2014年02月22日

ライバルの存在が“プライド”を引き出す 『ラッシュ/プライドと友情』


先日、TOHOシネマズ渋谷で
映画『ラッシュ/プライドと友情』(字幕版)を観ました。

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ロン・ハワード監督の『ラッシュ/プライドと友情』(2013年)は、
ニキ・ラウダ選手とジェームス・ハント選手の
1976年F1世界選手権における激しい“闘い”を描いた映画。
ラウダ役をダニエル・ブリュール(『グッバイ、レーニン!』)、
ハント役をクリス・ヘムズワース(『マイティ・ソー』)が演じています。

映画は、ハントと初めて会った日をラウダが回想する場面で始まり、
ラウダの実写映像+ナレーションによってエンドロールを迎えます。
ハントとラウダは“W主役”として物語を牽引しますが、
後半は、どちらかと言うと「ラウダの視点」をより重視した構成です。

(以下、ネタバレを含みます!)



『ラッシュ』ではいくつもの出来事が取り上げられますが、
印象的なのは、ラウダが事故から復帰した際の記者会見のシーン。
顔に火傷の跡が残るラウダに記者が失礼な質問をするのですが、
“ライバル”が馬鹿にされたことに腹を立てたハントは
ロッカールームにその記者を連れ込み、ボコボコに殴り倒します。

「質問」があったのは事実ですが、ハントが記者を殴った事実はなく、
この場面はあくまでも脚本家ピーター・モーガンの創作とのこと。
しかし、2人の友情が「両想い」であったことを示すものとして、
このシーンは非常に意義深い機能を果たしていたと思います。

――というのも、「ライバル同士が切磋琢磨する物語」というのは、
“ライバル”2人の距離感を縮めすぎると少年マンガのようになるし、
離れさせすぎると「嫉妬」か「尊敬」の物語になりがちだからです。
その点、『ラッシュ』での2人は適切な距離感を保ち続けていて、
直接の交流は多くありませんが、いつも相手を意識し続けています。

劇中でハントはラウダの“顔”を馬鹿にした記者を殴りましたが、
これは“ライバル”を想いやっての行動というよりは
ハント自身の「プライド」を処理するための行動だったのでしょう。
逆に言えば、ハントの「プライド」を引き出すことができるのは
ラウダとラウダに関連する言動だけだったとも結論付けられますね。



映画『ラッシュ』では、ラウダとハント以外のキャラクターも
丁寧に、カラフルに、そして魅力的に描かれています。
ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ演じるクレイ・レガッツォーニは、
レーサーでありながら温かい雰囲気を漂わせていて素晴らしい。
ハントの元妻スージーが離婚後もハントを応援するシーンでは、
「人生って色々あるよね」との思いを抱かざるを得ませんでした(?)。

私はこれまでF1やカーレースに関心を抱いてこなかった人間で
恥ずかしながらラウダのこともハントのことも知らなかったのですが、
そんな私でも何の障害もなく物語に入り込むことができました。
それどころか、各レースのシーンではまさに手に汗握り、
「日本GP」でのラウダの“決断”にはホッと胸を撫で下ろしたほど。
――気分はすっかり、ラウダとハントの無事を祈る“保護者”ですね。

「自由」を追求することでF1に向き合ったジェームス・ハントと、
緻密な「研究」を重ねて命懸けのレースと対峙したニキ・ラウダ。
2人は性格も、レースに臨む姿勢も、人生も対照的ですが、
だからこそお互いの競争心は加速度的に盛り上がったのだろうし、
40年経っても色褪せない“ヒューマンドラマ”を織り成せたのでしょう。


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パンフレットは「F1入門」コラムなどを含む充実した内容。
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2014年02月17日

ナチスにまつわる“人間”を描く… 上質な喜劇『国民の映画』


今日は、PARCO劇場で
三谷幸喜作・演出『国民の映画』を観てきました。

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 <あらすじ>
舞台は第二次大戦中の1941年、ナチス政権下のドイツ国。
当時のドイツでは宣伝省がすべての映画を検閲し、
中でも国家的または民族的に優れていると認めた作品には
「国民の映画(Film der Nation)」との“お墨付き”を与えていた。
ある夜、映画をこよなく愛するゲッベルズ宣伝相は、
ベルリンの別荘に“映画人”たちを招いてホームパーティーを開く。
その場で打ち明けられたゲッベルズ宣伝相の「計画」とは――。

 <キャスト>
宣伝相 ヨゼフ・ゲッベルズ:小日向文世
親衛隊長 ハインリヒ・ヒムラー:段田安則
空軍元帥 ヘルマン・ゲーリング:渡辺徹
ゲッベルスの妻 マグダ・ゲッベルズ:吉田羊
ゲッベルス家の従僕 フリッツ:小林隆
映画監督 エミール・ヤニングス:風間杜夫
ベテラン俳優 グスタフ・グリュントゲンス:小林勝也
国民的作家 エーリヒ・ケストナー:今井朋彦
二枚目俳優 グスタフ・フレーリヒ:平岳大
ベテラン女優 ツァラ・レアンダー:シルビア・グラブ
映画監督 レニ・リーフェンシュタール:新妻聖子
新進女優 エルザ・フェーゼンマイヤー:秋元才加
ゲッベルズ家のピアニスト:荻野清子(音楽)


『国民の映画』は2011年に初演され、今回が初めての再演です。
制作発表段階から個人的に楽しみでしょうがなかったのは、
この再演で三谷作品に初出演する渡辺徹さん(ゲーリング役)!
菊田一夫作『花咲く港』以来のささやかな渡辺徹ファンとしては、
三谷作品――しかも『国民の映画』に渡辺徹さんが参加する事態に
「地球ドラマチック!」と叫ばざるを得ません(←ムリヤリ)。

(以下、ネタバレを含みます! 未見の方は読まないで下さい!)



さて、『国民の映画』は三谷作品の中でも取り立ててシリアスです。
もちろん三谷さんらしい笑いが随所に散りばめられてはいるものの、
野放しに「コメディ」と呼べる類の演劇ではありません。
しかしながら、様々な種類の風刺が効いた「人間喜劇」であり、
「三谷作品史」に残る不思議な魅力を帯びた傑作であると感じます。

「登場人物に感情移入できない喜劇」ほど素晴らしいものはない
――というのが私の一つの持論であり願望なのですが、
『国民の映画』の登場人物はまさに感情移入できそうでできない者たち。
というのも、「映画への愛」「創作への情熱」を語ったその口で、
ナチスの政策に同調したり、ナチスの政治家に媚を売ったり、
何の躊躇いもなく「最終解決」を正当化したりしているからです。

現代に生きる者としては感情移入「できない」し、「してはならない」。
人情味あふれる態度を見せる者たちが、人類史上最悪の政策に
ごく自然に“乗っかる”光景は、究極に「喜劇」的だと言えるでしょう。



『国民の映画』は、ゲッベルズが映画を観るシーンに始まり、
様々な出来事を経てゲッベルズが映画を再び観るシーンで終わります。
別荘に賑々しく集まった人々は、最後には別荘を寂しく去りました。
映画をこよなく愛するはずのゲッベルズが映画界の知己を失い、
映画を創れなくなり映画を観れなくなる展開は皮肉めいていますが、
彼自身がその原因を何も理解していないのはさらに皮肉的でした。

『風と共に去りぬ』を愛するドイツ宣伝相のゲッベルズ本人としては、
映画好きとしても党人としても何も間違った行動はしていないのです。
“映画人”たちに見捨てられた理由も分からず失望するゲッベルズは、
ハンナ・アーレントが指摘した「凡庸な悪」像を正確に体現しています。
(ラストシーンでの「こんな時代にはコメディが一番だ」という台詞は、
本来ならばゲッベルズは絶対に言ってはならない台詞のはずですね。)



この演劇では、「創作者・表現者の苦悩」も描かれています。
創作者・表現者は何かを表現し続けていないと気が狂ってしまうし、
「一人の人間である前に創作者・表現者である」ことを自覚した場合、
何かを創作・表現し続けるためなら「手段」を無視することがある。
彼らを「生まれつきおかしな人物」と断罪することは容易ですが、
その認識では、ナチスのユダヤ民族に対する姿勢と大差ありません。

問題は、あくまでも「狂った人間が狂ったことをすること」ではなく
「普通のはずの人間が狂ったことをしてしまうこと」にあるのです。
ナチスドイツの宣伝戦略は、結果的に「表現者の苦悩」を巧みに悪用し、
「おかしなこと」を普遍化・正当化させる構造を完成させたのでした。
(「普通の人間がおかしなことをしてしまう」のは喜劇の原則ですから、
「笑い」と「恐怖」が表裏一体であることを再認識させられます。)



「凡庸な悪」構造を担ったのは、政治家と表現者だけではありません。
一般的な国民もまた、「凡庸な悪」構造に“加担”していたと言えます。
例えば、劇中でゲッベルズの妻・マグダが最後につぶやく台詞――
「フリッツはいい人だったわ。……ユダヤ人の割には」――は、
当時のドイツを覆っていた“空気”を表す、秀逸かつ残酷な台詞です。
(なお、「ユダヤ人」との表現はこの台詞以外では用いられません。)

あえて確認するまでもなく、当時のドイツでも当時の日本でも、
国民一般の“是認”があってこそ政権は“暴走”することができました。
戦争や虐殺に抵抗した人々の存在を決して忘れてはなりませんが、
国民の意思がなければ、政権は“暴走”の根拠を見出せなかったでしょう。
マグダの穏やかな台詞からは、そのことを改めて痛感させられました。



――真面目な話ばかりしたので、“楽しい”場面もご紹介しましょう。
『国民の映画』では、シルビア・グラブさん、渡辺徹さん、新妻聖子さん、
秋元才加さんが、中盤でちょっとしたミュージカルシーンを展開します。
さすがはミュージカル女優として、歌手としてのキャリアを持つ方々!
正味2分ほどのミュージカルシーンでしたが、実に素晴らしかった!
(『ヅカヅカ』という歌は、荻野清子さんのオリジナル曲なのかしら?)

それから、中盤以降は風間杜夫さんが笑える「三谷的」台詞を連発し、
時に重苦しくなる雰囲気の中で“清涼剤”的役割を担っています。
風間さんの演技力と存在感、そして「喜劇適正」を確認させられました。
平岳大さんの「膝」を使ったギャグも、三谷さんらしくて楽しかったです。
“お目当て”渡辺徹さんのゲーリング元帥役は驚くほどのハマリ役で、
おなじみの「カリッと青春!」ポーズもさりげなく披露されます(笑)。

――それにしても、シリアスな場面とコミカルな場面を調和させ、
観る者を一瞬たりとも飽きさせない芝居を創る三谷さんは素晴らしい。
史実に則っていることもあり、『国民の映画』は切なく幕を閉じますが、
カーテンコールでの小粋な演出には思わずニヤリとさせられました。
“人間”を描いた上質な「喜劇」を鑑賞することができ、心から満足です。



 < P.S >
劇中において「ユダヤ人」という単語は一度だけ使われ(先述)、
「あのお方」とは呼称されるものの「ヒトラー」の名は一度も登場しません。
「食事」は第一幕と第二幕のあいだで済まされたことになっていて、
その後の“史実”についてはフリッツのモノローグで明らかになります。


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2014年02月16日

踊る“ケチ兵衛人形”に興奮! 極上・圧巻の菊丸『片棒』


本日も、鈴本演芸場 2月中席 昼の部 へ行ってきました。
主任は、古今亭菊丸師匠。

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代演者多数のため、本日限定の番組表が配布された。



 <本日の番組>

開口一番:(前座) 三遊亭しあわせ 『転失気』
落語:(代演) 柳家さん弥 『道具屋』
マジック:花島世津子
落語:(交互) 古今亭菊志ん 『饅頭怖い』
落語:桂文楽 『時そば』
漫才:笑組
落語:古今亭志ん輔 『紙入れ』
落語:春風亭百栄 『コンビニ強盗』
三味線漫談:(代演) 林家あずみ
落語:(代演) 柳家喜多八 『やかんなめ』

 〜お仲入り〜

漫談:(代演) 昭和こいる
落語:(代演) 柳家はん治 『ぼやき居酒屋』
落語:柳家さん喬 『長短』
太神楽曲芸:(代演) 鏡味仙三郎社中
落語:(主任) 古今亭菊丸 『片棒』



★しあわせ 『転失気』
11日に引き続き、開口一番はしあわせさん。
やはりコント芸人風口調で、前座として独特な存在。
サゲは「屁でもありません」。

★さん弥 『道具屋』
路上に残る雪に触れ、“コウゾク列車”ネタを披露。
淡々としながらも所々でエッジの効いた『道具屋』は、
サゲ間近での“髭剃り”リピートがウケていた。

★世津子
本日も「ヒモの手品」だが、11日分よりも好調。
愛嬌のある毒舌トークこそが、世津子先生の魅力である。
最後は「おしまい」の布を出現させて〆た。

★菊志ん 『饅頭怖い』
五輪フィギュアスケートについてあれこれ語ってから、
江戸っ子のパーパー感あふれる名作を“アン殺”まで。
マクラで振っていたフィギュアの“決めポーズ”で退場。

★文楽 『時そば』
“夜鷹そば”のマクラから、そのまま王道の『時そば』。
“1人目の男”は“あたり屋”に媚を売っているわけでなく、
客として堂々としながらも美味しそうにそばを喰らっている。
2軒目の“まる屋”で会場を沸かせた。

★笑組
「豪雪地帯」ネタ〜「スポーツの試合人数」ネタ。
いい流れを引き継いで、いい流れを繋いでいった。

★志ん輔 『紙入れ』
「待ってました!」の声が掛かる。
デパートのネックレス売場に寄ってきたと話し、『紙入れ』。
“新吉”はあくまでも「営業」として夜のお宅へ向かう。
艶っぽい“おかみさん”像に、笑わされながらもドキドキ。

★百栄 『コンビニ強盗』
「モモエ」「名人の落語は〜」を経て、『コンビニ強盗』。
気の弱い“強盗”と、事件に動じない“店員”の会話劇だ。
シュールな百栄ワールドが終始展開されていて素晴らしい。
余韻あるサゲの一言には、ちょっとだけ感動させられた。

★あずみ
たい平門下の三味線漫談家:あずみさん。
端唄『茄子とかぼちゃ』などをダイナミックに展開する。

★喜多八 『やかんなめ』
「四百四病」「男は疝気、女は癪」と、『やかんなめ』へ。
滑稽なやり取りがシリアスな調子で繰り広げられていく。
時間の経過とともに爆笑が拡大する“喜多八落語”を堪能。

★こいる
のいる先生が入院中のため、こいる先生がピンで登場。
「森昌子」「近頃の子どもは〜」などのネタを語った後、
高田文夫先生作詞『そんなもんだよ しょうがない』を歌唱。

★はん治 『ぼやき居酒屋』
本日の主任=菊丸師匠の盟友であるはん治師匠が代演。
生真面目な“店主”と可愛らしい“酔っ払い”の会話風景に、
熱燗をいただいた時のようなあったかさを感じる。

★さん喬 『長短』
「お客様の顔も色々」と語り、柳家のお家芸『長短』。
この噺に出てくる2人は、なんだかんだで仲が良いよなあ……。
互いに相手の存在を大事にし合う、両者の心理が伺えた。

★仙三郎社中
「枡」「銀輪」「湯呑み茶碗」などを華やかに回し、
最後は「バチと急須」の技で客席を盛り上げる。

★菊丸 『片棒』
お茶が出され、客席からは「たっぷり!」との声が掛かった。
「落語家とケチな方は相性が悪い」と、“ケチ小噺”をいくつか。
「六日知らず」「鰻の嗅ぎ代」「始末の金槌」など定番の小噺も、
菊丸師匠の手にかかれば実に魅力的なエピソードとなる。
ネタは、ケチな“旦那”と変わった3兄弟が登場する『片棒』。
“旦那”の「番頭さんに相談してよかった」という台詞からは、
ケチではあるが人格者でもある“旦那”の人物像が伝わってきた。
菊丸版『片棒』においては、3兄弟のうち“金三郎”は「変人」、
“銀次郎”は「奇人」、“鉄三郎”は「凡人」といった印象である。
噺が最高に盛り上がったのは、他でもない“銀次郎”パート。
豪華絢爛な「口囃子」「手太鼓」には盛大な拍手が巻き起こり、
機械仕掛けの“ケチ兵衛人形”が踊る場面では隅々で爆笑発生。
過去に聴いてきた『片棒』とは別格の「知的興奮の一席」だった。



――というわけで、本日も菊丸師匠の「極上・圧巻高座」を拝見し、
『片棒』ってこんなにも面白い噺だったのか!と気付かされた次第。
未だに「踊るケチ兵衛人形」が脳裏に焼き付いて離れません。
大袈裟な表現ですが、菊丸師匠と同時代に生まれてよかった!
菊丸師匠の落語を生で聴ける「時代」と「場所」に生まれてよかった!

ここだけの話、菊丸師匠は最も上手くて面白い落語家なのではないか。
トリの一席だけ(といっても30分程度はあるのだが)では物足りず、
いつも、もっともっと菊丸師匠の落語を聴きたいと思ってしまいます。
(「もっともっとこの人の落語を聴きたい」ということで言えば、
 例えば百栄師匠も「もっともっと聴きたい」落語家の一人です。)

もちろん、どの噺家が「上手いか」「面白いか」なんてことは
客の一人ひとりが勝手に判断したりしなかったりすればいいことですが、
とりあえずここ数か月間の私は菊丸師匠の高座にシビれまくっていて、
その「話芸」にも「所作」にも「世界観」にもメロメロなのでございます。
――ああ、本当に菊丸師匠の『片棒』は可笑しくてしょうがなかった!
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