2017年04月16日

歌丸“仲蔵”は休演でも… 満足感あふれる! 鶴光の『鼓ヶ滝』


今日は、国立演芸場 4月中席 へ行ってきました。
代バネは、笑福亭鶴光師匠。

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 <本日の番組>

開口一番:(前座) 春風亭昇りん 『たらちね』
落語:(交互) 笑福亭和光 『桃太郎』
落語:三遊亭遊雀 『熊の皮』
落語:瀧川鯉昇 『粗忽の釘』
漫才:Wモアモア
落語:(代演) 桂歌春 『崇徳院』

 〜仲入り〜

落語:(代演) 桂文治 『親子酒』
俗曲:桧山うめ吉
落語:(代バネ) 笑福亭鶴光 『鼓ヶ滝』



★昇りん 『たらちね』
開口一番は昇太門下の昇りんさん。
国際結婚も当たり前になりつつあるとして『たらちね』。
師匠譲りの口調で、実直そうな人柄が伝わってくる。
今や珍しいことに「ヨって件のごとし」のサゲまで行った。

★和光 『桃太郎』
これといった特別なマクラもなく『桃太郎』へ入る。
「オバケのQ太郎か、ゲゲゲの鬼太郎か、ポケモンGOか」。
和光版『桃太郎』は大きな所作もトレードマーク。
終盤では「お父ちゃん横になって」という細かい演出も。

★遊雀 『熊の皮』
十八番の「佐渡おけさ」や「とんびドキュメンタリー」、
「お気の毒ね」や「ピカソ」の小噺で会場を沸かせる。
本編の『熊の皮』ではさらなる爆笑を巻き起こし、
「尻に敷いている」のサゲで盛り上がりは最高潮に達した。

★鯉昇 『粗忽の釘』
「それほどもらってない」や楽屋を来訪した客のネタ、
「千円の魂」などのネタで爆笑の流れを引き継ぐ。
鯉昇版『粗忽の釘』の主人公は粗忽者というより“狂人”。
「生きてますか」「顔が曇って…」などフレーズも独特だ。

★Wモアモア
福島&熊本出身の「震災コンビ」、前半は政治ネタで攻める。
新宿御苑の『桜を見る会』で首相が詠んだ句をチクリ、
「風雪に耐えているのは国民のほうじゃねえか」に拍手。
結婚式ネタは「妹」から「娘」にマイナーチェンジしていた。

★歌春 『崇徳院』
歌丸師匠が今朝入院したと告知し、「私どもには想定内」。
「怪しい者ではないのでプログラムをしまってください」。
一門総領弟子としての責任感のようなものを感じた。
「指の色気」のマクラを経て、江戸弁がきれいな『崇徳院』。

★文治 『親子酒』
「学校寄席では『崇徳院』のような難しい噺は通じない」。
某デパートへの怒りをぶちまけるマクラでは拍手喝采
(それにしても「口封じ」を図る社員は本当に厭わしい)。
もちろん、本編の『親子酒』でも観客を文句なしに愉しませる。
「酒を呑んで酔わないのは、寄席に来て寝ているのと同じ」。
これほど素晴らしく食いつきの任を果たせる噺家はいない。

★うめ吉
名前と異なり「お姉さんということになっております」。
『梅は咲いたか』や新内節『蘭蝶』120秒Ver.などを経て、
葉桜(ただし若葉と桜は分離)を手に持ちながら踊る。
立ち姿のまま緞帳が下がっていく演出がクールだった。

★鶴光 『鼓ヶ滝』
本来は仲入り前の出番だった鶴光師匠が代バネを務める。
梅橋師匠の「高島屋のオウム」、春輔師匠の「カブトムシ」、
島倉千代子の「精神科」のネタなどを経て『鼓ヶ滝』へ。
この手の地噺は関西弁で聴くと味わい深くなるし、
ギャグを重ねる鶴光流で本来の価値が出てくるように思う。
「頭のアキレス腱が切れた」というフレーズも心地よい。
地噺と鶴光師匠の魅力満載、満足感あふれる一席だった。



──というわけで、歌丸師匠の高座が聴けなかったのは残念ですが、
本日の寄席では中堅・ベテラン勢の話芸を愉しませていただきました。
改めて感じたのは、落語は「生(Live)」の芸能であるということ。
“お目当て”が突然休演になったという微妙な状況が客席に漂う中、
この「生」の空間をどのように調理し、どのように楽しくしていくのか。

大袈裟で安っぽいことを言うならば、生きる(live)ということ自体が、
自分のいま居る空間(居ることになっている空間)を
「どのように楽しくしていくのか」という取り組みなのかもしれません。
たしかに本日の客にとっては歌丸師匠の休演は残念だったでしょうが、
誤解を恐れずに言えば、みんなの想定とは異なる条件の下、
“歌丸師匠がいないからこそ”生じた楽しい空間がそこにはありました。


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2017年03月05日

『それでも町は廻っている』 見事な最終話、残念なエピローグ


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 石黒正数の漫画『それでも町は廻っている』(少年画報社)が完結しました。
 私の地元が物語の舞台ということもあって1巻から読み続けてきた『それ町』。間違いなく我が人生で最も繰り返し読んだ出版物です。『それ町』こそは我が愛読書と称ってよい。色んなことがあった時もなかった時も、私の青春時代は常に『それ町』とともにありました。

 11年以上に渡って連載された作品なので、巻が進むごとに絵のタッチも変化しているし、作品全体の雰囲気も徐々に変化しています。連載当初は真四角のテレビゲーム機が描かれていたのに、後期に入ると登場人物が普通にスマホを使っていたりする。それはまあ構わないとして、ぶっちゃけて言うと、私は単行本12〜13巻頃からは作品に味気なさのようなものを感じるようになっていました。上手く説明できないけど私の知っている『それ町』じゃなくなってきた、みたいな。以前の『それ町』ってこんなに機微なヒューマンドラマやってたっけ、みたいな。

 若干の引っかかりを感じるようになってもこの漫画を最後まで完走できたのは、やっぱりこの漫画の世界観やキャラクターが大好きだったからに他なりません。本物の丸子町には嵐山歩鳥も真田エロ章もクリーニング屋の荒井さんも存在しませんが(ただし「喫茶シーサイド」っぽい喫茶店や「鮮魚真田」っぽい魚屋などは実在する)、私にとって彼らはリアルのご近所さん以上に馴染み深い「ご近所さん」でした。紛うことなき創作上の人物ではあるものの、彼らは私の人生の一部を担ってくれていたのです。

 さーて、この漫画がどう完結されるのか。全国の『それ町』ファンと同じように私も気にかけていましたが、最終巻(16巻)最終話『少女A』は見事な最終話だったと思います。主人公不在という特異なシチュエーションで最終話らしい寂しさを漂わせつつも、『それでも町は廻っている』のタイトル通りに「日常の一コマ」としてエピソードを終える。しかも時系列のシャッフルを売りにしてきた作品らしく、ミステリ小説さながらに前話との関係をミスリードしている。多様な解釈が可能なオチの一言も含めて、『それ町』にふさわしい最高の最終話だったと思います。

 それだけに、巻末に特別収録されたエピローグ『…それから』にはがっかりしました。実に後味が悪い。宇宙人のアイテム(12巻第90話『消された事件』参照のこと)を使って、読んでしまったことを本気で忘れてしまいたい。エピローグはエピローグに過ぎないとはいえ、個人的にはこのエピローグのせいで『それ町』全編が汚されたような気がしてしまうほどです(それなのにネット上では「エピローグに感動して泣いちゃいました(涙)」などというレビューが並んでいるのが私には理解できない。いや、理解できなくはないけど理解するつもりはない)。

 私に言わせれば、『それ町』は山手線なのです。もちろん『それ町』は時系列をシャッフルしている作品なので、単純に内回りに走ったり外回りに走ったりするわけではなく、渋谷駅から新宿駅に行ったかと思ったら恵比寿駅へ向かい、その後は品川駅に行ったかと思ったら新大久保駅へ向かうというような「ダイヤル式黒電話」的な動きをするのですが、しかし結局のところは「円」として全駅がゆるやかに繋がっているという安心感がある。少なくとも私にとっては、この「いつもの感じ」(16巻第123話『Detective girls final』)こそが『それ町』の世界観を支える基本理念(←大げさな表現ですが)なのです。

 ところがエピローグでは「円」から逸脱した「線」の物語が展開されちゃってる。山手線じゃなくて中央線が走っちゃってる。この車両は円環状にくるっと廻っていますよというお約束のはずだったのに、最後の最後に「円」から脱け出て直線上を前進してしまっているのです。これじゃあ『ドラえもん』最終回の都市伝説と同じじゃないか。『それ町』では「あれから×年後──」みたいなことはあくまでもネタとしてしか許されなかったはずなのに(10巻第81話『歩鳥ファーストキス』や12巻第98話『エピローグ』)、公式でこんなことをやっちゃっていいものなんですかね。私はこれは「表切り」じゃなくて裏切りだと感じました。

 と考えるのも、私がやはり歩鳥やその友人たちの「成長」を見届けたくなかったからなのでしょう。彼らの「成長」は高校生活3年間の枠内に留まっていなければならない(=「いつもの感じ」が続いていてほしい)と願っていたからなのでしょう。最終巻エピローグで歩鳥とその友人たちは(少なくとも外見は)大人っぽくなり、タケルやユキコやエビちゃんなんかはまさしく「大きくなったわねぇ!」(CV:親戚のおばさん)なわけですが、私にとって「大きくなった」彼らの姿を見るのは苦痛以外の何物でもありませんでした。

 エピローグについてさらに「イジワル」(6巻第50話『まぼろしの少年』)なことを申せば、歩鳥が文学賞を受賞するというのもう〜んという感じだし(本年度はよっぽど応募者が少なかったんですかね)、歩鳥と静さんの関係性がまるで『それ町』のメインテーマだったような感じで締め括られてますけどそれって『それ町』の一要素(それも途中から浮上してきた一要素)にすぎませんよね、という感じだし。歩鳥の最後のセリフも違和感がある。2巻第15話『パジャマの天使』のひねくれ爺さんの伏線が回収された点ぐらいしか、私はこのエピローグを評価できません。

 ……まあ、繰り返しになりますが、しょせんエピローグは単行本特典に過ぎないわけで、『それ町』の最終話が『少女A』であるという歴史的事実は修正されません。このエピローグはくらもちふさこ『おしゃべり階段』の番外編『まゆをつけたピカデリー』程度のものとして捉えるのがちょうどいいのかもしれませんね(とはいえ『それ町』エピローグの場合は未来を描いているから厄介なんだよなぁ。これが「ひねくれ爺さんがシーサイドに来店」とかいう番外編的なエピソードだったら文句なしだったんだけど。いっそこのエピローグは静さんの夢だということにしようか)。

 今の私はあのエピローグを読んでしまったせいで『それ町』全体の評価が難しくなっちゃってるし、エピローグのトラウマを乗り越えるまでにはしばらく時間がかかりそうだけど(20歳になった歩鳥の姿は「比音小学校の幽霊」より怖い!)、いずれにせよ『それ町』が我が人生の愛読書であり、我が人生の一つの処方箋であったことは確かです。こう言っちゃなんだけど、私はよい読者だったと思うよ。『それ町』をちゃんと楽しめたという自負がある。ちゃんと愛せたという自負がある。……うーん、だからこそあのエピローグは(以下略


▲ 12巻第94話『A・KO・GA・RE ロンギング』参照のこと
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2017年02月09日

ぼくの好きな先生 ―ツヴェタン・トドロフが死んだ


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Tzvetan Todorov (1939 - 2017)


 もしも自分の人生に最も影響を与えた哲学者は誰かと問われれば、私の場合はツヴェタン・トドロフの名前を挙げるしかない。トドロフは1939年3月1日、社会主義時代のブルガリアに生まれた。全体主義体制の横暴と欺瞞に嫌気がさし、フランスへ渡ってパリ大学で文学博士号を取得する。記号学の研究や幻想文学の評論で世界的に知られる存在になったが、私にとってのトドロフとは歴史と思想史を読み解く哲学者のことであった。

 私が初めて接したトドロフの著作は『悪の記憶・善の誘惑 20世紀から何を学ぶか』(法政大学出版局)である。世紀末を記念して出版されたこの本の中で、トドロフは「私たちは博学でなくても人間であることができる」というジャン=ジャック・ルソーの言葉を引用している。私はこの引用に感動を覚えた。ルソーのこの言葉を引用するトドロフは深い意味でヒューマニズムを理解しているように思えた。

 以来、私はトドロフの著作群に親しむようになる。「落書き帳」という別名でも知られる私の自習用ノートは、トドロフの著作からの引用と、記述の要約と、それらに対する私の感想で埋まっていった。そして驚くべきことに、今でも私は月に何回かはトドロフの著作をじっくりと読み直している。つまり何が言いたいのかというと、私にとってトドロフは唯一無二の「お気に入り」の思想家であり、我が親愛なる家庭教師であるということだ。

 そのトドロフが亡くなった。トドロフの死によって一つの時代が終わったなどと言うつもりはないが、2016年にナンシー・レーガンが亡くなったように、2017年にツヴェタン・トドロフが亡くなったことは私に印象的な効果をもたらす(この両名の訃報を並べるのはいささか奇妙だが)。私は今、崖っぷちに立たされたような心持ちでいる。これまでトドロフの著作を読むとき、私はトドロフが現役の思想家であるという事実に甘えていたのかもしれない。
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