2017年11月19日

“コメディの役割”と表現者の責任 ―“保毛尾田保毛男”をめぐって


 もはや古い話題になってしまったが、いわゆる「保毛尾田保毛男」問題に関する私の考えを記しておきたい。“たかが”バラエティ番組での出来事にすぎず、「テレビなんだから怒っちゃダメー!」(CV:小松政夫)なのかもしれないが。

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 はじめにことわっておくと、私が言いたいことはたった二つである。一つは「保毛尾田保毛男」ネタはコメディとして失格であるということ、もう一つは批判が噴出しても表現者がリアクションを示さないのは無責任であるということだ。



 去る9月28日に放送された『とんねるずのみなさんのおかげでした 30周年記念スペシャル』(フジテレビ系)で、『〜おかげでした』の前身番組『とんねるずのみなさんのおかげです』(1986年〜1997年)のキャラクター「保毛尾田保毛男(ほもおだ・ほもお)」が復活した。男性同性愛者に対する偏見を戯画化したそのキャラクターは格好と名前からして侮蔑的だが(あるキャラクターが日本人であるというだけで、黒縁メガネと一眼レフカメラを身に着け「黄色猿男」と名乗っているのとだいたい同じことである)、その場におけるとんねるずとビートたけしのやり取りは同性愛者への偏見をさらに助長するものだった()。

 私は「保毛尾田保毛男」ネタをリアルタイムでは知らない。しかし、とんねるずの「保毛尾田保毛男」ネタが同性愛者や両性愛者(とりわけ男性の当事者)を深く傷付けてきたことは、少なくとも私にとっては、ナチスがユダヤ人を虐殺したことや、広島・長崎に原爆が投下されたことなどと同様の歴史的史実である。同性愛者らの書簡をまとめた『カミングアウト・レターズ』(RYOJI+砂川秀樹編、太郎次郎社エディタス)という本にも、「保毛尾田保毛男」ネタによって精神的に追い詰められた当事者の証言が掲載されている。2017年のテレビで「保毛尾田保毛男」ネタがよみがえったことは、私にとっては戦慄を覚える事態であった。

 「保毛尾田保毛男」ネタの復活を受けて、インターネット上では当事者以外からも批判の声が上がり、LGBT支援団体はフジテレビに抗議文を提出した。これに対し、一部のネットユーザーからは「同性愛者をコントやドラマに登場させるなということか」「同性愛者を特別扱いし、差別しているのは『保毛尾田保毛男』を批判する者たちのほうだ」などという意見が飛び出た。これらの意見はまったくの的外れとしか言いようがない。「保毛尾田保毛男」ネタを批判する者たちは、コントやドラマに異性愛者や同性愛者、男性や女性、身体障がい者や精神障がい者が登場したことではなく、その描かれようを批判しているのだ。

 風刺的なコメディで知られる映画監督のメル・ブルックスは、『ブレージングサドル』(1974年)を制作するにあたって、黒人に関する描写が度を越していないか、黒人の共同脚本家リチャード・プライヤーに常に相談していた。ブロードウェイミュージカル版『プロデューサーズ』(2001年初演)を制作するにあたっては、ゲイの作家仲間の記事を熟読し、当事者を傷付けることがないよう細心の注意を払っていた()。以前から「笑いにタブーはない」と豪語し、最近はポリティカル・コレクトネスの批判者からもてはやされているブルックスだが、コメディが当事者を苦しめてしまっては元も子もないということを熟知していたのだ。

 レニー・ブルースは時代をえぐる過激なパフォーマンスでアメリカ社会に一つの変革をもたらした伝説のスタンダップコメディアンだが、その友人だった映画製作者のウィリアム・カール・トーマスは、『レニー・ブルース 毒舌のマシンガン』(DHC)という伝記の終わりに目覚ましき一文を残している。「コメディは、人生の厳しい現実の中でこそ醗酵するもの。コメディの役割は、自分自身と自分がいる空間を見えやすくしたり、生身の人間としての大きさや姿かたち、色や性別の限られた中で生きる助けとなる」(大島豊訳)。──そう、コメディとは現実の人間を生きやすくさせるためのメディアにしてコンテンツなのだ。

 かくいう私も、「きょう自殺しようと思っていた人が、これに接することで自殺を延期してくれたらいいな」という思いでコメディを制作してきた。自殺の延期が3回重なれば3日は延命できる。もう少し重なれば3週間は延命できる。──それ以上のことまでは見通せないけれど、少なくともコメディは観客を「死ぬ」ではなく「生きる」の方向へ導くものでなければならない。それが私の確信だ。すべての制作者は自殺対策として作品をつくるべきだなどと言うつもりはないし、私も自殺対策を創作の“目的”にしたことはないが(私はつくりたいものをつくってきただけだ)、このベクトルに逆行する行為だけは許されないと今でも思っている。

 その意味で、とんねるずの「保毛尾田保毛男」ネタは当事者を明らかに「死ぬ」の方向へ追い詰めるものであり、当事者が人間であることに対して無頓着だったと言わざるを得ない。たとえ1980〜1990年代には自らのネタの危険性に気付いていなかったのだとしても、今日にそのネタを復活させたことは言い訳のしようがない蛮行である。「保毛尾田保毛男」ネタの制作に携わった者たちは黒い十字架を背負っている。同時に私が気になるのは、このネタのせいで傷付いたりいじめられたりした経験を持つ当事者と対面したとき、とんねるずの二人をはじめとする制作者たちはどのような態度をとるのかということだ。

 落語家の桂歌丸が高座でしばしば「落語家はあってもなくてもいい商売じゃないんです。“なくてもなくてもいい”商売なんです」と話すように、人間が生物として生存するためには娯楽も芸術も不要である。現に原始人は映画もテレビも観なかったが絶滅しなかった。あらゆる表現者・創作者は、現実の諸条件に縛られているとしても、自らの意思であえてわざわざ作品やパフォーマンスを発表し、あえてわざわざそれを他人に見せようと努め、あえてわざわざ他人から金銭や評価を得ようとしている。“あえてわざわざ”行うことについて自らが責任を負うのは当然の帰結であり、反響については相応の覚悟が求められる。

 とんねるずは誰もが認めるプロフェッショナルのタレントであるから、自らのパフォーマンスに対する責任感や覚悟を人一倍有していることだろう。そうであれば、「保毛尾田保毛男」ネタの復活への批判を受けて、とんねるずの二人をはじめとするネタ制作者には是非ともリアクションを示してもらいたい。放送翌日にフジテレビ社長の宮内正喜が陳謝したことは評価できるし、BSフジ社長の亀山千広が「作り手側が常にアンテナを張って、今の視聴者の感覚を見ていかないとダメ」と発言したことも好感が持てる。しかし、肝心のネタ制作者が批判をどう捉えたかが示されなければ、どうしても不安感や不信感が残ってしまう。

 “リアクション”といっても、記者会見を開いて謝罪することが唯一の方途なのではない。この件を反省したいのであれば、例えば、同性愛者を嘲笑するネタを披露したことで逆に世間から嘲笑される芸人のコントをつくればよい。依然としてネタに問題がないと考えるのであれば、いくら批判を浴びてもネタを継続すればよい。メル・ブルックスはアドルフ・ヒトラーの存在をギャグにすることを悪趣味だと批判されても、テレビのインタビューで反論し()、その後の作品でもまるで自らの正当性を主張するかのようにヒトラーネタに固執し続けた。これこそが自らの過去のパフォーマンスに責任を感じる表現者の矜持であろう。

 その点では、「保毛尾田保毛男」ネタの復活に参加したビートたけしが東京スポーツの連載でこの件に言及したことは、たとえ後輩芸人をかばうことが主眼であったとしても、最低限の責任感を有す表現者の行動として評価に値する。他者を嘲笑することと受容することを短絡的に混同したその主張は間抜けな言説として新たな批判を招くことになったが()、たけしは少なくとも自らの立場を公に示したのである。しかし、肝心のとんねるず側はこの件について沈黙を貫いたままだ。タブーを破ることを売りにしてきたのにもかかわらず、いざ批判を浴びると委縮してダンマリを決め込むのであれば、「とんねるず」の名が廃る。

 とんねるずはこれまで多くの視聴者を楽しませてきた。「保毛尾田保毛男」ネタは当事者を「死ぬ」の方向へ導くものであるため、いくら視聴者を笑わせたとしてもコメディとして失格だが(生活の助けとなるとしても黒人を奴隷として扱ってはならないのと同じことだ)、決してとんねるず自体が全否定されるべきではない。私自身も「関東芸人」であることを誇りとする彼らの存在を頼もしく感じてきた。だからこそ、とんねるずの二人にはカッコ悪く終わってもらいたくはない。「保毛尾田保毛男」ネタがコメディとして失格であるとすれば、その自らのネタをまるでなかったことにしようとする姿勢は表現者として無責任である。

 最後に念のため書いておくと、もちろん、あらゆるパフォーマンスは観客を不快にさせ得る。しかし、「笑いは絶対に人を傷付ける」などと開き直っても構わないのは、メル・ブルックスがそうしたように、当事者を傷付けないよう時と場合をわきまえてからのことである。そして、一部の観客を不快にさせていることを承知の上でなおそのネタを続けたいのであれば(「保毛尾田保毛男」ネタは当事者を「死ぬ」の方向へ追い込む度合いが高すぎるのでもはや継続は論外だが)、やはりブルックスがそうしたように、特別な覚悟を決めて現場に臨まなければならない。人間の繊細さを知らない者にはコメディをつくる資格などないだろう。

(文中敬称略)
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2017年10月25日

モンティ・パイソンとの遭遇 『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』


先日、岩波ホールで
映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ました。

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 <あらすじ>
19世紀の北米に生まれたエミリ・ディキンスン(シンシア・ニクソン)は
恵まれた資産家の家庭に育ち、家族や友人からも愛されていた。
進歩的な考えを持っていたことから他者と衝突することも多かったが、
愛する母の死を境に心を閉ざし、屋敷の自室に引きこもるようになる。
やがて彼女の精神と肉体は「ブライト病」という難病に襲われ始め……。



エミリ・ディキンスンといえばアメリカを代表する19世紀の詩人であり、
現在に至るまでアメリカ内外の文化に影響を与え続けている女性です。
J・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)にも、
主人公の弟が評価していた「戦争詩人」としてその名前が登場します。
彼女は「生前わずか10篇の詩を発表し、無名のまま生涯を終え」、
1800篇近くに及ぶ未発表の詩稿が没後になってから発見されました。

劇中においてディキンスンは攻撃的な人物として描き出されています。
静謐な存在として「詩人」をイメージしてきた人々は、映画を観ながら
「なぜ彼女はそこまで外部に反抗するのか」と感じたかもしれません。
精神科医の帚木蓬生は著書『ネガティブ・ケイパビリティ』(朝日選書)で、
ジョン・キーツの言葉を紹介しながら「詩人」の在り方を解説しています。

 「詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。神の衝動の産物である太陽や月、海、男と女などは詩的であり、変えられない属性を持っている。ところが、詩人は何も持たない。アイデンティティがない。確かに、神のあらゆる創造物の中で最も詩的でない。自己というものがないのだ。」

 ここに至って、キーツの真意がようやく読み取れた気がしました。アイデンティティを持たない詩人は、それを必死に模索する中で、物事の本質に到達するのです。

── 帚木蓬生 『ネガティブ・ケイパビリティ』 (朝日選書) p.6-7

他者や社会などの外部から信仰や“女性性”を強制されることを否定し、
それらに反抗することで「自由」を確かめようとしたディキンスンは、
自らの力でもって愛別離苦という現実に対処するしかありませんでした。
いわば彼女はゼロの地点から宗教哲学を構築しようとしていたのです。
「物事の本質」を知るために「必死に模索」する人物が情熱的であり、
外部に対して攻撃的ですらあるのは、ある意味では自然なことでしょう。



さて、この伝記映画を観ていてびっくりさせられたことが一つあります。
それは、場面を印象的に盛り上げるための劇伴(BGM)として
ミュージカル『スパマロット』(2005年初演)の楽曲が使われていたこと!
19世紀アメリカの詩人を描いたドラマチックな伝記映画を観ていたら
なぜかモンティ・パイソンのミュージカルナンバーが流れてきたのだから、
中学生の頃からのパイソン狂としては驚きの念を禁じ得ませんでした。

本作で使用されたのは『I'm All Alone』という第二幕のナンバーで、
作詞・作曲はもちろんエリック・アイドルとジョン・デュ・プレです。
初演ではティム・カリーとマイケル・マクグラスがこの曲を歌唱しました。
メロディそのものは美しく、歌詞も素直に読めば感動的ではあるものの、
『スパマロット』の物語上では笑いを(も)誘う曲と位置付けられています。

当然ながら(?)本作で使われたのはインストゥルメンタル版でしたが、
それでもモンティ・パイソン発のミュージカルの冗談混じりの楽曲が
エミリ・ディキンスンの伝記映画に使われたことには変わりありません。
私としては思いがけぬ「ギフト」に遭遇したかのような気分になりました。
ディキンスンがアメリカ文化に影響を与え続けている人物だとすれば、
パイソンズもまた世界中に影響を与え続けている存在だと言えそうです。


▲ 『モンティ・パイソンのスパマロット』 ブロードウェイ公演 (2005年) より
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2017年10月15日

君はすでにスターだ! プロップコメディ界の雄、“テープ・フェイス”


今更ですが、アメリカ・NBCの公開オーディション番組
『アメリカズ・ゴット・タレント』のシーズン11(2016年)に、
「The Boy With Tape On His Face」が出演していたのを知りました。

▲ 『アメリカズ・ゴット・タレント』 シーズン11 (2016年5月〜9月放送) より



『アメリカズ・ゴット・タレント』とは
 老若男女問わず歌手だけでなく、ダンサー、マジシャン、コメディアンなど様々なジャンルのパフォーマーが賞金100万ドルをかけてオーディションを行なうスター発掘番組である。 (中略)
 視聴者の投票により、アマチュアや世間によく知られていないパフォーマーが世に出る機会となる。
── Wikipedia



そして、「The Boy With Tape On His Face」とは
ニュージーランド出身、ロンドン在住のプロップコメディアンである
(言葉ではなく小道具を用いる笑いのことを「プロップコメディ」と呼ぶ)。

彼の本来のお名前(あるいは本名)は「サム・ウィルズ」と称うのですが、
口元に黒いガムテープ(?)を貼っている無言のキャラクター
「The Boy With Tape On His Face」こそが彼の代名詞です
(2016年頃からは簡略化して「Tape Face」と名乗っているようだが)。



数年以上前にもどこかで言及したはずだと思うのですが、
私はかつて「The Boy With Tape On His Face」にハマったことがあり、
一時期は YouTube で彼のステージ映像ばかりを視聴していました。

言葉を必要としない彼のパフォーマンスは誰にとっても分かりやすく、
少なくとも当時の私にとっては“とっつきやすい”お笑いだったのですね。

私の印象では、彼は2011年〜2012年に一つの“人気のピーク”を迎え、
世界中のコメディファンから注目を浴びる存在になりました。
外国でのツアー公演も組まれ、名実ともに国際的スターとなったのです。



──それでは「百聞は一見に如かず」ということで、
「The Boy With Tape On His Face」のステージ映像をご覧ください。
(すなわち、私がかつて繰り返し視聴していた動画の数々をご覧ください。)

▲ 『Comedy Rocks With Jason Manford』 (2011年1月14日放送) より

▲ 『Comedy At The Fringe』 (2011年8月放送) より

▲ 『The Comedy Proms』 (2011年8月27日放送) より



2011年12月には、毎年開催されているイギリス王室臨席公演
『ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス』にもゲスト出演し、
この年の公演の主賓であったアン王女とも握手を交わしています。

▲ 『The Royal Variety Performance 2011』 (2011年12月5日) より




それなのに、それなのに……

とっくに世界中のプロップコメディアンやマイマーが憧れる存在──
──になっていたはずの「The Boy With Tape On His Face」が、
“無名人”のためのスター発掘番組『アメリカズ・ゴット・タレント』に、
芸名を「Tape Face(テープ・フェイス)」と改めた上で出場していたなんて!

個人的には、素人オーディション番組に早野凡平先生が出てきて、
審査員から「なんだこのおっさんは。大丈夫か?」的な視線を送られつつ、
最終的には「あらまあ、意外に面白いじゃないの」と論評される──
──といったテイストの、モヤモヤッとくる違和感を抱かざるを得ません。

しかも、番組のステージ上で彼が披露していたのは、
彼が昔から演じてきた“鉄板ネタ”とでも称うべきパフォーマンスばかり。
本来なら「審査されるべきもの」ではなく「ギャラを支払われるべきもの」。

「The Boy With Tape On His Face」の存在を知っている私にとって、
彼の『アメリカズ・ゴット・タレント』出場は切なさを感じる出来事でした。
(だって、素人落語大会に若手真打ちが出ていたら切ないじゃないですか。)



彼の『アメリカズ・ゴット・タレント』出場に際して何より残念だったのは、
なぜか目の周りに濃厚なアイラインが引かれてしまったこと。
アイラインのせいで、かつては目元から放たれていた愛嬌が失われ、
「Tape Face」は人工的かつ警戒的なクラウンになってしまっています。

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彼がアイラインを引くことにしたのは、おそらくはプロデューサーから
「口にテープを貼っているだけじゃインパクトが足りないんだよな〜」などと
言われたからなのでしょうが、それにしてもこれは本当に残念、悲しい。

もしも「Tape Face」が何かの間違いでこのブログを読んでいたら、
今からでも遅くないからアイラインを引くのはやめろと申し上げたいです。
(そもそも、彼が日本語を読める可能性は限りなくゼロに近いだろうが。)



ちなみに、番組の結果を申し上げると、「Tape Face」は
ファイナリストには残ったものの、惜しくも(?)優勝は逃しました。

『アメリカズ・ゴット・タレント』の野暮で下品で馬鹿くさい審査員たちは、
自分たちの何十倍も“タレント”がある「Tape Face」を前にして
「こいつを優勝させたら洒落にならん……」とでも判断したのでしょうか。

──もっとも、本物の馬鹿であるメルB(メラニー・ブラウン)は
それ以前の問題として、ステージ上で目に余る醜態を演じていましたが。
(放送直後には彼女の態度をツッコむ記事がオンライン上にあふれた。)



個人的には一連の出来事に切なさを覚えざるを得ませんでしたが、
「世界的に有名な番組に露出したことで彼の名声が爆発的に拡散した」
と考えれば、『アメリカズ・ゴット・タレント』という低俗な番組への
「Tape Face」の出場も、実に効果的なチャレンジだったと言えるでしょう。

実際、『アメリカズ・ゴット・タレント』出場後の「Tape Face」は、
ヨーロッパのみならずアメリカでも公演の予定がびっしり埋まっています。

2016年の全英ツアーに続き、2017年には全米ツアーを成功させ、
さらに10月〜11月には一流ホテル「フラミンゴ・ラスベガス」で
計20日間に渡って単独ライブを開くという、従来以上の驚異の活躍ぶり。

何事も「Always Look on the Bright Side of Life
──あるいは「try positive thinking」が肝心なのですね、はい。
(イギリスのコメディアンの名曲を引用してきれいにまとめてみましたァ!)
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