2011年06月27日

“本音”が聞ければ、先に進める


大学に入って一年間だけ在籍していた茶道部に、
二個上の、少し厳しい先輩がいました。

いま冷静に振り返ると、
その先輩が厳しかったというよりは、
その時の私があまりにも軟弱すぎただけなのですが、
この男性の先輩から、私はたくさんのことを学びました。

茶道の作法はもちろんのこと、
あいさつの作法だとか、
「遅刻した時にふさわしい第一声」だとか、
目上の人に対する態度だとか。

その先輩から言われた言葉として特に記憶に残っているのは、
「みっちー(註:私のこと)、休む時は理由が大事なんだよ」
という言葉です。



茶道部時代、
茶道の稽古があまりにもイヤだった私は、
ムリヤリ理由を作って休むことが他の同期生より多く、
「熱があるので休みます」とか
「ニュース番組制作のために休みます」とか
嘘っぱちの理由をでっちあげてはサボッていました。

当然のことながら、連日こんな嘘をつき続けていると、
嘘っぱちの欠席理由を言われている先輩方も
だんだん「ああ、みっちーはまたサボりだな」というのが分かってきます。

私のほうも
「ああ、またサボりだな」と思われているというのが分かるので、
ある時、私は特に理由を付けずに
「今日は休ませてください」とだけ書いたメールを
先輩に送ったことがありました。



そんなことがあった次の稽古時、
その先輩から言われたのが
先ほどご紹介した「休む時は理由が大事」という言葉でした。

その時はただ単に、
「風邪で休みます」とか「腹痛で休みます」とか、
「理由を付け加えて休め」というだけのことだと、
その言葉の額面通りにしか受け取れませんでしたが、
いま、私は
この言葉にはもっと奥の意味があったのだなあ、と思います。

一つには、「アウトプットが肝心なんだよ」ということです。
どうせ同じような行動になるのであれば、
「なにをするか」ではなく「どう見せるか」が肝心であって、
そこに気を払えば、言い方は悪いですが、
他人を「騙す」ことに成功できます。
これなら、騙されたほうにも悪い気は残りません。

そしてもう一つ、今夜はこちらのほうについて書きたいのですが、
「休む時は理由が大事」というのは、
ただ単に理由を述べて休めというだけの意味ではなく、
「見え透いた嘘をつかれても、こちらはどうにも対応できないよ。
 本音をあらかじめ示しておいてくれると、対応できるんだけどね」
という意味だったのではないかと感じます。



私が、茶道の稽古自体から逃げていることからは
たぶんどの部員の目にも明らかだったのではないかと思います。
そんな時に、その先輩が聞きたかったのは
「茶道の稽古は好きです。だけど、今日はちょっと体調が……」
という見え透いた“キレイな嘘”ではなく、
「茶道そのものは嫌いです。
 でも、先輩方や同期のことは好きなので、
 茶道はやりたくないけど茶道部にはいたいです」という
“本音”だったのでしょう。

それが聞ければ、
「分かった、茶道をやらない茶道部員として名前だけ残しとけ」にせよ
「それは無理だよ、茶道をやるから茶道部なんだよ」にせよ
そこから先の話に進むことができる。
でも、それがなくて「茶道大好きなんです!」という真っ赤な嘘が、
それが真っ赤な嘘であると誰しも知っているような状況で
延々と続けられている限りは、
そこから話を先に進めることはできなくなってしまう。



私は、日常生活で演技ができない人間です。
好きな人ができたらその人の話題ばっかり話してしまうし、
機嫌が悪くなったらさっさと一人でその場から帰っちゃうし、
しっかりと“幼稚園児イズム”をこの歳まで保っている人間です。
だから、「本当は茶道が嫌いなんだけど、出るべき稽古に出て、
 『ああ、この子は茶道に興味があるんだな』と思わせる」
という、取り繕った演技ができません。
見え透いた嘘をつくか、本音を言うしかできないのです。

いま、私は放送集団テラワロスのモデレータをしていますが、
色んなメンバーと話をしていると、
それぞれのメンバーのテラワロスに対する温度感がよく分かります。
「口では頑張ると言ってくれているけど
 本当はそこまでテラワロスに興味はないんだろうなあ」とか、
「渡辺との付き合いでやってくれてるんだなあ」とか、
「おや、意外とこの子はやる気があるんだな」とか、
そういうことは、ちょっとした言葉遣いや“間”から伺えます。

なにしろ、私も茶道部時代は「そっち側」だったのです。
頑張って嘘をついたし、
稽古をサボるためにムリヤリ病気になるような、
本末転倒なことも繰り返しました。
だから、嘘をついてくれる心優しい人の気持ちがよく理解できます。



特別な局面では嘘も必要になりますが、嘘ばかりが続いてしまうと、
「みんなでやるお仕事」を
どうしても、進めていくことができなくなってしまいます。
そういった意味で、
私は「やれるかやれないか」という話にはほとんど興味がなく、
その人が「やるかやらないか」という部分にだけ興味があります。

「やりたいけどやれない」のか、
それとも「結局のところはやりたくない」のかが大事です。
私は「やりたいけどやれない」人のことは一生懸命応援しますが、
「結局のところやりたくない」人に対しては、どうすることもできません。

桂歌丸師匠の言葉をもじって言うならば、
放送系サークルやお笑いサークルは、
「あってもなくてもいい組織」どころか「なくてもなくてもいい組織」です。
「なくてもなくてもいい組織」で
やりたくもないことをやらされている人間がいたら、
それはあまりにも馬鹿馬鹿しいと思いませんか?
「やりたくない」人に私がしてあげられることは、直接的にはないのです。



だから私は、「特にやりたいことはないけれど、
 とりあえずテラワロスのメンバーとして名簿に名前を残しておきたい」
という人がいたら、名簿に名前だけ残してあげたいと思っています。
飲み会だけ来るメンバーとか、
クリスマスパーティーだけ来るメンバーとかがいてもいいと思います。

その時、大事なのは、しっかりと自分自身から
「名前だけ登録していたい」
「飲み会だけ行きたい」と、本音を言ってもらうことです。
そこでは見え透いた嘘を貫き通すことではなく、
しっかりと本音を述べてもらう必要があるのです。



――そんなわけで、話をムリヤリ一本筋にまとめてみましたが、
人間、何事もやってみてムダにはならないもので、
茶道の稽古はどうしても私と相性がよくありませんでしたが、
それがあったおかげで、
メンバーと最も付き合いやすいサークルとはどういうものなのか、
痛いほど分かることができました。

ちなみに、もちろん私見ですが、
もし放送集団テラワロスから純粋に「やりたいこと」を持つ人がいなくなったら、
テラワロスは解散すべきだと思います。
もし「飲み会だけやりたい」人ばかりになったら、
放送集団テラワロスは単なる飲みサーになればいいと思います。
今のところそうなる予兆はまったくありませんが、
もしそうなったとしても、ただそれだけのことです。

組織の活動目的や存在意義を改めて確認しなければならなくなった組織に、
もはや存在価値はありません。
「組織護持」のために人生の大事な時間を費やす人間を、
私はテラワロスから生み出したくないのです。



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2011年06月26日

原発と「規定事実」


今度の震災でつくづく明らかになったのは、
本当に怖いのは原発ではなく、人間のほうだったということです。
原子力をコントロールできると思っていた人間のほうが、
よっぽど怖ろしい存在だったのです。

現在、「反原発派」の主張は日に日に社会全般に受け入れられ、
最近では純粋な「原発推進派」の声を聞くことはできません。
いま、「原発はやっぱり必要! リスクはあるけど原発を作ろう」
なんて主張する学者がいたら、社会全体から袋叩きに遭うでしょう。

少し前は、その逆でした。
原子力発電所建設が事実上国策となってからは、
「反原発派」の声は社会から黙殺され続けてきました。
「反原発」的言動は、かなり意図的に社会から度外視されてきたのです。
これは、利害関係や金銭関係そのものというよりは、社会の「空気」
(これを私は、既成事実という言葉をもじって
「規定事実」と呼んでいます)が反映されていった結果だと思います。



「規定事実」とはどういうことかというと、たとえば、
テレビで「キチガイ」と発言することは許されないという空気のことです。
「キチガイ」と発言したら、場合によってはスタジオから追い出され、
もう二度と制作者からお呼びがかかることはなくなるかもしれません。

「キチガイ」と発言することの何がいけないのかよく分からないまま、
もはや誰に対する配慮なのかもよく分からないまま、
「規定事実」として、その言動を許さない空気が社会を支配するのです。



原発に話を戻します。
いまは「反原発」の空気を受け入れている社会ですが、
また年月が経てば「反原発派」も次第にエネルギーを失い、
再び「原発推進派」の主張がリアリティを持つようになるかもしれません。
季節によって気候が変わるように、社会の空気も移り変わり得るのです。

しかし、社会は少しずつ成熟化しているのだと仮定するならば、
「原発推進」原理主義と「反原発」原理主義の対立で終わらない、
つまり極端な空気の入れ替わりということで終わらない、
「原発推進派」と「反原発派」の共存という道が有り得るかもしれません。

共存とは、妥協し合うということです。
冷静に議論すれば、上手い落としどころは確実に見つかるはずです。
とはいえ、社会全体が一つになることは絶対にありませんから、
冷静になれない原理主義派は、議論から排除されることになります。
共存のために排除しなければならない存在が生まれるのも事実です。

原発をめぐる今後の動きについて、10〜20年という単位で考えれば
「原発推進」の動きは受け入れられないでしょう。
しかし、それから先のことは分かりません。
その時の「規定事実」がどうなっているかによる、としかいえないのです。
そして、その時の「規定事実」を固めるのは、
まさに今日からの一人ひとりの信念ある行動にかかっています。



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ちなみにこれは余談ですが、冷静に考えれば考えるほど、
「キチガイ」という言葉は
キチガイ本人を傷付けるはずがないことに気が付きました。
なにしろ、キチガイは「キチガイ」と言われたところで
キチガイである以上、その言葉を理解できないはずですから……。

posted at 02:10 | Comment(4) | TB(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |

2011年06月24日

どうしてこんなに面白いのか? 志らく『看板のピン』に超興奮


今日は、自宅近くの大田区民プラザ小ホールで毎月開かれている
「下丸子らくご倶楽部」へ行ってきました。
立川志らく師匠プロデュースの地域寄席みたいな落語会です。

simo_rakugo_201106ticket.PNG

存在自体はずっと把握していましたが、実際に行くのはこれが初めて。
行ってみたら、
“なんで今まで無視していたのだろう!”というぐらい、
行ってよかった、素敵な落語会でした。

何年間も志らく師匠がレギュラーとなり続けられているこの落語会。
これまでは柳家花緑師匠がパートナーでしたが、
先々月からは新しいパートナーに橘家文左衛門師匠を迎えています。
お二人によるトークコーナーもたっぷりあり、大変面白い落語会でした。



本日の番組


(若手バトル)
落語:立川らく人 『道灌』
落語:立川がじら 『狸札』

トーク:立川志らく、橘家文左衛門
落語:橘家文左衛門 『ちりとてちん』

〜仲入り〜

動物ものまね:江戸家まねき猫
落語:立川志らく 『看板のピン』



★らく人 『道灌』
志らく師匠の12番弟子、らく人(らくと)さんによる『道灌』。
口をしっかり大きく動かしていて
滑舌を大変意識していたところが、なんだかとっても好感を持ちました。

★がじら 『狸札』
続いて志らく師匠の11番弟子、がじらさんが緑の着物で登場。
ソフトに怪しい目をしていて、その雰囲気にかなり興味を持ちました。
タヌキの上目遣いが可愛らしかったです。
がじらさんも、らく人さんも、これから応援していきたい前座さんです。
私は若い男の子が大好きなのでした。

★トーク 志らく&文左衛門
志らく師匠と文左衛門師匠が揃って登場し、
「ようやくギクシャク感が抜けてきたところだが、
 来月・再来月は文左衛門師匠はこの会をお休み」というトークから、
それぞれの初高座の話、志らく師匠が最近見た映画の話など。
志らく師匠の初高座は、2000人の客前での「談志・小朝二人会」で、
文左衛門師匠の高座は、
湘南で開かれたご自身の師匠・文蔵師匠の会とのこと。
「談志―志らく」と「文蔵―文左衛門」では、
180度師弟関係が異なるというエピソードが伺えました。
志らく師匠が昨日見たハリウッドのSF映画は、
「なんのこっちゃ」というSF映画だったそうです。
こんなもの上映するぐらいなら、よっぽど節電対策として
映画館のケーブル抜いてやろうかと思ったとのこと。
それから、
『リパブリック讃歌』よりも「ヨドバシカメラのCMソング」のほうが
「映画『第三の男』のテーマ曲」より「ヱビスビールのCMソング」のほうが
有名である現実を「犯罪的」とまで言い切る志らく師匠に、激しく同意。
この“志らくの了見“に対し、文左衛門師匠
「でも、よく俺の落語も『名作を台無しにしやがって』と言われる」。
しかし最終的には、志らく師匠も文左衛門師匠も、
落語は進化し続ける(ある意味、壊され続ける)ことで
発展するのだという結論に落ち着きました。
そんなようなことが、本日発売の志らく師匠の新刊
落語進化論』(新潮選書)に書かれているそうです。

★文左衛門 『ちりとてちん』
生きた白魚を食べたらムセてしまい、
白魚が生きたまんま鼻に入ってしまって困ったというマクラから、
爆笑の『ちりとてちん』へ。
灘の生一本も、鯛の刺身も、
実に美味しそうに飲み食いする文左衛門師匠。
見ていて無性にニヤニヤしてしまいます。
酢豆腐に七味唐辛子を延々かけ続けるというギャグが、とても笑えました。
文左衛門師匠が演じる、優しいんだけど意地悪で、
意地悪だけど優しいという、
“腹の奥にはなにかある”キャラクターは最高です。
「ちりとてちん」の匂いをかいで倒れる文左衛門師匠の姿は、
『死神』のサゲで高座に倒れ込む6代目圓生師匠を彷彿とさせるもの(?)。
文左衛門師匠の『ちりとてちん』、絶品でした。

★まねき猫
仲入り後は、動物ものまねのまねき猫さん。
以前拝見したのはたしか今年1月の末廣亭でしたが、
髪型が変わったからか、
以前よりさらにお美しくなっている印象を受けました。
芸のほうもしっかりしてます。
ご自身の芸を「通信販売」に例えて、
ショッピング番組風に紹介するという構成。
私は色物さんが大好きで、まねき猫さんも好きな色物さんのお一人です。

★志らく 『看板のピン』
トリに登場した志らく師匠、
「一介の芸人が
 一国の総理を語るのはおこがましいという向きもあるでしょうが」
と前置きした上で、菅首相に関するマクラ。
「ここまで嫌われても平気でいられる菅首相は、
 もしかしたら強靭な精神の持ち主なのかもしれない」と、
そいつが何を考えているか誰も分からない、
もしかしたら本人自身も分からなくなっているのかもしれないという噺、
『看板のピン』へ。
これがもう、どうしてこんなに面白いんだろう、というぐらい面白かった。
志らく師匠の『看板のピン』は腹の底から笑える、
「これぞベスト・オブ・落語!」と称いたくなるような至宝の落語でした。
今日見た『看板のピン』は、たぶん死ぬまで忘れないと思います。
大笑いすると同時に、我を忘れて興奮してしまいました。
たぶんこれはきっと、私が過去に拝見した『看板のピン』が
桂米助(ヨネスケ)師匠バージョンと
立川キウイさんバージョンだけだということとは
まったく関係ありません(笑)。
志らく師匠がおっしゃる「クレイジー落語」の一つの答えが、
この『看板のピン』なのだと思います
(『看板のピン』は、
 かなり“理解しやすいクレイジー”ではないかな?)。
志らく師匠は表情や小さな動きも最高級なので、
これから生で見続けたいと感じました。



――そんなわけで、
意外にも初めての「下丸子らくご倶楽部」体験でしたが、
志らく師匠と文左衛門師匠の高座が毎月見られるこの会は、
実に素晴らしい。
特に、今夜の『看板のピン』は、
志らく師匠が現代落語界随一の名人である証拠となるような、
最高に面白い落語でした。

『下丸子らくご倶楽部』――これから出来る限り通いたい会です。

shimo_rakugo_201106.PNG
posted at 23:59 | Comment(0) | TB(0) | 落語・笑い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする |
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