2018年12月07日

現代が欲する“フィジカル” 『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』


先日、TOHOシネマズ川崎で
映画『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』を観ました。

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 <あらすじ>
舞台は現代のイギリス。正体不明の者からのサイバー攻撃を受けて、
諜報機関「MI7」の現役スパイたちの個人情報が流出してしまう。
政府はやむを得ず、“教師”として隠遁生活を送っていた元スパイの
ジョニー・イングリッシュ(ローワン・アトキンソン)を現場に呼び戻し、
この空前絶後の“アナログ男”にサイバー攻撃事件の捜査を任せる。



誰もが知る国際的コメディアン:ローワン・アトキンソン主演の本作は、
実に7年ぶりに公開されるシリーズ最新作(にして第3作)です。
続編までの間隔が数年間もあるのはアトキンソンの計算とのこと。
過去作──特に第1作の『ジョニー・イングリッシュ』(2003年)──を
事前に観ておいたほうがより楽しめることは間違いありませんが、
本作はシリーズ中で最も充実している作品なのではないでしょうか。

スティーヴ・ペンバートン&リース・シェアスミス主演のダークコメディ
Inside No. 9』(BBC2)の演出で注目されるデヴィッド・カーが
初監督を務め、シリーズ第2作『── 気休めの報酬』(2011年)では
脚本を外れていたウィリアム・デイヴィスが単独で脚本にカムバック。
さらに、第1作でのイングリッシュ(アトキンソン)の“相棒”だった
ボフ(ベン・ミラー)もこのおバカなコメディシリーズに帰ってきました。

製作・配給会社側もボフの“復帰”を一つの売りにしている様子で、
本作の公式Twitterにも「世界一面白いスパイコンビが帰ってきた
という画像付きツイートが公開にあわせて投稿されています。
第2作でのタッカー(ダニエル・カルーヤ)もボフと位置付けは同様で、
カルーヤの演技も悪くなかったものの、たしかにイングリッシュの
忠実な”アシスタントとしてはベン・ミラー演じるボフが最適でしょう。




本作のギャグはシリーズ過去作──というより、『Mr.ビーン』(ITV)を
筆頭とするアトキンソンの作品とまったくもって同系統の笑いです。
「危険な授業は行っていない」と説明する教師の背後で生徒たちが
危険な訓練に励んでいたり(第1作の爆破シーンを彷彿とさせます)、
“睡眠爆弾”を誤作動させたり、ミスの連発で大火事を起こしたり、
ドヤ顔で決め台詞を言い放った直後に自分たちが窮地に陥ったり──。

悪い言い方をすれば、これらはアトキンソンがこれまで量産してきた
ギャグの焼き直しにすぎませんが、しかし私はこれらのギャグを観て、
ギャグを演じているアトキンソンを観て、心からの喜びを抱きました。
映画通から大袈裟だと笑われることを承知で申し上げるならば、
いわゆる“キーストン時代”から“ミューチュアル時代”に至るまでの
チャップリンの短編を観ている時と同様の幸福感に包まれたのです。

10代の頃には『Mr.ビーン』もチャップリンも好きではなかった私が、
両者のことを愛するようになったのはわずか数年前からのことです。
彼らの身体表現には、時代を超える生身の人間のおかしみがある。
だからこそ、フィジカルコメディアン、ビジュアルコメディアンとしての
(ひょっとすると)最後の国際的大スターであるアトキンソンが
この“超デジタル時代”に本作を世に放った意味は大きいと感じます。

それが決して作品の“つまらなさ”を導いてるわけではないにしても、
近年のアクション映画はコンピュータの存在に頼るものばかりです。
主役が人間なのか電子機器なのか分からない作品さえあるほど。
そんな中、スパイ活動のデジタル化に背を向け、最終的にはiPadを
“物理的に”使用して任務を完遂するイングリッシュの活躍ぶりは、
最近のアクション映画への爽やかなアンチテーゼとなっていました。

実のところ、現代人には生身の人間が、肉体で表現されるギャグが、
人間が視覚的にドタバタする喜劇映画がますます必要なのです。
10代の頃の私は我執のあまり気付くことができずにいましたが、
いまでは現代社会のフィジカルコメディの必要性を確信しています。
本作『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』のメガ級ヒットは、
僭越ながら、私のその確信を実証する客観的事実と言えるでしょう。



本作には過去作からの単なる焼き直しに留まらない、“ちょっとした”
オリジナリティを感じさせるギャグもあったことを特筆しておきます。
例えば、邪魔なサイクリング集団に小型ミサイルを撃ち込んだり、
VRシュミレーターを誤用したり(この件は本作最大の見せ場でしょう)、
車の中でゴムボートを開いたり、教習中の自動車を拝借したり──。
ただし最後のは『裸の銃を持つ男』(1988年)からのパクリですが。

以上のようなあくまでビジュアルなギャグが提示されていく一方で、
携帯電話を持つことを拒否した“アナログな”イングリッシュのもとへ
デジタルファイルの代わりに大量のFAX資料が送り付けられたり、
ボフの妻が“原子力潜水艦長”に設定されていたりといった小ネタは、
アトキンソンの主演作にしては比較的ハイブロウなギャグであり、
本作にコメディ映画としての幅広さをもたらしていると評価できます。

むろん、どんな種類の笑いを示すとしても間とテンポが肝心要です。
数々の人気コメディドラマの演出を手がけてきたカー監督と、
英国コメディ史に輝く『マイティ・ブーシュ』(BBC3)の編集も務めた
気鋭のエディター:マーク・エヴァーソンによる快調なテンポ作りが、
“2018年が欲していた”フィジカル&ビジュアルコメディ映画として
本作を内容的かつ興行的に大成させたことは疑うべくもありません。



▲ 『ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア』 (CBS) 2018年10月24日放送分より
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2018年11月13日

My alternative tranquilizer. ―馬生の落語


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 もう何年も前の話になるが、動揺するような出来事のあと、生きた心地のしない時期を過ごした。心ここにあらずの状態が二六時中続き、以前から好きだった落語を聴いても、集中力を保てずに右から左へ聴き流すばかりだった。そんな折、なんとはなしに近所の図書館で借りて聴いたのが、『NHK落語名人選 十代目 金原亭馬生』(ポリドール)に収録されていた『花瓶』という落語である。

 『し瓶』という不衛生な別名を持つこの噺は、いわゆる“大ネタ”でもなければ人情噺でもない。かといって短時間で済ませられる滑稽噺でもなく、いわば“儲からない噺”だ。そんなことだから現在ではほとんど演り手がおらず、私が聴いたのもその馬生版が初めてだった。その馬生版『花瓶』に私は感動してしまった。そしてようやく心の平穏を取り戻し、人生の現実感を回復したのだった。

 馬生版『花瓶』のサゲの間際にはこんなせりふがある。道具屋に騙されて不当な品を買わされた武士が、後日になってそのことに気付き道具屋を再訪するも、怒りを必死に堪えて宥恕する。その武士が目の前から立ち去ったのち、道具屋の母親が息子(すなわち武士を騙した道具屋)に向かって言うせりふである。

 だけど、なんだよ。お前さんはね、あのお侍さんを騙して、五両儲けたような了見になってるけれども、あたしはね、違うと思うね。ああ、お前さんはね、もっと損したんだよ。もっとたくさんの損をしたと思うねえ。(あの侍は)立派だねえ。あたしゃ、感心しちゃったねえ。「品物は戻す、金は返せ。命だけは助けてやるぞッ」──これだけだって、ありがたいよ。それなのに、「金も命もそのほうにくれてやるわ」ってツーッと帰るところなんぞ、偉いもんだねえ。

 このせりふを聴いた瞬間、ハッとさせられた。人間がどの視点に立って生きていくべきなのかが、まるで説教くさくないトーンで示唆されていたからだ。それまでは先代馬生の音源を特に意識して聴いてこなかった私だが、以来、馬生の落語CDを日常的に聴くようになり、馬生落語に特有の優しさ──弱い立場にある者や追い詰められている者、心乱れる者を包摂するまなざしに救われていった。

 『船徳』でも『おせつ徳三郎』でも『笠碁』でも『柳田角之進』でも、馬生落語において優しいせりふは実にさらりと現れる。そこに「客の琴線に触れる文句を吐いてやろう」という衒いはなく、人生相談の番組のように物事を割り切ろうとする意識もない。要するに、馬生の落語には無理がないのだ。だから私は馬生落語の優しさを自然に受け入れ、そこから心の落ち着きを見出すことができた。

 私は芸談や書籍を通してしか馬生の人となりを知らないが、馬生自身が苦渋を味わってきた人物だからこそ、苦しむ者にただ寄り添うようなスタンスの馬生落語が醸成されたのだろうとは思う。それは実際の高座の録音を聴けば分かる。馬生落語において優しさは打ち出されるものではなく、滲み出るものである。作為の産物ではなく、演者の人格がニュートラルに提示された結果なのだ。

 いまや私は馬生の落語なしでは生き延びるのが難しくなった。大袈裟に言っているのではない。苦しみ追い詰められているとき、馬生の落語は私の心を直接的に救う“もう一つの精神安定剤”になっている。そしてそもそもの話、あの生きた心地のしない時期を経験しなければこの“美味しい精神安定剤”の真価を知ることもなかったかと思うと、つくづく人生に無駄はないと思わされるのである。


 <追記>
 当然ながら、馬生落語の魅力は優しさのみにあるのではない。『あくび指南』や『目黒のさんま』や『宿屋の富』にみられるようなとぼけた可笑しさ、『ざるや』や『そば清』や『千両みかん』にみられるようなエキセントリックなまでの軽妙さ(キャラクター落語性)などといったものも、馬生落語のかけがえのない魅力の一つである。それらについてはまた別の機会に詳述することにしたい。

◆10代目 金原亭馬生(きんげんてい・ばしょう)
 本名、美濃部清。1928年、5代目古今亭志ん生の長男として東京・渋谷に生まれる。1943年、父のもとへ入門。1947年、「古今亭志ん橋」で真打ちに昇進する。1949年、10代目「馬生」を襲名。1966年に東横落語会のレギュラーになり、『大坂屋花鳥』『お富与三郎』などの人情噺を得意とした。落語協会副会長在任中の1982年、食道がんのため逝去。享年54。
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2018年10月21日

どこか懐かしい“教育ビデオ”の世界 『ブリグズビー・ベア』


先日、キネカ大森で
映画『ブリグズビー・ベア』(2017年)を観ました。
同時上映は『犬ヶ島』(2018年)。

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 <あらすじ>
小さなシェルター内で“両親”(マーク・ハミル、ジェーン・アダムス)と
ともに暮らす25歳の青年ジェームス(カイル・ムーニー)は、
子ども向け教育番組『ブリグズビー・ベアの冒険』の大ファンである。
いつものように“番組”の世界の研究に勤しんでいたある日の晩、
遠くのほうから警察がやって来て、“両親”をいきなり逮捕してしまう。

 (以下の文章はネタバレを含みます!)



バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』(NBC)の現役レギュラー、
カイル・ムーニーの初主演映画である本作は、言うなれば、
“ムーニーとその仲間たち”によって制作されたコメディ=ドラマです。
中学生の頃にカイル・ムーニーが着想したという原案に基づき、
ムーニーの中学時代からの友人がムーニーとともに脚本を執筆し、
やはり中学時代からの盟友デイヴ・マッカリーが監督を務めました。

ムーニー&マッカリーの南カリフォルニア大学時代の同級生であり、
大学卒業後はともにコントグループを結成したベック・ベネット、
ニック・ラザフォードの2人も本作にちょっとした役で出演しています
(ちなみにこの4人は全員が『SNL』のキャスト/ライター経験者です。
ムーニーとベネットは2013年から今なおレギュラー出演しており、
マッカリーも不定期で単発スケッチの脚本・演出を担当しています)。

ムーニー&マッカリー組が『SNL』内で発表してきたスケッチのうち、
私が特にお気に入りなのは『Ice Cream』というスケッチです。
客(ベネット)が発した“取るに足らないジョーク”の意味が分からず
店員(ムーニー)の脳内が混乱を来すという短めのコントですが、
シュールな“短編映画”として実に美しく完成されていると思います。
私はこのコントを観て以来、ムーニーを高評価するようになりました。


▲ 『サタデー・ナイト・ライブ』 (NBC) 2013年11月2日放送分より



アンディ・サムバーグをはじめとする“ザ・ロンリー・アイランド”と
フィル・ロード&クリストファー・ミラーの製作で公開に至った本作は、
実際のところ、スリリングな事柄をテーマに据えています。
すなわち、「強制されていた幸福を正当化することは許されるか」。
監禁先での押し付けられた思い出に“幸せ”を見出すことは、
強制収容所での“喜び”を認めるのと同様の危うさを有しています。

興味深いのは、ジェームス(ムーニー)の身柄が解放されたのち、
“本当の両親”もまた彼に“幸福”を押し付けようとしていることです。
スポーツをさせるなどして息子の“正常化”を試みる行為は、
“偽の両親”のそれと同様、結局は親のエゴイズムにすぎません。
“異常な両親”と“正常な両親”の子育てを同列化させることで、
本作は「強制」をめぐる議論にもう一歩深く踏み込んでいるのです。

その一方で、「この映画は誘拐や監禁を容認してはいまいか」との
批判が浮上することを危惧していたとみえて、本作の制作者は、
ジェームスが『ブリグズビー・ベアの冒険』の新作を撮影する目的を、
あくまでも「物語を自分の手で完結させるため」と設定しています。
ジェームスの前に現れた幻想上の“ベア”は最後には自ら消滅し、
過去(“ベア”)は自ら切り開いた現実によって克服されたのでした。

いまいち腑に落ちなかったのは、ジェームスを取り巻く家族や友人、
警察官までもが、ジェームスに対して“優しすぎる”ことです。
当然ながら、これはジェームスが長期間の犯罪被害者であるため
(それゆえに精神年齢が実年齢に追い付いていないため)ですが、
当のジェームス本人が自身を“被害者”と認識していないため、
周囲の者たちの態度はただ“過保護”であるようにしか見えません。

“過保護”とは一方がもう一方を見下すからこそ生じる態度ですが、
その点、ジェームスと対等に接する(ことしかできない)
精神科の入院患者エリック(サムバーグ)との交流は胸を打ちます。
「ハートウォーミングなコメディ」と紹介されがちな本作ですが、
私は精神科病院でのジェームスとエリックの不器用な交流こそが
本作の唯一にして最良のハートウォーミングな描写だと感じました。



“強制” “精神科”といった単語のせいで勘違いされるのを防ぐため
慌てて書き記しておくと、この映画のタッチは全体的に柔和です。
我が主演俳優はもとより、マット・ウォルシュミカエラ・ワトキンス
ジョージ・レンデボーグ・Jr.らの演技はカジュアルで親しみやすいし、
さすがは『SNL』現役レギュラーと“その仲間たち”による映画だと
感心させられるような“ギャグらしいギャグ”もそれなりに存在します。

本編序盤のオナニーのシーンは機械的であるがゆえに微笑ましく
(ただしそれはオナニーは本能的な行為だとの指摘でもある)、
ジェームスとヴォーゲル刑事(グレッグ・キニア)の会話も愉快です。
そしてもちろん、子ども向け番組『ブリグズビー・ベアの冒険』!
VHSマニア”の制作陣らしく、ビデオテープ特有の質感によって、
独創的なのにどこか懐かしい教育ビデオの世界を展開しています。

ムーニー&マッカリー組はもともと、『SNL』内のスケッチにおいて、
1990年代の文化や空気感への郷愁を前面に押し出してきました
(中でも“1990年前後風シットコム”の数々は必見でしょう)。
彼らの長編デビュー作となった本作は、まさしく“VHS時代”を愛好し、
ファンタジックな環境設定とシュールな笑いをためらわないという
芸風・作風がいかんなく発揮された、柔らかくも刺激的な映画です。



▲ 『ブリグズビー・ベア』 (2017年) 特報



 <追記>
ところで、本作を鑑賞した直後に思い出した映画が一つあります。
ウィル・フェレル&アダム・マッケイの製作会社がプロデュースし、
クリステン・ウィグが主演した『Welcome to Me』(2014年)です。
物語の方向性や登場人物の心境などは位相を異にするものの、
“番組”マニアの病的な主人公が自己満足を追求した結果として
人生を再生させていくという点に、近似性が確かめられるのです。

いまや映画の観客の数人に一人は心の病を抱えている時代です。
コメディ作品には様々なパターンやバリエーションがありますが
(決して「緊張と緩和」などという一概念では説明し切れません!)、
精神疾患的な主人公の置かれた立場に寄り添うような作品が
コメディとして成り立っている現状を鑑みると、“抗うつ剤”としての
コメディ映画のさらなる新たな可能性についても考えさせられます。


▲ 『Welcome to Me』 (2014年) 予告編
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