2013年12月26日

撃たずにはいられない… 『バシュフル盆地のブロンド美人』


先日、シネマヴェーラ渋谷で
映画『バシュフル盆地のブロンド美人』(1949年)を観ました。
同時上映は『二世部隊』(1951年)。

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酒場でシンガーとして活躍する美女:フレディは、
幼い頃に祖父から“銃”の扱い方を教え込まれていた。
ある日、フレディは恋人が酒場で浮気するところを目撃してしまう。
頭に血が上ったフレディは恋人を狙い撃ちするのだが……。

我が敬愛してやまないプレストン・スタージェス監督の映画
『バシュフル盆地のブロンド美人』(1949年)は、
20世紀フォックス製作のカラー作品です。
主演は『百万長者と結婚する方法』のベティ・グレイブル。
“スタージェス組”の常連であるルディ・ヴァリーも助演しています。

この映画の見どころは、なんといっても「銃撃戦」。
何千何万という数の“弾”がスクリーンの中を飛び交うのです。
しかしそこはスタージェス、シリアスな雰囲気が流れることは一切なし。
「スタージェス版西部劇」の様相さえ呈す本作は、
台詞だけでなく沈黙のアクションでも観客を大いに笑わせてくれます。

もちろん、脚本家でもあるスタージェス監督ですから、
スピード感あふれる会話の応酬も健在――どころか絶好調です。
アル・ブリッジ演じる保安官が、異なる場面で2度繰り返す
「殺すなら他にも方法が……」という台詞にはニヤリとさせられました。



劇中で、フレディはひょんなことから自らを女性教師だと偽り、
実際に子どもたち相手に教鞭をとることになるのですが、
その「インチキ教師ぶり」といったら可笑しくてたまらない。
物分かりの悪い子どもに対して「馬鹿なの?」的な暴言を吐くし、
“不良兄弟”に対してはなんと銃を突き付け発砲する(!)。
フレディという女性は、スタージェス作品の中でも殊に個性的です。

「スクリューボールコメディの神様」と称されたスタージェスらしく、
フレディとその恋人:ブラッキーの異様な交際関係も見逃せません。
フレディは気性が荒すぎる女性で、ブラッキーは浮気性のクズ男ですが、
なんだかんだで結び付いちゃうのには妙に納得させられますね。
“変人カップル”は、もしかしたら最高に理想的なカップルかもしれない。

さて、主人公のフレディはたしかに変わった女性なのですが
(些細な問題を解決するためでさえ発砲するのだから「変わりすぎ」)、
行動は落ち着いているし、他人に対して思いやりを示すし、
目の前で起きている出来事にいつでも一所懸命に取り組んでいます。
フレディは「変わっているけどまじめな女性」なのです。

「まじめ」なのに、いや「まじめ」だからこそと言うべきか、
常軌を逸した行動を取るフレディは「サイコパス美女」そのもの。
「まじめ」なフレディに振り回される人々を見ていて気が付かされた。
フレディだけでなく実はすべての登場人物が「まじめ」で、
その「まじめさ」がこの映画を傑作コメディに仕立て上げているのだ。
本作はまさに観客の尻を――じゃない、胸を撃ち抜く痛快作でした。


スリルと笑いと美しさを同時に表現――スタージェス監督の演出が光る名シーン!
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2013年12月19日

もう死ぬしかない、なんてことはない −小柳枝の『柳田格之進』


今日は、新宿末廣亭 12月中席 夜の部 へ行ってきました。
主任は、春風亭小柳枝師匠。

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 <本日の番組>

(途中から)
落語:三遊亭圓輔 『火焔太鼓』

 〜お仲入り〜

落語:春風亭笑好 『権助魚』
俗曲:桧山うめ吉
落語:(代演) 春風亭昇太 『ストレスの海』
落語:桂南なん 『探偵うどん』
太神楽曲芸:翁家喜楽・喜乃
落語:(主任) 春風亭小柳枝 『柳田格之進』



★圓輔 『火焔太鼓』
13日同様、今夜もお城でのやり取りから。
圓輔師匠の高座がウケていると何となく嬉しい。
江戸っ子ってものは頭の中を空っぽにして生きているようで、
でもどこか芯を通して生きているようで、本当に不思議な存在。

★笑好 『権助魚』
“ショウコウ状態”のマクラが最もウケていた。
『権助魚』では“おかみさん”の真面目さが際立っている。
“権助”によれば“おかみさん”は相当の美人だというのに、
まったく男ってヤツはどうして家が一軒じゃ不足なのか……。

★うめ吉
風邪をこじらせたといううめ吉師匠。
今夜は短めに、「粋な烏と野暮な烏」「しげく逢うのは〜」
「キリギリスは羽根で鳴く 蝉は腹で鳴く〜」を経て、
煌びやかな踊り「京の四季 -秋冬-」で〆た。

★昇太 『ストレスの海』
今席では昇乃進師匠の代演を昇太師匠が多く務めている。
「代演」というか「ほぼ交互出演」みたいな感じだ。
今夜は「お歳暮」「小遊三夫妻と愛犬」のマクラを経て、
ブラックユーモア満載の昇太的新作落語『ストレスの海』。
雨のため少なめだったはずの客が、大いに盛り上がった。

★南なん 『探偵うどん』
うめ吉師匠が風邪のため喉を痛めているということで、
「高座におけるお茶の有無」にまつわるマクラ。
滅多に聴くことのできない珍品『探偵うどん』では、
“強盗”の間抜けさがみるみるうちに浮き彫りになっていく。
「泥棒にも三分の理」とはまったくですなあ。

★喜楽・喜乃
喜乃師匠による“五階茶碗”、両師匠による“輪”の投げ合い。
そういえば「今年の漢字」は“輪”だったことを思い出す。
それにしても、喜楽・喜乃師匠の太神楽は何度見ても飽きない。

★小柳枝 『柳田格之進』
もし自分が侍だったら何度も切腹していただろうと語ってから、
隠れた“冬ネタ”“年末年始ネタ”である『柳田格之進』に入る。
冒頭は地語り、噺が本格的に始まるのは「八月の十五夜」から。
“柳田格之進”と“萬屋源兵衛”は離れ座敷で碁に熱中するが、
その際、“源兵衛”の手許にあったはずの金50両が消えてしまう。
“柳田”の犯行ではないかと疑う“番頭”に、“源兵衛”は激怒。
小さい頃から主人“源兵衛”に尽くしてきた“番頭”にすれば、
“源兵衛”が自分よりも“柳田”を信用しているのが気に食わない。
50両の件を質すため、“番頭”は独断で“柳田”宅へと向かう――。
小柳枝版『柳田格之進』の魅力の一つは、父娘の会話シーンだ。
父娘は互いの「想い」を感じ取り、静かな愛情を差し出し合う。
結局、金50両は「離れ」にある額縁の裏から現れ出るのだが、
“源兵衛”があっさりと自分の「首」をあきらめる描写も清々しい。
友を裏切ったとき、自らの命を差し出すのは「当たり前」なのだ。
「神社にお詣りしたら……“本所のおじさん”に会った」など
笑いどころが多いのも小柳枝版『柳田格之進』の特徴であり、
暗く陰惨になりがちなこの噺に心地よい涼風を吹き込んでいる。
最後は“柳田”が「手許が滑った」との体(てい)で碁盤を斬り、
その日のうちに、“萬屋”の金で吉原から“お絹”が買い戻された。
“番頭”と“お絹”が夫婦になるというのはご都合主義的展開だが、
これぐらいファンタジックなほうが、物語としては却って小気味よい。



――『柳田格之進』という噺は聴く側としても難しい噺で、
どの口演を聴いても、各演者の「試行錯誤の跡」を感じさせられます。
とりわけ“お絹”をどのような女性として描くべきかは難しく、
「“お絹”の扱い」がこの噺を左右すると言っても過言ではありません。

そんな中で、今夜聴いた小柳枝版『柳田格之進』では、
“お絹”は確固たる意志を持つ「自立した女性」として描かれ、
吉原に身を埋めたことも「宿命」と割り切っているような感がありました。
聴く側としても、小柳枝師匠によるこの“お絹”像には救われますし、
この“お絹”ならば“番頭”と夫婦になってもこの先しばらく安泰でしょう
(おそらくは、というか間違いなくカカァ天下になるだろうけれど)。



ところで、「家」というものを重んじる“柳田格之進”は、
「家」という「命より大切なもの」を守るために切腹を企図しました。
結局、娘“お絹”の進言によって切腹は実行を免れるのですが、
今度は「友との信義」という「命より大切なもの」をめぐって
“源兵衛”“番頭”の首が斬られるかどうかという話になっていきます。

しかし、最終的には『柳田格之進』では誰も死ぬことはなく、
むしろ小柳枝版では“番頭”と“お絹”が仲睦まじい関係となりました。
――なぜ、「少なくとも2〜3名は死ぬはずだった物語」は、
「様々な問題があっても誰も死なずに済んだ物語」に変換されたのか。
小柳枝版『柳田格之進』は陰惨な場面で笑いを挿入していますが、
実はこの作用にこそ、自然に「変換」を促進する効果があるのです。



――日常生活において思考がネガティヴな方面で行き詰まった時、
思考を「ずらす」ことで心持ちが軽くなることがありますよね。
心持ちが軽くなることで人間は冷静に物事を考えられるようになり、
それまで見えなくなっていた「解決策」を見つけられるようになります。
逆に、「ずらす」ことができずに思考がネガティヴな方面で凝り固まると、
「もう死ぬしかない」「死んで解決するしかない」と考えてしまいます。

小柳枝版は暗い場面で笑いを入れることで(思考を「ずらす」ことで)、
物語が進むにつれネガティヴ化する観客の心持ちを軽くさせています。
落語は観客の脳内で展開される芸能ですから、この作用は結果的に、
「死」と直面する羽目になった『柳田格之進』の各登場人物を落ち着かせ、
各人物に対して「死なないで済む解決策」を提示することになります。
かくして観客は、「少なくとも2〜3名は死ぬはずだった物語」を
「誰も死なずに済んだ物語」へと自然に“ポジティヴ変換”するのです。



日本では現在、年間約3万人が自殺によって命を絶っています。
この国においては、誰にとっても「自殺問題」は他人事ではありません。
自殺は「覚悟の上の選択」であると捉えられることも未だに多いですが、
2012年(平成24年)度の自殺総合対策大綱にも明記された通り、
自殺の多くは、精神疾患を伴う「社会的に追い込まれた末の死」です。
こんなことを書くと野暮になるのは百も承知ですが、
「切腹」という行為も「社会的に追い込まれた末の死」であると言えます。

映画の時代劇などでは「切腹」はかなり美化されて表現されますが、
落語では切腹を試みる侍は登場しても実際に切腹する侍はまずいない。
あっさりと切腹しないことが「みっともない」ことだとしても、
落語の世界の登場人物たちは「みっともなく生きる」道を選んでいます。
そして今日も、ふざけた会話やバカバカしい騒動を繰り広げるのです。

個人によって、たしかに「命よりも大切なもの」は存在し得るでしょう。
しかし、そのことは決して「命を軽視してよい」ということを意味しません。
小柳枝版“柳田格之進”は結果的に誰も殺めず(自分自身を含めて)、
碁盤だけを斬ることで、その後何重にも広がる幸福を実現させました。
「もう死ぬしかない」という空気があちこちで漂うこの時代にこそ、
私たちは“柳田格之進”から大切なことを学ぶ必要があると思います。


 <10代目馬生師匠の『柳田角之進』について>
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2013年12月15日

自分は変われる、他人は変わらない −小三治の『芝浜』


今日は、関内ホール 大ホールで開かれた
『関内寄席 柳家小三治独演会』へ行ってきました。

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 <本日の番組>

開口一番:柳家禽太夫 『元犬』
落語:柳家小三治 『金明竹』

 〜お仲入り〜

落語:柳家小三治 『芝浜』



★禽太夫 『元犬』
開口一番は、小三治門下の禽太夫師匠(厚木出身)。
「来年の干支(馬)が好き」と語り、動物つながりで『元犬』。
風で毛が吹き飛び人間になるなど、前半はドラマティック。
後半から登場する“主人”は至って常識人で、
別に「変わった人間が好きな旦那」といった風情ではない。
そのため、場における“シロ”の浮きっぷりが際立ち、
『元犬』はこんなにも無理のある噺だったのかと感じさせられた。

★小三治 『金明竹』
楽屋の窓から、街路樹の枝に絡まる銀杏の枯葉が見えたそうだ。
友人だった故・フランク永井さんの名曲『公園の手品師』を、
フランクさんとの私的エピソードを途中に挟みながら3番まで歌う。
小三治師匠は「カラオケ文化」の始祖だったのかもしれない(?)。
「歌」のマクラとは関係なく唐突に始まった『金明竹』は、
トボケた“松公”と神経質な“旦那”のやり取りがたまらなく滑稽。
それ自体どうってことのない会話なのに、腹を抱えて笑ってしまう。
“松公”が元々は“女房”の親戚であることにこだわる“旦那”、
無理をして“旦那”に言付けを説明しようとする“女房”など、
登場人物が細かい場面でもいちいちセコいのが「小三治流」である。

★小三治 『芝浜』
羽織なし、マクラも一切なしで「お前さん、起きとくれよ」。
小三治版『芝浜』では、夫婦は決して善良な人間などではなく、
貧乏生活を窮めているためか「欲」に正直な夫婦として描かれる。
「52両」(42両ではない)を目撃してもそこまで驚いてはおらず、
何より、“女房”は神経が図太くて度胸のある女性という設定だ。
「2度目の起床」では“勝五郎”が自然に起き上がるが、
この時点で“女房”は夫を騙すことを心の中で正当化し終えていた。
騙される“勝五郎”は「夢だな……夢かな……夢だな……」と
まるで自分に言い聞かせるように呟き、あれは夢だったと解釈する。
ここで、地語りとして「“勝五郎”は了見をガラッと入れ換えた」
「人間は、他人からとやかく言われたところで変わらない」
「すべては『自分』」との解説が挿入されるが、これぞ噺の主題だろう。
3年目の大晦日、“女房”の「雪じゃないよ」の一言は意味深だった。
“勝五郎”は「そうだよな、星は急に雪にならないよな」と応じるが、
これはそのまま「人間は急に変化しない」と読み換えることができる。
自分が別人に生まれ変わったことを強く認識したい“勝五郎”と、
星空から雪が降ることはないと割り切っている“女房”のギャップ――。
その「ギャップ」は両者を衝突させず、逆に美談を作りだしてしまう。
小三治版『芝浜』はどこかダークで、だからこそ美しく輝いていた。



――本日の小三治師匠は、まさしく「絶好調」でした。
一席目『金明竹』の言い立てで多少言い淀みがあったぐらいで、
その「言い淀み」にしても、巧みに笑いに変えていました。
小三治師匠にしかやれない『金明竹』であり、『芝浜』であり、
「小三治の世界」を力強く客席に届ける「名演」だったと断言できます。

『芝浜』という噺は「夫婦愛」や「勤勉」がテーマとなりがちですが、
“勝五郎”の視点と“女房”の視点をさりげなく分断することで、
小三治版『芝浜』は「人間の本質」に迫る“人情噺”となりました。
この『芝浜』が聴けたことを、私は今後忘れることなどないでしょう。

他の噺家の『芝浜』とは一味違う小三治版『芝浜』において、
“勝五郎”の了見を入れ替えさせたのは“女房”ではありません。
あくまでも“勝五郎”本人が「自分は変わりたい」と決心したからこそ、
“勝五郎”は了見を入れ替え、魚屋を再建させることができたのです。
52両を拾ったことを「夢」にしたのは、他ならぬ“勝五郎”本人です。

それではなぜ、“勝五郎”がせっかく心を入れ替えたというのに、
3年目の大晦日、“女房”は“勝五郎”に「酒」を勧めたのか――。
「酒」は、“勝五郎”を堕落させた悪しき存在ではなかったのか――。



“勝五郎”は“昔の自分”と“現在の自分”は別人であるとみなし、
“昔”は堕落していたが“現在”は健全であると自覚しています。
しかし、“女房”にとっては、昔も現在も“勝五郎”は“勝五郎”です。
それどころか、“勝五郎”が改心したことはさほど重要ではありません。
“昔”も“現在”も関係なくただの“勝五郎”を愛する“女房”にとっては、
「夫」としてそこに“勝五郎”が存在していることだけが重要なのです。

“昔”と“現在”を意識の上で明確に分離している“勝五郎”は
“昔の自分”を象徴するアイテム=「酒」を危険物と考えていますが、
“昔の勝五郎”も“現在の勝五郎”も同一人物とする“女房”は
相変わらず「酒」を“勝五郎”の好きなものだと認識していました。

最近、この人はお酒を呑まないようにしているけれど、
本当はお酒が好きなんだから、お酒を出したら喜んでくれるわ――。
――“勝五郎”にとっては忌避すべき存在である「酒」を、
“女房”がほとんど何の躊躇いもなく用意できた理由はここにあります。

小三治版『芝浜』は、“勝五郎”の視点では「自分は変われる」、
“女房”の視点では「他人は変わらない」との主張を打ち出しました。
対極に位置する2つの主張を、1つの噺の中で調和させることで
――「美しき誤解」が美談を生みだすという真実を示すことで――、
小三治版『芝浜』は「人間の本質」に迫る無二の名演となったのです。


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