2014年05月30日

大いなる誤解が爆笑を呼ぶ!『錦の袈裟』 @菊丸・福治二人会


今日は、池袋演芸場で開かれた
『落語協会特選会 第12回 菊丸・福治二人会』へ行ってきました。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 三遊亭ございます 『寿限無』
落語:柳家福治 『千早振る』
落語:古今亭菊丸 『錦の袈裟』

 〜お仲入り〜

落語;古今亭菊丸 『看板のピン』
落語:柳家福治 『将棋の殿様』



★ございます 『寿限無』
自分の芸名に触れてから『寿限無』。
中盤での命名「高橋ポンポコピー」の強調が独特。
この噺のネックとも言える終盤はテンポよく畳み掛けた。

★福治 『千早振る』
知ったかぶりの元首相ネタや「桂小三治」ネタを経て、
“隠居”の暴走ぶりが見物の『千早振る』を。
自分でも何が何だか分からなくなっている“隠居”と、
次第に冷静になる“八五郎”とのコントラストで笑わせる。

★菊丸 『錦の袈裟』
「広島カープ優勝祝賀会へお越しいただき……」。
毎晩スポーツニュースを見るのが趣味だという菊丸師匠。
絶品の達川光男モノマネを軽く交えながら、
広島カープ初優勝時(1975年)の思い出を語る。
“遊び”に師・圓菊は間に合ったと振ってから『錦の袈裟』。
“与太郎”としっかり者の“女房”の関係性は厳しくも温かい。
舞台が吉原に移ってからは大いなる誤解が超爆笑を呼ぶ。
“花魁”の台詞「下がれ、家来ども!」は爆発力抜群だった。

★菊丸 『看板のピン』
「たっぷり!」と声が掛かるも「簡単に」宣言。
「詳しくはない」と断りつつ博打の種類を解説し、
調子のいい“若者”が主人公の『看板のピン』へ。
威厳ある“親分”の一言一言には人生の重みが感じられ、
この噺を軽妙ながら奥行きある滑稽噺へと深化させていた。

★福治 『将棋の殿様』
古典落語には珍しいワンシチュエーションの密室劇を、
「中間管理職」の苦労にスポットを当てて丁寧に展開。
この噺の主役は“殿様”ではないことを思い知らされる。
決して“殿様”が悪役だというわけではないのだが、
“三太夫”の「将棋は戦」との直言にはスカッとさせられた。



――というわけで、なかなかコアなご贔屓のお客様が多い中、
広島出身コンビの二人会で愉しい時間を過ごしました。
やはり菊丸師匠の落語は軽妙で、それなのに充実感があって、
この師匠の古典落語を聴くことは私にとってこの上ない幸せです。

たとえ同じ噺でも、演者によって噺の「世界」は異なります。
たとえ同じ場所が舞台でも、噺の中の天候や気温は異なります。
それは演者が「本日の天気は……」と説明しているからではなくて、
演者によって「世界」の明るさや暗さまでもが異なってくるからです。

本日の『錦の袈裟』では「錦の褌」がたしかに煌めいていましたし、
朝の吉原では優しい光が差し込み、清々しい空気が流れていました。
私は決してそのような説明ゼリフがあったからそう感じたのではなく、
菊丸師匠の表現する噺の「世界」を勝手に感じ取ったにすぎません。

落語における「世界」とは現実には目に見えない極めて曖昧なもの。
私たち一人ひとりが「あの芸人のあの噺が好きだ」と感じるとき、
私たちはクスグリや所作を根拠に「好きだ」と感じているのではなく
むしろ曖昧な「世界」を評して「好きだ」と感じているように思います。
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2014年05月22日

「毎日の環境」としての平和を 『ローザ・ルクセンブルク』


先日、下高井戸シネマで
映画『ローザ・ルクセンブルク』を観ました。

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旧西独:マルガレーテ・フォン・トロッタ監督による1986年の作品。
映画の主役=ローザ・ルクセンブルクを演じているのは
後年、『ハンナ・アーレント』でアーレントを演じるバルバラ・スコヴァです。
スコヴァはフォン・トロッタ監督作品で数多く主演を務めています。
フォン・トロッタとスコヴァは「クロサワとミフネ」のような関係なのですね。

物語が進むにつれ第一次世界大戦が近付いてくるので、
この映画は単なるローザ・ルクセンブルクの伝記映画に留まらず、
必然的に「ローザと平和」という裏のテーマを帯びています。
恋人レオ・ヨギヘスとの場面では「女性:ローザ」の姿が浮かび上がり、
演説の場面などでは「革命家:ローザ」の姿が強調される仕組みです。



松元雅和先生の解説によれば、「平和」概念には3タイプがあります。
「事態としての平和」「目標としての平和」「手段としての平和」です。
「目標としての平和」が「平和のための戦争」を許容するのに対して、
「手段としての平和」は人間による暴力自体に憤怒と抵抗を示します。
ちなみに、日本国憲法第9条第2項が謳うのは「手段としての平和」です。


本来、マルクス主義において「反戦」は目的ではありません。
しかし、この映画を通して――実際にはローザの著作をも通して――、
私はローザに「手段としての平和」を追求する姿勢を見出しました。
彼女にとって「平和」は目的でもあり現実的課題でもあったと思うのです。
つまり、彼女にとって「平和」とは通過すべき単なる一里塚ではなく、
現在と未来において“現にあり続けるべき”環境だったのではないか、と。



古今東西、マルクス主義を社会に実現していく過程において、
マルクス主義運動は「個人」の上部に「思想」を設定せざるを得ません。
その結果、人間の解放を実現するためのマルクス主義運動によって
人間としての感情を抑圧される者が生じる、という皮肉な事態が生じます。

ローザのような革命家ならば自らの不幸を耐えることもできるでしょう。
なぜなら、革命家には紅涙を流さぬ決意と自負があるからです。
しかしそうは言っても、革命家とて所詮は一人の人間です。
友と談笑し、恋人と抱擁し、心安らぐ時間を過ごす必要があります
(「必要」というのは、第三者である私の決め付けにすぎませんが……)。

遠く彼方にある「人間らしく生きる」という目的を実現するために、
現実にあってほしい「人間らしく生きる」手立てを自ら抑圧するとすれば、
もはやそれは何のための革命であり、運動であり、総括なのでしょうか。
――マルクス主義革命家たちは、目の前の人間の尊さを想えば想うほど、
この残酷にしてあまりに現実的な問いに翻弄されることになります。
私がかねて深い関心を寄せる奧浩平(1960年代の学生活動家)も同様でした。



映画『ローザ・ルクセンブルク』で、獄中のローザは友人に呟きます。
「自分の不幸は平気だけど、他人の不幸は耐えられない」
彼女が思いを馳せたのは、どこか遠くに望む夢物語ではなくて、
いまこの場所における現実的課題――「人間の解放」――でした。
だからこそ、彼女は身内の社会民主党による暴力的弾圧に反発し、
戦争にも徹底して反対し、自然や動物には愛着の念を抱いたのです。

平和が破壊され「人間」が苦しむという現実と格闘する中で、
ローザは平和を「通過点」ではなく、あるべき「毎日の環境」と捉えます。
「反戦平和」を主張する際、彼女はマルクス主義者である以上に
一人の平和主義者的「人間」として「反戦平和」の精神を訴えたのです。

革命家ローザ・ルクセンブルクは47歳で悲劇の死を迎えましたが、
最後まで革命の美味に酔いしれることはありませんでした。
命を懸けて向き合った対象が「夢想」ではなく「現実」だったためです。
「強さ」と「優しさ」を合致させた思想と人生こそが彼女の魅力であり、
今日の世界がますます彼女のことを“欲している”理由であると感じます。





 <補足>
私はここでマルクス主義を“片付ける”つもりはありません(念のため)。
マルクス主義を今日の社会に活かしたいと願うならば、
人間を解放する作業を「過程」の中で普遍化する必要があるのでしょう。
――とはいえ、私がマルクス主義者でないということもあって、
具体的なアイディアを思い付くことはできない、というのが「現実」です。


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200円のプログラム。フォン・トロッタ監督のエッセイに感動した。

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2014年05月18日

<集団的自衛権> 国民の生命・財産を軽視しているのは誰なのか


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<おことわり>
 2014年7月1日の閣議決定は、いわゆる集団的自衛権の行使を容認したものではないと考えます。詳しくはこちらのエントリをご覧ください。
 ⇒<集団的自衛権> 本当は“容認”されていない集団的自衛権
(2014年9月30日)


 安倍政権が「解釈変更による集団的自衛権の行使容認」を検討しています。ここで、この件についての私の見解を改めて表明しておきたいと思います。

 以下、予想以上に長い文章となってしまいましたが、集団的自衛権とは何かよくご存じでない方にも理解していただけるよう、なるべくわかりやすく書いたつもりですので、お付き合いください。



 集団的自衛権は「自衛権」ではない

 まず、「集団的自衛権」とはいわゆる「自衛権」ではありません。自国と「密接な関係」にある国がX国から攻撃を受けた際、自国は攻撃を受けていないにもかかわらず、X国に対して武力行使をする。これが集団的自衛権の定義です。集団的自衛権はいわば「他衛権」とでも呼ぶべきもので、自国や自国民を防衛するためのものではありません。

 自国や自国民を防衛するためのものは「個別的自衛権」です。「自衛」という単語が含まれているので、集団的自衛権をいわゆる「自衛権」と勘違いしてしまう方は少なくないのですが、集団的自衛権にいわゆる「自衛」の機能はありません。

 ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』(ハヤカワepi文庫)では、「戦争は平和である」「自由は隷従である」などという表現がもっともらしく登場します。これらの表現は作中で「ニュースピーク」と呼ばれ、政府が国民を洗脳するための道具として機能します。「集団的自衛権は自国を守るためのものである」もこれと同様の論理矛盾した表現です。




 解釈変更という禁じ手

 これらを踏まえた上で、安倍政権が検討する「解釈変更による集団的自衛権の行使容認」の2つの問題点を、改めて指摘しておきます。

 まず1点目は、「解釈変更」の危険性です。

 日本の歴代政府は戦後一貫して「憲法上、集団的自衛権の行使は禁じられている」との政府解釈を貫いてきました。明文化されたのは田中内閣による1972年政府見解からですが、1960年にも岸首相が集団的自衛権の違憲性に言及するなど、半世紀以上に及んで集団的自衛権は憲法違反と解釈されてきました。政府によって集団的自衛権が合憲とされたことはありません(関連リンク)。

 この解釈は政府の外交・安全保障政策の前提を担ってきたもので、当然のことながら、自衛隊の活動の原則でもあります。日本と外交関係を有するあらゆる国家は、日本を「憲法上、集団的自衛権を行使できない国」として認知しています。国民投票による憲法改正を経ずして、政権がこの国是を便宜的に解釈変更するのであれば、日本は民主主義国家としての安定性を失いかねません。

 便宜的・意図的な理由によって、これまで憲法上「できない」とされてきたものを「できる」と180度ひっくり返す行為は、実質的な憲法改正以外の何物でもありません。憲法改正権を持つのは政府ではなく国民です。むしろ政府には憲法尊重擁護の義務(日本国憲法第99条)が課せられています。

 たとえ選挙を通じて樹立された政府であっても、支持率の高い政府であっても、政府に憲法の中身を「イジる」資格はありません。これが立憲主義国家の大原則です。時々の政府が便宜的に解釈を変更することは禁じ手なのです。



 日本を北朝鮮化する「人の支配」構想

 もしも本当に集団的自衛権の行使を容認したいならば、国民投票を経て憲法改正をする必要があります。自民党の石破幹事長は「時代に合わないのなら憲法解釈が変わるのも当然」などと述べていますが(17日・朝日)、これは立憲主義を全否定する発言です。

 「憲法の上に『政権の判断』がある」とするのであれば、もはやこの国に憲法が存在する必要はありません。「法の支配」ではなく「人の支配」「党の支配」を採用すべきだというこの主張は、日本を旧ソ連や北朝鮮のような国家にしたいとの告白でもあります。2014年を機に日本は「人治国家」になるべきなのでしょうか。

 集団的自衛権に関する政府の憲法解釈は半世紀以上に渡って国内外で定着してきました。社会に定着した伝統や慣習を尊重することが保守主義の基本ですが、それらを正式な手続きを経ずにひっくり返そうとする安倍首相や石破幹事長は革新主義者以外の何者でもありません。

 安倍首相はかねてより保守主義者を自称し、革新主義者を批判することを愛好していますが、本人の発言とは裏腹に革新主義者であるというのが安倍首相の実態です。本来であれば安倍首相は自分自身を非難しなければなりません。



 行使しなければ在留邦人を救えないのか

 2点目に、「集団的自衛権の行使容認」そのものの危険性です。

 15日の記者会見で、安倍首相は「在留邦人を輸送する米艦船の防護」と「PKO(国連平和維持活動)での駆けつけ警護」という2つの事例を挙げて、「集団的自衛権の行使容認」への理解を訴えました。

 しかし、私に言わせれば、その2つの事例とも集団的自衛権とは直接関係がありません。集団的自衛権と直接関係のない事例を材料にして、集団的自衛権行使の必要性を訴える、というのは悪徳商法に近いものがあります。

 「在留邦人を輸送する米艦船の防護」については、そもそも前提が非現実的です。仮に朝鮮半島で有事が発生するとなれば、有事が予見される段階で、民間人は民間機によって日本に帰国することになります。

 有事の際に駐留し続けるのは一部の政府関係者などでしょうが、彼らの輸送を米艦船が担うとしても、米艦船が日本国民を輸送する目的を伴って航行している以上、防護は個別的自衛権で対応可能です。あるいは、武力行使にまで至らない「警察権」でも対応可能でしょう。首相の説明を聞く限り、集団的自衛権の行使を容認する必要性は感じられません。



 自衛権とは関係ない「駆けつけ警護」

 「PKO(国連平和維持活動)での駆けつけ警護」に関しては、少なくとも集団的自衛権の議論とは関係がありません。一般的には国連の「集団安全保障」をめぐる話題です(集団的自衛権と集団安全保障は名前が似ていますが、その概念は根底から異なります)。

 本来、PKOは停戦合意後に当事国の同意の下で行われるものです。自衛隊がPKOで文民要員を守ることは自衛権の問題ではありません。襲撃者が国家組織でもない限り、「駆けつけ警護」は警察権の範囲で対応可能と理解されます。「駆けつけ警護」もまた集団的自衛権の行使を必要としないのです。



 行使容認に「限定」も「全面」もない

 一部の政治家や識者からは「限定容認論」なるものも聞かれます。湾岸戦争やイラク戦争のような戦闘には参加せず、あくまでも日本国民を守るための集団的自衛権のみを行使する、という主張です。

 しかし、集団的自衛権を行使する以上、「限定容認論」なるものは一切の意味を持ち得ません。この世に「限定容認か全面容認か」という線引きは存在し得ず、存在するのは「行使容認するかしないか」という線引きだけです。

 集団的自衛権の行使容認とは、日本が「海外で武力行使できる国」になることです。これ以外の定義はあり得ません。「戦闘参加につながらない集団的自衛権」も「武力行使を伴わない集団的自衛権」も論理矛盾です。さらに言えば、先述したように「日本国民を守るための集団的自衛権」も論理矛盾です。

 「限定容認論」を唱える方々は集団的自衛権の意味を根本的に理解していません。あくまでも、湾岸戦争やイラク戦争のような戦闘に積極的に参戦するための権利のことを集団的自衛権と呼ぶのです。



 「集団的自衛権病」に侵された?首相

 「集団的自衛権と関係ない事例」あるいは「集団的自衛権を行使するまでもない事例」を材料に「集団的自衛権の行使容認」を訴える安倍首相の姿勢からは、政治家としての国民に対する誠実さが欠如しています。首相は「とにかく集団的自衛権を行使したい」という「集団的自衛権病」に侵されているかのようです。

 集団的自衛権を行使するということは、相手国からすれば「宣戦布告」をされたということです。日本が集団的自衛権を行使した時点で、相手国による日本への武力行使は適法化されます。つまり、日本が集団的自衛権を行使した時点で、日本国の領域や日本国民が相手国から攻撃されても文句は言えません。

 集団的自衛権の行使とは、「密接な関係にある国」を守るとの名目で「別の外国」に宣戦布告をし、武力行使をすることなので、行使した時点で日本国民の生命・財産は危機的な状況に晒されます。

 安倍首相は集団的自衛権の行使にこのようなリスクが内在していることを一切説明せず、「日本国民を守るための集団的自衛権行使」などという論理矛盾した表現を連呼しました。首相のこのような姿勢は、国民を欺いたものとして後世糾弾されることになるのではないでしょうか。



 かえって行使容認の不要性が明らかに

 仮に「限定容認」と称するものであっても、集団的自衛権を行使した時点で以上のような重大なリスクが発生するのですから、集団的自衛権を行使しないに越したことはありません。国家は必要性のないことをしてはいけないのです。個別的自衛権、あるいはそれに至らない警察権の行使で対応できないのか、政治の「知恵」を働かせる必要があります。

 そして先に示した通り、安倍首相がイラスト入りのパネルまで使って紹介した事例に関しては集団的自衛権の概念を持ち出す必要はありません。悲しいかな、首相の記者会見によって、日本が集団的自衛権の行使を容認する必要性がないことはかえって明らかとなったと言えるでしょう。



 「抑止力」のための行使容認論

 日本が集団的自衛権の行使を容認することで日米同盟は強化され、「抑止力」が高まる、との主張は観念論・感情論にすぎません。論証不可能な感情論を根拠に日本を「海外で武力行使できる国」に転換することは、理性やリアリズムを放棄した狂気の発想です。現実社会に生きる政治家ならば、このような狂気の夢想に耽る前に、紛争や対立を予防するための外交努力に励むべきでしょう。

 「抑止力」を軍事力によって担おうとすると際限がありません。日本の核兵器保有、核ミサイル製造なども検討しなくてはいけないかもしれません。そうなれば日本の動きに応じて他国も「抑止力」を高めようとするでしょう。

 こうして世界各国の軍事力がいたずらに上昇し、「抑止力」となるはずの軍事力によってむしろ各国間の緊張が高まることを「安全保障のジレンマ」と言います。はたして現在の日本に、「安全保障のジレンマ」に陥っている余裕などあるでしょうか。

 米国は世界最大の軍事力を持つ国家です。米国と安全保障条約を結んでいてもなお日本の「抑止力」が不十分だとするのであれば、もはや何をもって「十分」とするのか理解に苦しみます。それに、米国は日米安全保障条約をしぶしぶ受け入れているのではありません。集団的自衛権の行使を容認すれば日本は米国に見捨てられずに済む、などといった感情論からは早期に脱却すべきです。

 日米同盟の緊密化を望むならば、むしろ取り組むべきは現行の日米安保条約の「空白」を埋めること、そしてホワイトハウスの望むとおり東アジアの平和的安定に努めることでしょう。



 「必要だから」ではなく「やりたいから」

 ここまで、@解釈変更によって、A集団的自衛権の行使を容認することの危険性を説明してきました。結論としては、「必要性のない集団的自衛権」を「便宜的な解釈変更という禁じ手」によって行使容認することは断じて認められません。安倍政権は行使容認の必要性に対する研究があまりに未熟ですし、そもそも行使容認したければ国民投票による憲法改正を訴えるべきです。

 これでは、安倍政権は「必要だから」集団的自衛権の行使を容認したいのではなく、「とにかくやりたいから」行使を容認したいのだとみなされても致し方ないでしょう。自らの私的欲求のために国民のリスクを高めようとする姿勢は、日本の国益、国民の生命・財産をあまりに軽視したものだと言わざるを得ません。

 ――私の本来の立場からすれば、積み重ねられてきた政府見解や国会質疑などについて解説すべきなのですが、15日の首相記者会見を受けてとりあえずの感想を記してみました。安全保障政策についてはまだまだ勉強が不十分なので、これからしっかり研究してみたいと思います。(一応終わり)



 ※集団的自衛権を基礎から学びたい方には、豊下楢彦先生の『集団的自衛権とは何か』(岩波新書 新赤版)をお勧めします。

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