2017年07月04日

クールながらも奇妙で穏やか “天どんワールド”な『船徳』


今日は、鈴本演芸場 7月上席 夜の部 へ行ってきました。
主任は、三遊亭天どん師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 柳亭市朗 『転失気』
落語:(交互) 三遊亭わん丈 『権助魚』
奇術:ダーク広和
落語:柳亭燕路 『出来心』
落語:鈴々舎馬るこ 『牛ほめ』
漫才:ホンキートンク
落語:(交互) 三遊亭白鳥 『スーパー寿限無』
落語:桃月庵白酒 『風呂敷』

 〜仲入り〜

音楽:のだゆき
落語:入船亭扇遊 『狸賽』
太神楽曲芸:鏡味仙三郎社中
落語:(主任) 三遊亭天どん 『船徳』



★市朗 『転失気』
開口一番は市馬門下の市朗さん。
“花屋”や“おじさん”の件を省略した『転失気』。
珍念の独り言が丹念に語られる。サゲは「クサい話」。

★わん丈 『権助魚』
「極上の客」、金髪だった高校時代のマクラを経て、
古典の世界に馴染んだクスグリが愉しい『権助魚』。
「……私が今川焼に興味があるように見えたかい?」。

★ダーク広和
ボール→ロープ→Tシャツ変わり→フラフープ。
「YouTube」「Facebook」などの単語が普通に飛び出す。
この先生の幅広さ、奥深さが気になってしょうがない。

★燕路 『出来心』
振り込め詐欺のマクラから、師匠譲りの『出来心』へ。
「お前と俺とで駐車場を作ろうってんじゃないんだよ」。
噺のあらすじが頭に入ってきやすい語り口ではある。

★馬るこ 『牛ほめ』
マクラなしで『牛ほめ』に入り、笑いを加速していく。
「……いや、焼き鳥屋でも壁は砂肝じゃない!」。
パワフルな与太郎像がとにかく痛快、爆笑必至の高座。

★ホンキートンク
自己紹介ネタや「有名になりたくない」などを挟んで、
落語家の羽織のようにスーツを脱ぎ出し『時パスタ』。
最後は吉幾三の『Dream』(手拍子付き)でフィナーレ。

★白鳥 『スーパー寿限無』
みんなで「寿限無」の名前を合唱させてから、
“人間国宝”の天どん師匠が登場の『スーパー寿限無』。
「噛まずに言えたら天どん師匠のこの芝居は成功する!」。

★白酒 『風呂敷』
「台風の時は意外と客が入り、妙な連帯感が生まれる」。
「女サンガイにイエなし」をめぐる「性差別ですか!?」
→「強調の『し』」の展開が最高にくだらなくて可笑しい。

★のだゆき
ぞう→ピアニカ組曲→『パリの空の下』→『七夕さま』
→『ジングルベル〜交響曲第9番』→『ぶんぶんぶん』。
「〜ですよ」などの語尾がどことなく天どん師匠っぽい。

★扇遊 『狸賽』
「落語は生がいい。のんびり聴いて」という挨拶の後、
狐と狸の小噺を経て、江戸っ子の息遣い満載の『狸賽』。
「このサイコロ、“二の目”が俺を睨み付けてる」。

★仙三郎社中
傘廻し→五階茶碗→土瓶→花笠。
いつもいつでもスゴ技を実にあっさりと決めていくが、
それらはあくまでも稽古の賜物なのだと伝わってくる。

★天どん 『船徳』
「台風が来てるから(入場客の数は)いい言い訳になった」
「自分で終わりだから笑わないと気持ちよく帰れない」
「昨日の客が来ていないならネタ出ししなければよかった」
などと弱音を吐きつつも、夏ならではの噺『船徳』へ入る。
「徳三郎です(キリッ」と名前を連呼するナルシストの若旦那、
災難に遭っても最終的には友情を深め合う2人組の客など、
天どん版『船徳』はキャラクターの味付けが確立されていて、
この師匠のユニークな個性と持ち味をスパークさせている。
「『あいつら』と呼んでる時点で対等じゃない気がしますけど」
「ちょっとでも嫌だな、と思ったらやめるんですよ?」など、
“クールながらも奇妙で穏やか”なフレーズも盛りだくさん。
天どん師匠の落語は「クール」と形容されることも多いが
(かくいう私もたった今「クール」という語を使ったばかりだが)、
実際には“割と素直でピュア”な優しさが根本にあると思う。
「石垣に50本ぐらいこうもり傘が刺さってたよ」という描写や
「やーめた。謝って、ください」などといった展開も独創的で、
“天どんワールド”満ち溢れる充実の高座に満足させられた。



──というわけで、関東地方に台風3号が接近する中、
夜の鈴本演芸場で天どん師匠の主任興行を楽しませていただきました。
わん丈さんの個性的でありながら古典の世界にハマったクスグリには、
「これが古典と新作のハイブリッドってやつか!」と惚れ惚れした次第。
古典の世界を壊さない形で挿まれる新たなクスグリって、いいですよね。

そしてやっぱり、なんといっても本日の主役、天どん師匠──。
天どん師匠にしか造成できないであろう独特なキャラクターたちが、
いつのまにか“トラブルのさざ波”に乗っかり、惨事を拡大していく様子は、
聴いていて心地がよく、もっとこの世界に浸かっていたいと思ったほど。
噛めば噛むほど味が出てくる落語のおかげで、気持ちが楽になりました。
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2017年06月26日

“バージョンアップ”された一級の娯楽映画 『美女と野獣』


先日、TOHOシネマズ日劇で
映画『美女と野獣』(字幕版)を観ました。

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ディズニーアニメの名作『美女と野獣』(1991年)を実写化した本作は、
ミュージカル映画を愛し、熟知するビル・コンドン監督の手によって
1991年のオリジナルアニメに勝るとも劣らない傑作に仕上がっています。
アニメ版が「Windows 95」だとしたら、本作は「Windows 10」。
リメイクというよりも“バージョンアップ作品”として捉えられるべきでしょう。

例えば、前半のハイライト『ひとりぼっちの晩餐会(Be Our Guest)』──
アニメ版ではどこからともなくルミエールにライトが当てられましたが、
本作ではそのライトが登場人物による作為的なものと設定されたことで
不自然さがなくなり、抵抗なく世界観に浸ることができるようになりました。
使用人たちが完全にモノに化してしまうシーンや、その後の場面でも、
実写映画であることを逆手にとった効果的な演出が採用されています。

肝心要のミュージカルシーンについてもほとんど文句のつけようがなく、
さすがはビル・コンドン監督、実写ならではの楽しさに満ちていました。
冒頭のナンバー『朝の風景(Belle)』はまさにプロフェッショナルの業で、
アニメでは表現できないリアルな人間の息遣いが伝わってきます。
これだからミュージカル映画は素晴らしいと思わされる演出の連続で、
ミュージカル映画どころか「映画っていいな」とまで実感させられたほど。



実写版というだけあって、キャストの活躍に触れぬわけにはいきません。
アニメ版の愛好者としては歌声に迫力不足を感じたのも事実ですが
(個人的には アンジェラ・ランズベリー の不在がとりわけイタかった!)、
ユアン・マクレガーもエマ・トンプソンも決して歌唱は下手ではなく、
“バージョンアップ版”にふさわしいキャラクター像を提示していました。
イアン・マッケランの存在感と安定感に至っては、「さすが」の一言です。

声優ではなく実力派俳優でなければ表現できないであろうシーンもあり、
本作のキャスティングはおおむね成功していたと結論付けられるでしょう。
──あえて辛口なことを申せば、ル・フウ役のジョシュ・ギャッドは
はっきり言って芝居が下手で、残念ながら役者不足の感は否めません。
ベルの父親役を演じたケヴィン・クラインも悪くはありませんでしたが、
どうしてもロビン・ウィリアムズの“下位置換”に見える瞬間がありました。

本作の最も特筆すべき出演者は、やはりオードラ・マクドナルドでしょう!
現在のブロードウェイでトップに君臨するこの正統派ミュージカル女優は、
脇役でありながら、その美しい歌声で本作の最初と最後を飾っています。
監督がマクドナルドに敬意を払っていることが分かりますが、実際、
彼女の歌声を聴くためだけでもお金を払って映画館へ行く価値はあります。
“正統派”には馴染みがない私でも、彼女の歌声には鳥肌が立ちました。



総合的にいうと、本作はテンポがよく、シナリオの構成も練られていて、
構図もしっかりと押さえられ、アニメ版を補完するような描写もあるので、
さしずめ三ツ星シェフによる“まとも”なフルコース料理といった趣きです。
アラン・メンケン作曲のミュージカルナンバーは未だに色褪せておらず、
それどころかゴージャスなアレンジが施されているのだからたまりません。
アニメ版をより深化させた本作は一級の娯楽作品に仕上がっています。

もちろんパソコンとは違って、映画や文学、音楽などの芸術作品の場合、
“バージョンアップ”されていればよいかというと、それは別問題です。
かつて「Windows 95」でパソコンに初めて接した時の感動や興奮を
「Windows 10」で体感することは難しい──というよりも不可能でしょう。
しかし、ディズニーの『美女と野獣』のアニメ版と実写版の間にあるのは
「1991年に作ってみた」と「2017年に作ってみた」の違いにすぎません。

ディズニーの『美女と野獣』のアニメ版と実写版は“同一人物”であり、
実写版の制作にあたって、その核となる精神は何も歪められていません。
“旧型”の至らなかった点をあくまでも補完・修正・調整するに留め、
「2Dか、実写+CGか」という表現の手段を変更しているだけなのです。
──そして、本作のように「実写+CG」という手段を採るのならば、
技術面からいって、20世紀ではなく21世紀に作ったほうがよいでしょう。

コンドン監督は当初、本作のオファーを受けるべきか悩んだそうですが、
そのような人物だからこそ、作品の核心から問い直すリブートではなく
“バージョンアップ”という方向性を見出せたのではないでしょうか。
本作の成功は、監督選びを誤らなかったディズニーの成果であるとともに、
ディズニーの『美女と野獣』という作品の力強さに起因するものなのです。


▲ TVコマーシャル 「メドレー」篇 (1分15秒)



 <追記>
本作『美女と野獣』(2017年)は、ディズニー映画としては初めて
同性愛者(あるいは両性愛者)のキャラクターが公式に描かれた作品です。
そのため一部の国では上映が延期され、年齢制限がかけられました。
といっても本作での同性愛の描写は実に“さりげない”ものにすぎず、
物語に同性愛者が登場するだけで騒ぐ人々の滑稽さを痛感した次第です。
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2017年05月30日

人間であるがゆえの「弱さ」を 『シャセリオー展』


先日、国立西洋美術館で開催された
『シャセリオー展 19世紀フランス・ロマン主義の異才』へ行ってきました。

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テオドール・シャセリオーの絵画が本格的に紹介されるのは、
日本では今回が初めてなのだそうです。
政治家にして公法学者のアレクシ・ド・トクヴィルの肖像』(1844年)を
生で鑑賞できるということで、上野の公園口へ駆けつけました。


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▲ 『自画像』(1835年)より

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▲ 企画展示室 入口



『シャセリオー展』の感想。
――いや〜、すっかりシャセリオーにハマってしまった!
あの絵もこの絵も素晴らしい。何もかもが素晴らしい。
近頃の私は図録(2700円)を眺めながらニヤつく日々を送っています。

個人的に気に入った作品を挙げるとキリがないのですが、
例えば『アポロンとダフネ』(1845年)は熟視せざるを得ません。
私がギリシア神話ファンであることを差し引いても、
この作品から漂う儚さ、美しさ、怖ろしさには魅了させられます。

一方、連作『オセロ』(1844年)はワクワクするような楽しさです。
ドラクロワの連作『ハムレット』(1834年)と比べるのも面白そう。
オリエント世界を描いた作品群は優しさに満ちていて、
「人間」を撮り続けたロバート・キャパの写真を思い起こしました。

当然のように展示されていたモローの『若者と死』(1865年)――
この絵を昔から好いてきたにもかかわらず、不勉強な私は
これがシャセリオーへのオマージュであることを初めて知りました。
私がシャセリオーにハマるのは必然だったのかもしれません。

加えて、私がハマったのはシャセリオーの作品のみにあらず。
容姿への劣等感(現代的視点だとイケメン風なのに!)、
パリ・コミューンで壊された会計検査院の壁画、37歳での夭折など、
シャセリオー自身のエキゾチックな逸話と人物像も魅力的です。


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▲ 『カバリュス嬢の肖像』(1848年)より



恥ずかしながら私は美術については門外漢なので
これが情緒的な感想でしかないことをご了承願いたいのですが、
シャセリオーの絵画からは絶妙な「弱さ」を感じました。
(といっても、作品そのものが未熟だという話ではありません。)

それは通常は「繊細さ」と表現されるものなのだろうけれど、
ここではあえて「弱さ」というネガティヴな言葉を使っておきたい。

われわれは他人と完全に分かり合うことはできない、
われわれは不条理なできごとから逃れることはできない、
われわれは毀誉褒貶を避けて通ることはできない、
われわれは眠れぬ夜を過ごさずに成長することはできない――。

人間はそのような「弱さ」を抱えながら毎日を生きています。
シャセリオーの絵画は色遣いも美しく華麗さを帯びていますが、
メッセージ性を押し出さない裏テーマ的な次元で
人間が人間であるがゆえの「弱さ」が描かれていると感じました。

しかし私がシャセリオーの絵画に心を惹かれるのは、
人間の「弱さ」が悲劇として描かれているからではありません。
むしろその「弱さ」をこの世界の要素として包み込み、
《いま・ここ》を静かに生きる人間の姿が描かれているからです。

人間は「弱い」。環境に苛まれ、他者との関係に苦しまされる。
それでもわれわれは生きることを選択し、《いま・ここ》に立つ。
一見するとそれは消極的な選択のようにも思えますが、
その選択は明日への希望を意味するのだと、私は信じています。



――「お前はいったいどの絵を見てそんな感想を持ったんだ?」
「シャセリオーは風景画も描いてるぞ!」とツッコまれそうですが、
『シャセリオー展』をヒントに抱いた雑感ということでご理解ください。

それでは最後にトクヴィルの言葉を引用してお茶を濁します。
これこそまさしく『シャセリオー展』とは関係のない文章ですが、
アメリカのデモクラシー』の中でも特に私を感動させた一節です。

 現世の不完全な喜びは決して人の心を満足させまい。生きとし生けるものの中で独り人間だけが、生存への生まれながらの嫌悪を示し、同時に限りなく生存に執着する。生きることを軽蔑し、しかも無を恐れるのだ。こういった矛盾する本能が、不断に人の魂を来世の瞑想に向かわせる。その道案内となるのは宗教である。宗教は、だから希望の、ある特殊な形式にすぎず、希望そのものと同じように、人の心に自然なものである。人間が宗教的信仰から離れるのは、一種の知性の短絡を通してであり、人間の固有の本性にある種の精神的暴力を加えた上でのことである。ある打ち克ちがたい傾向によって、人は信仰に引き戻される。不信仰は偶然であり、信仰だけが人間の恒久的な状態である。
(松本礼二訳)

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