく不器用で、打算的でなく無鉄砲で、
不都合な真実に気付いたときに隠蔽できるほど心臓が強くなく、
法律よりも人情を優先しがちで、何を隠そうこの私自身だからです。
妹を殺めるほどでないにせよ「そっち側」にいる人間にとって、
ざこば師匠の『肝つぶし』は、優しくも身につまされる名演でした。
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2014年06月15日

冷静でなければ「現実」とは闘えない 『ワレサ 連帯の男』


先日、岩波ホールで
映画『ワレサ 連帯の男』を観てきました。

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ポーランドの独立自主管理労組「連帯」初代委員長であり、
1990年から1995年までポーランド大統領を務めたレフ・ワレサ。
労働運動家時代の彼を決して美化することなく描いた作品こそ、
巨匠アンジェイ・ワイダ監督の新作『ワレサ 連帯の男』です
(ワレサとワイダはかつて政治的に親密な関係でもありました)。
キャストの演技と併せ、「自由」の精神を伝える挿入歌も印象的です。

この映画において、レフ・ワレサは現代の救世主としてではなく、
かといって自らの名誉のために民衆を利用した人物としてでもなく、
「あの時期、闘わざるを得なかった男」として等身大に描かれています。
彼にはもちろん覚悟があり、信念があり、カリスマ性がありました。
しかし、彼は決して「闘うために闘う」人間だったのではありません。
少しでも自由で民主的なポーランド社会を具現化するため、
理想と現実の間で闘い続けたプラグマティックな人物だったのです。



そのことを示す象徴的なエピソードが「造船所スト」の場面です。
ワレサら労働者擁護委員会(KOR)は、経営陣と一度は妥結しますが、
全国的な広がりを見せていたストライキの波に押し寄せられる形で、
目標や大義名分が曖昧なままストライキの継続を宣言します。
この時、すでに造船所での賃金交渉は妥結していたため、
造船所労働者たちの多くはストライキへの参加継続を取り止めました。
もっとも、彼らには生活があるのだから彼らを責めることはできません。

運動家・ワレサの卓越した点は、これ以上はストに参加できない者、
むしろこれからストに参加しなければならない者、
双方の都合や事情を実感として理解し、抑圧しなかった点にあります。
運動は理屈の上にあるものではなく多分に感情的なものであることを、
現実に苦しむ一人の労働者として、ワレサは正確に把握していたのです。
ワレサは、民衆の“気まま”とも言える感情的な要因によって
民主的な社会が実現したり、逆に崩壊したりすることを知っていました。
それ故、彼の情熱には常に冷静さが伴われていたのだろうと思います。



現状に不満があるとき、「闘うために闘う」人々が生じるのは事実です。
具体的な目標を忘れた人々は、熱狂の中で熱狂に酔いしれます。
勝つか負けるか、対立するチームが敗北宣言をしたか――
彼らにとって「運動」とは、サッカーの試合観戦と大差ないものでしょう。
対して、現実の課題に向き合う人々は常に冷静でなければなりません。
目の前の動きに一喜一憂していては基本精神を保っていられないので、
「なぜ闘うか」を意識しつつ「どう結ぶか」を判断する必要があります。

この判断を適切に行うことができた者は「優秀な活動家」と評価され、
不適切な処置をした者には「日和見主義者」の烙印が押されるでしょう。
これは何も「運動」の中枢にいる者たちに限定する話ではありません。
その「運動」を形作るのが一人ひとりの市民である以上、
「運動」に参加する一人ひとりの市民にも適切な判断が要求されます。
サッカーの試合ならばお祭り気分で観戦すべきですが、
現実の課題に取り組む「運動」では冷静な判断が欠かせないのです。

重要なことは、目的が何であるかを忘れず、決着を付けることです。
目的と手段を取り違えたとき、人々は理性を失い野蛮になります。
負けたくないからといって完全勝利にこだわり続けるのは未熟ですし、
勝てないからといって安易に妥協して敗北を認めるのは卑劣です。
常に正しい判断ができるとは限らないからこそ、悔いのない判断を――。
ワレサの人生は、私たちに「現実」との闘い方を再考させるものでした。


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宇波彰先生のコラムなどが掲載されたパンフレット。


挿入歌:KSU『Idź pod prąd (流れに逆らって行け)』(1988年)

posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 映画・TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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